コトノハ
1
言葉という奴は時として、本当に無力なものだと思う。
困り果てている人に近づいてきて、『どれどれ、私がズバリ言い当てて差し上げましょう』などと遠慮なしに嘯いてくる。まるで胡散臭い占い師みたいに。
ドンピシャに言い当てられたら、そうそうまさにその通りですお見事パチパチと拍手喝采して差し上げたくもなるだろう。けれども、だ。満面ドヤ顔全開で言い放たれたその言葉が、こちらの渇望していたそれに全くと言って良いほどあてはまらなかったとしたら。これじゃない、欲しかったおもちゃはこれじゃないよと駄々をこねる子供の心境、まさにそれに尽きる。
もちろん、こんな妙な例えができるのは僕が大人だからだ。子供の僕があの時に抱いた感情は、たぶんもっと単純で明快なものだったはずだ。
――おじさん変なこと言ってる。間違ってるのになぁ。
ことばのおじさん。その人は例え話の中の胡散臭い占い師でも何でもなくて、本当に実在した。その人は、実家の裏山にあった小さな神社の神主だ。一見して得体の知れない仙人みたいな人だった。その人は物知りで、僕が知らない物事をいつも真新しい言葉で表現してくれた。だから、ことばのおじさん。そう勝手に呼んでいた。
ある時僕は、自分が体験した不可思議な出来事をことばのおじさんに話して聞かせた。子供の頭ではおよそ理解することのできない、夢の中の出来事のような話を。だから僕は最初、「へんなゆめをみたんだけどね」と言って自信なさげに話し始めたのを覚えている。
ことばのおじさんは、いつものように人の話を聞いているのかいないのか、斜め上の夕焼け空をぼんやりと眺めながら煙草をふかしていた。今思えば、神主と煙草、違和感がありすぎる組み合わせだけれど、子供の僕はそれ美味しいのかな、なんてことを思いながら話していた。
長くてまとまりのない、子供の他愛のない夢の話を聞き終えたおじさん。彼はそのすぐあとで驚くような反応を示した。それは子供の僕が、「どうしたの?」と慌ててしまうほどだった。おじさんは僕の目の前で声を上げて泣き出したのだ。いわゆる、号泣というやつだ。
傍から見たら、生き別れた息子に再会した父親が、よくぞ無事に育ってくれたと嬉し涙を流している、そんな光景に写っただろう。というのは前向きにとらえた場合で、後ろ向きに見たら、変態に絡まれたいたいけな少年、一歩間違えれば通報騒ぎだったはずで、おじさんの目の前でおろおろするしかなかった僕は、おじさんが鼻をすすりながら言い放った次の言葉に目を丸くした。
「坊主、そりゃ夢の話なんかじゃねぇよ。百人、いや千人、いやいやいや、一億人に一人の人間がさ、一生に一度おがむことが出来るか出来ないか、現し世のそれはそれはありがてぇ現象よ」
そう豪語したおじさんには、心の底から申し訳なく思っている。
僕はそんなありがたい現象とやらを、人生で二度も目の当たりにしてしまったのだから。
2
決して一緒にいるはずのないふたりが、そこにはいた。
ひぐらしの物悲しい精一杯の鳴き声が不意に聞こえて、少年は目を覚ました。重くたれ下がってくる瞼を手の甲でゴシゴシと擦り、無理矢理に目を開いた。最初に飛び込んできたのは、夕暮れどきの橙色。次第に鮮明になる視界の先には、庭に向かった縁側に腰をかけている大人の背中だった。当然顔が見えないから、それが一体誰なのか分からない。少年が声を掛けようとした時、唐突に視界の端から別の誰かが現れた。
『すごい夕立ち雨でしたねぇ。八百善さんの店先で雨宿り。そうそう、明日は由紀子ちゃんの晴れの日なんだからって言って、八百善さんたら、ほら、こんなに大きな大根。もう重くって』
ころころと笑うその声と話し方は、少年が良く知っている人物にそっくりだった。けれど何かが決定的に違う。
その時少年の頭の中には、皺くちゃな顔で優しく笑う大好きな祖母の姿があった。それに目の前にいる祖母に良く似た女性を重ね合わせて、ようやく違和感の原因に行き当った。
クラスの女の子達がそうするように、時に大袈裟さに身振り手振りを交えて相手に何かを伝えているその人は、祖母よりもだいぶ若かった。けれどどうしても祖母の姿と重なってしまう。このひとはだれ?
