バルーン・サーカスホテルの彼女
彼女たちの決心
「あの後にもホテルのどこかで会ったの、私は。」
「あなたのお気に入りの彼女にあなたといない状況において。」
「そうなの?」
「そうならその時すぐにでも僕のことを呼んでくれればよかったのに。」
「なぜ?気を利かせて?なら誰に対してよ。」
「あなたを管内放送かなにかですぐ目の前に呼びつけたって少なくとも彼女に気を利かせたことにはならないわ。むしろ彼女としても私的にも二人きりで話せて決して良くなかったとは思わないんだから。」
「変なのがいなくてよかったって感じ。」
「君がだろそれは。彼女はそうは思わないんじゃないかな。」
「そうね、あなたのことなんか忘れていたものね彼女は。」
「そんな感じだった?」
「いいえ、そんな感じかどうかすら思わなかったわね。わたしもまたあなたの存在については、ん?って感じだったものだから。でもあなたが彼女から聞きたいことなら、ちゃんと耳には入れて来てあげたわよ。」
「それはまた話の流れで口を突いて出るといったようで、不自然に聞き出したようでもない感じで。」
「どうだった?」
「彼女にとってのその人はやっぱりそうだったのよ。」
「そうだったっていうのは?」
「あなたが言った通り。彼女はサーカスの花形である兄に対する憧れを抱いていたみたい。」
「彼女たちの親は早いうちから、彼らなりの優しさなのかなにかの策略か、そういう彼らに与えられた正当な権利か義務でもって自ら築きあげたそのレールに彼らを乗せようとし、乗せてみたものだけどそれにも関わらずそこから早いうちに外れていった兄がいてね。」
「自分もまたその人間性からかまたはやっぱり親自身の人にそう思わせてしまう性質からか、彼女は彼女なりに感じ取るその束縛から抜け出したいと、兄のものと比べるとだいぶ見劣りするし、恥ずかしいものだけど、そういう動機のもと親元を抜け出してそして兄をあてにしてここに来たものなの。」
「よくある話かしら?」
「ないかもしれないけど、みんなごくありふれた心のありようをしているとは思うかな。そう思う根拠は自分でもはっきりしないけど。」
「でも彼女はその兄と年が近いことはなくて、6年を超えて離れているどころか、実はまだ見たこともないらしいのよね、その兄のことは。」
「そうなんだ。見知らぬ兄に頼ろうと思った彼女の心意気が素晴らしいものか、姿も見せたことのない相手にそう思わせただけの彼がすごいのか。」
「逆にそれほど遠い関係性だったから純粋な憧れを抱くだけ抱くことができ、ただ頼ろうとできたってこともあるかもしれないわね。」
「まあそうだね。」
「それでも彼女の中では相当な決心ではあったことは確かよ。」
「それがやっぱり彼のそれよりもずっと低しいものであってもよ。」
「そういうのを見せられた時や思う時、わたしは考えてしまうものだわ。」
「私達ってそんな決心をした記憶があるものかってね。」
「きっとないんじゃない?」
「そうかしら?そういう決心ってどういう決心っていうかってことはあるわ。」
「そういう決心っていうのはどういうことを言うかは、それは必ず親の思うこと、その方針とぶつかりうるものになるだろうと私はそう思うの。」
「そう?」
「親と私達じゃ、人が違うのだからそれは重大なことであればあるだけ、考えるものなら考えるだけお互いが同じはずはないもの。」
「私達3人自身もそうね。他のふたりと離れることになりうることの意思の決定もまたそれは私たちにとって重大な決心たりうることになるのかもね。」
「だとしたらそんなものは今までした覚えもないわ。」
「私たちは出会ってからというもの、こういう3人の会話の場を設けるこのパターニングになってからはろくにその体制を崩したこともないんだから。」
「親に対してだってそうね、その人たちのお金と地位でこんな場所に来ちゃっているくらいだもの。その人たちや私たちの意思に反しない形で私たちはそういうものたちをなんら逆立てることなく、ただより沿って来ているだけなんだわ。」
「しかしながらそれは、私達がそれぞれの事情でもって仕方なくそうしてきたかといえばそんなことはなく、私達にとってそれがこそごく自然なことで、どちらかといえば考えなしのことだったかもしれないけどでも、私たちはそういった私たちの方針について、私達として知らぬ内にしてそういう決心をしてきたとも言えるのじゃないかしら。」
「それはただの惰性だと言われたとして、自信の持てることもなく、自慢できるものでもないものではあっても。」
「そこにはなにかそうしただけの理由が全くなかったかといえば、そうとは限らないと思うのよ。だってそれは私たちにとって、そして私達の親達にとってよくなかったことではなかったのだもの。」
「私達はその優しさか何かがなかったかもしれなくても、それはきっとそのためにはなったもので、わたしたちは確かに選択しているの。そういうことを。」
「それは私達でなく、親達や私達3人にとってよかったことなのね。」
「そう。それは個人のためかは別として。」
「私達は私達それぞれの個人のためを真に思うのなら、どんな風なことを選択していくものかしらね。」
「今にしてはまったく想像がつかないものだけど、それを夢想してみるのも、楽しいことなのかもしれないわ。」
「でも個人的な願望を追い求めるのはいいけど、そういう場合あることに過敏になりすぎてしまうって傾向もあるらしいから気を付けないとね。」
「あること?」
「なんていうか、不快なことを避ける感じ。避けるだけでなく、感覚がそういったことに敏感になって、気にする必要もこともないことを気にしてしまう感じ。」
「自分のためを思っているうちに、ささいな不快ることも気になってしかたなくなってしまうって、そういうことよ。」
「言ってることがわからないではないわ。」
「例えば、今のわたしにしては、ちょっとした揺れを感じているこの事とかね。かすかにそれを感じつつも、それを無視している感じよ。」
「揺れ?」
「なんら感じないかしら?」
「いいえ、でもあなたがかすかに感じているというのなら、そうなんじゃない?やっぱりホテルの増築の話は本当だったのね、その振動が来ている感じなんでしょ?」
「いいえ、そう言う揺れじゃないと思うわそれは。そうでしょう?聞いたことがあるの、ここに来てからね。このサーカスバルーンはかすかに全体が揺れているだって。」
「どのように?縦に?それとも横に?それとも斜めかゆりかごみたいな感じ?」
「縦や横に。ただしひどくゆっくりと揺れているらしいわ。」
「そう。わたしが感じているのもそんな、揺れというよりも揺らぎのようなもの。」
「それにしては。気持ち悪くなっている様子もないし、全然酔ってないじゃない。」
「あなたって乗り物酔いがひどくなかったかしら?行きの電車の中は結構辛そうだったものよ。」
「そうね。なぜ大丈夫なのかしら私は。今こうして揺れているものなら。」
「酔い止めでも飲んでいるのでしょう。」
「なんの薬も口にしてないけどね、この地に降り立ってからは。」
「じゃあ飲まされてるのよ。」
「飲まされてる?誰に?」
「バルーン・サーカスの関係者たちに。
「どうやって?」
「至極簡単な方法でもって。あなたはそう言われてはどのようにして自分の飲み物にそれを混入されているものか、その方法を模索するでしょうけどね。」
「それはそうよ。心外なことだもの。わたしはそんなこと許してないわ。」
「もしかしてあなたたちのうちどちらかがそうしているってこと?」
「だとしたら私になるわね。でも違うわよ、私じゃない。」
「いくらかの謝礼を伴った依頼ということなら受けるけど、そんなこと誰にだって頼まれてはいないもの、今のところは。もちろんこの人でもならないからね。
「それはホテルの関係者の手に他ならないの。」
「じゃあどうやってるのかしら。わたし用の容器にあらかじめ塗り付けてあるとか。」
「あなた用の容器なんてここには存在しないでしょ。」
「そうね。」
「わかった、それは本当の最初のことでいいのだわ。」
「なに?」
「私の唇にその薬液は塗り付けてあるのよ。きっと一番最初にそのコップの淵でもってしっかりとそれは私のここにくっついたんだわ。」
「そうだったらどうなのかしらね。それでも心外なもの?」
「いいえ、もうどうでもよくなったわ。種もわかっちゃえば。」
「そう。でも一人ですっきりするのもいいけどそうじゃないのよ。それはもっと簡単な方法なんだから。」
「そうなの?いったいどんな簡単な方法でもって、私は身体に入れ込まれてるわけ?その酔い止めの薬を。」
「すべての飲み物に最初から混入されていればそれでいいじゃない。」
「全てに最初から。なるほどね。そうすれば大本の貯水槽か、水道管にでも細工すればそれで事足りるものね。でも全部ってそれはなんのために?」
「バルーンサーカスの揺れは思ったよりもひどいから。それはもうみんなゲーゲーいってしかたのないものなのよ。わたしだってこの人だって薬がないとそうなってしまう感じ。」
「それにしてはまるで揺れを感じていないのじゃない。」
「きっとその酔い止めには揺れの感覚を麻痺させる成分も入っているのでしょうね。敏感なあなたがちょっと感じてしまう程度の強度でもって。」
「だから、そう聞けば気づくことはない?」
「気づくこと?」
「酔い止めの薬って決まって赤い色なのだって。 」
「そうとは限らないと思うけど。」
「いいえ、今現在においては絶対そうなのよ。だってそういう薬は現在ただの一社が独占してるのですもの。
「そうなの。」
「昔からじゃないわ。最近、といっても数年前のことだけど、合併併合によってそうなってるの。それでね、その会社の薬は全部が赤いのよ。つまりは?」
「確かに、ここで飲んだあれこれのすべてはどれも赤い色をしていたわ。このコーヒーにしてもそうね。」
「ね?私たちは早く気づいてもよかったのよそのことに。物事の全てには理由があるとして見ていないからこうなるの。例の彼女なんて退屈な世界に生きる私達とは違って誰の話を立ち聞きせずともちゃんと自分でそのことに気づいたものと思うわ。」
「そうかしら。」
「彼女はここで見る液体のどれもが赤いことを早々に気づくのよ。水道から流れ出るその水もそう。少し貯めたくらいじゃ全然普通だけど、浴槽いっぱいにすればそれはちゃんと深みのある赤が現れるの。」
「そういえばここに来てから一度も入ってないわね、そういうのに。」
「サーカスの観覧に疲れてシャワーでささっとして終わりを迎える日々を生きているものね、今の私達って。彼女はいろんな施設を回ってその水が赤いことをつきとめるわ。その最後に赤いプールを目の前にして確信するのでしょうね。」
「そう。」
「でもそうした彼女の頭の中は未だにあの二人のことでいっぱい。」
「彼女の目先には、二人がプールを目の前に作業に取り掛かる様子があるわ。」
「鼻に抜ける塩素のにおいの中、いかにも滑って転んだらお尻の骨を打って床を転げまわる感じ。あのタイルっていうか陶器風じみた床ってなんともいえない嫌な感じなのよね。わかる?いかにも痛々しい感じ。」
「濡れていてはまた不快だし、時々ざらざらとしたところもあって一層いやいやってなっちゃうの。もっとも最近は、ビーチサンダルよりも汎用性のある樹脂製の軽い靴型のサンダルを履いてそういったものに入ることが一般的になりつつあるものね。」
「あれはいいものよ。妙な安心感があって全然不快じゃないの。濡れ場に敷いたすのこを踏むよりもずっといい。」
「あなたなんかただのシャワーを浴びるときもずっと履いてるものね。」
「彼女たちもまたそういったサンダルを履いて苦も無く、プールサイドをデッキブラシでこすりつけたりしているわ。」
「ブラシの手ごたえは大したものだけど、そのやりがいはというと微妙なもの。それはいくら強く押しつけ素早くこすったところで、そこにこびりついた黒いカビみたいなものが一向に消える様子はないものだから。」
「しばらくすると静寂が訪れるわ。」
「彼女にはもう一回会ってるの。知らないところで。」
「また?それって連絡を取り合ってるってこと?」
「いいえ、それもまた偶然のうちのことに過ぎないわ。あなたに言うとするのならね。」
「でもそうだとしたらどうやら私と彼女じゃそういったものがあるみたいね。」
「見えない糸みたいな?」
「あなたなんかはそんなもの、指に巻かれてすらいないものよね。」
「僕のことはいい。」
「例によってあなたといえば私達が話したなんやかんやについて知りたい感じなのかしら。」
「君が彼女に話したことなんてものは別にいいんだ。そんなの僕もいずれ聞くことになるものなんだし。」
「僕は彼女が君になにを話したものか、それを知りたいだけ。」
「そうでしょうね。」
「彼女は憧れの兄をあてにして会いに来たものの、その彼における今の現状を知ってショックを受けたようよ。」
「ショック?どうにかなってしまっていたということ?その兄は。もしかして事故で重篤とか。」
「残念ながらそれとほとんど変わらないこと。」
「彼は不慮の出来事によって既にサーカス団からお払い箱となっていたの。」
「その体はあなたの想像するような過激なことにまではなっていないけど、一般人がする生活程度のことしかできないものにはなっている。あちらにとっては使い物にならないって感じね。」
「そうなんだ。」
「そんな彼だから、今現在はホテルマンになっていたらしいわ。」
「でも彼女にとってみればそれもこれも同じことじゃない?」
「サーカスの花形として誇らしいものがそうじゃなくなったんだから。」
「そうかな。それはわからないけど、一方で拍子抜けとなってしまった彼女はそれからどうするんだろう?」
「どうすべきかということはあるかもしれないけど、彼女自身の心境によって彼女はどうしていくか、いっていしまうのか、それは興味深くもないしあまり期待はできないものだと、勝手ながら僕はそんな印象を抱かざるを得ないな。」
「それでもあなたはかまわずそういうことを考え詰めたならそれはどんなものになる?彼女はどんな情景を前にする人になるかしら?」
「考えれば、なんだかそれでよかったのかもしれない。彼女は彼のその生き方の結末に酷くがっかりして、そして密かに幻滅するんだ。」
「態度に表さなくてもね。」
「そんな彼女は家に戻るんだ。」
「それでいいの?」
「そのほうがいい。彼女は夜、暖かくふかふかしたベッドの上で眠ることができるだろうし、その胃に入るものだってそう、彼女の身体は救われたんだきっと。」
「あなたの考え方は間違っていないのでしょうね。そうなった今となっては。」
「物事は否定的に捉えても、考え方は肯定的なものにしていかなくちゃならないわ。」
「もっとも裏切ってしまった相手である親にはなんとかして許してもらわなければならず、それは簡単なことでもないだろうが、その結末は決まり切っている。彼女は一番楽で他の人から見れば正解と言える道を選んだもので、その先におけることの困難なんて、そんなものたちなんてものは所詮そのような程度のことなのだろう。」
「裏切られたことで心を傷つけ冷たい態度をとる親ではあるけど内心嬉しい気持ちもあって、それを彼女に隠せていなかったりもするんだ。」
「ところで彼女は家に戻るのだとして、じゃあその兄はどうすると思う?あなただったらどうする?」
「その兄だったら?」
「その人にはどうするか何ら選択権などないじゃない。彼女だったらの話よ。」
「家を出て一度は憧れの存在としなながらも、失敗したあとの抜け殻みたいな存在になってしまったその相手。彼女は彼もまた連れ帰るもの?当主として迎え入れるために。」
「どうかな。」
「確率的に言えば?」
「連れ帰らない可能性のほうがずっと高いだろう。彼女の心境としては。そういった厳しい教育を兄に代わって受けてきた身ではあるんだからね。自分が当主になるという気になっているはず。」
「彼女もまた逃げた身かもしれないのに?」
「それでもなおさ。」
「彼女の中では兄はいなかったことにしてもいい。」
「そうでさえおかしくないとあなたは思うのね。」
「彼女は突如として現実路線に戻るんだ。兄をそこに置いておいたまま。」
「彼女は彼といったものに頼ることはもうないってことね。」
「そう。」
「じゃあ彼女は兄の状況によらずそうと決めていたかもしれないわね。」
「決めていた?」
「彼女言ったのよ。実のところ親から逃げ出したなんてことはなく、親が死んだために来たものだと。」
「やはりそうだったんだ。」
「彼女はそれを伝えに兄に会いにに来たのだって。」
「そうなんだ。」
「そんな彼女はだから、兄に対するなにかしらの感情があるのかもしれないわ。」
「それはあの今の状況を知ってどう変わったものかはわからないけど。」
「ただ恨みとか憎しみとか、そういったものじゃなければいいものね。いいえ、そこにいいとか悪いとかはないわね。それは彼女の頭の中で起きてる現象なんだから。」
「でも彼女がいまどんな顔で何をしているかを想像すると胸がチクっとするわ。」
「きっと今頃狭い部屋のどこかででもじっとしてたりするのよ。」
「一人で? 」
「誰といるっていうのよ、そんな彼女と。でももしいるとすればそれは異性ではないわね。彼女はもちろんそんな心境にないもの。」
「狭い部屋に男といるってことはそういう関係ってことでしょ。だから相手は男ではないのよ。」
「もしそんな女性がいたなら、二人はどんな会話をしているんだろう?」
「そうね。」
いい提案
「長い旅の果てにたどり着いた先で、偶然そこに居合わせた相手にならなにを話してもかまわないもの?」
「もしも自分とまったく関係のない、自分に起きたこと、自分がしてきたそのことの何一つを知りもせず、これからにおいてもなんら関ることはないと確信できるような相手なら。」
「どうかしら。話してしまうかもしれないわね。そうしてしまいたいと思ったなら。」
「じゃあもしもその誰かが逃亡の日々を送っていたとしたら?」
「逃亡?」
「特別ななにかが起きたのか、もしくは致命的ななにかをしてしまったことによってその誰かはそういう状況にいるものなの。そうならどうかしら、あなただったらどうする?」
「なにも話さないと思うわ。」
「どうして?」
「自分が逃げていることを話せばその相手がどう考えだすか分かったものじゃないから。」
「自分の情報をその追手なりに売ってしまうことがお金になりそうだと判断されてしまうかもしれないし、その目の前の人は偶然そこに居合わせた見ず知らずの人に代わりないのなら、その人がどういう人格をしているのか、または金銭的な事情を抱えているのかわからないし、また相手にとってみては何の馴染みもなく、なにを考慮してあげる必要のない人になってしまうのだから。こちらが。」
「そう考えれば見ず知らずの人と話すことって一見手軽なだけの行為に見えて、実はちょっとばかり危険な行いなのかもね。いいえ、事実そうなのだわ。」
「その誰かは実に長い間をそのようにして過ごしてきた人になるのなら、そういったことについてもちゃんと心得ているのでしょうね。」
「それでもその人は話してしまうのよ。」
「なぜ?」
「疲れ切ってしまったから。」
「その誰かは、行く先々で自分のことについてはなにも話すことはなく、もしも聞かれるようなことがあったならその度に嘘をついては、どんなによくしてくれたものでありおだやかなる性格をしていると確信を持ったその相手についても最後まで信じることはせず、それは結果的にその相手のためでもあると自分の中で結論付け、そうすることがその誰かをここまで無事運んできたものであることは間違いがなく自身においてそう自覚していたとしてもよ。」
「その時のその誰かは話してしまうの。」
「疲れていたから?
