005.未知との遭遇
書庫についたアーシェは鍵──という名の板──を翳した。するとガチャリと、まさしく解錠を表する大きな音が鳴ったので、扉を引いたり押したり横に滑らせたりしようとする。
──あれ、開かないね。
──鍵が間違っているのかしら?
──んー、というより……。
「セリア」
「畏まりました」
いくら押してもびくともしなかった扉は、セリアの片手で簡単に開いた。
──相変わらずの怪力ね。
──いやぁ、これはどう考えてもあーちゃんの力不足だよ。
──そんな事無いわ。わたくしは至って平均的よ。
茜はアーシェの持つ語彙力が正しく学習されているのか疑問に思い、己が辞書にて『平均的』という単語を引き直す。
──じゃあ、あーちゃんが今まで手に持ったもので一番重かったのってなに?
──お湯の入ったティーポットね。あれはとても重かったわ。
絶望的なまでの非力さに失笑する茜。それに対しアーシェは自分が下に見られたと思いつむじを曲げた。
──茜嫌い。
──あー、ごめんごめん。拗ねないで。
──拗ねていないわ。ただわたくしの中で評価が更新されただけよ。
大変不本意であると言わんばかりに、アーシェはスタスタと書庫へ入る。
そこにあったのは本、本、本。想像していたよりも遥かに多い量の本に圧倒された二人は、無意識に生唾を飲み込んだ。
──これは凄い。正直、侮っていたよ。
──いくら貴女の国が進んでいたとしてもこんな数は集められないでしょう。
──そうだね、個人でこれだけ紙の本を集めるのは難しそうだ。
──ふふん。
お父様を褒められるとわたくしも嬉しい。これなら先程の不遜な態度も許してあげない事もない。
城の書庫を褒められただけで簡単に機嫌を直したアーシェの足取りは軽く、本棚に挟まれた通路を期待に満ちた様子で歩いていった。
「それとそれと……あれとそれと、あとこれも取って頂戴」
早速目についた魔導書を片端から取ってもらって奥へ進んでいく。窓のない書庫だが、不思議と天井からはどこにいても均一な光が降り注いでいた。
しかしその光も扉から離れれば離れるほど暗くなってゆき、ついには文字が見えないほどに小さくなってしまった。
──……なんだか不愉快だわ。
不安が胸を過り、アーシェは従者を呼び付ける。
「セリア」
ふと、気になって後ろを振り返ってみると、後ろについてきていたはずの従者たちがいなくなっていた。
──茜、セリアがいないわ。……茜?
茜からの返事もない。それどころか周囲の本棚すら消えていつの間にか深い闇の中を独りで歩いていた。
「セリア、レオノーラ、メリッサ!」
付き人がいないと気づいてしまったら、今までの違和感が急激に恐怖へ塗り替えられる。恐怖が焦りを呼び、焦りが不安を煽り、不安は恐怖を齎す。悪循環に苛まれたアーシェの心は、逃げ出す事も、隠れる事もできない我が身を呪った。
「セリア、返事をしなさい!」
まずは護衛を探すため来た道を引き返す。しかし、扉からの距離に関わらず、光量は心許なくなり、ついには一筋の光もない闇の世界になってしまった。
自分が立っているのか倒れているのか、それすらも区別ができない状態で、アーシェは思いつく限りの神に願う。
導き神よ、縁神よ、光神よ、風神よ、火神よ、守り神よ。わたくしに神のご加護をお与え下さい。神の祝福をお与え下さい。
「神に祈りを」
淡い光が身体を包み、天に向かって光が飛ぶ。
直後、手の甲に小さな光が現れる。その光源からは僅かに光の粒子が漏れ出て、ある方向に流れていた。
「神様。ありがとう存じます」
右に行ったり左に行ったり、方向転換をしては、方角も分からなくなるくらいグルグルと、それでもアーシェは光の導きに従った。普段なら疲れて動けなくなるような距離を移動したにも関わらず、アーシェの体力に変わりはなく、不思議と健康状態のまま歩き続けられた。
『…………!』
『………………』
不意に女性の声が聞こえて来る。それと同時に光が増し、声の方へと案内された。アーシェは不信感よりも安堵が勝り、心なしか歩く速度も速くなる。
声を辿っていった先には見慣れないボロ屋が、闇の中にポツンと建っていた。