『それは随分と難儀だったな』
低く、力強い男の大人の声がして、少年ははっとして意識を目の前の光景に戻した。
『えぇ、ほんとうに。鰤と一緒に煮つけようと思って、魚屋さんにも寄ってきたんですよ。けれどそれだけじゃあまだ余っちゃうわねぇ。お味噌汁に入れたら、一体全体何人分作れちゃうのかしら』
今まで少年に薄くなった後頭部ばかりを見せていた男の人が不意に、屈託なく笑う祖母に似た女の人に顔を向けた。夕焼けの逆光で薄墨を引いたようにぼやけていたその輪郭は、少年の祖父に似ていた。
おかしなことなど何もないとでも言うように、ごく自然に二人の大人のやりとりは続いている。けれど少年の耳には彼らの声はもう何も届いてはいなかった。どうしてどうして?と頭の中は疑問符で埋め尽くされて、危険を察知した心の管制室の面々が右往左往して少年の心をどう制御しようか、緊急会議を開こうと寄せ集まってきていた。
少年の知る祖父は、治ることのない病に苦しみながら今この時も病院のベッドで目を閉じているはずだった。それから祖母は――。
祖母は先日、空の上へと旅に出た。悲しいけれど、もうここへは戻ってはこない。そう母親が少年に教えてくれた。
決して一緒にいるはずのないふたりがそこにいたのだ。少年は考えることをやめた。それが心の管制室が取った最善の策だった。ただただ、その不可思議な光景を見つめ続けた。
『とうとう、明日なんですねぇ。わたしなんだか未だに信じられなくって。由紀子が、嫁いでいくなんて。いつも一緒にいたんですよ。あの子、今でもお母さんお母さんってわたしに甘えてきて』
淡いピンク色の前掛けの裾を弄ぶ祖母(であると、なぜだか少年はその時自然に受け入れていた)は、少女のようにもじもじとしながらそう言った。俯いていたから、表情までは読み取れない。
祖父はそれを黙って聞いている。
『あの子、これからしっかりやっていけるのかしら。お父さんだって、いつも言っているじゃあありませんか。由紀子はずぼらだ、自分の部屋も片付けられない、料理なんて不味くて食えたもんじゃあない。それから決まって私が怒られて。お前がきちんと教えないからだって。やっぱりあの子にはまだ早いんじゃ――』
『もうやめなさい。悲しいのは、私も同じだ』
長年、小学校の校長を勤め上げた祖父は、まるで駄々をこねる生徒をたしなめるように祖母の話を遮った。祖母はそれにはっとして顔を上げて、同じく叱られた生徒がそうするように背中を丸めて祖父を見つめた。
その祖母の目から涙が一筋、こぼれ落ちた。
ひぐらしがまた鳴いた。祖母の代わりに、声を上げて鳴いた。
祖母は手のひらで涙の筋を拭き取ると、ぎこちない笑みを浮かべながら、
『そうですね、ごめんなさい』
と言って、縁側に座る祖父の隣に腰掛けた。ふたりして、黙って庭を眺めていた。
どれくらい、そんな穏やかで、けれどどこか寂しいふたりの時間が流れたのだろう。少年はその間、目を離すことなく彼らの背中を見つめていた。飽きることなく、ずっと。何故だかは分からないけれど、決して彼らの背中から目をそらしてはいけないような、そんな気がしていた。宝物の在り処を探るような、今にもそのしるしみたいなものが現れるような予感があった。
『ああしろ、こうしろと、言うのは簡単だ。君には苦労をかけた』
沈黙の扉を開いたのは、祖父の方だった。扉が開く音で、祖母は目を丸くして驚いていた。金輪際開かないと思って諦めていた扉をいとも簡単に開いた人間を、あっけにとられた様子で唖然としてながめている、そんな祖母の横顔だった。
『なんです、急に。お父さんも今日はおかしいですよ。君、だなんて。何十年ぶりにきいたのかしら』
決して祖母を見つめ返すことなく、前を見据えながら祖父は続けた。