「ええ。もしかしたら終わりにしたかったのかもね。」
「だけど、そんな誰かさんの目の前にいる人はこんなことを言うわ。」
「身分を隠したいのならいい方法がある。」
「果たしてそれは、その人にとってどうだったかしら。」
「いいことだったか悪いことだったか、そういう感じのこと?」
「ええ。」
「その人の気持ち次第、というかそれそのものでしかないと思うけど。それを聞いてどう受け止めたか、安心したならその人にとってそれはよかったことなのだし、そうでなければそうでないこと、ただそれだけ。」
「そうね。」
「それで?その誰かはどうしたもの?」
「その人の言うことを聞くこともなくその場を後にして、また別の誰かの姿を探しては、また逃亡の日々を終わらせてくれることを祈りながら、そこに出会った人に自分のあれこれをすべて白状する感じ?」
「その人はいろんな服を手当たり次第に身に着けていき、まるで風船みたいにブクブクと太っていくの。」
「そして顔をどうにかして、あとは一言もしゃべらなければいい。そうすれば君のことを君だって思う人はいなくなる、この世界の君以外においては。」
「いつまでこうしていればいいのだろう。」
「そう聞かれたその人は答えるわ。」
「誰もが自分のことを忘れて去ってくれる時なんていうものは期待しても無駄なこと。それよりも君は忘れることを願うんだ。」
「忘れる、なにを?」
「たくさんの服の下の一番下に隠されたもの、自分というものの存在を。」
「自分を忘れる・・。」
「そうすることができたなら、君は全く別の違うものになり切ってしまい、追われるその心配だって消えて無くなることになる。君の中から。」
「できるだろうか?」
「思うほど難しいことじゃない。服の下の自分というものが溶けて外に流れ出すようなことを思いつつ日々を重ねたなら君はいつの間にかそうなっているだろうから。」
「そういうものかな。」
「逃げ続ける日々はつらかっただろう。長く長い逃亡の月日の中において、君の心が休まった日は果たしてあっただろうか?」
「そんなのひと時もなかった。」
「君は今ここで大いに迷っていい。」
「だがその必要があるかといえばそうでもなく、君は選択の余地がないことにいつか必ず気づくのだろう。」
「そうする価値はあり、あと少しのちょっとした決まりを守りさえすれば、必ずこの言う通りになる。」
「決まり?たくさんの服でブクブク着ぶくれして顔をどうにかしてそして一言も喋らなくして、あとは自分を忘れる努力をする以外になにかやることがあるのだろうか?」
「ちょっとしたことよ。でもこの話はここまでで終わり。」
「それ以上を私は聞いていないもの。」
「なによ、するのだったら全部を知っている話をすべきだわ。」
「そうね、先が気になっては話を聞いた意味もないものね。でもこの話にしてそれは肝心な部分でもないからいいじゃない。今の話には結末もなにもないでしょう?」
「その人はその決まりを守っていけば誰にも見つかることもなくなることができるんだから。」
「でも忘れることができたなら、その人は幸せになれるものかしら?その後。」
「さあ、それはその人には関係ないことじゃない?」
「関係がない?なぜ?」
「自分を忘れるということは話にあった通りのことでしょ?それは違う人になってしまうということですもの。」
「違う人ね。」
彼女の心境
「そう、その誰かとは違った誰か。」
「でもその人ってなにか、終始死ぬことについて考えるようなそぶりは無かった人のように思う。」
「逃げ続ける日々の中でもそういう発想は浮かんでこなかったのかな。」
「きっと死ぬよりもひどいことなんてない、そういうものの考え方をしていたのかもしれない。」
「でも自分を忘れて違う人になるというのは死ぬということとは違うこと?別の人になるっていうのは、自分というものが死んでしまうってことにはならない?その人は頭の中でそれをどう捉えていたのものだろう?」
「さあ、どうだろうね。」
「意外にかかるものだ。」
「そう感じるだけ。そういうものさ、待たされる時間というものは。」
「実際にはこうしてからまだ数分も経っておらず、今の話だって数十秒のうちあっという間に終わった話なのかもしれない。」
「そうなのだろうか?」
「大丈夫、あと1つか2つくらいでも話をし終えたなら、もしくは聞き終えた頃になら、かすかな風切り音もさせず目の前の扉は上か下にいつの間にかスライドし終わっていて、向こうへ続くこれまた狭い通路が延々としている、そんな風景を見ることになるだろう、僕たちは。」
「だができるだけ早くそうなってもらえるとありがたい。僕だけじゃなく君にだってこの扉の向こう側のどこかにおいて、なにか大事な用事を済ませなければならない事情なりを抱えているんだろうから。」
「そうかな。」
「そうでなくても、壁とまったく同じ外観をしたこの扉が開いてくれないのでは共に先に進めず、長くもないにもかかわらず無駄に長いと感じて仕方がないこのようなひと時を過ごさなくてはならない。」
「僕たちが向かおうとしているあちら側のどこかへなら別にこの扉を通過しなくても行くことはできるものだし、多少遠回りにはなるかもしれないけど、ちょっとくらい階段を上ったり下りたりする数が余計に多くなったり、埃の積もった場所を知らずに踏んで滑って転ぶなんてことがあるくらいで、そんなことは大したことはないし、ちょっと面倒くさいだけでそうしようと思えばできるのにね。」
「目の前のこの扉がすぐにでも開くことを僕たちは知っているからだろう。」
「ただ、こうして僕たち二人しかいない寂しい場所ではあるし、僕はこんなところに人がいるなんて思ってはいなかった。」
「てっきりこの狭く薄暗い通路なんてものを通るのは僕みたいなの一人くらいなもので、その場合も相変わらず今のように待つこととして迂回することも選択せず、長く長いとだけ感じるそのわずかな時間を、なにか独り言でもしゃべっているように過ごすものだったろうけどね。もしくは聴きながら。」
「これはお客が使う必要など一度としてあらず、また従業員においても通る機会のない、そんな通路になる。君はどこへ行こうとここを通ってきたものだろう?」
「でもそんなものがなぜ存在するの?この通路のどこかの壁を開ければ、そこには入り組んだ機器の背面があって、そこでメンテナンス作業ができるとか?」
「そういうこともない。誰のどんな役目の者にとっても使いようがない場所なんだ、ここは。火事や緊急時に使う避難経路としてだって使えないし、実のところ近道にもなっていない。」
「じゃあ君はどうしてここを通ってきたのだろう。」
「ただの気晴らしに過ぎないんだと思う。」
「もしくは君はなにか悩み事や、または大切な選択をする必要があるときにこの意味もない通路をとぼとぼと歩いて思いを巡らし、考えるつもりだったんじゃないのかな?」」
「そう見えるかい?」
「うん。」
「君はどうなんだろう。」
「君はホテルの従業員ではないようだ。かといってお客でもないように感じる。」
「というと僕は不審者になってしまうかな。」
「どうだろう。ただ、通報をしてそしてしかるべき場所に連れていくのにはまだ早すぎる気がする。君に関する情報が足りないし、なにか事件を起こしそうな雰囲気を読み取ることができているわけでもまだない。」
「だから僕がどこに向かっているものか、その場所だけでも知れたならと君は思っているか、またそんな気もないかも知れないけどね、めんどくさくて。でも僕もまたどこかに行こうとしているとは限らないよ。」
「とういうと?」
「もちろん君のようにこのホテルの構造に詳しいわけでもない。なにかを決断するためにここに来たような立派な君と比べると、それは少々情けない事情になるかもしれないが、ある女性と口づけをしなかったことでその人の怒りを買ってしまい、そのためにセコセコと逃げ回っていると言ったらどうだろう?」
「それで見つからないのに必死になって、だからこんなところに迷い込んできてしまったと?」
「ちょっと幻滅されてしまうだろうか?」
「さあ。」
「しかしそうしないことで怒りを覚えられることもあるものなのか、女性から。」
「あんなに怒るものとは思わなかった。」
「思うに彼女は過去のどの男からもそれをしないなんていう仕打ちを受けたことはないのかもしれない。」
「その人は君にそう思わせるだけの素晴らしい女性なんだろう。」
「そう、顔立ちがとてもよく、性格はまだ本当のところはわからないにしても、男ならそうしたいと思わせて余りあるくらい素敵な人だった。」
「そうであるにも関わらず君という男は唯一それをしようとせず、彼女を傷つけることになった。」
「自分って何なのだろうと僕は考えてしかるべきなのかな、どんなに愚かな男なんだって。」
「それは君がなにをもってそうしたのかによるのだろう。君がそうしたのは、そうしなかったのは彼女のためを思ってのことだったかもしれない。」
「どうだったろう。もしかしたら自分のためだったなんてことだったら君はどう思う?」
「やっぱり情けなく思われてしまう?」
「どうかな。」
「まあ、どう思ってもらっても構わない。君とはここだけの相手なのだろうから。」
「ただ僕はいつまでこうしていればいいんだろう?どう思う?」
「それはきっとそう、彼女の怒りが静まるまで。」
「そうだね。」
「大丈夫さ、そんなに悲観的な目をする必要もない。」
「女性というものは怒りを貯めたまま終わらない人たちと世間では言われているし、彼女たちがして自身を一番そういうものと実感し、見るにそう自覚しようとしているようにすら見える。」
「だが実のところそうでもないということに彼女たちはそろそろ気づいていいし、または考えを変えてもいい頃合いだと僕は思うんだ。彼女たちは賢い存在なのだから。」
「僕たちにしても彼女たちがそういう前向きな姿勢を見せようものならそれを冷やかしもせず敵対せず、彼女たちをこそ心強く感じ、胸の内でその人生が少しでもうまくいくように願うこともあるだろう。」
「僕も今の状況を前向きに捉えるべきかな。」
「そうかもしれない。」
「どういった形であろうと今君はその女性と確かに関わっており、そして彼女について考えを巡らさなければならないが、その女性について頭を悩ます君のその状況はある意味で幸せなことでもあるのかもしれないのだから。」
「実際的にもそうなんだろうね。僕ら男はそう考えるべき使命を受けた生き物なんだ、きっと。」
「しかしながらさっきから聴こえているこの会話、若い女性のように思うが、僕たちがここにいることをまったく気にしていないかのようだね。」
「それはそうだ。この二人がその声を潜めることを止めない限りそれはそうあり続けるのだろう。彼女たちは僕たちがすぐ近くにいることを知らず、また彼女たちのどちらかが背にし、どちらかが目の前にしているそのコンクリートの壁が思ったよりずっと薄く、その向こうにこのような通路なる空洞がある事すら思ってもみないことだろう。」
「そう。」
「どうする?」
「もしも、彼女たちの話が終わらないうちに扉が開いてしまったなら。僕たちはそれでもこの場を後にすべきかな。」
「そうしてもいいが、きっとそうはできないさ。」
「それにまた彼女たちの話題は、女性特有の結論のないようなダラダラと続くようなものでもなく、一つ一つは短くまとまっているようでもある。こちらはその結末を待ったってなにに遅れることはない。」
「そうだね。」
横柄な駅員
「どうしてこんな所なの?他になかった?」
「狭くバックヤード的などこかで、事務机が一つおいてあるだけの場所でろうそく一つなんてね。」
「しょうがないわ。客室ではどこに録音機があるかもわからないし、最近なんてコンセントに組み入れるどころか、電球の中にも仕込むことができるみたいなのよ。」
「電球?」
「そう。それならまぶしくて見えないでしょ。太陽の中にある風船みたいにその姿を見失うっていうか、認識できなくなってしまう感じ。だからそんなのはダメ。」
「そういう恐れがない場所を探すのは大変だったみたいね。そういえばあなたが調べていたあれはどうなった?」
「あれ?」
「あのかわいそうな二人のこと。ほら、深いプールの底に沈んでいる噂の死体のことよ。」
「ああ。」
「あなたは二人がそうなった経緯について調べていたんじゃなかったかしら?」
「仕事ではなく個人的な動機で。」
「そうね、調べていたわ。でも仕事がないとき、暇になった時にそれとなくコソコソやっていただけよ。」
「言うなれば趣味的なもの?」
「そう。」
「だから調べるペースは相当遅く、進展が見られない感じ?」
「もう調べるのはやめてしまったとか。」
「そうね。」
「諦めたってこと?」
「いいえ、知りたいことはわかったの。」
「あらそう、本当に?」
「ええ。知りたい?」
「そうね、あなたが興味を持ったことだもの。でも気が進まないならいいわ。それはあなたが一人で興味をもって、あなたが労力をかけて調べてきたことになるものだもの。」
「そうね。でもまあいいわ、教えてあげる。」
「ならぜひ聞きたいものよ。彼らがプールの深く深い底で死体となって転がることになったその経緯を。」
「その二人は、どうやら帰りの列車に乗ることができなかったみたいね。」
「帰りの列車に?どうして?券を無くしてしまったとかかしら。」
「帰りのに乗るのに券なんか使わないわ。そもそも私達だってそんなの持ってないじゃない。」
「そういえばそうね。私達はどうやって帰ることができるのかしら。」
「名前とか生年月日とかの個人の情報を言うの。そうすればホテルの宿泊名簿かなにかととオンタイムで照合されるから難なく列車に乗り込めるってわけ。」
「そうなの。」
「ええ。そういうやり方をとることで、ここサーカス・バルーンへ入ってくる人の数と出ていく人の数を厳格に管理しているらしいわね。」
「どちらかの数字は決してそのどちらかの数字を超えるようなことがあってはいけないとかなんとか。」
「それにも関わらず二人はなぜ列車に乗り込むことができなかったのかしら?」
「二人の搭乗処理に当たったその駅員、正確には搭乗処理係はとっても横柄な人だったのよ。その態度はそれを目の前にしたお客たちが委縮してしまう程な感じ、ほんとひどいんだから。」
「まあ、そんな人がいるの。」
「でも駅員の、正確には搭乗係なその人にしても人に接するサービス業に変りはないものでしょう?そんなのが許されるのかしら。」
「もちろん非難ごうごうよね。その様子を見ている周りのお客たちが怒らないはずもないわ。クレームも結構ありそうなもので、もちろんその全員が電話を入れてくることはないかもしれないけど、二割か三割くらいはそうしたくてたまらないような感じよ。」
「それによって担当から早く外されればいいけどね、その人は。」
「どうして?」
「だって、それではお客たちが浮かばれないわ。それにその鉄道会社自体の評判が悪くなってはね。」
「それでなにか困ったことはあるかしら。このサーカスバルーンに来るにはその列車を使うしか今のところはないものだし、サーカスを楽しんだ日々の末に残った最後の記憶が後味の悪いものになった人が、何十人、何百人いようとサーカスバルーンの需要はそれを飲み込んで余りあるなんてものどころじゃないんだからね。」
「それにそういう従業員がいることを知りながらその上司たちはその人を外さず、叱りもしないのには、一見してはちょっと気づきにくい理由なんてものもあるかもしれないわ。」
「理由?例えば?」
「そうね、あなたならどう考える?」
「そのお客のためにもなったとか?」
「どういうことかしら。」
「その係を前にしたお客は、怒りが生じるかといえばそうだしそれはクレームを入れた後でもいいけど、ふとした時に自分を見つめなおしてみたりもするようになるの。」
「あまりにも不条理なものを目の当たりしたものだから、価値観を変える気分にもなってしまったりして?」
「ええ。」
「それでその人はその後からちょっと謙虚になるっていうか、冷静な見方をするような人になるような?」
