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バルーン・サーカス  作者: リネリィ
1/3

サーカス・バルーン

プロローグ


「自分の意思ではなく、相手次第で自分の運命を決めていく女性ってどう思う?」

「でもね、その人は自分の運命を相手に決めてもらおうとしているわけではないの。」

「彼女は自分の運命を相手に背負わせるなんてことはしない人だもの。」

「その相手の人は、彼女のそういった考えを知らないということなのかな?」

「そう、その彼は幸いにも彼女のそうした決心を知ることなく、彼女についてのなにを重荷に感じることもない。勝手に彼女がそうしているだけなのだから。」

「もしかしたらね、彼はそんな彼女のその存在すら知らないかもしれないわ。」

「そんなことがあるんだろうか。」

「でもだからと言って彼女もまた彼を知らないということにはならない、それはわかって欲しいものよ。」

「彼女にとって彼はどういう感情を抱くべき人かは知らないけど、でもそれはきっと特別な人にはなるのでしょうね。」

「だって自分のこれからを託すような、そんな相手なのだもの。そうでしょ?」


「あらっ、大丈夫かしら。目がトローンとしていない?」

「そうなってるかな?」


「いい感じでここはゴトンゴトンと揺れているものじゃない?」

「大丈夫だよ。この揺れにしてもまるでそんなものを感じることなく、その存在を忘れていたくらいだ。」

「自分はそれほど集中できているんだなんて暗に言いたいのでしょうけど、きっとそうじゃないと私は思うわ。」

「じゃあどう思うのかな、君は。」

「揺れというものは雑音みたいなものと一緒でね、気にならなくなければそれはもう目の前から無くなってしまうようなものなのだけど、それは条件がそろわないとそうならないようなごく限られたものではないのだわ。」

「むしろ人にしては全部がそう。」

「人の全部が?」

「そう。全ての人に言えること。」

「人がずっと認識しておけることなんて、そこには、すべての人においてすらなにも存在しないのだから。」

「つまりどういうことだろう。」

「人は慣れてしまえばそこにあるものを認識しなくなっていく、そういう性質があるということを言っていることはわかるわよね。」

「そうであればなんとなく。」

「そうやってなんでもかんでもを人は、その周囲のものをどんどん頭の中から消していってしまってことよ。例外なく全部。」

「例外なく?」

「ええ、全部がぜんぶ。」

「人も?」

「言ったでしょ?例外なんてないのだから人もそう。」

「まあこの話はしだすとちょっとややこしいから別の機会にでもすることにするけど、だからもしもその人にずっと見てもらいたければあなたは変化しつづけていくしかないわね。」

「その人って?」

「そこにいるような、自分のことを見てもらいたい人のことよ。」

「ただね、その変化でさえも人っていうのは慣れてしまうものだからあなたは注意が必要よ。」

「ちゃんと腰を据えて考えなければならないこととして、向き合っていかなければいけないものなの、これは。わかってる?」

「あぁ、だが僕は今においては目の前のものに集中しなければならないと僕は思っている。君もね。」

「わかってるわ。あれのことならさっきからちゃんと見てるわよ。」

「そう。」


「ただ暇なのよね。こうしているだけっていうのも。」

「仕方のないことだ。」

「ねえ、なりすましってその目的は、どういうところにあるものかしら。」

「普通なら?」

「そう、普通なら。」

「その人の持っていたもののすべてを奪うんだろうね。」

「そう。奪ってどうするのでしょうね。」

「さあ。でも奪ったところでそこから先、それにその人の人生をよりよいものにできる訳はないさ。」

「成りすましたはいいが、成りすました自分ではできることといったら殆どなく、また誰に成りすましたところで、たとえ上手に成りすませたところでそこにただ幸せがあるわけではなく、その人なりの苦労や悩みといったもの、言わばその人なりの現実というものに直面することになるだろうから。」