『本当のことだ。常日頃思っていたことだ。由紀子を今日まで立派に育て上げたのは私じゃない。君が、由紀子を――』
『そんなこと、あるわけがないじゃありませんか』
それは少年が初めて耳にする祖母の声音だった。明らかに、祖母は祖父に対して怒りをぶつけていた。さっきと形勢が逆転した。少年は少し緊張した。
『由紀子は、わたしと幸次郎さんの子供です。ふたりで、大事に、育ててきたんです』
そこで漸く、祖父は祖母を見つめ返した。
祖父の口元が少しだけほころんだ。
『あ――』
祖父が何かを呟きかけたその時、どたどたどたっと騒々しく廊下を駆ける足音とともに、勢いよく居間の襖を開けて、無遠慮に縁側のふたりに向かって誰かが早口にまくし立てた。
『もう、こんなところにいた。探しちゃったじゃない!お母さんお母さん、どう、この髪型。明日の披露宴のとき、こんな風に結ってみようと思うんだけど、いい感じじゃない?』
驚いて振り返るふたり。それにつられて少年も自分の背後を咄嗟に振り仰いだ。
そこには、腰に両の手の甲を当てて、斜め上から父母を見下ろす若い女性が、ポスターの中のモデルみたいにポーズを決めていた。
少年にはすぐに分かった。母だ。少し若い気がするけれど、間違いない。これは自分の母だ。いつもと変わらない母の明るく朗らかな様子を目の当たりにすると、少年は今まで見てきた不可思議な出来事からくる理不尽な緊張から解き放たれて、泣き出しそうになった。お母さん!そう叫んで、母の腰に抱き着こうとした。けれど、抱きしめようと伸ばした両手は、母の体をすり抜けてしまい、その結果少年は自分で自分の体を抱きしめてしまった。
きょとんとして立ちすくむ少年に気付く様子もなく、若い姿の母は縁側に駆け寄った。祖父と祖母と母、三人の話し声や笑い声がどこか遠いところから聞こえてきていた。けれどそのどれもが雑音のように意味を成さずに通り過ぎていく。一体何が起こったのか、少年には理解ができなかった。きっと、大人であっても、誰であっても、その一瞬の出来事を理解することなどできなかっただろう。
けれど、少年の生きる日常はとてもあっけなく彼のもとに戻ってきた。
「ゆうとー、ゆうとー!ちょっと来てー!冷蔵庫の隙間に百円玉入っちゃったのー。取ってよー」
さっき耳にしたばかりの、母の声。少年は声のした方へ駆け出していた。ここは自分のいていい世界じゃない。そんな風にはっきりと思えたわけではなかったが、本能がそう訴えていた。ここにいてはいけない。早く戻らないと。
けれど少年は、襖の目の前で一度後ろを振り返ってしまった。彼らがきっとまだそこにいる。もう一回、見てみたい。怖くはなかった。ずっと、怖くなかったんだ。大好きな人たちが、自分の知っているその人たちとは少しずつ違った姿で、そこにいただけ。
意を決して、少年は振り返った。
そこには、誰もいない縁側と、庭があった。ひぐらしの鳴き声だって、聞こえない。
「ちょっと、何やってんの?何その顔。幽霊でも見たーみたいな。お母さんまだ死んでないんだけど」
このやろ勝手に殺すなと言って、母は少年の頭を両手でくちゃくちゃにした。
少年は、母のお腹に顔を埋めて泣いた。
怖くなんかないよ。怖くなんかなかったもん。
『だけど、今はもう絶対に戻ってくることのない幸せな人々や場所や時間のことを想ったら、心の底から這い上がってくるような悲しみに身悶えして、息をつまらせていただけなんだ』
そんな言葉を掬い取るには、少年はあまりに幼すぎて、だからただただ、泣きじゃくることしかできなかった。
3
「あぁ、勘弁してくれよ。こんな良い話聞いたの、百年ぶりだぜまったくよぉ」