「そんな感じ。かしこまられるだけじゃ、お客としての立場となった人たちや、そう言う立場に立たされてしまった人たちはつけあがる一方のことしかやれることはなくなってしまうもの。」
「そういう誠意の示し方もあるかもしれないわね。サービス業の人は。」
「またはなにか別の訳もあったりする可能性はあるけど、なんにせよ二人にしては、なんなのよ今のはって感じで不機嫌になりながら列車の一段高いステップを手すりを掴みながら踏み抜こうとすると声をかけられるの。」
「災難だったね、的な感じで他の乗客から?」
「そうだったなら手に持ったキャラメルかリンゴでも手渡されるような感じかもしれないわ。これで心を落ち着けてってな風で。まあそんなのにそういう作用があるものかどうかわからないけど、その二人に声をかけた人はいなかったわ。お客の中には。」
「そのとき呼び止めたのは、彼女たちに嫌な思いをさせたその当人よ。おい、待て。的な言葉でね。」
「文句も言いたかったけどそれを押し殺してやり過ごそうとしたのにね、また話さなきゃならないなんてことにうんざりしながら彼女の振り向くのをもう一人のほうは見ているわ。」
「ちょっとばかりワクワクしながら。」
「ワクワク?」
「だってその人は彼女がイライラしたり動揺することにちょっとうれしみを感じてしまうような人なのだもの。性格が悪いのかどうなのかはその人の自由だけど、その人の普段の生活、特に彼女と接したときのその彼女から振る舞われる態度を見たなら、または彼の話でも聞くことができたならそういう歪んだ考え方になってもしょうがないな、なんて思うかもしれないものよ。」
「それで彼の希望通りその係は彼女に向かって彼女が動揺するようなことを言うのよ。」
「お前たちはなにかおかしい。」
「何がおかしいのよ。なぜ列車に乗るだけで、しかし客である私たちがサービスを与える義務があるあなたなんかに悪口を言われなければならないわけ?本来ならここでつっかかってやりたいところだけど、私は疲れてるの、酷くね。」
「だからここはなにも言わずに列車に乗ってあげる。もちろん許したわけじゃないわよ。家に帰って半日くらい寝て、そして気を取り直してでもしたらすぐにでもクレームの電話を入れてやるんだから。胸のプレートは見てやったからね。」
「いいや、お前たちを列車に乗せるわけにはいかない。」
「なんでよ。私達を乗せてしまったら数が合わなくなってしまうとかあるのかしらね。」
「だとしたらなんの数になる?」
「サーカスバルーンに来た人の数と、列車に乗ってサーカスバルーンを去った人の数ってものかしら?」
「まあそのようなものだ。」
「そのハンディにはエラーメッセージかなにかそんな表示が出ているわけ?」
「お前たちが列車に乗ったら、もう一度余計にサーカス・バルーンから出て行ったことになってしまう。」
「つまりどういうことよ?」
「お前たちは既に帰ったことになっている。」
「既に帰った?」
「一昨日の午後の最期の便に列車に乗ったらしい。」
「私達がここにいるのに?なにを言ってるのよ。」
「とにかくなにが起こっているか、こちらもこの事態をすべて把握しているわけではない。だが少なくともお前たちはこの列車に乗ることはできないし、次の列車に乗ることもまたかなわないのだろう。」
「一緒に事務所に行くしかないということ?」
「他の乗客の目に晒され続けたくなければすぐについて来るしかない。」
「かくして大勢の乗客の列を遡るようにして歩いていく3人の姿があるけど、その係の後ろをついてとぼとぼ歩くなんてことはなく、彼女は先頭を歩くでしょうね。」
「そうでなければいかにも悪いことをして連行されているように見えてしまうもの。もう一人の彼はといえば、長々と電話をしながら歩くその係員の様子を眺めもせずただ話すのを聴きながらその真横を歩く感じ。」
「その二人になる、ええ。2つの可能性があるが、私は現にその様子を見る限り、君の言ったうちのその後者のほうだと思う。確信?それを持っているか私が今どう言おうと意味はないでしょう?」
「それとも私の思っている通りに私だけの権限を持って、彼女たちを列車に乗せてしまっていいもの?」
「後で何の罰を受ける恐れもないならそうしてしまうけど。」
「あと事務所に着いてからそこで何度も同じ説明を求められるのも彼女たちにしては億劫よ。」
「だからちゃんと説明して周知しておいて、二人に成りすました何者かが列車に乗りこんだその可能性のほうが高いって。その一昨日の便のやつに。」
「そう考えるべきだわ。二人はここにいるんだもの。」
「それにどっちだった場合、より危険度が高くリスクが高いかといえばそっちの、もう既に乗り込んでしまったほうになってしまうでしょ?」
「え?列車にはもう乗り込んでいる?その怪しい二つの存在を察知して。」
「それで?電車の乗り込んだ偽の二つを既に特定もしているって?」
「ただその不明な存在にはやすやすと手は出せず、それは二人というよりも、二つに分かれたもの。今は一つになっている?なによそれ。」
「でも戦士というものはすごいのね。まあ決まりじゃない。え?この二人はそれでも列車に乗せてやることはできないの?」
「その可能性が少しでもあるから?」
「ああ、そういうことね。なぜこの二人なのか、たしかにそれはまだわからないものね。」
「理由を探る必要はあるかもしれないけどでも、この二人はここで帰せるものならそうしたいけどね。」
「なにが起こったか、その真実が確定するまで彼女たちはここから出ることはかなわないし、たとえこの人達になんの非がないことが確定しても、それで二人がここから帰らされるものかといえばそうとは限らないと思うのよね。」
「入出管理データベースは複雑な経緯で仕上がった、非常に不安定なシステムだって聞くわ。」
「既に二人分が出てしまったとなっているそのデータを書き換えることが、システムの運用にリスクのある行為だと管理者たちは判断したなら、二人を出さないという方法を取りうるでしょうし、なんだかそんなことになりそうな気がするのよ。」
「その場合この人たちはここでは完全に浮いた存在と、そんなことを通知されることもない人たちになってしまって、言わば生かしておくそのメリットがないものになってしまうの。このサーカス・バルーンからみれば。」
「考え過ぎじゃないわ。きっとそうなるわよ、そうなりそう。」
「ホテルやサーカスの管理者の立場で考えてみればいいわ。逆にサーカスやホテルが二人の立場になって考える、そんなことはないでしょ?そこにこそメリットはないんだから。」
「そんな中で二人はホテルにただで滞在することはできない中、なんとかホテルに泊めてもらうために、その費用を捻出しようと仕事を請け負ったりするのでしょうね。そう思っている内に早くともホテル側からそうさせられる感じかしら。」
「そうなった場合、その仕事場は主に別館の方、フォーシードになるでしょうね。」
「あっちのほうがお金の出入りが激しいし、させたい仕事もたくさんあるでしょうから。」
「ホテルの別館は巨大で様々な施設があるわ。」
「その建物は以上に大きくてね、ただその遊興施設のそれぞれも以上に規模が大きくて、そしていろんなものが集まっているの。」
「だから温泉宿のゲームコーナーというものじゃなくそれがして最新の、そこがそういうそれに関する分野における文化の最先端でありうる場所であるんだから。」
「まあ、この場所自体がそうそう来れるようなところじゃないから、密かなる憧れを抱かれるような場所なのよ。それに関しては。」
「例えば?」
「例えばって?
「例とするならば、どういった施設があるものなの?」
「そうね、それはまた寝転んだってすこしも居心地悪くなくあとは枕とタオルケットを持参すれば十分いい夢が見られそうな真っ赤な、時折黒いラインや記号でできた猛獣が描かれたものなのその足元は。」
「だからってスパイクシューズとか、トレッキングシューズであるくことも許されているわけではなく、決して型崩れしない革靴や、とってもバランスの悪いハイヒールで進まなければならない場所なのだから、そうやって寝ころがろうとしなくても、時々足を取られて突っ伏しちゃう人はあるかもね。」
「そういう絨毯ってことね。」
「でもそうして、その間近で鼻を一息吸ったならすぐさまクラっとしてしまうわ。」
「めまいが起きるの?」
「ええ、薬品が強すぎるから。それはカーペット洗浄用の薬品ということでもあるけど、そんなのはほんのわずか。殆どはそれとは別のもののにおいで、それはとても甘ったるくてね。」
「子供用のメロンとかいちごの歯磨き粉のあのおいしそうな香りを連想させるわ。」
「それらはあれ?お酒がこぼれたりしたものかしら?」
「いいえ違うわ。そこでお酒を飲もうとする人なんてあまりいないもの。感覚が鈍るからね。」
「もちろんもう飲んで出来上がってから訪れてしまったりする人もいるけど、そんな人たちは後になって後悔するでしょうね。いいカモにされてしまうだけだもの。」
「どちらかといえばそこにいる人の大半は、自らの感覚を研ぎ澄ませてそしてその揮発した薬品によって無意識に闘争心や興奮を呼び起こされていくような、そんな環境の中に身を浸していくの。」
「その人たちが興じていることのそれはとても大それたこと?」
「そうね。人によってその地位次第では、その人の国の国民の命運も託されたりもするもの。負ければ口実をつけてその分が王族の承知の上で減らされることになるんだから。」
「それらの人たちが?」
「飢饉、疫病という口実をつけられてね。また開けられたことのない宝物庫の内部から密かに取り出された国宝品が持ち込まれて、それを元手にってこともあるわ。割と頻繁に。」
「まあ、その扉達ははこれから先も開かれることがないか、ずっと先に開けられるようなことが有ったとしても、それに付随する説明文や文献やなにがしかが、それらは実のところ概念上の存在である。というような内容のものに書き換えられているのでしょうけどね。」
「だって殆どの人は勝てることもなく、または負けて帰られなくなる人だっていないわけじゃないのにね。」
「それにも関わらず自分を優秀なプレーヤーとして思っている人や、そういう資格があると自分を評価した人がどんどん集まってきてしまうものなんだから。結局はその味を知っている人たちってことにはなるんだけど。」
「それを知らなければそれよりも密度は薄いけど、もっと有意義で人望にあふれた人生を送ったまま、周りの無味無害で適当な人に囲まれた中で暇な日々をもっとずっと長く過ごせたものなのにね。絶対に。」
「それってなんだかたばこってものと同じみたいよね。お酒もそう。最初からそれをおいしいとか楽しいと感じる人なんていないんだから。」
「それなのに2,3度自分の中に入れるうちに身体がそれをもとめて仕方なくなってしまうのよ。そうなればその人から見て、それ以外の他のものに対しては価値もなにも感じなくなる。」
「人としてのなにかを絡めとられるような感じね。」
「それは食べ物なの?」
「なんでそうなるの?それはただのカジノに過ぎないわ。」
「そういう話ね。」
「豪華な内装をタキシードとかそれらしい服装で、優雅で余裕な表情をしながら、ゆったりと歩いて時々プレーを楽しむ人たち。その首元はどれも薄っすらと汗が浮いてるものだけどね。でもだからこそいいのよ。」
「そんな素晴らしい場所にもしそれに似つかわしくない、ウロチョロとするコンビでもいるのなら。注意を聞かせる間も与えず摘まみだしてあげないといけないのだけどね。」
「コンビ?」
「なんだかセコセコとしててその場に似合わない感じとも、キョロキョロとしているわけでもないようだし、恰好こそなんだか似合わないタキシードでもなく特別なスーツなのか衣装めいたものを着ているからまだ見ることができるものなんだけどね。」
「でもよく見れば彼らがプレーをしているわけでもないことはすぐにわかるわ。気にして見る人がいればね。」
「そのコンビはプレーヤーでもないのね。」
「そう。」
「そのコンビは勝ちつづける厄介なプレーヤーの人の背後に回って注射を挿したりする。」
「注射?」
「服の上から刺せるような細いけどとても頑丈なもの。」
「もちろん刺しても気づかれないよう、ツボとなる場所に刺す必要があるわね。」
「でも大丈夫、その刺すべき場所は服の上からまるくチョークのようなもので他の誰かによって事前にばれないように描かれているものだから。」
「でも簡単なことではないわよね。」
「そう。」
「印があるとはいえそれは点ではなく円なのだから。そのどっちかはその中心をちゃんと射抜かなければならない。」
「でもそんなことして大丈夫?」
「そうね。刺された人は数分ののちに眠気に襲われてプレイが続行できなくなって、介抱されて会場を後にすることになる。ホテルの意図通りにね。」
「バレると結構大変なことになりそう。」
「そうね。その行為がばれたりでもしたらホテル側は守ってくれるどころか、関与を一切否定して余計なことを言う前にその彼らはそのまま処理されてしまう感じなのよ。」
「もちろん裁判もなにもないままに。ってるほうはそんなこと知らないのだけどね。」
「バレてしまったならそういう対応となるってことを知らされずにやってるということ?」
「そう。だからその二人はよく考えて、そして慎重に作業をしていかないといけないわ。」
「はじめの2,3人は転んで偶然当たった感じにし、その後は酔ったふりをしてぶつかる。無理そうなときは人だかりを作ってもらう、みたいな。」
「眠らすべきは一人だけじゃないってこと?」
「そう。大変ね、その二人は。」
「いいえ、そういうことをしている人もいるかもしれないけど、その二人に関してはそんなこともないわね。」
「彼女たちだから、そういった難しそうな仕事も任せてもらえなそうだし。やらせるとしたら非常に単純なこと。何の説明もなしに、一言二言の指示で済んでしまうような。」
「誰か指示されたプレーヤーの座るその背中にピタリとつきながら、きっと二人の内一人か二人はなんの緊張もなしに、その仕事が終わった後に過ごすであろう今よりももっとずっと緊張感のない、ただだらけただけのわずかな時間のこと、アイスクリームでも舐めまわすようなのそのひと時のことでも無意識に想像してるのだわ。」
「夕闇でも全然ないのに、そういった時間帯の雰囲気を感じさせる一帯や周囲の色あいに囲まれたような場所。」
「決して見晴らしが悪く、空気のこもった場所でもないのに、それがそうなのは目に見えているそのすべてが厚い日陰に覆われているから。」
「でもそのおかげで、それらの景色はふと目を離したなら、夜みたいに奥行きと広がりを感じるものでね。まあホテルのベランダかテラス風の喫煙所になるのでしょうけど。そこでアイスを舐め飽きて、今から頬張ろうかするその時のことにでもなったら一人は絶対にこんなことを相手に呟いてやろうと思っていたりするの。」
「アイスを口にするこの行為って一体なんなのかって感じのことをね。」
「なんなのって?」
「あなたはそれを食事とでも思ってたわけ?」
「どうだろう?たぶんちがうね。」
「じゃあなんなのよ?それは。」
「手軽に甘いって感覚を得たいんじゃないの?」
「どうして?」
「知らないよ。気持ちいいんじゃないの?」
「快感を得ているってこと?」
「割と近しい言葉ならそうかもしれない。手軽にそういうものを得て、何も考えずにボーっとしているこのひとときに花を添えたいのだろうさ。」
「思うのだけどこういう快感的なことを得るのに、私たちはいちいちこういうものを手にして口にしなければならないわけなのかしら?本当のところを言えばそうじゃないかもしれないとあなたはおもったりしない?」
「それはわからないが。とにかく手軽なんだ。これにはなんのテクニックもいらないからね。」
「そう。」
「そういう意味で言えば、彼らも似たようなものなのかもしれない。」
「彼ら?」
「僕らがアイスを快感を得るのに手軽な手段としたように、彼らにとってはお金がそれにあたるのだろう。」
「小難しいことを考えるものねあなたは。」
「こんなこと人に聞かれて答えるようなことじゃないって思ってるよ。どうでもいい。」