「成りすましたものって、その前の、元々の立場もあったものでしょう?」

「そうだね。」

「それはどうなるのかしら?そのもとの立場というものは。」

「まさか成り替わったあとも元の立場との二重生活をするなんて、そんなめんどうなことをするとは思えないし、もとの立場は放置されることになるのだわ。」

「そうなったらそれはすぐに消えてなくなることになるだろう。そこには誰もいないのだから。」

「そう。じゃあもしも空白になったそこにまた別のなにかが現れて、そしてそこにちゃっかり収まったとしたら?」

「それにしてもそれはいずれは消えることになる。」

「それでも?なぜ?」

「それは会話を進めていくうちにわかることかもしれない。」

「君がもしこの話に飽きて別の話題に移ろうとするか、または目の前の状況が激しく変化して、当の僕たちがそれどころじゃなくなるなんてことにならなければ。」

「そんな私たちは、そう言うのばっかりじゃなくて、成り替わられてしまった人のほうにも目を向けてあげるべきかしら。」

「かわいそうってねぎらってあげる感じで。」

「そうしてやる必要はないと思う。」

「まあ。どうして?」

「自分の名前や自分が自分であるための大切な情報を奪われるなんてして、成り替わられたてしまったなんていうその人の罪もまた重いものだからね。」

「罪?」

「しかしその罰は当人が身をもって受けるわけだから、それはそれでただ放っておけばいい。」

「一方で成りすましたものは罰してやれるものがそうしてやらなければならない。」

「そう。それがここでは私達になるわけね。」

「でもなんのためかしら?そうするのは誰のため?成りすまされたその人のためってことになるかしら。」

「いいや違う。」

「成り替わりの罪はというのは、そういうものじゃないんだ。」


「そう。それがどういうものかは知らないけど、どう罰してあげるか、まずあなたはどうするのかしらね。」

「手始めに何気なく話しかけて、人気のない場所へ連れ出せるものか様子を見る感じ?」

「いいや、こちらから話しかけることはない。」

「なぜ?」

「そうはできないから。」

「できない?」

「刺激すれば、相手はなにをするかわからない。」

「相手に対してこちらの意図に気づかせてはいけないということはわかるわ。だからこそ、何気なく近づくものなのよ。」

「ああ。だがしかし結局なにをしてもそれは相手に感づかれてしまうことにはなるものなんだ。」

「どうして?」

「成りすましたあれは現在、何に対しておもビクビクしてひどく敏感になっている状態にある。」

「成りすましたなりの心理って感じ?」

「たとえ2,3度あの席を横切っただけのことでも、きっとそれはその意図を読み取るのだろう。」

「そういうものなの?そういう可能性が高いと?」

「僕は極めて高いと考えている。」

「そんなでは何もできないじゃない。」

「そうさ。だが何もできないからといって対処ができないわけではない。」

「どうするの?」

「成り替わった相手が悪かったと認識させればいい。」

「どういうこと?」

「成り替わってみたはいいが、ひどく居心地が悪いんだ。」

「例えばその人は悲運の運命にあった、ということならなり替わったものも失望することだろう。」

「例えば?悲運って具体的にはどんな感じのこと?どんなことを言ったりする?」

「それは別になり替わられたその人にとってのことじゃなくてよく、その成りすましたものがそう思えばいいこと。」

「成りすましたものがひどく居心地悪く感じることね。どんなことが考えられるかしら。」

「別に難しいことではない。」

「些細なこと全てに警戒している今のそれには、どんな小さなことでも強いストレスになりうるだろうから。」

「もう。それはなんなのよ、具体的に示してくれないと分からないわ。」

「そうだね、例えば・・、」

「ちょっと待って、隣の人があれに話しかけようとしているわ。」

「誰にでもなく、明らかにそれに対して話しかけるような感じよ。」

「もしかしてあれがそうだとあの人は知ってるのかしら?ねえ。いいの?」

「ああ。どうせそれにはなにもできない。眠ったふりをして無視を決め込むだけだろう。」

「成りすますとはそういうこと。ただ目立たないようにするしかできないし、それを望むしかないんだ。」

「そうなのね。」

「ただそうしたいだけなのに、そうさせてくれないのならそれは本当に嫌なこと。」

「その立場を捨てて逃げ出してしまいたくなるように。」

「だがあれはもうなり替わってしまっており、帰る場所はない。」

「だからただそれは自分の悲運に絶望して姿を消すことになるんだ。」

「そう。」

「しかし成りすましの罪はそこにある。」

「成り替わったにもかかわらずそこからまた姿を消すことで、その立場をもこの世から消してしまうんだ。」

「それはまた、もとの空席になった立場にうまく入り込んだものにも言えること。」

「それもまた同じような手順をもって消えることになる。」

「しかし結果的には世の中から二つの立場が消えてしまうことになることは確かなので、それは社会からすれば多大な損失にはなるのさ。」

「それがその罪なのね。」

「そう。」


「でもそれらには陥った逆境をなんとか押し返すという気概は起きないものかしら?」

「自分の立場を捨てたものたちだ。その運命を受け入れることすらできないさ。」

「それはどこに消えるのかしら。また別のものに成り替わろうとするもの?」

「僕らが見ているあれについては無理だろう。」

「そんなすぐにはできないことだ、なり替わるのにも非常にめんどうで手間がかかる準備が必要になるだろうからね。」

「そういうことを一番わかっているのがそれになるものね。」

「思うのだけどでもその罪は私たちが作ってしまうことにならない?それが消えるように促すのはこの私達だもの、今においては。」

「僕たちがそうせずともいつかは消えることになるさ。」

「だがあれにおいてはここで消えてもらわないと困るんだ。僕たちの立場からすれば。」


「ねえ、やっぱりこんな感じでコソコソ話しながらそれとなく眺めているだけでいいものなの?」

「ああ。今この時点でやれることなんてないさ。」

「私たちはこれからもその様子を見守ってやるだけになって、もしかしたらこのまま終わるとかっていうのもあったりする?」

「そうなる。」

「成りすましというものの悲しさをおもいながら胸を少しばかり痛めながらただ見てやるだけなんだ。」

「あと僕たちのできることと言えば。」


「なんだか半信半疑ではあるけど、あなたの話を聞く感じだと不思議と心強いのよね。」

「でもよ?もしもあなたの話しているとおりにならなかったら?」

「もしもそれによって取り逃がして見失うなんて結果になったらあなたはどう責任をとるつもりかしら?」

「責任を取る?僕たちはそういうものじゃないはずだ。」

「そうだっけ?」

「そうさ、絶対にそうするんだから。なにをもってして、どのような手段でもっても。」

「そのためならなにが犠牲になってもかまわない?そこにいる多くの、いえ、ここにいる全ての人が不幸になっても。」

「関係ないさ。」

「あなたはそれを考慮にもいれていないということね。」

「僕らはただ僕らの目的を果たすだけ、そのために取りうる限りの方法を取る。」

「私達に失敗という概念は存在しないと。」

「そうだろう?」

「ええ、でもとても厳しいわ。」

「僕らの直面する現実は普通ではないからね、それらはひどく恐ろしくそして厳しい。 」

「それに対面する私たちは常にそれらを上回る厳しさをもってそれらを跳ね返し、退けていく者。」

「そう。」


「でも大丈夫?なんだか呼吸が速い気がするわあなた。もうちょっと落ち着くべきよ。」

「そうかな。」

「ほら、安らぎの光景を思い出して。」

「できればその景色だけでなくそこにあなたがいるその模様を思い浮かべるの。」

「すぐさま思いつけないのなら、いいわ。教えてあげる。」

「あなたは今、身体を前後と左右と上と下に少しばかり揺られながら小さな木箱みたいなものに腰かけ、背中の上のほうを角度の厳しい背もたれに押し付けている。」

「何両編成かは知らないけどとても長いことは、その乗客たちの物腰や態度でなぜかわかるもので、その会話達のすべてにあなたは関係していることはないの。」

「そんなあなたは寂しそうにしているかしら?」

「どうだろう。」

「そう言いつつ、きっとそう思ってはいないのよ。あなたはむしろそのほうが自分にとって都合がよく、心地よいものだと感じているものだから。」

「そうなのかな?」

「そうなのでしょうね。」

「人の会話なんてものは聴こえることができればそれに自分が加わらずとも、その人たちの気分にはなれるものだし、面白味だって十分感じることができる。」

「あなたは過去にこういう経験をしたことはない?」

「横から聴こえてくる会話を、聞いていないという態度を取らないといけないながらも、そのおもしろさに思わず顔がほころんじゃう感じ。」

「まったく知らない人たちの会話にも関わらずね。」

「笑いをこらえられなくなる感じ、そんなにあるわけじゃないがまったく無いわけじゃない。でしょう?」

「話をしている人たちとなんら変わらない気分を味わうことができるなら、その当事者になったってならなくたって変わらないのだから。」

「あとは自分だけが誰とも話していないというその見た目だけなんとかすればいい。それさえ気にならなくなれば、それはいいことづくめなんだから。」

「そうかな?」

「だって疲れないじゃない。その会話のテンションがいつか下がってしまったってそれは自分のせいじゃないのだし、無言になってなんだか今までスムーズに話せていたのに急に気まずくなるなんてことを、恐れる必要もないしね。」

「もちろんそうなったらあなたもまた、微妙な気持ちにはなるでしょうけど、所詮関係がないのだから、もう見ないようにすればいいのだわ。知らんぷりしてしまえば。」

「これは会話をしている彼らにはできないことでしょ?」

「そうだね。」

「また興味を引く会話や、聞くにためになるもの、聞き逃したくない会話というものはそこにおいてもきっと一つか二つくらいは必ずあるもので、誰かとくだらない会話をしてしまっていては、それを盗み聞きすることもかなわないものね。」

「なんだかそれは、テレビか動画を見ている人のような立ち位置と同じ感じに聞こえる。」

「そうよ。だから人は、自分でそういう映像なりなんなりを作ることなく、見ることばかりに時間を消費することを選んでいるじゃない。」

「実に多くの、ほとんどの人がそうであるはずよ。」

「でも見てばかり、聞いてばかりでは結局なんの感慨もなにも自分に残らない。自分が旅をしたり何かを作り上げるわけじゃないのだから。」

「それはあなたやそのほとんどの人がそう思い込んでいるだけだと思うわ。」

「そうかな?」

「本気で学び取ろうと思えば、それはどんなものでも血とし肉とすることができうるものなんだから人は。」

「あなたは、そう実感できなくても、あなたの身体か頭はちゃんとわかっているようで、なんだかケラケラと楽しげな感じの会話よりも、自然とその奥の方でされている別のコソコソ話のほうに意識が集中していくことになるわ。」

「コソコソ?それはどんな会話?」

「コソコソするようなもの。それはある人についてのこと。そのある人は彼女たちとどういった仲なのか私たちは知らないし、もしくはまったく関係ないかもしれないし、それは別に悪口ということでもないのだけど、でも人について話している姿って、なんだかそういう風に見えてしまうものじゃない?」