泣いた泣いた全米もそら泣くわなと言って、ことばのおじさんは神社の賽銭箱に腰掛けた。そんなところに座ってもいいの?という疑問は、その頃の僕にはもうなかった。おじさんとこうやって話をするようになって一年ほどが経っていたから、それが当たり前になっていたのだ。おじさんの特等席は、いつも賽銭箱と決まっていた。
「おじさん、ぼくのはなし、意味わかった?」
僕はずっと不安に思っていたことを打ち明けた。話をしている最中も、自分で何を言っているのかわからなくなる場面が幾度もあったからだ。
ああもちのろんで分かったよと言って、おじさんは僕の頭にごつくて硬い手のひらを乗せた。心配するな、とでも言うように。
「でもおじさん、まちがってるよ」
おじさんの手のひらを軽く払って、僕は残酷にもそう言って突き放した。
「なんだって?」
「だってこれ、夢の話だよ」
瞬間湯沸かし器のように、おじさんの顔がみるみるうちに赤くなって沸騰していく。
「おいおいおい、坊主、ガキだからって容赦はしねぇぞ。この俺様が言ってんだ。真実をだよ。この八百万の神々がおわします大和の国の真の理を貴方に!ってな」
憤りを隠さず、口から唾を飛ばしながらまくしたてるおじさんを見て、僕は思わず吹き出してしまった。
ふん、と鼻の穴から息を出すと、おじさんは賽銭箱から飛び降りてきて、鬼みたいな形相で僕を見下ろした。
「俺様はガキだからって容赦はしねぇ。大和の国の真の理を叩き込んでやる。二度と夢だなんだと言い出さねぇようにな。いいか、教科書になんか載ってねぇことだからな」
僕はそんなおじさんの『特別授業』が大好きだった。
「坊主が体験した出来事はな、不思議なことでもなんでもねぇんだ。夢の中の話でもねぇ。ますは、そうだな。残留思念て言葉、知ってるか?」
「ざんぎょうしえん?」
「馬鹿野郎、誰が悲しくって残業を支援してもらわにゃならねぇんだよ。過労死続出じゃねぇか。勘弁してくれよまったく。まぁ俺様は働いたことねぇから関係ねぇけど」
話の腰折るなと言って、おじさんは拳を握り締めた。おじさんがなんで怒っているのか、子供の僕には全く理解できなかったのだけれど。
「ざんりゅうしねんだよ。残留思念。人の想いが留まったモノのことだ。ズバリ言っちまうとだな、坊主が体験したのは、この残留思念が具現化したものを見た、ってことになる」
わからない、と僕が言うと、いつか分かる時が来るからメモっとけと意味不明なことを言われた。おじさんがそのあとから続けて語ったことを大まかにではあるが覚えているということは、僕は実はものすごく記憶力がいいのではないかと、今では思っている。
「残留思念のことはひとまず置いといてだ。ここからが重要ポイントだぞ。テストには出ねぇけど。いいか、昔な、『死んだ人はみんな言葉になるのだ』と言った日本人がいる。俺様は思ったね。こいつは良いこと言いやがる、てかこいつ、もしや『コトノハの樹』のこと知ってんのかと思って正直ビビったわ。まぁ、それは俺様の勘違いだったわけだが」
そこでおじさんは言葉を切って、煙草に火をつけた。ゆるゆるとたゆたう煙が、なんだか優しかった。
「人が死ぬとだな、そいつが生前に一番大切にしていた言葉がな、文字の形になって口からこうすぅーっと金色に輝きながら出てくんだな。見たことあるか?」
僕は一言、ない、と言った。先日の祖母の葬儀のときには、綺麗に死化粧を施されていた祖母の唇からはそんなものは出てこなかった、と思う。
「まぁ、普通の人間には見れねぇよ。坊主はもしかしたらと思ったんだがな。残留思念も見れて、コトノハも見れたらもうそいつは人間じゃねぇよ。生んだ両親を真っ先に疑うぜ。現し世で子作りなんて、こっちじゃ魂魄抜き取られる騒ぎだからな」
おじさんは時たま全く意味が分からないことを言う。そんな時僕は、聞こえなかったことにしていた。