「だけどなにをさせられていたんだろうね、僕らはあの場所で。」
「最期に僕らがつかされたあの女性、不思議な香りがしたなぁ。」
「あなたはただなにも考えずボーっと、そのアイスについて愚かしくも思いを巡らしていたものだろうけど、私たちはベットツールだったのよ。」
「ベットツール?」
「ベットコインってあるじゃない?あのプラスチックのやつ。」
「それと同じように、私たちはあの場所でこの身柄をやり取りされていたの。」
「適当に言うと最も多いベットコイン所有者に私達の身柄を所有する権利が発生するとかなんとか、どういうやりかただったのかは知らないけどとにかくそういう感じのことよ。」
「そうなの?」
「そうでもって私達危なかったのよ。」
「噂によればだけど、とあるプレーヤーにその権利が渡ってしまったならどうやら、私たちの人生は所有されるばかりでなく、その命はすぐにでもなくなってしまうようなことだったのだって。」
「どうして?」
「知らないわ。そういうことをする人なのよ。」
「しかもその人が参加している時点でそれはほぼ間違いなくそうなってしまうの。なぜならその人は恐ろしく強いプレーヤーだから。」
「絶対に勝つということ?」
「特にトラブルなくその日のカジノが最後まで進行し終了したならね。」
「でも僕たちは現にこうしてここにいる。」
「カジノは最初から最後まで無事問題なく運営されていたように思うし、そうなら、僕ら二人はその怪しいプレーヤーに所有されてしまったってことになるが、その僕たちこそ何事もなく、所有もされておらず無事なんでもないひと時を過ごしているのはどういうことだろう?」
「その理由は?」
「そんなのどうでもいいじゃない。なぜ無事である立場の人がその理由を追求しなくちゃならないのよ。」
「そんな義務はないわ。そうでしょう?」
「そうだね。」
「ねえ、見えた?」
「なにが?」
「私達の目の前には長い一本の、まあ通路と言ったらそれは大抵は一本なのでしょうけど、それが遠くまで続いているものじゃない?それはやっぱりすごくまっすぐに。」
「そうだね。」
「それはでも際限なくどこまでも続いていくようでそうでもなく、本当に視界の隅に消えそうなその直前にでも突き当たってはしまっていて、そこには壁がある様子。」
「そうでしょ?」
「何が見えたって?」
「長い影がいくつも通って行っていたわね。今もそう。間違いないでしょ?」
「誰かたちの群れか集団でも通過していっているんだろう。あの周辺かあの辺りを。」
「その事実をどうみるかしら?あなたは。」
「どうみる?特にその通り、言った通りことだね。」
「何の変哲もなくそれだけのこと?」
「そうだよ。誰達がどこに行こうとも僕はかまわないし、関係がない。」
「そこにいる人たちがどんな環境に身を置いている人たちだとしても?」
「どんな環境?」
「それらがどんなに恐ろしく背の高い、そして細々しいものだとしてもあれは影だからなんてあなたは、そう片づけて構わないのでしょうね。」
「あれはああ見えて実際にはあんな風でもないとは言えないってこと?」
「その人たちは極めて薄いシルエットをしていて、どこかとがった印象を全体から受けてね。またその集団にチームワークなんてものはなく、人の単体としての造形美とその雰囲気だけがよく出ていて、そして彼女たちからはそれら自身が送っているであろうその日々の暮らしというものの存在をまったく連想させてはくれず、だからこそ美しいのかもしれない。」
「それらはどこか違った概念にあったものを、その鮮度を保ったままにこの場所へ運んできた感じ。だからなのか、それを眺める人たちは自分自身と違い過ぎているものだから嫉妬もしないの。ただ憧れかそういうような存在であるのみ。」
「でもだからね、たとえ目の前に来ては会話することはあっても、その目線は絶対に合わせてはいけないの。だってそれぞれが孤高の存在なのだもの。それこそが人間性にあふれた行為になるでしょ?それって。」
「目を合わせることが?」
「ええ。」
「それで本当はそこにただそれらを置いておきたいものだけどそうできないのは、見ている人がそれに歩み寄っては、いつか触られてしまう恐れがあるから。そんなの許されないわ。だから触れられないようにするには、それを低い位置から見上げるようにさせないといけないのよ。」
「見上げてただ目で追うだけが許されるの。私たちとしたら。」
「君はなにについてのことを言ってるんだろうね。」
「まあ人には違いないものだから、そこには間違いなく未知の涙ぐましい努力があるものでしょうね。そんな彼女たちモデルの日々をあなたは一度でも意識したことがあるかしら?」
「モデル?」
「そういうような人たちもいておかしくないってことを言ってるのよ。まあそんなことを言ったって意識することはできないけどね。彼らにはそんな暇もないんだから。」
「気づけば二人は暗い中を進んでいっている自分たちに気づくものだけど、間もなく不思議な光景を前にすることになるわ。」
「忙しいわね。不思議な光景?」
「中を満たされた円筒状の筒の中にはなにやら一人ずつがいてね。それぞれが自分の好きな恰好をしながら、でもみんな目を閉じている。」
「その表情はわかるようなわからないような。」
「だってそれは閉じている目だけでしか読み取ることができないんだもの。」
「口や鼻にはじゃばらの管がずっと伸びた先のガスマスクみたいなものがぴったりとくっついているから。」
「それはいったいなんなの?」
「たぶんあれよ、水中で生活をさせられている人達ね。させられているものか自分からそうなったかは知らないけど。そうしている理由もあなたは知りたい感じなのでしょ?きっとあなただから。」
「そうね。その人たちはなにを理由にそこで生活することになったのかしら?」
「こうしていればいつかは水の中で息ができるようになるかもしれないから。」
「息?」
「でもかわいそうに思うのよね。」
「それぞれはパッと見てそうは見えないながらもそれぞれの独自の試行錯誤によって、なんとか水中で呼吸ができないものか頑張っているかもしれない。そんな中で初めの一人でも息ができるような人が出たら、他の人はどうされてしまうのって感じよ。」
「そのまま帰らされるのか、そうでないのか。そのままに放置して、他の人も息ができるようになるか様子を見るなんてことはしないわ。その設備の維持だってお金がかかるんだから。ポンプを動かす電気代とか、怪しく暗い緑色に灯る照明とか、その人たちのえさとか。水族館の運営は常に余裕がないものよ。」
「水族館?」
「そういうのもあるってこと。」
「ここにそういうものがあるの?そのホテルに。」
「世の中にはそういうのもないとは限らないってことよ。」
「ここのことを言っているわけじゃないんだから。」
「でも二人はそうしたものを目の前にしているんだよね。」
「そんなこと一言も言ってないわ、私は。」
「二人が目にしているのは長方形の何の変哲もない水槽よ。ある程度巨大ではあるけど。」
「水族館でなら巨大な水槽があっても不思議でもないけどね。」
「いいえ、それはその場所だからこそそう感じるものなのよ。絶対にね。そう思わずにはいられないのだわ彼らは。」
「なにがそう思わせるものかしら?とても変わった生き物がいるの?」
「今まで見たことも聞いたこともないような、さらにどの系統とも似通っていない、どこをどうやって
「こういう形になったものか見当もつかないようなものが。またはさっきのチューブを喉深くに突っ込んだ人がいたり?」
「違うわ。そういう変わったものは見られないわね。」
「水草とか?わかめが変わっていたりするとか?」
「いいえ。」
「あれかしら?水槽の底って多くの場合砂を敷くじゃない?業者とかそういうことに無頓着か、合理性をよく分かっている人ということでない限り。」
「そうね。それでその水槽の砂利がなんなの?」
「よく見るとそれは砂利じゃないの。顔を近づけてみると分かるんだけど、水流の存在するような場所にある岩や石には見られない感じで。それらはとてもよく角張っているものなの。そのどれもがね。それで星形の小さいサンゴかななんて見てるけど、そうして30秒くらいしてやっと、これはどうもそうじゃないってことがわかってね。」
「いよいよ水槽に鼻をくっつけるとようやくわかるのよ。」
「なにかしら?」
「それらは全部骨なの。」
「骨?」
「もちろん海洋生物たちの骨になるわ。」
「無数の、膨大な数の魚の骨が積みあがって真っ白な砂や砂利のように見えていたってわけ。」
「そんな感じのこと?」
「その水槽の見た目も、それを前にした彼らの情景は鮮明に目に浮かぶけど、実際に起こることではないわね。その水槽の砂利にしてはそんなこともないのだから。」
「じゃあなんなのよ。彼らはどんな不思議なものをその水槽の中に見つけることができるわけ?」
「いつまで経っても、どう探したってそういうものは見つけることができないでしょうね。二人は。」
「見つけられない?」
「だってそんなものはいないし、変わったようなものは何一つ入っていないのだから。その水槽の中について言うなら。」
「じゃあ二人はなにを不思議がってるのよ。」
「もちろん彼らが水族館の水槽を初めて見たとかそう言うことじゃないわ。ただそこにはなにもいなかっただけ。生き物が。」
「なにも?」
「砂利や海藻類はちゃんとバランスよく配置されているわ。その水槽の中の生き物が極力快適に暇な時間を過ごしやすいようにはね。」
「それにも関わらずそこにはなにもいないのね。」
「流木とか海藻とかサンゴの裏に隠れていたりするものか、二人は見回してみるけれどそこにはなんにもいる様子がない。」
「二人はなにをするためにそこに来たもの?」
「そう、彼らは思い出すわね。自分たちが何をしに来たか。 指示によれば彼らはその水槽の掃除をしなくちゃならないものだから。」
「水槽の前とか側面のガラスの内側をやさしく拭き上げないといけない。もちろん後面も忘れてはいけないわ。そこが汚れていたんでは見た感じの奥行のその感じに違いが出てしまうんだから。」
「じゃああれじゃないの?掃除するために水槽から生き物たちが退避させられたってことでしょ。」
「そうではないことを二人は知ってるわ。今までも、その日だっていくつもの水槽を中身そのままに掃除させられている作業員達のそういった風景を見てきたものだもの。見ていてヒヤヒヤしたものよ。どんな恐ろしい海洋生物がいようと例外なくそんな感じなんだから。」
「じゃあまだ中身が入れられていない水槽ってことになるのかしらね。」
「それに気づけば、彼女たちもわけのわからない違和感や不可解感に襲われながら作業をすることもなかったかもね。」
「まあ結局はカラの水槽を掃除するだけですもの。簡単なものよね。」
「ガラスだって適当な布かスポンジでただ優しくこすればいいだけだし、水温だって適度に冷たくはない。」
「それはその水槽の中の生物が快適と思える環境が保たれているんだものね。」
「そう。実に楽な仕事だった、あれは。」
「そんなようなことを呟きながら寝床に引っ込んだものだろう。夜のサーカスを楽しむために。」
「そうだったかな。」
「そんな仕事で生活できるなら、ぜひ変わってほしいものだ。君たちは実に運がいいようだ。」
「そう、実に運がよかったのよ私たちは。」
「そのおかげで今こうして見ず知らずのあなた達なんかと、サーカスへ続く橋の木製の板を進むことができているんだから。」
「なにか含みを持たせたような言い方をするね。じゃあそうでなければどうだったのさ。運がよくなければ。」
「だからここにこうして歩いていることもないわ。」
「だからそれがどうして?」
「私聞いたのよ。」
「なにを?」
「直接じゃないわ。その人はそんなつもりもなかったでしょうから。」
「誰かたちの会話が聴こえてきたのを聞いたということ?横で勝手に。」
「もしくは誰かが誰かと電話するのでも聞いていたのかな。その人の意識が電話の向こうに向いているのをいいことにさ。」
「私がそれをどのような状況で聞くことになろうとそれは私の勝手よね。あなたたちには関係ないわ。」
「あなたには特に。」
「どうしてさ。」
「そういうものだからよ。」
「なんだよ。」
「でもあなたってそういう機会に席を外していることが多いわよね。あなたらしいけど、ちょっと不思議だわ。」
「それはあれだね。きっと君に飲み物を持ってくるようにとかお絞りがほしいとかどうでもいいことをどうでもいいタイミングに言いつけられているからそうなるんだろう。僕の性質のせいじゃないさ。」
「いいえ、それはあなたの性質のせいよ。」
「ものを頼みたくなるような顔をしているとでも言いたいんだろう。」
「雰囲気よ、醸し出してくるでしょ?」
「知らないよ。」
「それでなにを聞いたのさ、君は。」
「たぶんあなたたちの誰一人としてその顔を見ていないようなそんな人の話によるとよ。あれはいわくつきの水槽でね。」
「過去にあの水槽には凶暴で恐ろしい海洋生物ばかりがたくさん一緒くたに詰め込まれたものなのだって。」
「なぜ?」
「そうすればお互いに攻撃しあって食べ合うでしょ?」
「そうしたなら最後に一番強いのが生き残ることになるわ。悪趣味だと思う?」
「なぜそんなことをしたんだい?」
「いいや、聞いたことがあるよ。」
「肉食の虫を一つのツボに閉じ込めて戦わせ、最後に生き残ったやつを使って何かするとか儀式に使うとかいうやつだろう?」
「そうことをやったのかな?」
「さあ、そこまでは知らない。でも確かにそういうようなことがあの中では行われたらしいわね。」
「どんなものが放り込まれたんだろう。」
「あの中に入るものならどんなものでも。」
「きっと今は開いている水槽の上面も当時は黒い鉄製のふたが乗せられ、その上に岩が乗せられでもしたかもしれない。だから水面が大きく波打ち、水があふれだすことはなくても、その水中は恐ろしいものたちの上げる泡しぶきでいっぱいになって、何が起きているかがまるで見えなかったに違いない。最後のその時までね。」
「それでもいい、欲しいのはその結果だけなのだから。だがその様子すらも見ることはできないよ。」
「側面のガラス全てにおいても黒い鉄板でもないかもしれないが、なにかしらの目隠しは行われたはずだから。」
「そうなの?」
「きっとそうさ、その様子は見てはいけないものだから。」
「見てはいけない?」
「虫の話もそう。ツボに入れたなら必ず蓋を閉めないといけない。それは虫が逃げ出すからということではなく、ただ目に入れないため。それはその中で起きたことを誰も知らないことでこそ力が宿るものなんだ。」
「なんとなくわかる気はしないかい?」
「なんとなくだけね。」
「獰猛なものばかりが入れられたんだろうから、いや、一つでもそういったものがいるのなら、それらは熱帯魚のごとく水槽の中で共存を始めるなんてことはなく、たった一つが残るだけになるのだろうね、それもまた。」
「それで?そう期待されて取り払われた目隠しの先にあるのは、悠々と狭苦しそうにおよぐなにものか、それとも激しい食い合いで身体を傷つけ瀕死状態になってしまったそれか。」
「そこにはなにもいなかったそうよ。」
「なにも?」
「綺麗な水槽があっただけ。生き物は何もいない。」
「どういうことだろう?」
「全くの謎よね。それを見た関係者の誰もがそうだったわ。一匹としてその痕跡も残さないまま姿を消すなんて。」
「水槽の中のどこを見回してもだめ。オブジェの裏には影しかないし、砂利だってそんなに熱く積まれているわけじゃない。更に謎なのは、その水が濁りもしていないこと。」
「なにが起こったんだろう。」
「確かめようがないわ、だって例によってその中で起こったことだもの。誰も見てはいないのでしょ?」
「そうだね。」
「だから彼らは仮説を立てることにしたわ。仕方なしに。」
「仮説?」
「この水槽の中に入れられたそれらは、たぶん真っ暗な中でたしかにお互いを激しく攻撃しあい食い合ったのだろう。」
「そしてそれらの数は瞬く間に減っていき、最後には唯一の生存を勝ち取ったものが生き残ることとなった。その意図通りに。」