「もうわかるでしょ?彼女たちはそう見えてしまうことを嫌って、声を抑えて話しているということなの。」

「その気持ちはわからないでもない。」

「その人はなにを話題にされているものだろう?変わった趣味があるとか?またはデザインの凝った、どこで買ったのか知りたくなるような服を着ているとか。」

「いいえその人はね、いつも口を押えている人なの。」

「口を?」

「ええ、こうやって片方の手のひらで常に、咳でつばが飛ぶのを防ぐみたいな感じで。」

「どうして?」

「なにか特別な事情があるのかしらね。」

「思ったことをすぐに口にしちゃうような人で、それによって重めのトラブルに巻き込まれて今までひどいことに遭ってきたとか?」

「そう思う?」

「そういう人だからなにがあっても意に返すこともなさそうな気がしている。自分におけることについては。」

「それよりもそのことによって誰かを傷つけてしまって、それについてはちゃんと後悔して反省したりなんかして、そのためにそんな慣れないことを始めたとか。」

「どうかしら?」

「そうね、なにかしら変わった人ということに変わりはないけど、でもその人はそのようにすることで守っているのよ。」

「守ってる?やっぱりそういう周りの、特に大事に思っている人の心なりをってこと?」

「いいえ、自分の口を。」

「口を?物理的な話?それともなにか比喩的なそういう感じのこと?」

「前者になるわね。もちろんそれがなにかおかしな形をしているとか、色をしているとかで、人の目から守るってそういう意味でもないのよ。」

「それは外部からの脅威に対抗してそうしているものなの。」

「外部からの脅威ね。もしもその人が他人となんら変わらない口をしていて、アレルギーがあるとか特別体が弱くて雑菌への抵抗力が足りないとかそういったこともない、大多数と同じ感じなのであれば、その人はどんな脅威を感じているものかしらね。」

「あなたはこう感じている?そのなにかはまだわからないけどきっと、それはその人の思い過ごしなのだろうって。」

「そうね、隠さずに言えばそうなるわ。ただそう思うのも仕方ないと思わない?」

「ええ、でもその人にとっては大事なものなのだもの。」

「誰でも初めての口づけは大切にして守っておきたいものでしょう?」

「最初の口づけは本当に好きになった人のためだけに守っておきたいか、そう考えるのならその人は女性なのでしょうね、年端もいかないかわいらしい女の子。」

「そうでもないのかしら。年齢は関係ない?」

「どうでしょうね。」

「でもそう考えるなんてきっととても純粋なのね。」

「この唇は未だ出会わぬ、私が好きになるであろうその人のもの、だからそうでない人に奪われてしまうなんてことはあってはならないし、間違って転んだり、出会いがしらで誰かの口とくっついちゃうなんてこともダメ。」

「だけどそう思いたい気持ちもわかるけど、常に口を抑えているなんて無理があるわ。」

「手が疲れてしまうわね。」

「ええ。」

「じゃあどうすればいい?」

「そうね。」

「彼女のしようとしていることは無理のあることだって、わかってもらうしかないわね。」

「彼女を心配する誰かによって説得してもらえれば。」

「そんな人が彼女にいればいいけどね、もしいなければ彼女はこんなことを考えるかもしれないわ。」

「例えば大声で叫び続けてみるとか。」

「それもどうかしら。」

「その内容はしかも目の前の人の秘密、ということがいいのかも。」

「どうしてそんなことをするの?」

「そうすれば塞ぎたくもなるでしょう?手で。いいえ、塞がざるを得なくするのよ、彼女は。」


「どう?ためになりそう?」

「どうかな。」

「そもそもあれかしら?」

「落ち着く風景を思い起こさなければならないのに、たくさんの人で満たされたたいして広くもない、そんな空間を思い起こすなんておかしい?」

「そんなことはないよ。」

「じゃあ、席に座っているあなたのすぐ横をとても細いパンツスーツに身を包んだのが、わりと頻繁に

「ゴムのパタパタとしたものでもなく、カツカツとした音をさせながら横を通過してもいいもの?」

「その人はなんだろう?車掌かな。」

「あなたの思う通り女性のね。」

「ああいう制服って着ぶくれしてしまうものだけど、女性に限ってはシルエットがとても細くてね。」

「ただでさえ近づきがたい雰囲気があるけど、腰に掛けた鋭そうな剣が収められた鞘の黒が怪しくテカっているし、角の鋭い円柱の帽子の影からは、驚くほど鋭い目が覗いていて、なにかを狙っているように見えて仕方ないものだから、あなたはやっぱり落ち着くことはできないかもしれないわ。」

「やっぱり別のものにしましょうか。」

「別のものがあるのなら。」

「あなたにはこんな二人の話でもどうかしら?」

「それはちょっとかわいそうな二人になるわ。」

「かわいそうだから、そういう会話しかできないのよ。いつまで経っても。」




「外観からは想像できなかったけど、中は結構高級そうでいいホテルよね。本当の所は泊まったことがないから分からないけど。でもこういう大理石とか金色とかを使わない、シックな上品さが私は好きよ。とてもセンスがいいと思う。ねえ、それ置いてこれなかったの?」

「これ?」

「違うわよ、私の財布類が入ったバッグじゃないそっちの手のほうの方、コーヒーカップの方を言ってるんでしょ。」

「あぁ。急に呼ぶものだから、テーブルに置いてくるのを忘れてしまったんだろうね。なんだかこのコーヒー、飲んでると気持ちわるくなってこない?」

「あらあなた、初めのうちは薫り高い上質な豆を使っているなって感じのことを目を瞑って私に語りながらおいしそうに口に含んでグジュグジュなんてしてなかったかしら。」

「そうだった?」

「何杯も何杯も同じのを飲んでるからそうなるのよ。たまには違うのを口に入れてみたらどう?どうせここにいる間といったら飲み物はタダで手元にできるのだもの。でもだからこそあなたはそれを飲み続けるのでしょうね。」

「そうだよ、これが一番原価が高いに決まってるんだから。だから僕がコーヒーを飲めば飲むほどホテルは困ることになるんだ。」

「そんなあなたじゃ、みんなから嫌な客と見られてるんじゃないかしらね。」

「嫌な客?それはやだな。それになんだよみんなって。」

「なんでもいいけど無駄にガブガブ飲むのは止めなさい。みっともないわよ。」

「さっきから僕たちはどこへ向かってるんだろう?キミの言う通り黒と灰色をベースとしたシンプルシックで踏み心地の良い柔らかい板張りの床と、それにふさわしい形状で、近くに鼻を近づけようものならその出来上がったばかりの工業製品のにおいがしそうな壁と天井でできたそのホテルの通路の中をそんなにプリプリ急いでさ。」

「あなたから見ればこの振る舞いこそ見苦しい?でもしょうがないわ。人を待たせてるのよ。」

「人?誰を?」

「あ、見て。あの観葉植物、花が開くのね、綺麗じゃない?」

「そう?」

「こういう室内に置かれた鑑賞用の植物なんてみんな使い捨てなのかと思ってた。」

「そうかな、あれも花をつけてはそのまま枯れてしまうものなんじゃないかな。」

「まあそうかもしれないわ。でもさっき声を掛けられたのよね。本人はそれとわからないようにしてたみたいだけど終始キョロキョロしてどことなく不安そうにしてたから、きっとなにかわからないことでも聞こうなんて思ってるんじゃないかしら?」

「それで答えてあげてる内に話が弾んで仲良くなったってこと?そうならいちいちぼくに紹介してくれなくていいんだけどな。キミの交友関係に興味がある訳じゃないから。」

「ちょっと、急いでるのに立ち止まらないでちょうだいよ。それに彼女とはまだ仲良くなったわけじゃないの。」

「そうなの?」

「彼女の質問に答えてあげたわけでもないわ。声を掛けられて間もなく私は、待って、ちょっと連れを連れてきていい?別に怖い人じゃないから大丈夫よ、特別人好きのする顔ってわけじゃないけど目も当てられないようなものでもないから的なことを言ってあなたのもとに走ったものよね。」