「コトノハには魂魄が宿る。そいつの肉体を魂魄が離れて、言葉となって形と成ったモノ。それがコトノハだ。コトノハが長い旅を経て行き着く処が、『コトノハの樹』って寸法よ」
「ことのはのき?」
「おっと、こっから先は企業秘密な。俺様、社長じゃねぇけど。しつこいようだが俺様は無職だ」
先を急ぐぞ、もうすぐ日が暮れる。そう言うと、おじさんは急にまじめな顔になった。
「コトノハはな、全部が全部『コトノハの樹』に行き着けるわけじゃない。魂魄の持つ想いが、この場に留まりたいと強く願うとき、そのコトノハは旅立つことをやめて自分の生きていた最愛の場所に留まっちまう。これが残留思念てやつだ。そんでその残留思念を具現化させて視認しちまう奴がいる。それが坊主、お前だ」
おじさんはいつだって、僕を子供扱いして優しく噛み砕いてお話を聞かせることを全くもってしない人だった。僕はおじさんの話、いや特別授業の1%も理解できていなかったと思う。けれど僕はやっぱり少し変わった人間なのだろう。理解できない言葉の羅列が、まるでロールプレイングゲームの中の呪文のように思えて、おじさんと自分が物語の主人公なんだという錯覚をしていた。だから、この一見無駄な時間が僕は好きだったのかもしれない。
「これで分かっただろうが。坊主が経験した、ありがたぁい現象はな、人の大切な想いに触れられたんだってことだ。死んだ奴に一目でもいい、会いたい会いたいと涙に暮れている人間が数え切れねぇくらいにいる中でだ。思うに俺様は、坊主のじいさんだって、そう思ってるに違いねぇと思うぜ」
「おじいちゃんが?」
「あぁ。自分が寝ちまってる間に旅立っちまった最愛のばあさんに、何か言いたいことでもあるんじゃねぇのか。それが強い願いになって、あの場所に留まった残留思念を呼び起こしたかもな。それを、坊主が見届けたんだ。ありがてぇことよな。坊主のじいさん、なんか言ってなかったのかよ、ばあさんにさ。きっとそれが一番言いたかったことだろ」
長い話の最後になって、やっと子供の僕にもおじさんの言わんとすることが分かった。けれど、祖父が言っていたことで、そんな言葉があったのだろうか。おぼろげに残るあの日の景色の記憶の中を、僕は探した。
「あ――」
そうだ、若かりし頃の母が居間に入ってくる前に、祖父は確かに何かを言いかけた。間違いなく祖母に向かって。視線と視線が交差したそのあとに、一体祖父は何を祖母に言いたかったのだろう。ぼくはそのことをおじさんに話そうかどうか迷って、結局やめた。なぜだかおじさんは、もう分かっているんじゃないかと思えたからだ。口元に微かに笑みを浮かべたおじさんは、うんうんと頷いている。きっと言わなくてもこのひとには伝わっている。
さぁもう帰れと促されて、僕は小さな狭い境内を後にしようとした。その時だった。
「いけねぇ、大事なことを教えてなかったじゃねぇか。俺様としたことが。あのな、坊主。残留思念はな、必ずしもコトノハに起因して生じるモノとは限らねぇぞ」
振り返った僕に、おじさんはこれは補習な、と言って続けた。
「生きている人間から生まれた強い想いとか思い出がな、そいつの意思とは無関係に魂魄から抜け出て、それを生じさせる原因となった場所に留まることがある。そいつが厄介なことに、ほとんどの場合、負の想いだ。分かるか、ようは嫌な気持ちってことだ。こっちをもし見ちまったらな、見ちまった方も嫌ぁな気持ちになるだろうよ。そんな時は気にしねぇでさっさと寝ちまうに越したことはねぇぞ。まぁもっともだ、一生に二度も残留思念を見る奴なんてどうかしてるぜ。坊主はもう見ることもないだろうさ。一応補足だ、補足。真の理は全部話さねぇと意味がないからな」
おじさんはそう言い残すと、社殿の脇の小さな家へと踵を返した。