「それはそうなら彼らの目の前に泳いでいるものがいないといけない。どんな状態であれその義務がある。だがなにもいないのではそれは果たされない。」
「残ったのがクラゲということならそう言うことでもいいのよ。」
「クラゲ?」
「透明なね。なおかつそれは水の中の濁りを見せるような成分をきれいに食べ尽くしてきれいな水に見せる性質があるもの。」
「そういうのが勝ってしまえばなにも残らないと見えても説明がつくってこと?」
「逆に説明をつけるためにそう考えだしたようにも見える。」
「そうね。」
「でもちょっと変だな。」
「何がへん?」
「そう仮説を立てずとも、すぐにそうだとして決めてしまえやしないだろうか?」
「そうね、自分で入れたものならそうでしょうけど、でも決めてしまえなかったのよ現実は。」
「水槽には競わせる獰猛な海洋生物を入れるその前に、最初にそれらのえさとなる魚介類なりそういったものをある程度入れておくことにしているらしいの。なぜか。」
「よくそういう狩りとかっていうのはおなかをすかせた状態がいいっていうけど、いきなりでは身体が重く、その気にならないかもしれない恐れがある。」
「猛獣たちにはは少しばかりの餌を捕獲し勢いづかせ、もっと食べたいとなったときにそこにライバルがいる、といったことを考えたのかな。」
「そうかもしれないわ。」
「つまりはどういうことかというと、獰猛なそれらのリストにその透明なクラゲは入ってはいなかったものの餌としては入っていた、という感じのことね。」
「餌であるはずの透明のクラゲが勝ってしまったということか。」
「そう彼らは言っていたわ。」
「クラゲが勝つなんて、毒は持っているだろうが身体が大きく獰猛な海洋生物を殺してしまえるほどとも思えない。それは透明ゆえにずっとことが終わるまで隠れていたのか。それとも、極限の状態で自らの凶暴性に目覚めたのか。真相はわからないってね。」
「そんなことがあった水槽なんだ。」
「そう、そういった水槽に入れられるなんて普通のことであり得るかしら?」
「そこには裏があったに決まってる?」
「私達はそれを確かめるための役だったのよたぶん。」
「確かめるため?」
「実のところね。」
「仮説上のクラゲは透明でその存在を確かめる術があまりなく、かつ獰猛で危険である可能性がありうかつに手を出すことができない。」
「だからまた適当な魚介類などを入れて様子を見ようとしたが、それらはすぐに形を崩して消え去ってしまうため、観察もうまくいかずそれで私たちを入れてみたってことなのよ。」
「でも君たちは無事だった。今もその形を崩すことなくその足はステップを踏み、話すことさえできている。君たちこそ運がよかったんだね。」
「そうね。でも運の良さはそう言うことではないかもしれないわ。その誰かさんの見解によると、私達が助かったのは偶然なんかではなくて、私達が水槽に入る前に、そのクラゲが溶けてしまったのではということなの。」
「溶けた?」
「強すぎる消化液で自身が溶けてなくなってしまったのよ。」
「そんなことあるかな?」
「あったらそれは自殺みたいなもの?」
「僕たちじゃないんだからそうではないだろう。」
「きっと貪欲になりすぎたんじゃないかな。」
「それで自分を溶かしてしまったの?」
「隠されている間、何があったのかは誰も知らないからね。」
「なんにせよ、君たちは生き残ることができた者たち。その水槽から出てこられた人たちさ。」
「そうね。でも自殺ってなんなのよ。」
「その単語とあなたたちとでなにか関係があるの?なんとなくそこが引っかかったわね。」
「昔流行ったアーティストグループなんだけど知ってるかな。それぞれのメンバーの髪色とパンツの色が個性的で6人のみんながいつも喧嘩してたような感じの。」
「アイドルグループ?」
「そういうように見せた、決してそうじゃないもの。」
「なんだかよくわからないわね。」
「生前はヒットも何も一曲しか出してなかったしそれもまるで売れなかったからね。」
「そんなのわかるわけがないわ。」
「でも彼らは命を落としてからがその知名度は高くなって、今にしては伝説とも言われるようになったんだ。」
「なぜよ。その曲が再評価されたわけ?」
「違う。」
「でも、命を落としたって言い方もなんだかあれね。それこそ変よ。」
「変じゃないさ。彼らの誰もその人生を全うできた人はなく、比較的若い時期にみんなしてああなってしまったんだから。」
「一緒に死んでしまったってこと?みんなして一つの乗り物か輸送機関を利用していて、その事故に巻き込まれたとか。」
「彼らは一緒にあの世に行ったわけじゃない。みんな一人一人だよ。ひとりひとりが別々に、まったく別々の死因を持つ人たちになる。」
「別々?」
「一人は中毒死、一人は滑落、もう一人は溺死にその次は一人は焼死。」
「それで最後の一人は食べられてしまった。」
「なにそれ?」
「すごいだろう?その時期は少し離れているものの、長い人生で見ればほとんど同じような期間にね。」
「5人は示し合わせていたの?」
「それがわからないがそうではないと言われている。」
「彼らの死はどれも、しかるべき手続きにより実地調査もされたし保険会社の検証にもかけられたが、どれも自らによるものとは認定されていない。」
「偶然ということ?」
「普通ならそうなる。だけどそれら一つ一つは事故や不幸とできても、同じグループの5人が立て続けってことになると、どうしてもそう疑いたくなるものだよね。」
「でも結局結論はでておらず、その事実の情報だけが独り歩きして、ある界隈では伝説扱いされているんだ。」
「それで?あなたたちとその人たちにどんな関係があるの?」
「もしも彼らが故意にそうしたのだとして、考えてみて。それってすごいことだよね。」
「なにが?」
「中毒も滑落も溺死も焼死も、ましてや食べらることなんて本当に辛く痛々しいことだよ。そんなのは自分の意思でやろうと思ってもできないことさ。」
「あなたたちはそれらが、やっぱり故意でなくて事故だと考えているのね。」
「彼らの真相は闇の中にあり、それは故意によるものかもしくは本当に偶然によるものかはわからないが、みんな薄々はそう思っているものさ。偶然に起きたと考えるほうが少しばかり利口であり、そんなこと故意にはできないだろうって。」
「私でもそう考えるかもね。よく想像すれば。」
「だからもしもの話だが、彼らのように彼らの死を再現するものが現れたらどうだろうか?」
「再現?」
「彼らの通りその痛くて辛い死を迎えたなら、人々はそれに対して、というかその人たちについてどう思うか。」
「それは模倣であっても、きっと本物の彼らよりもそれはすごいことと認識されるのではないかな?だって、そこに偶然かなんてことを疑う余地はなく、それは十中八九はっきりとした意思によって行われたことになるんだから。」
「確かにそうかもしれないわ。」
「じゃああなたたちは、そんなことをしようとしている人たちってわけ?」
「おかしいかな?」
「悪いけどバカバカしいわね。私が聞いただけのことで言わせてもらうなら。」
「ここに来ているということはものすごく裕福な家庭に生まれたような人たちなのでしょうし、現にそういう感じで間違いないような見た目や表情の緩み方をしている。」
「そんな人たちだから普通の刺激に飽きてしまった?娯楽も極めればここまで来てしまうのね。」
「君にどういわれようと僕たちは止まらないよ。」
「そう、別にいいわ。でもそんなあなたたちがどうしてこんな場所に来てるのよ。まさか、この場所でそれらを行おうということ?」
「そうじゃない。」
「ここへは最後のバカンスみたいなもの?」
「死ぬことを決めてしまったのなら、その前の今にしてはめいいっぱい楽しまないといけない。」
「そうね、そうするがいいわ。」
「ただ思うのよね。あの彼ら5人はアイドルということだったじゃない?あなたたちは何の接点のある5、いや6人なのよ。あのアイドルの死の伝説に呼応した人たちってこと?」
「そうかもしれない。」
「なんだか違う気がするのよね。」
「じゃあなんだろう。」
「兄弟ということではなさそうね。バラエティーーに富んでる感じだから。顔の造形が。でも背格好は一緒。なにかのスポーツのチームかしら。6人一組のものなんてあった?」
「それとも陸上競技のそれぞれのスペシャリスト?いいえ、違うわね。」
「そんなに難しいことかな?」
「ええ。一緒の、しかもひどく苦しんで死ぬっていうこころざしを持った人たちだもの。並々ならぬ繋がりのはず。」
「例えば同じ価値観とか、もしくは同じ境遇、悲劇に見舞われた人たち、とかね。」
「そう見える?」
「ええ、実のところそう見えるわね。」
「やろうとしていることはファンキーだけど、その表情なのか雰囲気なのかなんなのか、みんながみんな影を帯びているのよ。」
「影?」
「運命に翻弄されている人、自分が与えられた役目に自分が追い付けない感じの悲劇を背負っているような。」
「なるほど。」
「いうなれば長男的なもの。」
「長男?」
「そう、それって大変でしょう?」
「どんなふうに?」
「いろいろと。」
「もうそれでいいじゃない。あなたたちは長男の会よ。」
「裕福な家庭に生まれた長男たちは、道楽の極みでとんでもないバカなことをしようとしている。彼らの現実逃避は止まらないし、娯楽だって知ってしまったものは忘れられない。」
「君がそう結論づけたのならそれでいい。僕らは長男の会だ。」
「そんな人たちと二人は意気投合したかどうかわからないけど、その夜だけなら一緒にサーカスを回っても見たかもしれないわね。」
「たとえばどんなものを見回るかと言われれば彼らや彼女だってわからないものだわ。」
「みんな足を踏み入れるサーカスはどれも初めてになるんだもの。」
「ただその種類は実に多岐に渡るもの、ということは身をもって知っているものよね。アイディアにあふれたもの、思ってもみないようなものがある。例えばそうね。」
小さなサーカス
「中にはほとんどバーみたいなところもあってね。それもまたサーカスを名乗っているの。」
「バーがサーカス?」
「どうやらサーカスということでなければバルーン内になにを構えることもできず、逆を言えばなにかしらのサーカスであればお店みたいなものもそこには出すことができるみたいね。」
「でも名乗るだけじゃだめよ、それはサーカスだなってたしかに人を納得させることができるものでなければならないんだから。そのバーもまた、そう言えるものなのよ。」
「私が見てもそう思えるものかしら。」
「サーカスバルーンの中に存在出来ていることからしてそうなのでしょうね。」
「それはどんなものなの?」
「規模は小さいわ。演目のすべてはカウンターの上だけで行われるものだから。」
「カウンターの上で?」
「せせこましいと思うんだったらそうじゃないのよ。彼らにとってはね。」
「そうなのかしら。」
「そうよ。表情もうかがい知ることができないような、実に小さな団員さんたちが、ほほえましくも命をかけた演目を見せてくれるんだから。」
「まあ、見てみたいわ。非常に。」
「それを見たあなたはまた、別の哲学的な感情が芽生えて、なにか大事なことを学んだ気にもなるのじゃないかしらね。彼らの姿から。」
「ただ、それらの舞台装置は、彼らだからそれもまた実に小さいものにはなるものだけど、精密な技で作られた特注のものかといえばそうでもなく、それらはカウンターの上にならいつも置いているようなグラスや瓶や灰皿やストローになるの。だからそれらが登場するのにいちいち面倒な準備をする必要もないわけ。」
「だってそうよね、小さい者たちにとってはそういうものがもう遊具以上の高低差のついた危険なものになるんだから。」
「綱渡りとかもあるかしら?」
「あなたはそれが好きなのね。あると思うわ。だったらそれはお裁縫に使う糸なのでしょうとあなたは思うもの?」
「そうね。でもそうじゃないの?もっと細いものとか?釣り糸よりも、髪の毛とか。じゃあそれは綱渡りなんかじゃなくて、見た目としては糸も見えないから宙に浮いているような感じなのでしょうね。」
「でもその小さい彼らは、大丈夫かしら?冷静に演目を行えるもの?その立場になってちょっと思うとね、いきなりインパクトのある光景がバッて浮かんじゃうものだから。」
「その人たちから見えているもの、その人たちが目にしているそれをあなたはどう想像したものかしら?その光景を。」
「巨大な目がね、薄暗闇の中でぼーっと浮かび上がっているの。」
「ギョロリとした半円に膨張したそれは一つじゃないわ。最低でも二つ以上。」
「そしてそれはただそこにあるだけでいてくれるだけじゃなくて、自分が移動するだけ気持ちの悪いくらいにそれにぴったりとその中心の黒い闇が追いかけてきてしまうもので、自分の一つ一つの動作や息遣いのすべてを見通してくるような感じ。それどころか、心まで綺麗に読み取られてしまうように思えて仕方がないのよ。」
「想像してみて、本当に気持ちが悪いものじゃない?」
「そうね。実際の彼らにしてもそうなのだから、私たちはそれを迎える前に、みんながみんなその登場の前にサングラスをかけるよう言われるわ。」
「サングラス?」
「反射率が高くて、その奥の目が見えないようなやつ。大丈夫よ、それは買わずともお店で借りることができるから。それは彼らと出会うための私たちに義務付けされたマナーみたいなものね。」
「驚かせてしまうことは本望じゃないし、そうでないと彼らは出ても来れない。」
「彼らはサーカスを披露するためだけにそこに姿を現して、私たちはそれをただ見たいって、それだけだけのことだものね。いいえ、当人たちはサーカスをやっているつもりではないみたいね。」
「サーカスをやっているのではない?」
「だってそうでしょう?例によって人の目を意識しないまま、それは行われるのだもの。それはだから誰に見てもらうためじゃないの。」
「では彼らはなにをしているものか、その危険な行為を一体何のために続けるものか。」
「その店主は、それを知ろうと毎晩頑張るけど一向にかなわない。だからお客を呼んでたくさんの人に見てもらって、その真意がどこにあるかその意見を聞いていたりする。」
「そういう話なの。」
「どう?その彼らはなにを考えてそういうことをしているものか、あなたはどう考える?」
「命を懸けてまですることでしょう?」
「その小さな誰かたちには悪いかもしれないけど、いいことのようなものでもなく、なんだかただならぬようなもののような気がしてしまうわ。」
「そうでしょうね。犠牲だって、二晩に必ず一つか二つの小さな命がそこで消えるのを私たちは目の当たりにすることになるのだから。」
「どうかしら?あなたはそれを聞いて、その店には行きたくなくなった?そうではないわね。正直言うと、そういうものだからこそあなたは見てみたくなった気もしているのよ。だってそれが単なる演目じゃないってあなたは知ってしまったのですもの。」
「ここはなにかしら油断ならない場所だということを忘れてはならないのよね、私たちは。」
「そう。中にはそういう感じでもないひどさがあるところもあるんだから。」
「ひどいところ?」
「クオリティが低いようなものがあるというな意味で言ったのじゃないわよ。そこで起こること、繰り広げられることについてそれがどのような言葉で形容されようとも、ここにあるサーカスやサーカスと名の付くそれら全てはここにあるそのことをもって既にもう、その品質は約束されているに等しいんだから、簡単に考えても。」
「どういう酷さなのかしらそれは?」
「そこはまた料理店といったところで、ありとあらゆるお酒も用意されているようなそういう雰囲気が好きな人にはたまらないようなところなんだけどね。」
「そこもまたサーカスを提供してくれるものなのでしょう?」
「そうね、ここはさっきのような直接的なサーカスを見せてくれるところではなく、ある意味、これもサーカスだなってところではあるものよ。」
「サーカスっていう定義についてその根源から枝分かれしたような解釈の仕方、形がそこで見られる感じ。でもそれはショッキングよ。」