「だったらなおさら呼ばなくていいじゃないのぼくなんか。物知りな訳じゃないんだからさ。」

「そんなの知ってるわよ。いいでしょ?不安なんだから。」

「そう。愛想くらいは振りまいてあげるけど、ぼくからは極力なにも言わないからね。」

「あなたこそがシャイだものね。」

「違うよ、コーヒーのせいで喉がスカスカなんだ、なぜか。本当のことを言えばキミとこうして喋るのさえ結構つらい。」

「今頃言われてもね。ほら、あなた見える?」

「なにが?」

「ホテルの暖かみのある内装と、ゼブラを思わせるストライプを主張しすぎないなんだかこれもモコモコした柱が魅力的な間口の広いラウンジが目の前に広がってきたのはわかるわよね。」

「宿泊客もある程度いるようだけど、どれもいい感じ気の抜けた顔をしている。みんながみんなアルコールに浸ってるみたいだ。」

「そうよね。でも見て欲しいのは私達が今歩みを進めているまっすぐ先のその奥。」

「小さいカフェがあるね。あそこではぼくは飲まない。」

「無料じゃないものね。でも決して小さくはないものよ。店構えは小さく見えるかも知れないけど、あそこら辺一帯の木目調のアクリルパネルみたいなスチールのテーブルと椅子の類はぜんぶあそこのお店の持ち物なのだもの。」

「そうなの?知らなかった。じゃああの辺にいる人はみんなあのカフェのお客ってこと?」

「いいえ、そうではないけど、お店がなんにも言わないだけ。恐らくあのカフェのスペースはあの1/4も割り当てられてないんだろうけど、お店の方で勝手に置いてしまってるのね。パブリックスペースというやつよ。」

「それはいいけどさ、あの中の誰なの?」

「誰であって欲しいかしら?」

「今から選べるのなら、もちろんあの金色の長い髪をした人かな。」

「ストレートが輝くように美しい人?」

「そう。白地に青のワンピースがよく似合う人。でも大概こういうのってさ、期待を掛けるとろくなことにならないんだよね。それでその人のずっと手前にいる黒いハットを被ってる怪しげなのだったりしちゃうんだ。」

「あなたはそのほうがいいの?」

「いいや。」

「じゃあいいじゃない。あなたの希望通りのあの人で。」

「そうなの?」

「よかったわね。でもよく見てね、あの人、天性のきらびやかさはあるけど、令嬢ではないようなどことなく一般市民を感じさせるオーラではあると思うのよね。なんとなくそう感じない?」

「ちょっと感じる。でも美人だけどね。もしかしたら、声をかけるのは僕たちのほうなんじゃない?」

「そうだったかしら。まあいいじゃない。」



「この正方形のテーブルにちょうど4つの席、私達はどこに座ればいいかしら?あなたの正面と斜め向かい?それとも両斜め向かい?」

「どこでも。」

「よく言うわよね。カップルの、しかも会って1回目くらいの言うなればお見合い的な初めの1回目の会食かデートか様子見かというときには、お互いに座るその位置取りが大事だって。でもその場合だとカップルって言わないかしら?カップルって付き合ってる二人について言うのだっけ?忘れたわ。ただ、男は次回以降もその女性とうまくいきたいなら、正面に座ることはなるべく控えた方がいいことは確かよね、常識なのよこれは。もしお店にカウンターがあるのであれば肩を並べて座ったほうがいいし、今回のような四角い形状のテーブルなら絶対に女性とは斜めのどちらかに座るべきなの。なぜかはわかるわよね?」

「相手に緊張させないため?」

「そう、緊張感を女性は警戒感とよく勘違いしちゃうものだし、そういうちょっと残念な生きものだと私も女ながら思うものだから、そういうの達に対してはそういう感じをそもそも持たせないのが正解なのよね、男性としては。」

「大変よね男って。ちなみにこれは付き合いが長いような二人にも言えることなんだからね。よくファミリーレストランやそうじゃない高級レストランでもいいわ、対面して座ってるカップルやそう座らせようとする給仕係の人がいたりするけど、あれは間違いなのよ。」

「それでお互いの心の距離的なものが遠くなるようなことになってもそれは当事者たち、つまり彼ら自身のせいになっちゃうのだもの。」

「彼らのせい?」

「そうなった責任は誰も取ってはくれないってこと。」

「たとえそう案内されたとしても無視してしまえっていうことだね。」

「その人たちはね。じゃあ私達はどこに座るのって感じになると思うけど、まあ、あなたの両斜め向かいに座ってあげたいわね。」

「カップルと同じように?」

「ええ、これって優しさだと思う?」

「やっぱり、こちらとしては斜めと対面にそれぞれ座ってもらった方がいいかもしれない。」

「そういう関係性にみられたくないから?周囲から。それともそういう関係に発展するような可能性はみじんも許してはいけないと自分に言い聞かせている感じ?」

「いいや、こちらとしてはそうだと囲まれている感じがしてしまうから。」

「そう。」

「なんとなくではあるがね。」

「気にすることじゃないわ。それにしてもここって良いホテルよね。くつろげそうだし、泊まっただけでなんだか偉い人になったような気分になれそうよ。それでいて、辺に形式張ってないっていうか肩肘をはらなくて良い感じ。」

「言うなればそうね、お客の趣向をよくつかめているけど、知られ過ぎていない感じのチェーン店に入ったときのような居心地とでも言えばわかるかしら。あなたはどう?」

「とても快適だよ。このホテルなら誰でもが嫌な気分にはならないものだと思う。設備やアメニティは最新のものがそろっていてサービスも行き届いているのに、それがさも当然のこととして全面に押し出されていない風なのもいい。よくよく見ると粗はあるのかもしれないが、そう感じさせないのはきっとホテルマン達が活き活きしすぎてないところにあるのかと思ったりもする。」

「活き活きとしすぎていない?」

「簡単に言えば横柄さが微塵も感じられず、それどころか彼等はみなどこか他人に対する負い目というか自分の存在のちっぽけさみたいなのをちゃんと分かっているようなような、言うなれば少しばかりわきまえた態度なんだ。」

「仕事で勢いづいてる人って、恐れるものが何も無いみたいな感じで周囲にそれが漏れ伝わってしまうものだものね。一見そういうのって頼もしくも見えるけど、見る人によっては、またこういうホテルの接客においてはそういうのを横柄だと感じたりする人が少ない訳でもないもの。私もそう思ってしまう一人かもしれないし。だからそれはそれとなくわかる気がするわ。」

「でもあなたはそんなことまでよく見てるわね。ここの従業員はどことなく寂しげな目の色をしているとか。どこに行くにもいちいちそういうのを見て回ってるの?」

「滞在期間が長いのさ。」

「どのくらい?」

「かなり長い。その間このホテルに泊まりっぱなしなものだから、それくらいは感じとってしまうようになっている。」

「どのくらいよ。」

「100日は超えないが限りなくそれに近いくらい。」

「そんなにね。」

「ここの客としてはめずらしくもない。多少多めではあるが、ここはそういう特別な場所だから。」

「確かにそうね。なんてったってここは世界最大のサーカスだもの。ってそれぐらいしか知らないのよね、私たちは。」

「そう。」

「よかったらあなたの知ってる感じのこと、この場所についてのそういったことを教えてくれないかしら。私達が間もなくチェックインする部屋に置いてあるパンフレットを見ればそれはわかるものだと思うけど、あなたはそれをちょっとでもないような感じで長いこと見てきたようだし、その結末をばらさない程度に話してもらってもいいわ。その雰囲気を感じたいの。」