途中、社殿の前を通り過ぎながら、
「日本の寺はうるさくって嫌いなんだよな。まぁ寺なんてどこも一緒か。神社の方が静かで落ち着くってもんよ。好きだぁ神社!」
と、僕に向かって言っているのか独り言なのか分からないことを呟いた。
「ばいばい、ことばのおじさん!」
ありがとう、ぼくの話を信じてくれて。そう続けようと思ったのだけれど、声にはならなかった。おじさんはひらひらと手のひらを振り、
「じゃあな」
と振り向きもせずに言った。
これがことばのおじさんに会った最後の記憶だ。あの年の夏休みが終わる頃、おじさんはいなくなっていた。一体どこに引っ越していったのだろう。大人になった今も実家に帰る度に裏山の神社に行くのだけれど、未だ再会は果たせていない。
4
おいおい勘弁してくれよ。あの人の口調を真似て、僕は咄嗟に心の中でそう呟いていた。
『一生に二度も残留思念を見る奴なんてどうかしてるぜ』
そうだ、僕は完全にどうかしている。生まれて初めて、僕は自分自身の訳のわからない超能力みたいな変な力を呪った。大学受験を失敗した年の、一年間に渡る浪人時代の間だって自分を呪ったりはしなかったのに。
マズいマズい、見るな見るなと思えば思うほど、僕の両目は最愛の人の姿を追ってしまっていた。正確に言えば、最愛の人の残留思念だ。
最初に『それ』を見たときは、確かに心臓が止まるんじゃないかと思うくらいに驚いた。雑踏を見るともなく眺めていた僕の視界の左端から唐突に、色のないモノクロの人間が現れたのだから。『それ』は、顔にも、身につけている洋服にも、背負っているリュックにも履いているスニーカーにも色彩がなかった。白と黒。そのたった二色で明暗を表現されていた。一瞬、自分は大昔の映画をスクリーンで見ているのだったかと本気で思ってしまった。けれど、『それ』の周囲の人々には、当たり前のように色彩が施されている。いや、それがまさに当たり前なのだ。完全におかしいのは、『それ』だけ。
あの人が言っていたのは、もしかしてこのことだったのかと思い至ったときには、もう『それ』の後ろ姿がゆっくりと遠ざかっているところだった。
負の残留思念。そんな言葉が頭に浮かんだ。子供の頃にあの人が去り際に残した補足に出てきた言葉だ。
『それ』は決して見てはいけないもの。何故なら、『それ』は負の想いから生まれたモノだからだ。見れば必ず、自分も負の想いを抱いてしまう。怖いモノ。
子供の頃からずっと、頭の片隅に置いておいたことを、僕はその時も呪文のように唱えていた。
けれど、目をそらそうとすればするほど、僕は『それ』の後ろ姿から逃れられなくなっていた。似ていた。歩くときの方の揺れ方だったり、足の運び方だったり、リュックの揺れ方さえもがそっくりだった。それは恋人の結衣そのものだった。
気付けば僕は、『それ』の後ろ姿を追って人ごみを駆けていた。その時にはもう、『それ』は嫌なモノではなく、確かめなければならない結衣らしき人物の残留思念として、何のためらいも躊躇もなく受け入れられていた。
人並みをかき分けてやっとの思いで残留思念の正面に回り込んだとき、僕の心が深い深いため息をつくのを感じた。どこからどう見ても、それは結衣だった。見間違いだったと思えることをどんなに渇望していたか。その想いも虚しく、結衣は俯きがちにスマホを見ながら一歩一歩僕に近づいて来た。
どうして今日、この場所で、結衣の残留思念を見なければならないのだろう。しかも、負の残留思念を。もうそれが負の残留思念であることは確信に変わっていた。この世界のどこを探してもモノクロの人間なんていないし、それになにより、結衣は間違いなくこの世界に生きているのだから。それは天地がひっくり返っても変わらない事実。