「その店で料理を注文するとするじゃない?するとその小さい店に集まって、その中で身を寄せるようにして席に座っているそのお客達のなかの一人が厨房に呼び出されてね。しばらくするとその人は体の一部か、または殆どを失って、帰ってくる感じなの。」
「どういうことかわかるわね。」
「その体の一部を食材にしてしまうということ?」
「妊婦なら赤ん坊ということもできるわ。だけどそれは合意のもと行われることなのだから、別にどうということもないというならそうなのよ。」
「知らずにそうされてしまった人がいるならまた話は別だけど。」
「そこはそういうことが許されるのね。」
「ええ、ここはそれ全体が法律の及ばない無法地帯。でも、同じ料理店とはいえ化け物の肉を出すお店、これは許されなかったみたいね。」
「戦士たちがその技術や命を捧げてやっと動かなくした化け物の、それらの廃棄されるはずの肉を横流しして、料理として出していた店があったらしくてね。」
「ある日突然にテントごと切り離されて地上に落とされたそうよ、そのお店は。これもまた何も知らずに席に座っていたお客たちと一緒くたにして。」
「厳しいわね。どうしてダメだったのかしら。」
「その肉を食べることこそが、その罠にはまっている可能性もあるためよ。その化け物というものの。だから店だけでなくその肉を横流しした関係者も、その大本にいた首謀者である数人の戦士も処分されたわ。」
「もちろん、お店の人たちがああいうことになったのだから、その彼らも無事では済まないわ。大テントで行われる狂演のそのおとりに使われたとして、文句は言えないし、」
「まあ生き残るものはいなかったそうね。」
「そういう夜を経て、彼ら、つまりその二人は仕事をしていく日々を送っていたようなのよね。」
「エンジョイしていたように聞こえるときもあるけどでも、二人の身柄を所有しているホテルとすれば、一方で生かすメリットがないから、危ういことに利用されていろいろさせられていたみたい。」
「命がなくなってもおかしくないようなこと。もしくは命がなくなるという前提で行うこと。」
「例えばある夜のことなら、富豪ではなくその娘。癇癪持ちのその相手をさせられてみたり、見たら死ぬ絵を見る役目を負わされたり。」
「かわいそうだって思う?」
「私はあまりそうは思わないわ。」
「本人たちにそのことが知らされていたかどうかといえば、そんなことはないのだし、それにきっとその中には楽しい仕事だってあったかもしれないもの。」
「ある暑い日のことならプールでの仕事だってうれしいじゃない?」
「プール?」
「それはホテルの最上階にあってね、そこから見える景色は素晴らしいものよ。そう聞いてあなたがどんなものを頭に浮かべるかは想像にたやすいものだけど、そうじゃないのよね。」
「そこにはなんだか大きな都市で発表されたこれから流行りそうもない、ドレスの布を切り取ったような帯を縦に走らせたような水着を着た簡単に言えば前衛的なそういうのを身にまとった女性たちがその危なげな恰好でプールのお水をバシャバシャしてボールを天高く打ち合ったり、ドーナツの浮輪にお尻を突っ込んで手を振ったりしてふわふわまとわりついて離れない空気と温められてぬるまっこくなった透明な塩素水を存分に堪能してるのよ。」
「でも彼女たちらしくないと思わない?」
「そういう人たちって普通、プールサイドに置いてあるベッドのような変なイスか白いプラスチック製のなにかにただ寝そべって、そのようにしてプールを思いっきり楽しむ人たちをその白い椅子から大きいサングラス越しにただ眺めたり、もしくは眺めもせず無視して目を閉じているような感じなのが、彼女たちとしての正しさなのだと思っているものだから。世間の人たちはね。」
「本来ならなにあんなにはしゃいじゃってというような感じで見るべき側のその当人たちが、そこでははしゃいで仕方ない様子なの。だからとても違和感のあるものになるのよ、その光景の見た目は。」
「でも見ていくうちにね、その印象が違ってくるわ。彼女たちは見た目こそとても重たそうにウェーブした金色のいかにもセレブという風な風貌や濃い目のメイクや、一般人じゃとても手の届きそうにない恵まれたボディーラインをしているのだけど、それでいるにもかかわらず、その表情だけはどことなくあどけないものなのよ。」
「そうしてまたボーっと眺めている内に気づくわけ。どう?あなたはそのことに気づいたものかしら?」
「いいえ、実際にみているわけじゃないもの。でも、それは注意深く聞いていたらわかるようなことかしら。いいえ、そう聞くのならきっとそうなのでしょうね。」
「そうかもしれないわ。」
「それは彼女たちに関すること?それでいてまた普通にはないような、違和感を感じるようなもの?」
「彼女たちであふれたその光景は目が慣れれば未だにまぶしいながらも、それは本当に自然に見えるものなの。まさにそれこそがそこにあるべき姿だと認めるように。でも現実はそうじゃないでしょう?だから思うのよ。実際の世界はなんでそうじゃないんだろうって。」
「そう思うとね、そう思った瞬間よ。ハッと気づく感じ、そういえばって。もうわかるわよね。そこには彼女達しかいないのよ。」
「人が少ないというわけじゃないの。広いプール類のどれもが彼女達で割と密度高く満たされているけど、それらは全て綺麗に彼女たちのような人たちだけってこと。」
「そこにはイライラさせてきたり、またはこちらの年齢に応じた立場を意識することを強要してくるような子供みたいなものが走り回っているわけではないし、かと思えばこちらのことをいつまでも同じ成人した大人として扱うことをせず、ただ女というものでしか見てこない、そんな男達の姿もないの。」
「彼女はただ子供のように楽しんでいるだけ、世間から、そしてお互いが強いてきたそれらしさ、そういうものから解放されているように見えるのよ。」
「その様子は見ているだけで口元が緩んでしまう感じ。何をもってかといえば、それはただほほえましく、そしてこれでよかったんだと思える光景になるものだから。彼女たちがそんな時間を過ごせていて今本当に嬉しい感じ。彼女たちにとってそれはただ楽しいだけの時間なんでしょうからね。」
「愛おしいものよ、いつまでも続いてほしくて決して壊れてほしくないもの。壊したくないものとして、こちらは目を背けてもしまうかも。だからそういう気持ちを抱いた人は、この自分の存在をどうかと考えるものだけどでも大丈夫よ。そのプールにいるこちらの、こちら側から見ることしかできない私たちは、その光景を見ることに躊躇しなくていいの。」
「だってなにをしたってそれは彼女たちのそれらを邪魔することはかなわないんだから。」
水の中で誓うもの
「二人もそう?」
「そうね。でもずっと見ていることはできず、彼女たちは例によって余暇を楽しむためにここに来ているものじゃないんだからすぐに彼女たちは彼女たちなりの、彼女たちに課されたその作業に取り掛からなければならないわ。」
「そこにあるのは決して巨大ともいえるようなプールでもない普通の長さと幅をたたえた規格通りの、簡単に言えば学校の授業でみるようなものなんだけど、でもそれでいてそれはそれらとは圧倒的に違う部分があってね。」
「二人は組み立てられた機材の一つを手に持ちそれを口に咥え、一人はそっと足から、一人は勢いよく頭からバシャっと飛び込んで、そこに満たされたものをやさしく手で押しのけて下へ下へと降りていく。」
「ダイビングみたいなもの?」
「そうね。」
「二人はどんな仕事を課されたのかしら?っていうかなにをしなくちゃならないものかよね。」
「なにか落とし物でもあるんじゃない?」
「落とし物?」
「そのプールはとっても深いのよ、思ったよりもずっと恐ろしくね。」
「そういうところでなにかを手ばなしたらどうなると思う?」
「自分の水に浮かぶブヨブヨとした体とは別に、それはゆっくりとはだけどずっとずっと下へ落ちていくことになるわ。そうなればもう取りに行くのはできないものよ。」
「なにを落としたものかしら?」
「なんでしょうね。」
「例えばそれは大事な結婚指輪とか。
「そんなものがどうしてプールに落ちるのよ。あんなものはそうそうブカブカに作られるものじゃないし、友達にでも結婚指輪を自慢するとしても、そんな機会か状況がわざわざこのプールで起こったわけ?」
「結婚式でもすればいいじゃない。水の中で指輪をはめ合うの。」
「その光景は3mも離れればなんだか滑稽に映るけど、彼と彼女に挟まれた20センチだけの世界では全く別のことが起きていて、それはとても神秘的で感動的な瞬間があるに違いない。」
「プールの天井の一部は綺麗にレモン型に切り取られていて、空から降り注ぎきる自然の光を取り入れて、その光たちは水の中でうっすらと揺らぎ、そして細切れに別れながらそれらは優しく小さい影を伴って二人を祝福してくれるのよ。」
「その大事なときのその瞬間にヘマをしたのはどちらなのかしらね。」
「私が思うに、というか思い浮かべられるのは、彼が指輪を親指と人差し指でいかにも不安定そうな形で大切に摘まんで、彼女の右手か左手の薬指に入れ込むその時のことなのだと思う。」
「彼女は右利きか左利きかわからないものね。」
「そう。それでもその出来事は後々の二人に影を落とすことはないのだわ。その失敗は彼だけによるものじゃなく、彼女の指の震えも関係がないとは言えず、それは二人によってして起こったことなのだと二人は努めて捉え、それだからまた二人はしてその共有した初めての失敗に対して正しく対処しようと努力した結果、それはまたいい形で彼らの中に残るのよ。実にね。」
「二人にとってそれは初めて共有したものってことね。」
「そう、その失敗は愛着のあるものになるのよ。彼女たちにとって。そうすべきだとするのだわ。」
「でも一方で彼女のくすり指はちょっと手持ちぶさたにはなるし、やっぱりそれってそういう証なんだから、ちゃんとそれとわかる場所にはめ込んで、そして周囲にちゃんと見せたいものでしょうからね。」
「そういう出来事は記憶だけにとどめて、当の指輪は取り戻したい心境にあっても責められないものなのよ。じゃあ二人は頑張らなくちゃね。」
「そういった事情を知っているかどうかは二人の、特に彼女のほうのモチベーションにはなんら影響することがなかったとしても、それは仕事なのだもの。課されたことならちゃんとやってみせるわ。」
「たとえ、それがそんなムードにあふれたものになく、下に大きなゴミが溜まっているらしいってことだけのものだったとしてもね。でもゴミではなく、それはなにか得体のしれないものなのだとしたらどうかしら。」
「得体のしれないもの?」
「利用客の一人が見たというもので、そういう変な噂が独り歩きしてしまっているがために、ホテルとしては噂ではあってもそれを放置できなくなって、その真偽を確かめようとする作業のその一環のことになるのこれは。」
「なにを見たのよ、その誰かは。」
「それは炭のような質感を持った大きなもの。といっても人の大きさを超えず、人と同じくらいの大きさらしくてね。」
「人はものの大きさを表すとき、人の大きさのものぐらいなら迷わず大きいものと言い表すもの。自分の体の大きさに関わらず。そうでしょ?」
「そうかもしれないわ。」
「その嫌な大きさの炭はでも、プールにとって大事な役割を果たすもなのよ。なんとなくわかる?」
「大切な役割?なんのことだかあれだけど、炭がそれだからして行う、なんだか大切なことよね。」
「浄化をしているということかしら、炭ってそういうことをするのよね、確か。」
「そう。汚れを吸い込み続けるそれは真っ黒でね。それでいてもうすでにそれは炭らしからないで、鉛のように重くてとてもじゃないけど、持ち上がらないものになってるの。もはや。」
「そういう噂が広がっていしまっているということね。」
「二人は実際にそういったものがあるということまでを聞いていたのだとしたら、潜るその中途でこんなことを思うかもしれないわね。」
「持ち上がることがないなのなら、自分たちはなぜ潜らされているのか。そんなものに対してできることはなにもないのにも関わらず。」
「そこまで考えるとこんな想像を始めてしまうのよ。」
「彼らはちょうど半分ぐらいに来た頃、半分とはいっても彼らはそのプールが一体どの程度深いものなのか、二人はそれを説明してもらってはいないから感覚的にこの辺なのかなと大分来て、もう嫌ってなった頃に、再度自分を励ますようにこの辺が半分なんだとそう言い聞かせたとき、ふいに自分の口にしっかりと差し込まれているその管から甘い匂いがし始めるのよね。」
「またちょっとした振動もあるものだから、彼女達は思うの。なにかが下りてきているって、ずいぶんと進み来た二人だけど、それはとてもゆっくりと行われてきたものだから、もう半日くらいはかけているかもしれないけど、その来たる何かといえばすぐにでも落ちるようにやってくるものだから、あんまり余計なことを考えている暇もないの。」
「でも不思議よね、匂いがずっと先にやってくるなんて。」
「どういう物理的現象がそうさせているものなのかしら。もしかしてにおいを感じとらせる細かな粒だかなんだかは、その途切れのない空間においては、物理的な飛散ということによらず、なにかワープとかいう私達の馴染みのない現象でもって、一瞬にしてそれが全体に共有される、的な感じのことが起こっていたりするものなのかしら。」
「どう思う?」
「さあ、そういう現象を確かに体感した人がいるのならそうなのじゃない?」
「そうね。そんな二人はでも、すぐにでもその薬品めいた強いお酒を体内に受け入れるしかないものよ。彼らが必要とする空気はその管からしか流れては来ないんだもの。」
「それでほぼ同時にどちらともの体内に入ったお酒は彼らの胃袋を満たし、二人は既に鼻からのにおいで陽気な酔っ払いになっていた状況から、一気に酩酊状態に突き落とされるものだけど、そんな彼らとは裏腹に二人の身体は瞬時に炭のようになっていったりしているの。」
「そのお酒にはある危険な菌が生きた状態で仕込まれていてね。それが心地良いお腹の中に入った途端それははげしく繁殖しだすものだから。」
「身体に菌が繁殖して炭になる?」
「何が起きているか二人は認識もできないでしょうね。お酒のせいで嬉しくなったり怒りっぽくなったりとても忙しいでしょうから。」
「よくわからないけど、とても悲惨に見える。」
「もっともこれは二人が頭で描くべき想像でしかないわ。でもそう思う二人のその時はといえば、その目の前にはすぐに底のようなものが見えてきていてね。プールは意外と底が浅く、自分はどの程度の深さを想像していたものか、もしかしたら潜っている内にいつの間にか上下さかさまになっていて、いきなり水面が現れてどこかに通じていたりするなんて自分は想像したかとかなんて思っていたら、それらはプールの床なんかじゃなく、そこにはたくさんの炭がゴロゴロ転がっている様子なの。」
「転がっているっていうより積みあがっているって感じね。でも例の炭たちがいっぱい。そう、数々のそれらが積み重なってそれはもうどうしようもない数でね。するとふっと甘い匂いで気持ちよくなってしまうのよね。」
ピエロの探索
「なんだかかわいそうだわ。」
「でもどうしてあなたは二人に興味があったのだっけ?」
「沈んでいる死体という話が出る前から二人のことを知っていたということかしら?」
「彼らは最初に声をかけたのよ、この私に。」
「声を?それは道を聞いてきたり?それとも少額だけどお金を貸してほしいって感じ?見ず知らずのあなたに。」
「そうね。顔も知らない人から声をかけられるっていうのはそういうなにかを頼まれるような感じなものだから、ちょっと避けたいことではあるものよね。そう言われればそうではない?」
「まあそう言えなくもないとは思うわ。」