「結末?」

「ドラマの最期の顛末をばらされないようにって意味よ。あなたは私達が先に知ってはサーカスを楽しめなくなるような、そんなことは避けて話す感じにすればいいの。」

「難しそうなことだな。君たちはどの程度知っているんだろう?ここについて。」

「今言ったとおりよ。世界最大のサーカスってだけ。本当に。」

「そういう客もいるんだね。」

「めずらしいかしら?」

「そうだね。だがここはキミの言う通り世界有数のサーカスになる。」

「普通のサーカスといえば各地をまわり、その度にテントを立てて期間限定で営業されるものだけどここは違う。ここは始まりから終わりまで終始この場所に留まり続けてサーカスは運営される。」

「いいや、そうではなかったか。ここにおいてはそれが終わりもしない。ずっとそれは続いていくものだから。」

「普通のサーカスと言えばシーズンごとに都市にやってきて開催して、終わったらすぐにどこかへいつの間にか去っていくというようなものね。そして彼等はいつも異国の人たちなのよ。」

「そういう普通のサーカスと違ってここにおけるそれは、あちらから来るものじゃなくこちらから訪れてやらなければならないもの。」

「ここはそういう場所なのね。」

「厳密に言えばここはまだサーカスの手前のホテルになる。サーカスに行くまでにはこのホテルの前の橋を森に向かって進み、ぶ厚い緑を抜けなければならない。もっともそれはたいした距離でもなく、せいぜい歩いて15分と掛からないだろう。」

「その奥にサーカスがあると。そういう厚い森の先に。ワクワクするわ。」

「その森を抜けたらどんな風景が広がってると思う?」

「森の向こうはサーカスだから、そうね、大きなテントが張ってあると思うわ。」

「しましまの模様が入った?」

「そうゼブラ模様の赤と青とちょっとした紫か黄色のどれか二つをとった帯模様で、あの独特とした形のテントが一つドーンと張られているの。森の広間の中に。」

「幻想的な風景だ。」

「森の中にひっそりと、それでいて堂々とそれは聳えてるの。ひょっとしたらテントを固定するワイヤーのいくつかは森の大木に痛々しくもくくりつけられているかも知れない。」

「そういえばキミの言うのは、屋内型になるのか。」

「屋内型?そうよ。他に何があるの?屋外型というのもあるわけ?」

「そうさ。君は知らないだろうが、昔のサーカスといえばそれは屋外で開かれるものだったんだ。」

「屋外型って?文字通りテントを張らないなか野外でサーカスを開催するってこと?」

「そう。」

「屋外でなんか空中ブランコやら綱渡りなどアクロバティックな演目なんかを、団員たちはどうやればよかったのかしら?」

「2本の鉄柱を地面に突き刺して、その頂上通しにワイヤーなりを張ればできるだろう。もっとも昔じゃそんな演目はなかっただろうが。いいや、あったかもしれない。」

「ここのサーカスは屋外で行われているの?それもなんだか新しいわね。」

「君たちにとっては逆に?」

「ええ。夜空の星を背景に空中ブランコから飛びたつのを想像するとちょっとロマンチックな気分にならない?スパンコールの入った衣装が時折キラキラと怪しく光るのよ。それに屋外だから開放感があって、夜ということも相まって、観客に一体感というか不思議な感覚が生まれそう。私たちとしたら野外コンサートやフェステバルなんて行ったことないものだけど。」

「そうだっけ?」

「知らないわよ。行ったとしてももう忘れてるってこと。でもってそういうものに行っちゃうような人達のことをなんとなく見下してたんだけど、きっとそういう人たちを魅了して離さない、そんな感覚を味わえるのかしらね。ちょっと楽しみになってきたわ。いいえ、楽しみが増した感じね。ドキドキもしているの。」

「そうならちょっと残念だけど、ここのサーカスはそういうものではないかもしれない。それらはテントの中で行われるものだから。」

「なんだ、やっぱりそれは屋内でのものなんじゃない。普通のやつみたいに。」

「そうさ。でもきみの思ってるサーカステントの風景とそれらは大分違う。きっとそうだ。」

「違う?だったらどういう風に?それくらいは知りたいものよね。」

「いいのだろうか?話してしまって。」

「いいのよ、それくらいは。」

「そう。」

「そうなのよ。」

「夕方になり適当なドリンクをいっぱいくらい飲み終わると間もなく闇が迫ってくる。そんな頃、僕たちはサーカステントへと繋がる橋を目指し始める。」

「夜に向けて?」

「そう。それを渡り、森の中をぞろぞろと続いていきしばらく経つと、緑の切れ目の中に巨大なサーカステントが覗くようになるんだ。」

「だけどそれは見知っているようなサーカスのテントといったものとは違って、そこには大小様々なテントが連なっていると言うよりもお互いにくっつき合っていたりする。それは奥に行くにしたがって大きくなっていく傾向みたいなものがなんとなくみられるようで、それを前にしている僕らからはまるで丘の上にそびえる都市を見上げているような感覚になるんだ。」

「テントの都市ね。でも複数のテントってなにかしら?そこが普通とは違うっていう所よね。」

「そうなるな。」

「もしかしてやる演目ごとテントが設けられてるって感じ?お店で言ったら専門店みたいな。」

「そうではない。」

「だったらなあに?一つ以外、たぶん一番大きいそれがサーカステントになるのでしょうけど、他はそうではない、グッズ売り場や休憩所みたいな感じ?」

「もしくは宿泊所があったり。」

「ここにホテルがあるのだからそれはないさ。」

「じゃあなによ?それらは。」

「それらだけじゃない、それら全ての一つ一つがサーカス団なのさ。」

「テントの一つ一つがサーカス団?」

「そう。ここはいろいろなサーカス団が1カ所に集まっているサーカスの集合体なのさ。ここにいるだけで小規模なのもを含めれば数百ものそれらを楽しむことが出来るようになっている。」

「数百?」

「もちろんそれは全体の団員の数のことになく、そこにいる団員の数の総数にしたらもっとすごいことになる。それを聞いて君は信じられるかい?」

「そうするには実際この目にしてみなくちゃならないみたい。でもそれが仮に本当のことなら、ここはまさにサーカスの祭典みたいな感じね。もしくはサーカスのショッピングモールと言うべきかしら。いいえ、博覧会、いや、もうここまで来たら街どころか都市と言えるわ。じゃあその見た目は本当だったのね。」

「サーカスの都市、確かにそう呼ぶ人もいるが君たちはここにいる間にどんな人とどのくらい、何人くらいの他人たちと言葉を交わし会話に発展させるものか知らないが、その相手の人たちは一様にこの場所のことをこう呼び、君たちは何度もその名を聞き、そしていつの間にか自分の口を使ってこう呼ぶようになるんだ、サーカス・バルーンと。ここはそう呼ばれている。」

「サーカス・バルーン、そういう名前なの?」

「これが正式な名前なのか正直なところわからない。実のところ僕はそう明示するものをここにおいて未だ見たことがない。」

「そう呼ばれている根拠があなたにはわからないということ?」

「よくよく考えてみてそしてそれを確かめようとした人物ならそう意識することになるだろう。それは誰かがどういう理由か知らないがそう口にし始めて、誰もその由来を聞くことなく自然と客たちの間で広まったものなのかもしれないと。」

