004.少女の父親
『お父様』ことパール王国正二位、セルヴ公爵家当主であり内務省大臣でもあるミリアシル・エルヴィス・ジスレット・セルヴは、とある理由でやる必要の無い執務を黙々とこなしていた。
絶大な権力と信頼から課せられる業務は、本来一人で担えるような量ではなかった。そもそも本来であれば領主としての義務を背負う公室は、他の役職を、ましてや中央での役職を持つことはありえない。
しかし男は類い稀なる魔法の才能と執務能力、そして役職の世襲から特例でそれを任せられている。毎日毎日自領と中央を結ぶ転移結界を潜り、内務卿と領主の仕事を両立させていた。
本日も午前中に創造の礎に魔力を流して領主としての務めを果たし、午後は中央へ赴く前に賓客との面談を終えてから、女王陛下の補佐をしながら部下に指示を下す予定である。
そこへ不規則に部屋の扉が叩かれる音がする。
――来たか。
扉を開けて入ってきたのは部屋の前に待機していた近衛だった。先程アーシェの右筆から打診された面会予約については、既に承知のことであり、そう時間は掛からないだろうと踏んで、予定に組み込み済みである。
「誰だ」
決まりきった質問には決まりきった回答が帰ってくるものだ。「姫殿下が参着されました」と淡々と答える近衛に入室許可を与えて部屋へ招き入れた。
「大砂時計は光神が与え給う祝福に満たされ、閣下に於かれましては癒神の御加護を授かり給うと存じます。僭越ながらご尊顔を拝する機会を齎された縁神に祈りを捧げることをお許し下さい」
「許そう」
両手を眼前に出し、合掌する。そのまま頭を垂れて簡易祝詞を唱えた。
「神に祈りを」
その瞬間、アーシェの身体が淡い光に包まれた。その幻想的な光は胸へと収束し、やがて球体となってミリアシルに向かって吸い込まれる。
「宜しい。目上の者に対する挨拶はもう問題無かろう」
「痛み入ります」
「明日からはもう初対面の挨拶はやめて、通常の挨拶をしなさい」
「畏まりました」
さて、と一言おき、ミリアシルはアーシェを見定めた。
「其方が面会を希望するとは珍しいものだ。何用か」
「恐れながら、本日はお父様にお願いがあり参りました」
「ほう」
筆を起き、アーシェの意図を図る。
生まれてこの方、一度たりとも願いを口にすることが無かったアーシェが、こうして父の書斎にまで来て何かを望む。その事実を前に、できる事ならば期待に応えてやりたいと思うのだが、アーシェが今まで抱え込んでいた欲求がどれ程のものなのか確認するまでは安請け合いはできない。
「叶えられるかは内容次第だが、言ってみなさい」
「はい。このお屋敷にある書庫の閲覧許可を頂きたくお伺い致しました」
この城で書庫と呼ばれるものは一つしか無い。初代セルヴが保有していた数百冊の魔導書を、安全に保管し後世に残すための部屋から始まり、歴代の研究成果や記録、今となっては歴史となった当時の資料など多くの本が納本されている大書庫だ。
「……書庫か。入室の許可は構わないが、何か目当ての情報があるのか?」
「お恥ずかしながら、魔法の基礎を知りたく」
「そうか、魔法か」
難易度は様々だが、簡単なものであれば数分で習得出来るものもある。アーシェは生まれつき、それどころか胎児の時から保有魔力が優れていると判断できるほど、両親の血を色濃く受け継いでいるため、魔法に関しては二人より秀でた才を持っている可能性が高い。
学院に入れる前に作法教育と並行して教えようと思っていたが、向こうから来てくれたのだから仕事が一段落ついたら、彼奴に教えを任しても良いだろう。
そんな未来に思いを馳せながら、引き出しから一つの板を取り出す。そして飛行魔法を駆使して宙に浮かせ、アーシェの手前へと持っていった。
「これは……」
「通行証だ。入室する際はその鍵を翳して扉を開けなさい。基本的に持ち出し申請は机案にある申請書に、書名と名前を書けば良いが、鎖に繋がれているものは持ち出し禁止である。無理に持ち出そうとすれば防衛魔法が作動するので注意しなさい」