「逆に顔を知っている人ならしないっていうか、そういう頼み事は顔を知らない人にしかできない感じなのよ。だから私はその十分すぎる理由でもって、できるだけ普段からそういったことが無いように、声をかけづらい雰囲気を醸し出したりはするんだけど、やっぱり初めて対面したような人だもの、そういう空気も感じ取ってはくれないみたい。」
「その二人もそう?」
「彼女には逆に作用してしまったようね。なんていうかちょっかいを出してみたい衝動を湧きおこらせてしまった様な感じ。」
「でも私としてはそんなのは心外じゃない?だからこそ最低でも踏みとどまることができたのよ。」
「踏みとどまる?それは向こうの第一声に対して、今忙しいとかそういう感じではねのけることができたってこと?」
「いいえ、彼女たちの頼み事はちょっと面倒くさそうなものだったわ。」
「面倒くさくて、なんだか不思議なこと。」
「それはどんなこと?」
「このサーカスバルーンの敷地内にいるであろうピエロを探して欲しいって感じのこと。」
「ピエロ?」
「どうやらここにおいてはそういうのは何人もおらず、唯一のものがただ一つ存在するだけらしく、それがこの場所から姿を消してしまっているみたいなの。なんだか勝手に進まされた話を聞くに。」
「でもそれはサーカスバルーンのどこかにはいると。」
「ホテルを含めてね。」
「なぜ彼らはそういったものを探しているの?」
「彼らは別にそれに対して興味があるわけじゃなかったようよ。今の私達みたいに。」
「彼らの頼み事には見返りがあってね。ピエロを探す代わりにホテルにタダで泊まることができる方法を教えてもらえるらしいの。」
「彼らはホテルにタダで泊まる、そのためだけにそれを探す作業をしていたというわけね。」
「ピエロってね、しゃべらないのよ。またピエロは言葉で説明できるものじゃなく、ピエロを説明する言葉はピエロだけ。他に言い表しようがない。他におらず、とにかくそれはなにとも違っている。それがピエロというものの本質。彼らの言葉によるとそんな感じのものらしいわね。」
「ピエロの本質ね。」
「彼らはそうやって長いことホテルに滞在してきたわけだけど、とうとうそれは見つからず、その何らかの方法でもって泊まり続けられる短からざる期間の上限みたいなものになにやら達してしまいそうな雰囲気らしく、その仕事ともいえる役目をこの私に引き継ごうと声をかけてきたわけ。」
「そういう頼み事だったのね。」
「それであなたは長々と不器用にもそんなことを説明されたあと、二人にはどう返したの?」
「仕事を引き受けた感じ?」
「踏みとどまったって言ったでしょ。」
「そう。でも受けてあげればよかったのに。」
「なぜあなたはそう思うのよ。」
「暇な時間がないわけじゃないでしょ?あなたにしては。」
スパイ作り
「確かに暇となる時間はあるにはあるわね。でも別のなにか得体のしれない仕事を受けるまでじゃないわ。私はあなたと同様に、ここで大事なことをしなければならない人だもの。」
「二人にもそんな風なことを抽象的に言って聞かせて諦めさせたのね。」
「もっとも彼女達は私のことを最後まで、十分なほど知ることはなかったものだけど。」
「そうでしょうね。」
「彼女たちは最終的に、私がここに来たのは兄に親が亡くなったということを伝えに来たためと思って結論づけたようだし私もそう話したことは事実だけど、それは真実じゃないわね。それだけの用で私のような者が個人で来られるようなところじゃないわ、ここは。」
「組織とか国の後ろ盾によるとか、また個人で来るなら本当に素晴らしい大理石の床だらけの冷たい都市の中心部で意味のない静かなる日々を消化する選ばれたセレブな人たちでなければ来ることができない場所。」
「私のおうちだってある程度なら裕福なものにはなるのでしょうけど、それらとは次元が違う。まあ親が死んだことは事実なんだけどね、ここに来た目的は実はそうではないということ。」
「そうでしょう?」
「ええ、あなたは組織のいち調査員でしかない。」
「新規ホテル建築を推す新規参入組とホテル建て替えで対抗しようとする既存権益組との対立にあって、既存ホテルフォーシードへの潜入調査をするその人。」
「あなたもね。」
「あなたは二人にあんなことを言ったけど、実のところ前々から兄の現状は既に知っていた。そんなだからその役目は、ホテル従業員である兄をこちら、新規ホテル建築側のスパイとして引き込むこと。」
「それは条件抗争が新規組にとって不利にならないようにするためで、具体的にはバルーンの入手方法を明らかにすることを目指している。バルーンの調達方法がわからなければ、交渉はこちら側にとって圧倒的に不利になるから。ホテルを新たに作るには、新たなバルーンが数千個以上必要になるものね。」
「新規の方はそのバルーンがどこから調達されてくるものか今も確認ができおらず、最終裁定会議の前にそこを明らかにしておきたいものよ。」
「でも思ったのだけど、バルーンはどこかから調達しているのじゃなくて、」
「口から膨らまされるものなんじゃないかしら。プクーッと。」
「口から膨らませる?」
「人が空気を入れられるの。」
「どうやって?」
「わからないわ。でもその人はそんなこと知らなくてね。膨らみ始めてようやく気付くのよ。」
「そう。でも膨らんだ体は破裂しないのかしら?」
「特殊なガスなのじゃない?それで特殊な糸を括り付けて上空へ飛ばすの。そうしてできた風船はとても軽くてね。軽すぎて上空へどんどん上がっていくものよ。それがかなりの力で。」
「それが持ち上げる力になると?面白い発想だけど糸を括り付けられた体は裂けてしまわない?」
「そんなことにはならないと思うわ。いい方法でもある?なにか特殊な金具で体を固定するとか?そんなのいらないわ。糸は顎の部分に括り付けられるのよ。ほら、ここの力ってすごいって聞くでしょう?きっとそうよ。」
「変なこと考えるのね。」
「いいじゃない、想像なら何でも許されるものなのだし。」
「それはだからここで製造されてたり?どんなに電車の積み荷について帳簿や実際に潜り込んで調べても出てこないってことにも説明がつくってことから考え付いたのかしら。」
「そんなことを考えてしまうほど、調査はうまくはいっていないことが問題なのよね、私たちは。」
「長いことかけてもそれを知る事すらできていない、私ももう何人ものホテルマンと関係を持ったものだけど、彼らも口が硬くてね。」
「あなたの場合は本気になりすぎるのがいけないのだと思うわ。」
「そうかもしれないわね。でも調査員も決して数が少ないわけじゃない。彼らは日夜リスクを取ってなんとかそれを知ろうとしているけど、一向に糸口を掴むこともできていない。」
「そこでの私なのだろうけどね。」
全ては計画の内
「だけど目の前の彼女も知らないことがあったりはするもので、親は亡くなる直前かその数日前くらいにこんなことを言い残す。」
「彼は、おまえの兄は今回のためにあらかじめ用意され、準備されてきた人間だ、って。」
「今回?」
「すべては計画のうち。」
「彼の今におけるその境遇はなるべくしてなったということ。」
「どういうこと?」
「彼は彼の意思に寄らず、誰かたちの意思をもって彼はサーカスの団員になり、その一環で、計画通りの怪我によってやむなくホテル従業員に鞍替えし、そして今回、スパイ活動をさせるその手筈となっているということ。」
「彼女の兄はその人たちの手のひらの上で踊らされていたということ?」
「踊らされていたんじゃないの、彼は知っていたんだから。知っていたというか直接指示されていたのね。」
「彼はそれに従っていたということか。その意思に同意して。どうして?」
「さあ。たとえ理由がなくても、小さいころからそう言い聞かされてきたならそうならないとも限らないでしょ?」
「そうなると彼、いいや、彼女が不憫だな。」
「それはそうよ。その胸に抱いていた憧れやそれらの思いを向ける先に、そんな兄はいなかったということになってしまうものねそれは。」
「率直に言って彼女の憧れは意味のなかったこと、無駄なことだったものと誰かに言われたとして、彼女はなにも言い返せなくても仕方のないことね。」
「でもまだ彼女にはそれが本当かどうかわからないものじゃない?親に言われたその時点からも。」
「そうでしょう?」
「確かにそうではある。」
「だからこそ親に教え込まれて来た調査員の仕事を、親が死んでいなくなった今の彼女が続けるのは、親の発言の真偽をここに来て確かめるためなのかもしれない。だって調査員でなければ、こんな場所には来ることはできなかったものだもの。」
「チケットが手に入らないからね。」
「そもそもがして彼女のような人が個人で手に入れられるような券ではないのよ、やっぱり。」
彼女の選択
「親が亡くなってから、いいえ、あの話を聞いてからずっと考えて来たことを彼女は、ここに来てもなおふとした瞬間や、なにも考える必要がないひとときがありさえすれば自然とそのことを考え、そして頭の中でこう確認するわ。」
「もしも親の話が本当だったら。」
「彼が、兄がその親やその誰かたちの言うことを聞いてその通りのことをやってきたような人物であったなら、そういうことがわかったならこの自分はいったいどうするか。」
「ねえ、彼女だったらどうすると思う?もしくはあなたが彼女だったなら。」
「わからないな。」
「まあ、それでいいのかしら?あなたはそう答えるだけで済むかもしれないけど、それは彼女に起こっていることだから、彼女はなにかしらを選択してそして生きていかなければならないのものよ。」
「そうだね。」
「そうでしょう?だから賢明な彼女は今のうちに決めているのかもしれないわ。そうしたのなら、その彼、つまり兄とともに調査員の仕事を続けていくってことをね。」
「それは諦めではあるけど、そういうものと共に今は亡き親の敷いたレールを走り続けることにしようって。」
「兄次第なんだ。」
「そうよ、彼女の今後は兄である彼次第。彼女のこれからはそれで、それのみで決まる、どうしたって。」
「彼女は自分の意志がないわけではないけど、今の彼女はそうなの。」
「でももしも兄である彼がそれを承知していないなら。どう?親の言ったことが嘘だったなら。」
「彼女はそうも考えるだろうね。」
「そうしたなら、彼女は兄をスパイとして誘うかしら?そうではないわね。」
「彼女は彼をスパイに誘わず、調査員を辞めるのでしょうね。そして別の生き方を自分で決めるの。」
「別の生き方か。」
「そこに不安はないわ。だってそんな彼女には兄に対する憧れがあるんだから。そうでしょう?」
「彼女の兄に対する憧れというものは、彼がサーカス団の花形団員であるからして抱いていたものではなく、自分自身で決めた生き方をしていることにこそあったものなのだから、ただそれだけ。」
「そうだね。」
「もしもそうだったとした時、彼女は後になったあるときにでもゆっくりとこう思うのでしょうね。あの人たちがあんな嘘をついたのも、今になってみれば全くわからないではない。」
「両親は彼の活躍を密かに知り、そして誰に知られるともなく喜んでいたもので、だからこそあの彼が至ってしまったその状況、その結末に心を痛めたために、ついそう言ってしまったのかもしれない。この自分に。」
「そうだったならあの彼らに対してさえ、彼女は共感はせずとも少しだけ同情してしまうかもしれない。」
「でも彼女は目の前の目つきが鋭い女性に不思議そうに言われてしまうでしょうね。そんなことをぼーっと考えていたなら。」
「なにを考えてるの?なんて。」
「いいえ、大したことじゃないわ。本当に。」
「彼女たちは私に仕事の引継ぎを断られたでしょう?そのあと誰に仕事を引き継いだのかなって思って。」
「いいえ、誰でもいいのよ。」
「その人はどんな人なのかって興味があるだけ。」
「そう。考え事をしているか、感傷的な顔をしているところ悪いけど、私もちょっと思うところがあるの。聞いてくれる?」
「いいわ。」
「サーカスバルーンの利用客の数はホテルの宿泊客数にリンクしている、というよりもホテルの容量がそのままここのお客の数となるわけでしょ?」
「そうね。今にしては客室の供給数よりもその需要のほうがずっと大きいものになっているからそういうことになってるわ。」
「その証拠にホテルはいつの時も満室だし、ホテルの宿泊券も非常に取りにくく、その値段も高騰しているものだし。一言でホテルが足りていないのよ。現在はここと多少規模が大きい別館の2館があるのみだもの。」
「その中で今なぜホテルの数を増やそうとしているのかしら。ちょっと疑問に思わない?」
「そう?」
「まあわかってたわよ。そういう反応は。あなたはさしてそう思わないのでしょうし、それは需要の大きさにこたえるためっていう単純な理由があることはそれはそうなのだと思うわ。客が増えるということはお金の扱いも大きくなるわね。」
「もちろん今現在青天井プレミアがついている券の価格は市場の原理によって自然に抑えられていくものでしょうけど、それで合計の収入は結局同じ、というわけにはならず全体としての収入は大幅には増えることにはなるのでしょうし。」
「そうね。でもそれってどうなのってこと?」
「それが普通だということはわかってるわ。経営とはそういうものに違いないもの。でもこの場所にしてはある事情が起因したものになっているじゃない?普通の場所ではないことを頭に置くべきよ。」
「どんなことを考えてるの?あなたは。」
「私じゃないわ。こう考える人がいるのよ。ホテルの数を増やして、サーカス・バルーンの経済規模を大きくするその目的について、その経済規模を増やすのは今後支出がおおきくなることを見込んでいるから。」
「つまり今後は今よりもっと多くの優秀な戦士達を雇うことやそれに見合った設備の投資が必要になってくる、つまりそれは未知の恐ろしむべきものたちの封じ込め事業の全体にかかる費用が今後大きくなることを意味しているってことにはならない?」
「封じ込めが今にしてできているなら、今のままでいいものだけど、今後そうでは効かなくなってくるということ。」
「つまりは?」
「リスクに対して強くあろうとしているだけともいえるけど、今後もっともっと強力なものがあの穴からせり上がってくると考えられているのじゃないかしら。どうかしら?こういう結論になることもまた自然なことじゃない?」
「どうかしら。ただ、そう考えるのはちょっと怖いのじゃない?あなたとして。」
「ええ、それはまだ先のことなのかもしれないけど。ふとしたとき、ちょっと怖くなってしまったりするわ、私は。というかそれはいつか必ずそういう時がくるもので、私としてはそのババを引かないように、そういう時までこんな場所にいないように、ただそうしようと考えるものなのよね。」
「さっきまでしんみりとはしながらもその雰囲気は決して悪くはないものだったのにね。恐くなってしまった彼女は今のような話をしたことを後悔するかもしれないわ。」
「でも彼女はそう口にせずにはいられなかったのだもの。自分が聞いてしまった、または自分の頭が考えだしてしまったそんなことを、自分の中だけにとどめておくのはなんだか嫌だったのよ。彼女は自分のそういう発想が普通の人のするものかどうか確認する意味でもそういうことを口にしたのかもね。」
「もしくは呪い的なものを自分で止めずに誰かに回し渡すような無意識な意味合いで。」
「そういえばあなたはここまでどうやってきたのだっけ。」
「私はあなたとの他愛のない話に夢中になってしまって、そんな根本的なことを聞いていなかったものよ。」
「あなたと私がこうして話しているその理由、ここに至った経緯よ。でも待って、私が最初に言ってみるわ。だいたいこんな感じじゃないかってことをね。」
「夜のホテル、かすかに聞こえる歌。」
「その歌声を頼りに誰の姿もないホテルを進む。それはどこからしているものか、片手間でなんとなくその出所を探しさまよってわけではない。しかしそれでもなおどうしても特定できないで、同じところを何度も行き来している。」
「大きさの違いこそあれ、結局ホテルのどこにいても聴こえる気はしている。」