「そう。でも不思議なところ。本当に多くのサーカス団が集まってこういう場所ができたのね。」

「君たちは本当に何も知らないままここに来たようだ。」

「そうよ。あなたはだから私に声を掛けたりしたのかしら?いかにももの知らずな顔をしたやつがいる。どれ、自分の知っている知識に関してでも語ってやれば気分よくこの暇も潰せるだろうだなんて。」

「キミ達はこの中、ことここのラウンジにおいてはどことなく新しい目をしていたように思う。だからそうなのかもしれない。」

「そう。」



「君たちはこれからチェックインするということは今日の今日のいまの今、ついさっき電車で着いたばかりなんだろうが、何日間滞在する予定にあるのだろうね。」

「私達は4日間だけ。だからてっきり、同じサーカス団が一日ごとに違うコンセプトのショーか、違う演目を行うものだと思っていたものよ。ほら、今のサーカスってどことなくストーリーめいたなにかが取り入れられているものが主流じゃない?」

「ああ、わかるよ。」

「でも今券を見て気づいたんだけど、この券はよく見るとサーカスの券と言うよりはこのホテルの宿泊券なのね。もっと前に気づいてれば、ここが普通のサーカスじゃないって気づくこともできたものかもしれないのに。」

「そうかな。しかし4日間か、それではたくさんある内のサーカスのいくらも見ることができなそうだ。もったいない。何を見るかはもう決めてきたのだろうか。ああそうだ、君たちはここがそういうものですら知らなかったんだった。」

「そうよ。高々とそびえているかもしれないテント達の、どこでどのどんなサーカスが催されるか、そういうものを案内したパンフレットなり資料をあとでちゃんとみてあげなくちゃ。」

「残念ながらそういうのはないだろうな。」

「ない?」

「ここは一つのテーマパークといったものじゃないから。」

「そうなの?ひとつもないの?そういったのが。」

「ああ。」

「そうなの。あったら便利なのにね。」

「まず、サーカス「バルーンは一つの団体で運営されてるわけじゃない。またそこにはサーカス団通しの組合や、持ち合い組織といったものはなく。連携も薄いか無いに等しい。各サーカス団はそれぞれ独自に運営されている次第さ。」

「一つ一つがバラバラの勝手気ままにサーカスを催しているってこと? 」

「そうなる。」

「まあ。じゃあどこにどのサーカス団がいてなにが行われているかなんてわからないじゃない。」

「そのサーカス団も規模の小さいものにかかわらずある程度大きいものに至るまで、日々出入りや入れ替わりが激しく行われているようだ。たとえパンフレットを作ったとしても次の週には使い物にならなくなってしまうだろう。」

「そういうものなのね。」

「ここに限ってはそうなのさ。」




「ここに来る間の列車は疲れなかっただろうか?随分長いこと揺られていただろうに。」

「5日も掛かったのよ。みんながみんな、あなたもそうだったでしょうけど。あれは専用の列車になるの?」

「どうして?」

「そう感じたから。」

「だったらその感覚は正しい。列車に寄らずレール自体がそうなんだ。それだけじゃない。その線路を敷くための鉄道橋やトンネル、それに付随する設備の全てがそう。この駅まで列車は止まることなく走り続けて来ただろう?」

「そういう感じはあるわ。サーカスラインとかなんとかなんて書いてあったけど、本当にそれだけのためとはね。でも疲れたかと聞かれればそうでもないの。狭いけどそれは半分寝台列車のようだったし、乗ってる間殆どの時間は寝てばかりいたもの。列車の振動がそうさせたのかしらね。わかるでしょ?そういう人と列車との間であるそういう現象のこと。」

「眠りこけるのに実に相性がいいということを言っているのだろうか。まあそれもあるだろうが、それが全てではないかもしれない。」

「休日の昼間なんかは家にいたまま外出していないと絶対に昼寝してしまうような感じだろうから、人はやることがないとすぐ眠くなる生きものってことなんだと思う、そういう感じ?」

「ああ。」

「確かにやることなんてなかったわね。そんなものだから生活パターンは崩れに崩れちゃって、大体が昼の14時くらいに目が醒めるようになってしまうの。5日間の列車の旅だったけど、そのうち9回くらいは眠っていたわ。だけど眠っても眠ってもやっぱり6時間か12時間か、ときには3時間くらい経つだけでまた眠くなってね。それで周囲を見回すとやることなんてなくていつでも眠ってかまわない状況なものだから、そこで私は枕と布団をチラッと見て迷わず横になってしまうのよ。」

「それは景色を見ていてもそうなるし、本を読んでればなおさらそうなの。ただそういう眠りって浅いものじゃない?だから夢を見やすい、いいえ、覚えていやすいものにはなるものよね。だからこの列車の旅で私は様々な夢を見たわ。それらは私の見聞きしたものと関連のあるものばかりじゃなかったし、こんな夢を私見るのねって思っちゃうようなものばかり。だけどそれらはやっぱり夢だから、今こうして話している内にも砂のお城が崩れ去るみたいに一気に形を持たないものになっていく。ただ一つだけ形の崩れないような、そんなお城はあるのだけどね。」

「それはどんな夢?」

「わからないの。」

「分からない?」

「その夢だけはどんなだったかどうしても思い出せなくて、それでいて形だけはしっかりと残ってるのよ。まるで砂のそれの中に隠されていた黒い木箱。形はしっかりしてるのにその中身が分からない。まあいいわ。どうせこれからの人生にそんなのは関係ないことだし、それに代わりはないから。それだってじきに箱ごと私の頭の中から姿を消してしまうのよ。」

「そう。列車の1階部分にある食堂の食事はどうだったろうか。」

「レトルトの袋から出して自分で暖めるやつ?文句ないわ。普段の私達の食事はあんなものよりも結構悲惨なものだから。それに比べれば味も良いし量も十分。ただちょっと思ったのは、列車に積んでる食事は結構余っちゃったんじゃないかってことね。私が心配することじゃないと思う?」

「いいや、そう思うのは自由だ。」

「生活リズムがはちゃめちゃになった私達乗客なものだから1日の多くを眠りすぎて、自然と食事の回数も減るものなのよ。最初はそうじゃなかったけどいつしか食堂車両に下りてくるのも、1日に3回から2回に減ったりしてね。」

「その分の食料が余ってしまったのではということだろうか、そうあなたは思ったりしない?」

「思うね。」

「そうよね。レトルトといってもよく見たら消費期限が数日間くらいしかないような鮮度重視のものだったから、きっとあれらは廃棄に回されることになるんだわ。まあこんなこともすぐに忘れるだろうけど、ちょっとそう思っただけ。感情的なものがあるわけでもないもの。」

「すっきりしない気持ち悪さ、引っかかりもしないがちょっともったいないといったようなことを感じているんだろう、君は。」

「ええ、そうでしょうね。」

「だがそれならその心配はいらない。」

「分かってるわ。今言ったとおり私は私がどうこう思うことじゃないこともちゃんと理解してるもの。」

「そういうことじゃない。そう心配するだけのことが実際には起こらないってことを言っている。」

「余った食材は廃棄にはならないってこと?なるほどね。じゃあそれらは何になるのかしら?肥料?それとも飼料か、もしくは列車の非常用内燃機関の燃料、もしくは実際の運行に必要な燃料だったりして。」

「いいや違う。廃棄にはならないということさ。」

「ということはそういうことなのね。まあ食品業界においてはないこともないものと私も思うものよ。本音と建て前は重要だし、それらは同一でなく、きっと別なものであるべきだわ。そうでしょ?」