何故なら――。
何故なら実在の結衣は、僕の後ろから、他の誰でもないこの僕を追って、息を切らしながら走って来ているのだから。
「ちょっと悠斗!・・・もうどうしたの急に!びっくりさせないでよ!」
膝で両の手のひらを支え、、背中を丸めてはあはあと呼吸を乱している結衣の真横を、彼女自身の負の残留思念は通り抜けて行くのを僕は目で追っていた。
「ねぇ、ゆいちゃん」
突然の僕の奇行に心底腹を立てているのか、結衣は返事をする代わりに上目遣いに僕を見つめた。
「どうして今日、ここを待ち合わせにしたの?」
はっと息を呑むような一瞬の表情のあと、結衣は取り繕ったような笑顔になって言った。
「ここの駅前のイルミネーションがすごく綺麗だって、テレビでやってたから。でもやっぱりクリスマス当日はすごいね、人。ね、でもどうしたの?急に走り出すし、ここからじゃイルミ見れないよ?てか悠斗、なんか変」
最後の方は、不安なのか僕のことを心配しているのか、そんな感情が入り混じった表情で呟いていた。
僕は再び歩き出した。ちょっと待って、と言って僕の腕を掴む結衣をそのまま連れて、残留思念のリュックを目印にして。
人通りを抜けると、大通りに行き当った。相変わらずの人の群れが行き来していたけれど、結衣の残留思念はすぐに見つかった。路肩にある電話ボックスの前に、ガタイの良い男が一人、パーカーのポケットに両手を突っ込んで佇んでいた。その男に、モノクロの女の子が近付いて、それから抱きついた。
不意に周りから一切の音が消えた。
そしてモノクロの男女以外の、色彩を持った人々の動きが止まった。
二人からは少し距離があるにも関わらず、僕の耳には彼らの声がはっきりと聞こえてきた。
『待たせちゃってごめんね』
『いや、それはだいじょうぶなんだけどさ』
『ん?何?』
『こんな日になんなんだけどさ』
『うん』
『俺たちさ、別れよう』
『・・・・』
『それだけ、いいに来た』
『・・・・』
『俺さ、今付き合ってる人、いるんだ、実は』
『え・・・・』
『結衣の他に、付き合ってる子がいたんだ』
『・・・なにそれ』
『だから、もういいよな?別れたいから』
『なんなの、それ。そんなの、分かんないよ。いきなり言われても。分かんないから』
『もう行くわ』
『ちょっと待ってよ!』
僕は腕を掴んでいるはずの結衣の事など忘れて再び駆け出していた。たぶん結衣のては振りほどいていたし、大通りに出て幾人かの人ともぶつかったと思う。けれど、そんなことには全く気がついていなかった。気にも留めていなかった。ただ、そのモノクロの男めがけて拳を掲げていた。そいつの頬を見据えて、掲げた拳を打ち下ろした。思いっきり、力を込めて。
ガシャーンっと盛大な音を立てて、何かが僕の拳の先から倒れ込んだ。そいつと一緒に僕もなし崩し的に倒れていった。なんだかスローモーションみたいに、そいつと地面が僕の顔面に近付いてきた。何だこれ。理解するのにしばらく時間がかかった。ヘルメットを被って丁寧に一礼している男の絵。工事現場に立っている看板、それがそいつの正体だった。
「悠斗!ゆうちゃん、ねぇ大丈夫?なにやってんの?」
なんで二回目ちゃん付けした?とぼんやりと思った途端、泣きそうな声で僕の肩を揺すっている存在を思い出した。残留思念じゃない、生身の体温を持った、生きている結衣。自分は今の今まで、一体何をやっていたのだろう。自分を一心不乱に駆り立てていたものは、一体何だったのか。
声が聞こえた気がした。懐かしい、思い出の中の声だ。