「ただエレベーターで上下しているうちにそうでもない気もしてくるもので、誰も乗ってくることのない箱の中で、もしもどこかの階が光ったらどうしようなんていらない心配をしつつ、何度も箱を昇降させて、かすかに声の大きい階を探してみたりするの。」
「するとちょっとずつ上の階に行くごとに、その声量は変わらずともなぜか活舌がはっきりと聴こえる感覚を覚えてくる。それで思っていた通りにね、それはもっともよく聴こえるのはやはり一番上の階になるの。」
「エレベータを降りればもうそれはすぐのことと思っていたりするけど、結局はそのフロアを行き来することになるわ。どこから聴こえるのかはっきりしないからまたあなたは迷ってしまう。」
「ふと上から、天井のほうからそれは聴こえていることに気づく。しかしここは一番上の階のはず。そうでもないのだろうか。」
「見るとこの階は廊下の長さが少しだけ短いような気がする。」
「下の階では確かここに当たる場所においてならあとちょっとばかり通路が続いていたように思うが、この階ではそこに大きな扉が存在する。」
「何も考えずにそれに手をかけるとその扉はすんなりと開く。取っ手も何もない扉の向こうには、その通路と同じ幅の広い階段が続いていた。もちろん上に。」
「それで合ってる?」
「ああ。」
「あなたは戸惑った態度をとるわ。」
「扉がある階段など見たことがなかったものだから。まあそういうものがないでもないことは知っている。だけどそのときは瞬間的な動揺というか、なにをしていいか一瞬わからなくなったという感じ。ほら、停止したエスカレーターの上り始めのあの気持ち悪い感じよ。」
「そこはこのホテルで唯一エレベーターの乗り場のない階。」
「必ず真っ白な、冷気が均等に流れ落ちてくるようなことを想像させる大理石の階段を踏んでこなければいけない場所。」
「いつの間にか歌声は聴こえなくなっていることになんとなく気づくけど、もうそんなことも言っていられない。」
「上がり切った目の前の通路の先の扉が大きく開いてしまっているから。
青いシーツ
「広くはない部屋。」
「部屋の中央には一人が寝るようだけちょうどいいくらいのベッドがあって、それらは暖かそうな羽毛布団や枕を含め、そのシーツからすべて真っ青。その中に誰かが身体を静めて眠っている。見るにとても綺麗な女性のよう。」
「眠る彼女に表情はない。」
「顔は真っ白で、その肌の質感も触れるだけでなく、指で押してみたりでは足りず、頬を強くこすりつけなければそれがどの程度の柔らかさがあるものかわからないかもしれない。それは上空に見える巨大で白く輝く月にそのまま照らされてしまっているからだろうか。」
「いや、そうではない。」
「見上げたらそこに月は無く、大きくくりぬかれた天井を占める丸い夜空を見たこともないようなくらいの速さで流れていく星々が見えている。それらのどれもが尾に飛行機雲とはちがった筆を滑らせた余韻のようなものを引いていて、なんだかそれを自慢されている気分なのだ。」
「なにか用かしら?」
「振り返ると一人女性がベッドの傍らでこちらに向いている。それはつい今までベッドで眠る彼女の顔、そのすぐ横に突っ伏すようにして眠っていた女性に違いなく。彼女はベッドに眠る女性とまったく同じ顔をしていた。」
「顔が似ているどころか同じだからって双子の姉妹だとは限らないと思うわ、私は。といったような会話をするのよね。」
「そう、そういう会話やいろいろなことを話したために今このときへ至るのよ。」
「そろそろ聞いていいかな。」
「なに?でもなにを聞きたいことがあるかしら。ここまで長々と話をしてきてしまった今にして。」
「ぼくはたいせつなことを聞いていないんだ。わかるだろう?」
「あなたの好きな歌声についてかしら。」
「そう。僕は君と話し始めた当初、まず一番最初にして、あの歌声について聞いたんだと思う。ただそれはもう結構前のことだからそういう気がするだけになってしまったものだけど。」
「結構前のことと言ったって時間的にはほんの少しばかりのことかもしれないわ。でも本当のところ私たちはあなたの言う通り、実に長々とこうしてきたかもしれないわね。まだまだこの夜は続くとはいえ。」
「なぜこうなったか、あなたはなぜか息が上がっていたものだから。」
「だからわたしはひとまずあなたの息遣いを本来のものに戻そうと、その当事者であるこのあなたと他愛もない話をはじめたのよ。」
「そうだね。」
「僕は歌声をたどったらここに行きついた訳だが、それはいったい何だったんだろう?」
「そうね。でもそれ以前に私は疑問におもうことがあるわ。」
「あなたなぜその声をたどってきたのかしら?」
「なぜか?なんとなく気になったんだ。」
「気になった?それはどんな風に?」
「そう聞く私に違和感を感じるかもしれないけど、わたしはまだあなたのそういった心の動きについて納得ができていないのよ。納得ができていないということは共感できていないってことね。」
「例えばいい匂いということならその匂いを発する食べ物にありつけることを期待してやって来たんだとか、またはそれが香水的な匂いなら、美人な女性がいそうだと考えて、引き寄せられて来たとかそういった感じのことを言ってくれれば私は納得するの。それは私でなくてもそうなのよ、誰だって。」
「あなただってそうでしょう?」
「そうだね。」
「どうしてその歌声をあなたが辿ったのか、あなたはわかってる?」
「どうかな。」
「その歌声は美しかったから?ならやっぱりあなたはそれを発する美貌なる女性を想像してそれ目当てにやってきたのかしらね。」
「そう言われればそうかもしれない。確かにその歌声はとても美しかった。」
「本当にそう?それは忘れられているのではない?」
「ただそれは認めるが、もっとなにか別の理由がある気がしていたりもする。」
「しかしながらそれはまた、僕はそういう人間じゃないってことを言いたいがためにそう言っているわけでもないことをなんとなくわかってほしいってそういう感情は少しある感じ?」
「ああ。」
「思い返せば、それはなにか物悲しかったのかもしれない。」
「物悲しい?」
「物悲しく寂しそうだった。」
「もしくはその声色はなにかを呼ぶような。悲鳴ではないが助けを求めているようなもの。だからそう感じたということなのかもしれない。」
「あなたはその声に応えてあげるためににここへ来たと。」
「助けが必要なら助けてあげでもしようと?」
「無意識にそう考えていたことは確かだと思う。」
「その人はどんな助けを求めていると思ったんでしょうね、あなたは。もしくはあなたのその無意識は。」
「その人はどんな状況にいるか。ひっ迫しているようなことではない。それは言った通り、悲鳴ではなかったのだから。」
「話し相手が欲しかったのかもしれないな。」
「それだけで助けを呼ぶの?」
「そういう心境がないとも言えない。」
「そう。でもこう考えることはできない?その歌声の主は、助けを求めたい状況にいるんだけど、助けを求めることができない状況でもあるの。」
「だからせめて物悲しい歌、人を心配させるような感じの歌を歌うことで人を引き寄せようとしたとか。」
「どうだろう。」
「そんなことには興味ない?でもそうよね。あなたが関心を寄せているのは、まずその声の主が誰かってことだし、それを私たちが知っているものかどうかってことだものね。まずは。」
「ああ、君たちはその歌声が聞こえていたかな?」
「あなたはどう思うの?」
「きっと聞こえていたと思うんだ。」
「どういうことから?位置的なものから?」
「僕はその声がはっきりと聴こえるほうへ向かってきた結果、今こうしてここに立っている。もしもその歌声が僕だけにしか聞こえたものでなければきっとそうだろうと僕は考える。」
「そうね。でもそもそもの話そんな回りくどい聞き方をあなたは別にしなくていいのじゃないかと思うのよね私は。」
「印象だって決してよくないんだから。はっきりしない人は嫌われるのが今の世の中よ。あなたはきっと率直にこう思ってるんでしょ?あれは、私たちのうちのどちらかによるものだと。割と確信をもって。」
「根拠はないさ。」
「そしてこうでもあるのよ。あなたがそういう回りくどい聞き方をしてくるのは、あなたがシャイだとか積極的でない性格をしているということによるものではないの。」
「というと?」
「あなたはそういう性格であるなんてことはなく、割とその中身の芯はあったりするの。隠しているだけ。」
「それはつまりどういうことだろう。」
「そういうことよ。」
「あなたはつまり会話の流れが自分に不利にならないように、わざとそういう風な聞き方をしたってこと。」「あなたは常日頃、人と会話する時そういうことをするの。そういう人なのよ。ちなみにあなたはそう言われて、それを否定しようとも無駄なのだからね。」
「僕がそう意識してないなら、それは僕の無意識がそうしていることになるから?
「そう。」
「そう言うのならそうかもしれない。というとあれはやっぱりここからの歌声だったのかな。」
「だとしたらどちらの歌声かしらね。あなたはどっちであって欲しいと思ってる?」
「この人か、それともこの私か。」
「どちらでも構わないと思っている。」
「そうかしら。歌を歌っていたのが私か彼女かでは話の流れというか、この場所の、あなた自身の状況が大きく変わってくるのじゃない?」
「どうだろう。わからないな。」
「あなたとしてはどちらが歌っていてほしいと願うべきなのかしらね。」
「私か彼女か。確率的には2分の1よ。」
「わからないが、しかしそれはそうではないさ。」
「なぜ?」
「彼女は眠り続けているし、君の言う通りなら彼女は歌うことはできないからね。あの歌は君のものと考えるのが普通だ。」
「そう。確かにそうね。」
「じゃあそうしたところであなたは今どんな心境にあるのかしら?」
「歌っていたのが君だったなら僕はあまり悲観する必要もないかもしれない。」
「どうして?」
「君にはなにをしてやらずとも大丈夫な気がする。」
「そうかしら?」
「そう見える。」
「そうならあなたはどう思うの?」
「心理的にはホッとするんだと思うよ。」
「本当に?あなたは一方で綺麗な女性を助けられるような機会を失ってしまうものよ?」
「それはありそうでしかしそうそう無いことも事実で、非常に貴重な、あなたの今後の人生を左右するようなことかもしれないし、男性のあなたはちゃんとそれを意識できるものなんだから。」
「だからちょっとがっかりすることはないものかしら?」
「そういう感情もないことはない。」
「だがそういうものは心の奥にしまったまま表に出すことはないのだろう。悲劇に見舞われている女性の存在を感じるよりそれはずっといいから。」
「そういう女性がいるって思うだけで胸がチクンとするものね。」
「でもね、あなたはまだ安心するには早いと思うのよ。」
「あなたの頭のなかではもう既にして薄れてしまったこともあるかもしれないけど、彼女が歌っているその可能性も捨てないでおいてちょうだいね。」
「私の言った通り、彼女は目を覚ますことはないことが真実だとしても、世の中には眠りながら、意識がないままに歌を歌うような人もいるかもしれないんだから。」
「眠りながら?」
「寝言みたいなものよ。」
「ただこの人が歌っていたってことになったらわたしはちょっと大変よね。」
「どのように?」
「この人に限ってはずっと眠りっぱなしな訳でしょう?」
「するといつこの人が歌を歌いだすかわかったものじゃないし、もしかするとなにもしなければ眠っている間中ずっとってことにもなってしまうわ。」
「眠っている間歌を歌うとなればね。」
「夜空も無いような昼のまどろみの中、彼女の歌声を聞いた人々がこの部屋にたくさんおしかけてしまうってことになったら困ってしまうじゃない?」
「だから彼女が歌っていいのはホテルに誰もいなくなる夜の間だけ。そうでない時間は、彼女の歌を止めてあげなくちゃ。」
「君はどうやって彼女の歌をとめるつもりだろう?」
「口をね、塞ぐのよ。こうやって。そうすればこの人はしばらく歌うのをやめてくれるの。」
「場合によって君は四六時中そうしていないといけないのかな。」
「そうね。だから私は夜の間だけ眠りにつくことになるの。」
「そう。」
「ええ。そういうこともあるかもしれないのよ。」
「ところであの歌はどんな歌なんだろうか。あれは聞いたことがない歌だった。」
「さあ、もしも彼女が歌っているのだとすれば、私には知る必要のないことだもの。そうでしょう?」
「君がそうならそうなのかもしれない。」
「ねえ、思ったのだけど、もしもの話あの歌声が彼女のものだとするならね。」
「あなたにはやることがあると思わない?」
「やること?」
「口づけをするのよ。あなたはこの人と。」
「口づけ?」
「見た目にも悪くはないと思うのよ。美しいと言われても否定する気が起きないくらい。」
「この人はいいのよ。怒らないかといえばそうね、怒らないわ。彼女言ったことがあるのよ。あなたが口づけしたいと思った人なら、私もきっとそうでしょうって。」
「本当よ。もしかしたら目覚めた彼女はそのの期待通りあなたに恋をするかもしれないわ。彼女はそういう体質なの。こんな綺麗な顔をしているのに意外だと思う?こう見えてこの人はね。私の好きになった人を好きになってそして奪っていく感じなのよ。」
「もし彼女がこうしていなければ、わたしは彼女によってやきもきする日々に追われていたこともあるかもね。憎しみだって抱いていたかもしれない。」
「そうすることでしか彼女は起きないのだろうか?」
「ええ。涙の粒なんて落としても彼女は起きないのだから。いまどきそんなことでは何も始まらない。」
「それに彼女には涙を流してくれる人なんてどこにもいないもの。」
「悲しくて寂しいように聞こえるけど、そうでもないものよ。別にそれは珍しいことでもないのだから。例えばあなたはどう?あなたのために涙を流してくれる人はいる?もちろん家族がいればその人たち以外で。」
「それにそういうことを経験もせずにずっと眠ったままなんてもったいないでしょう?」
「過去、ここに人が来たことはある?いや、これまでここを訪れた人はいるのだろうか?」
「いいえ。」
「そう。」
「どう、やるきになってくれたかしら?」
「もちろんそのときには部屋から出てあげるものだからね、この私はそういう人。あなたの心境がわからないわけじゃないもの。 」
「そう、わたしは空気の読めない人間じゃないの。視界から消えればいいなんてことじゃなくて、ちゃんとあなたとこの人の会話がしっかりと聞こえない、そういう場所に姿を消すものよ。実際には部屋を出てその扉を閉じるだけだけど。」
「それにそれは彼女のためね。」
「私が横目で見ていたんでは彼女は目ざめても目を開けづらいと感じてしまうものじゃない?なんだか気恥しくて。」
「そうして目を閉じ続けているうちに再び眠ってしまうなんてことになったら、私はどうしようもなく自分の愚かさに失望してしまうものよ。そもそもムードが出ないわ。」
「こういうのって行為そのものよりもその雰囲気が大事、というかその雰囲気を出すためのことなのよね。だからってそういう空気を作りさえすれば、口づけなんてしなくてもいいって、そういうことにはならないわ。」
「この人に限ってはそうだもの。だって目をつむって眠ってるのよ。雰囲気や自分の沸き起こった感情を噛みしめようがないじゃない。」
「あなたは彼女の想いにちゃんと応えて、口づけをしてあげるべきなのよ。」
「今のあなたは余計なことを考えるべきときではないのだと私は思うわ。あの綺麗な絹の糸を引く流星たちは今考えれば、その視界から、天井に空いた穴からのぞかれるその範囲の内から、一刻も姿を消してしまおうと
「躍起になっていたのかも、なんてことにも気づいてあげる必要もないのだし、彼女としては本当にそうしていいものかどうか、そしてこの目の前のわたしに対しても、なにも気に掛けてあげることなく、考えるときじゃない。」
「いいの、わたしからもぜひそうして欲しいのよ。」
「それは彼女にとって素晴らしいとか嬉しいこと以前に必要なこと。」
「それにね、それはあなたにもきっといいことなはずだから。」
「そうでしょう?」