「だって事故が起きているわけではないのだもの、だったらそれはそうされていたとしても問題はないってこと。逆に無駄を出さないのはいいことよ。私もそう思うわね。」

「それはそうかもしれない。だが日付の付け替えや廃棄品の再包装といったことならそれも違う。」

「そうなの?」

「そもそも余ることがない。」

「余らない?どういうことかしら。」

「そんなこと最初から分かっていることなんだ。」

「どんなことをよ。」

「君が見た通りのことさ。乗客の食べる回数が減ることなんてことがだ。だから列車には前もってそういうのを見越しただけの数の食料しか積んではいない。」

「まあそうなの。でも不思議とわかっちゃうものなのね。人の深層心理の分析とか難しい計算など駆使してそうういった専門的なことをはじき出してる感じなのかしら。」

「大して難しいことはしていないのだろう。これまでの経験上そうだと分かっているだけ。だが効率的ではあるものの、リスクが高いことをしていると君は思うだろうか?」

「ええ思うわね。そうなら電車の運行会社はこれまでの経験を信じ過ぎてるわ。」

「信じているのは経験というより傾向になる。もっとも信じなくてもそれは裏切ることもないがね。」

「裏切ることがない?」

「そう。傾向というものは一度そうと決まってしまえば、それはそれが続く限り寸分の狂いもなくそうあり続けるもので、これは以外と知られていない事実として認知されていること。傾向というもの、それはこの世で最も信頼すべきものの一つとしても知られている。統計学者を含めた科学者達の間では。」

「そうならないときはないの?」

「ない。」

「本当かしら。」

「たとえ生活リズムが崩れたのにも関わらず食いしん坊なためか、食事をきっかり3食採り続ける人物が一人出たとしよう。するとどうなるか。君たちにならなんとなくわかるんじゃないだろうか。」

「その話によるならね。その分1日に1食しか食べなくなる人が一人現れる。」

「そう。だから総数は一緒になる。そういうものなのさ。」

「そういうものなのかしら。」

「ごく限られた人物しか意識してないが、この世界には確かにこれらを支配する見えない法則がある。その人物たちの話によれば、それらからは抗いようがないしそもそも戦いようがない。ある意味恐ろしい存在なんだそうだ。」

「まあ私としては、おいしく食べられたからそれはそれでかまわないわ。」

「君たちは列車の旅を満足できたようだ。」

「そうね。あのだらけた日々から普通の日常に復帰するのがちょっと辛いんじゃないかってことが心配なくらい。乗客の人達も陽気だし、紳士淑女ばかりで全然変な人は居なかったわ。ん、でもいたわね変なのが。マントを被ったまま5日間の間ずっと微動だにしない、大きな図体をしたのが。」

「目だったろう、そんなのがいたなら。」

「一人じゃないのよ、何人かいたの。あれはなんだったのかしら。まあ害があった訳じゃないから関係ないし興味もないわ。あと強いて言うとしたり一つ気に入らなかった点を述べよとも言われたなら、私は窓が開けられない所をあげたわね。」

「確かに列車の窓は開けることはできなかった。」

「開けられないというか窓に触ることすら出来ないのよね。列車内の私達乗客が立っているっているところと窓や内壁までの間にはなんだか深い溝ががあって、こちら側には柵めいた手摺りが付いていてね。目の前にはちょっと離れた位置に窓があるんだけどちょうど手が届かないくらいなのよ。」

「君は窓を開けたかったのだろうか?」

「悪いことじゃないでしょ?車内がちょっとばかり暑いとか蒸したとかじゃないのよ。列車に揺られてると自然とそうしたくなるの。もちろん都心で使われるような通路を真ん中に対面するタイプの座席に座ってるときじゃなくて、4席でひとつのボックスになるような感じの古くさいタイプに座っているときだけね。その列車においてはそうじゃなかったけどそうしてみたくなったのよ。」

「なんとなくわかることもあるかもしれない。」

「そう言う割にはなにか奥歯に物が挟まったというか、耳垢が気になるようなそんな目をしているわね。そう見えるだけかしら。声をかけたはいいけど私達との会話がつまらない感じ、なんて思っちゃっていたりする?」

「それともあることを心配して話が頭に入らない感じかしら?」

「心配するあること?」

「あなたがいつ頃ここから姿を消すことになるのか、それは私たちよりも先になるのか、それとも後に来た私たちが先に帰っちゃうことになるのかそれはわからないものだけど、もしもあなたが帰るときのことについて思い始めているのなら、ある不安があるはずじゃない。あなたは。」

「それはこの僕特有のことになるだろうか?だとしたら君たちが僕についてなにを知ることができたものか、今までの長くもない会話の内容を思い起こさないといけないかな?」

「ここで私たちが急に席を立ってどこへともなく姿を消し、あなたは私たちとそのまま二度と会えなくなるようなことになれば。そしてその後も私の言ったことが気になって仕方ないというような心情にでもなろうであることを予測できたならね。」

「もっともそれはいったいなんだと思いを巡らすこと、それ自体を楽しみたいのならそれはそれでいいものよ。」

「僕はすぐに聞くべきなんだろう。僕は一体何について不安にならないといけないのだ?」

「それは別にあなたに限ったことじゃないわ。このホテルにいる人ならみんなそうよ。あなたが特別なわけじゃないのならね。」

「みんなが帰るときになったら心配しなければならないことか。」

「ほら、一人だけが選ばれてしまうやつ、そう聞くだけであなたなら思い出すはず。」

「一人だけが選ばれる?」

「思い出せない?」

「おそらく僕はそういった話を聞いていないんだと思う。」

「そう、あなたの耳にはまだ入っていないのね。この噂が。」

「これは行きの列車、つまりこちら側にくるその中で聞いたか聴こえて来たのを勝手に聞いたものなのだけど。帰りの電車でね、乗客の一人ともなく複数の人が馴れ馴れしくも声をかけてきて、あなたに決まったようですねって言ってくるのよ。おもむろに。」

「決まる?」

「それは座席の番号でそうなるみたいね。」

「なにが決まるんだい?」

「その人たちが決めたわけじゃないのよ、その人たちも誰かからの又聞きで巡り巡って噂話として回って来たのを言ってくるだけ。それはいつ、どこの誰から流された噂なのか、たとえそれを知ろうと辿ったとしても絶対に分からないようになっているのだって。」

「噂によれば?」

「ええ。それは抽選かなにかで決められるものでね、乗客の全員を対象としたものだから、誰にでも選ばれる可能性があるものなの。平等でしょ?」

「それがなにかは知らないが、大勢の乗客の中からたった一人だけが選ばれるわけか。」

「そうとも限らないわ。その人が誰かと一緒に来ているものならそのパートナーも一緒に選ばれるし、親友達となったって同様なの。選ばれる単位は人数によらず一組ってことなんだから。家族で言えば一世帯ね。」

「でも選ぶ必要があるのはたった一人だけみたいだから、その選ばれた人が一人で来ている人になるならその犠牲になるのはたった一人だけ、ということになるわ。」

「そう聞いてあなたはその一緒に来た人が多ければ多いほど、それに選ばれてしまう可能性が高くなるなんて考えるかもしれないわね。」

「その集団の一人でも選ばれれば、その集団みんなが選ばれたことになるって考えるならね。」

「でもその逆もある。その人たちは一緒にきた一組ということなら、抽選の対象になるのも一カウント分だけだったり。実際にはどうなのだろう?」

「さあね。抽選における集団の扱いがどうなっているかは知らないわ。」

「それによって団体の人たちが取るべき心情や覚悟の度合いは大分違ってくるのだろう。」

「でもあなたの気になるのはそこじゃないでしょ?」

「そうだ。犠牲になるってどういうことなんだろう?」

「炭にされてしまうのよ、選ばれて下手したならね。」

「炭?」

「それは頭の中のその中心から始まるの。だからその人は態度にはなんら表すことなく、瞼を開けた状態か、閉じた状態でピタッと止まって、しばらくすると顔の表面がその肌や毛の色そのままにいつの間にか質感がカチカチになって、細かいところでそれらの形状が炭のようになってね、もう少しくらい経つとそれはもう炭そのものになってしまうのよ。」