そのボロ屋の窓には光が見え、人が住んでいる事が伺える。アーシェはトタトタと早歩きでボロ屋へ向かった。近づく度に声が大きくなっていくので、家の中に誰かが居るのは間違いないだろう。そう信じ、ボロ屋の扉をノックする。
『あら? お客さん? 珍しいわね』
『ミリィに一票』
『野良悪魔に一票!』
『……こんな辺鄙なところ、ミリィくらいしか来ないでしょ』
そう言って出てきたのは栗色の髪をした女性だった。その奥には三姉妹か三つ子か、どの顔も瓜三つの顔をした女性たちの姿がある。唯一の違いはその表情だろうか。
「あら、どちら様?」
「アーシェリットと申します」
「アーシェリットちゃんね。私はリリスよ」
普通に受け答えをしてハッと思いつく。
お父様とお母様方以外の目上の方にお目にかかるのはこれが初めて。ここでしっかり挨拶ができればお父様からも「宜しい」を頂けるかもしれない。
「大砂時計は闇神が与え給う祝福に満たされ、数多の星々から紡いだ糸で織り成すリリス様との巡り会いを齎された縁神に祈りを捧げることをお許し下さい」
「え、うん。どうぞ」
アーシェの祈りが光の球となりリリスに吸い込まれる。
「面白いことするわね」
「い、嫌でしたか……? わたくし何か粗相を致しましたか……?」
珍しいものを見る視線を感じ、アーシェは不安を覚える。それを外に出さないように必死に堪えているが、次第にその目は潤み始め、リリスの嗜虐心を刺激する。
熱を孕んだ眼差しを巧妙に隠し、笑顔でアーシェの不安を拭う。
「とんでもない。ありがとう、アーシェリットちゃん」
ところでと一言添えて、リリスはどうやってここに来たのかアーシェに訪ねた。
「お城の書庫を散策していたら、いつの間にかここに辿り着いていました」
「書庫?」
「セルヴィスの古城確定でしょ」
部屋の奥にいたリリスの同居人が話に入る。
話によると昔いたずらで仕掛けた魔法陣が誤って作動した可能性があるとのことだ。しかしリリスによるとその魔法陣はすでに解除済みであり、アーシェが入った時点では意味のないもののはずである。
「あー、あの罠なら再稼働させといたよ」
「…………」
その言葉を機に奥の女性三人はぎゃあぎゃあと喧嘩を始めた。どうやらこの空間とアーシェたちのいる空間を行き来するにはわざと罠にかかり魔法陣による転移をした方が早いらしい。
「何か煩くてごめんね。私はリリス。この館の主でそこの三馬鹿の主でもあるわ。アーシェリットちゃんが迷い込んだのは私らの手違いみたいだし。事情も説明したいから中へどうぞ。少しならお菓子もあるわよ」
「ではお言葉に甘え……」
屋敷の中に足を踏み入れた瞬間、アーシェの鼻に普段嗅ぎ慣れない奇妙な匂いが通る。
ツンと鼻を刺激するその匂いは別に耐えられないほどではなかったのだが、あまり知らないものだったため無意識に眉を顰めていた。
「……あぁ、ちょっとまって」
リリスは何か大事なことを思い出したのか、一度彼女を止めて魔法を発動する。
「ほいっと」
人差し指を立て、クルッと空中をなぞる。すると指先の軌道が円を描いて光り出した。
そして次の瞬間、ボフンと辺り一面が桃色の煙に包まれ、ボロ屋同然だった屋敷がつい先程建てられたかのような新築へと変わっていた。
「……どう? 臭い消えた?」
「え、えぇ。それは魔法でしょうか?」
「そうよ。浄化の魔法って言って汚れを落としたりできる魔法と、消滅の魔法と言って物質を魔力に変える魔法と、創造の魔法と言う魔力を物質に変える魔法ね」
もしここにミリアシルがいたのなら、魔法の並列使用がどれほど高等な技術であるかアーシェに説いていたことだろう。しかし教育者のいないアーシェは違う魔法を同時に扱えることが普通のことだと認識した。
「建て替えるのならわざわざ最初に綺麗にする意味はあったのでしょうか」
「家を建て替えても空気がきれいになるわけじゃないからね」
「なるほど。ところであの異臭とは?」
「……秘密よ」
自分の住んでいる家が臭うと認めたくない気持ちは全ての女性に共通するものなのだろう。アーシェはリリスの回答拒否をそう解釈し、空気を読んでそれ以上追及はしなかった。
「適当にかけといて。今お菓子持ってくるから」
「承知致しました」
言われた通り、指定された場所の隅っこにちょこんと座った。