その他諸注意を聞きながら、アーシェは手のひら──本人にとっては両手──くらいの大きさの板を両手で恭しく受け取った。
「拝借致します」
「魔法を習得したら見せに来ると良い。正しく発動できているか見てやろう」
「ありがとう存じます。お父様」
魔法を習うならばまずはあの書物が良いだろう。ミリアシルはある書名をアーシェの側近に伝え、激励の言葉を投げ掛けた。
「其方の働きに期待している」
部屋を出る直前のその言葉にアーシェの体がピクンと反応した。
「……失礼、致します」
我が愛しき娘の放つその声は、震えていた。
◆
第一保護者との初対面が終わり、茜がミリアシルへと抱いた印象は『教育熱心で論理的思考を持つ男性』であった。そして同時に自分の感情を圧し殺している節があるとも。
こちらの貴族の事はあまり良く知らないが、正二位の位階を持つ公爵家当主ともなれば立場や責任からくる制約も多いのだろう。
ともあれ、アーシェが抱いている怖くて厳しいお父様とは違って見えたのだ。
子どもは大人の内面を知る事はできない。それは知識が足りず、思考が足りず、なにより経験が足りないからだ。それ故に、子どもから見た大人の評価と、大人同士の評価では全く違ったものになるのは仕方がない。
だが、一概に子どもの評価が間違っているとも言えない。たとえ表面的な評価だとしても、子どもにはそれが全てなのだ。
アーシェの場合はさらに特殊で、日中両親と会う機会があるのは食事の時間のみであり、その時間すらも五歳になった日から初めて得たふれあいの時間なのである。
これは彼女が特別虐待を受けているというわけではなく、この国の貴族は五歳になるまで親から離され離宮の子ども部屋で暮らすことになっている。それは城内の様々な危険から子どもを守るため、必要最低限の教育を安全な場所で施すため、そして大人たちの仕事の邪魔をさせないためである。
故にアーシェのお父様像は、この数日程度で固められたものであり、それ以前は月に数回子ども部屋に様子を見に来る程度だった。
茜の見立てではアーシェの父親、ご尊父様は子どものことを大切に思っている。少なくとも蔑ろにするような人物ではないだろうと考えていた。
しかし、そんな考えとは裏腹に、アーシェの思考はどん底へ一直線に落ちてゆく。
──……そんなに落ち込まなくてもいいんじゃないかなぁ。
──絶対変に思われてしまったわ……穴があったら入りたい……。
拙い。非常に拙い。このままではアーシェのやる気がなくなってしまう。そうなれば私のやりたい魔法の解析が出来なくなってしまうではないか。
これは何としてでもアーシェに気を持ち直してもらう必要がある。
――そ、そうかな。ご尊父様も期待しているようだったけれど。
――一族の財産である書庫を貸して頂くのだもの。一定の成果は出せと仰せられたのよ。
うーむ、この子はどうして両親に対してだけこんなにも消極的な考えをしているのだろうか。
――そうかなぁ、まあどちらにせよ頑張ろうね。どうせならご尊父様を驚かせてみたいし。
――お父様は王国最高峰の魔法使いなのよ。……しかし、お父様が驚くほど魔法が上達したら、もしかしたら許して頂けるかもしれないわね。独り立ち。
取り敢えずアーシェのやる気は回復できた。後はこのやる気が霧散する前に魔法へ意識を向ければ、子どもの好奇心はそちらに向くはずだ。
順調に進んでいる事にほくそ笑み、表面上は冷静さを保つ。
興味深い事に、意識が繋がっているとは言え、アーシェも茜も互いに隠し事が出来る。残念ながら両者に共通する『行動の隠し事』は出来ないが、片方のみで完結する『精神の隠し事』は容易に行えるのだ。行動の隠し事が本当にできないのかは今夜にでも検証しておこう。
あぁ、なんと楽しい世の中だ。
明治から大正、昭和、平成、令和といくつもの年号を迎えたが、これほど自由に、何の柵もなく好きな事ができた時代は今までなかった。
茜はあの人への感謝をより一層高め、書庫へと向かうのであった。