『ひっでぇツラしてやがるなぁ。こいつはあれだ。完全に負に取り込まれやがった結果だっつうの。せっかく人が教えてやったってのに。いいか、負の残留思念はなぁ、誰も幸せになんてしねぇんだ。それを生じさせた本人も、それを見ちまった奴も、不幸になるだけだ。言ったろ、もしも見ちまったらさっさと寝ちまうに限るって。深入りしたって何も変わらねぇんだよ。大切なことってのはな、いつも単純にできてんだ。今を生きろ、楽しめ、そして寝ろ。それだけだ。ここんとこちゃんとメモっとけよ、坊主』
「ゆいちゃん、鼻血出てない?」
「悠斗、ごめんなさい!」
路肩に座り込む僕に向かって、結衣は大袈裟に頭を下げた。このまま、土下座でもしそうな勢いだった。道行く人々が、おかしな物を見るかのように横目でチラチラと見ていく。
僕はまず立ち上がり、それから泣きじゃくる結衣も支え起こし、とにかく暖かい場所へと移動しようと提案した。
けれど、結衣はそこから動かない。促そうと細い腕を掴みかけたとき、彼女はしっかりとした目で僕を見つめながら言った。
「見たんだよね、そうなんだよね。昔のわたし。残留――思念だっけ」
一瞬間、僕は混乱した。どうしてと思ったのとほぼ同時に、前に結衣に残留思念の話をしたことを思い出した。
「うん、見たよ。その結果が、これ」
「ここの駅前に来たら、もしかして悠斗がわたしの残留思念を見るんじゃないかって、そう、思ったんだ。昔のわたしの記憶。悠斗が見たら、そんなの気にしなくていいんだよって言って、抱きしめてくれるかなって、そんな風に軽く考えてて。そしたら、悠斗、だんだんおかしくなってきて、それで、わたし、どうしていいか分かんなくなっちゃって。それで、それで――」
断っておくけれど、別に結衣が言ったからそうしたわけではない。そうすれば結衣が喜んでくれるからって思ったからでも決してない。その時の僕には、そうする他に手段がなかった。ベタでもなんでも良い。これしかないんだ。
僕に強く抱きしめられた結衣は、
「悠斗、死んじゃうかと思った」
と本気とも冗談ともとれるようなことを口走った。咄嗟に僕は、
「このやろ勝手に殺すな」
と返していた。
「あ、あ、あー。ありがとう。ベタかな。あー、愛してる。もっとベタ。えー、なんか思いつかないよ。そのおことばのおじさん探してきてよ。気になるー。悠斗のおじいちゃん、なんて言いかけたんだろ」
おことばのおじさん。『おことばですが』が口癖の偏屈おじさんを思い浮かべて、僕は思わず笑ってしまった。
「ことばのおじさんね。お、は付かないから。でも、もうどこにいるのか分からないからなぁ。どうなんだろうね。まぁ、食べようよ。冷めちゃうよ」
僕と結衣は、洋食のレストランで食事をしていた。さっきの出来事の詳細も話したし、もっと前、僕の子供の頃に見たあの不思議な現象のことも改めて話した。それからもちろん、ことばのおじさんのことも。その中で、祖父があの日、空気の読めない母の登場によって遮られてしまった、祖母への言葉は一体何だったのかという話題になった。結果、結衣があーあーと人の目がとてつもなく気になる声音を連発することとなったのだ。
「そうだ悠斗!今日はさ、バスに乗らないで悠斗のアパートまで――」
そこで結衣の注文したビーフシチューが運ばれてきた。僕のマルゲリータはまだこない。今頃窯の中でチーズがとろけていることだろう。生唾をごくんと飲み干した。
「ねぇ聞いてんの?」
すっかり意識がピザの成長について飛んでいたところに、結衣の手のひらが目の前でひらひらと行き交った。
「ごめん、もう一回!」
手を合わせると、だからーと言って、それでも楽しそうに結衣は言った。
「今日は悠斗のアパートまで歩いて帰ろう、って言ったの。手をつなぎましょ」
おどけて右手を差し出してくる結衣に、そうしましょ、と左手を重ねたその瞬間。
『歩んでいこう。これからも、ふたり一緒に』
照れているのか、面映ゆそうに呟いた祖父の声が聞こえた気がした。