日常茶飯事 3
夜会。
お披露目。
さっきは聞き流してしまったが、思い返すと、恐ろしい。
なにしろ、自分が「人前に出る」ということなのだ。
おそらく、学校の全校集会で壇上に上がるよりも注目されるだろう。
「妃殿下? どうなさいました?」
サビナの声に、ハッとした。
ディーナリアスがいない代わりに、サビナがいる。
着替えは、すでにすませていた。
毎日、サビナの世話になっている。
いつもはカウチ、ディーナリアスの膝にいるのだが、今はイスに座っていた。
テーブルには、紅茶が置かれている。
その横には、1口サイズで、種類も豊富なクッキーの山。
5日目にきて、ようやく「好きに食べてもいい」のだと、認識しつつあった。
クッキーを、ひと口ぱくり。
甘味に、少しだけ気分を持ち直す。
近くに控えているサビナを見上げた。
「あ、あの……や、夜会が……」
「妃殿下のお披露目ですね」
にっこりされても、ジョゼフィーネは笑えない。
夜会になど出たことがないからだ。
どういう「作法」なのかも知らずにいる。
恥をかくに決まっていた。
(私だけ、じゃない……あの人も……)
ディーナリアスにも、恥をかかせることになる。
この5日、彼から怒られたり、罵声を浴びせられたりすることはなかった。
おおむねディーナリアスは、いつも、ゆったりとしている。
王族だからなのか、彼の性格なのかはともかく、せかせかした感じがない。
ジョゼフィーネとの会話にも、苛立ちは見せなかった。
(我慢してただけかも……一応、嫁だし……)
今まで親切だったからといって、これからもそうとは限らない。
いつ切り捨てられるか、わからないのだ。
嫌な夢を見たせいか、前世の記憶に引っ張られている。
暴力といった目に見える悪意も怖いが、目に見えない悪意は、もっと怖い。
じっと潜ませておいて、ある日、突然ぶつけられるかもしれないからだ。
「夜会は、お嫌いですか?」
ジョゼフィーネは、サビナの問いに、首を横に振る。
好きも嫌いもない。
出たことがないので、判断のしようがなかった。
ジョゼフィーネだって年頃の女性なのだ。
憧れのようなものはある。
屋敷の外、窓から、こっそり覗いたこともあった。
アントワーヌが招待されていた夜会だ。
姉たちと代わる代わるダンスを踊っていた、アントワーヌの姿を思い出す。
「わ、わた、私……っ……」
ガタっと、イスから立ち上がった。
恐ろしいことに、気づいている。
「いかがされました?!」
「わ、私、だ、ダンス……できない……っ……」
踊ったのなんて、前世での小学校の運動会以来だ。
夜会のダンスは、運動会のフォークダンスとは違う。
どうしよう、どうしようと、頭がグラグラした。
ジョゼフィーネは、貴族教育をいっさい受けていないのだ。
前世の記憶の中、童話のダンスシーンの描写が頭をよぎる。
獣姿の男性と町娘が踊る場面だった。
外国の人って誰でもダンスできるのかな、などと思ったのを覚えている。
が、ジョゼフィーネの前世は日本であり、フォーマルなダンスなんて、普通は、踊れない。
顔面蒼白。
夜会でダンスと、考えただけで、ぶっ倒れそうだ。
大国の王太子と婚姻するのだから、そういうことが付随するのは当然。
とはいえ、テーブルマナーだの言葉遣いだのに関し、ディーナリアスがこだわりを見せたことはなかった。
だから、うっかり忘れていたのだ。
「まだ夜会までは、お時間がございます。練習をなさってみてはいかがでしょう? もちろん、私も、おつきあいさせていただきますので」
サビナの言葉は、ありがたい。
ありがたいのだが。
(私にダンスなんて……無理……できない……どうせ練習したって……)
うまくできるはずがない、と思った。
自分は、できそこないなのだ。
やれることなんて何もない。
動かないのが1番いい。
ジョゼフィーネは、まだまだハイパーネガティブ思考。
後ろ向きからの脱却は、ほど遠かった。
「妃殿下、時には無理をすることも必要な場合がございます。練習して、それでも無理なら、その時は、私にそう仰ってくださいませ」
サビナが、ジョゼフィーネの前に跪き、手を握ってくれる。
暖かい手だった。
「私のほうから、きちんと殿下に、ダンスのお断りを申し上げます」
「え……」
「私は、殿下に申し訳ないなどとは思いませんので」
さっぱりとした口調で言われ、ジョゼフィーネの肩から少しだけ力が抜ける。
練習してもダメかもしれない。
やっぱり無理だったということになるだろう。
だとしても、それをディーナリアスに告げる必要はないのだ。
(で、でも……本当に大丈夫? あの人に、どんなふうに言われるか……)
ジョゼフィーネは無能なのでダンスしないほうがいい、というような言いかたをされることも考えられる。
たいていは、悪いことは、なんだって自分のせいにされてきた。
サビナが庇ってくれるとは、信じきれずにいる。
自分の手を握る、暖かい手を信じたい気持ちはあった。
それでも、やはり怖かったのだ。
傷ついていない場所がないくらい、ジョゼフィーネの心は傷ついている。
傷の上に、さらに傷が積み重ねられてもいた。
そのせいで、警戒心を解くことができずにいる。
「実際、口実はいくらでも作れるのですよ? 疲れておられるとか、この国にまだ慣れておられないとか。スルーすることは、簡単なのです」
言葉が、ジョゼフィーネの胸に、ぐっと沁み込んできた。
逃げようとすれば逃げられる。
サビナは、そう言っているのだ。
(逃げたい……逃げたいよ……けど……でも……)
ディーナリアスの顔が浮かんでくる。
彼は、ジョゼフィーネを急かせることもなく、いつも「大丈夫」というように、頭を撫でてくれる人だった。
どこまで信用できるかはともかく、政略結婚でも愛は必要だと説いていた。
サビナに視線を向け、ジョゼフィーネは「無理をする」決意をする。
自分にも少しくらいできることがある、と信じたかったのかもしれない。