「もちろんその炭が着用していた服までがそうなるわけじゃないことは、誤解される前に言っておくわ。」

「でも想像してみて、人が突然にゆっくりと硬くなって最後は炭になっていくその模様を、その見た目はなんだかとてもかわいそうなものにはならない?人がそんな感じになってしまうなんて。それは瞼を開けていても閉じていても同じ。」

「普通目にするものじゃないだからだろうか。」

「でも大丈夫、その他の乗客もまたそうだから。周囲の人たちはどんなに近くの席にいたとしてもその様子を見ることはないの。」

「それはなぜか。」

「なぜだろうね。」

「それはあなたが疑問に思っていることの答えに関係しているものよ。」

「人が炭になんてどうやってされてしまうものなのか。」

「いろいろな疑問が頭の中にありつつもあなたはそう思っているものね。」

「他の乗客から回って来た噂によってどうやら自分が選ばれてしまったと分かったなら、それからはもう抵抗すらできないの。あなたがどんなに逃げ足が速く、隠れ潜むことが得意だとしても同じ。どのような方法でもってもそう。」

「それはなぜかしら?」

「さあ。」

「少しは考えてみて。わかりそうになくても。」

「まず逃げるための足を切られてしまうからだろうか?そう知らされるその前にも突然に。」

「いいえ、違うわ。」

「なぜならあなたは既にそうなっているから。」

「既に?」

「そう知らされた時、そう知ったときには既に手遅れなのよ。」

「乗客の全てには睡眠薬のカプセルが配られてね、あなたたちは列車が動き出したそのすぐ後にでもそれを飲み込むことを義務付けられてその指示に従うことになるの。」

「まああなたのことだからそういうこともまた知らないでいるものとは思うけど、でもそれに選ばれた人には、人たちにだけはそれらカプセルの中にそうではないものが入っている。」

「身体を炭に変貌させる薬品かなにか。」

「あなたは既に飲んでしまっているわけ。」

「その薬は非常に強力でね、その作用から身体が逃れることはかなわないものだけど、そのほかの人に配られた睡眠薬もまたとても濃いもので、しかも睡魔もいびきをかいちゃうくらいのすごいやつ。」

「だからそれによってみんながみんなその設定されとおりの時間になればスッと目を閉じて静かになるものだから、その様子は見ようがないし。あなたは見られようがないの。」

「どう?よかったわね。」

「そうかな。」

「不憫よね。ただ選ばれただけでなにも悪くないのに炭にされてしまうなんてことがあるなんて、あなたにしては許せないもの?」

「自分が選ばれたならそう思うだろう、きっと。」

「でも大丈夫かもしれないわ。だってあなたはまだ見逃してはいないはず。注意深く私の話を聞いていたならね。」

「ああ。選ばれて下手したら炭にされる、君はそう言った。もしもその一言に意味があるのなら、それはその不運な誰かにとっては希望となりうるものなのではないだろうか。いや、言葉のニュアンス的には特別なことをしなくてもよさそうな気がするように聞こえる。」

「そうかしら、それはでも簡単に見えてそう簡単なことじゃないと私は思うわ。」

「それはどんなことになるだろう?」

「どんなことであってもあなたは迷うことができないわ。周囲の人やそれを聞いた人たちはあなたを取り囲んで、あなたはそれをしないわけにはいかない状況になるのだもの。」

「命がかかっているんだろう?だが人前ですることというと、それはなにか芸かそういったもののように思える。サーカスからの帰りということなら、やっぱりそういうものになるということだろうか。だとしたらそれは技術的なことが必要なものだろうか。当然ながらそういうことに明るくはない自分にしては自信はないかもしれない。」

「別にあなたの得意なことなら、そうでなくてもなんでもいいのよ。」

「なんでも?」

「口がうまければ面白い話をするでもいいし、もしくはちょっとした感動をあたえられる見込みがあるものならそれでも十分。とにかくあなたは目の前の人たちをそのようにして笑わせるか感動させるかするの。」

「目の前の人たちがそうなるかならないかによって、炭になるかならないかが決まるということか。」

「そう。」

「もしそう出来たならあなたの身体はそのままで、今後ともその人生をあなたの人生設計の通りに生きていくその自由が与えられるし、そうでなければあなたはそこでおしまい。」

「だがそれは誰が判断するんだ?」

「観客ではないわ。その人たちはあなたのことをただ見て、それに笑ったり感心したり、もしくはシラケたりがっかりするだけのことでしか関わりが持てないタダの普通の人たちなんだから。」

「判定員でもいるのか。それは観客の中に隠れるか、またはそれとわかりやすい恰好でもってそこに立っている。」

「いいえ、そういう人もいない。それはあなたが決めるのよ。」

「僕が?」

「いいえ、正確にはあなたの身体ね。」

「その判定作業は観客の彼らとあなただけでもって行われること。 」

「つまりは?」

「あなたの隅々に浸透した薬はあなたの身体の状態によって、もっと具体的な言い方をするなら、その心情具合に反応した血液の流れ具合とか血中のなにかしらの濃度の変化を受けて、それはその振る舞いを劇的に変えるわけ。」

「ストレスや嫌な思い、恥ずかしい思いでもすればそれは即座に反応して身体を固め始めるわ。炭になり切るまでとどまることなく。」

「なるほど、観客の反応を見た自分の心情ということか。」

「そう。でも、実のところを言っていいなら目の前の観客なんて本当は関係ないのだけどね。」

「実のところはそうではないと。」

「見守る目なんか気になんてせず、やり切ったと自分自身で満足してしまえばいいのよ、自分をこそ信じれば見る目のない観客達なんて、その存在すら忘れてしまうものなんだから。」

「なるほど、そういうことか。それはだがそうかもしれない。」

「あなたはどう?そうなれそう?」

「どうだろうか。」

「ちょっとかわいそうな芸を考えるよりも簡単なことなはずよそれは。でもそういうのがわからない人が大半なものだからね。燃料は溜まっていくばかり。」

「燃料?」

「そうよ燃料。」

「どういうことだい?」

「なんのためにそんなことが行われるものか、あなたはどう思っていたっていうのよ?」

「もしかしてこのサーカスの最期のアトラクションのような意味合いで、こんなことが催されていると思っていた?最後のおまけ。いいえ、サーカスからの最後のプレゼントみたいな。」

「だとしたら度を越しすぎてはいないかしら。実際に人の人生を終わらせてしまうのよ、全体の数から言ったら本当にごく一粒くらいの、無視できるだけのものとは言えね。」

「でもそんなことはないのかしら。たくさんの刺激的なステージに触れて、そういうものにすっかり慣れ親しんでしまった人達じゃ、そうもしないと満足できない感じ?」

「もしくはお客たちを非日常的な世界から日常へと引き戻すために、そういうちょっとした恐怖が有効なのか、あなたははそう思ったりもしたかもしれない。」

「しかし燃料というのはどういうことだろう?その人がそういう用途で使われるということになるのだろうか?」

「そうよ、炭の用途なんて物を燃やすとかそういうことにしかないでしょ?」

「もちろんそうでもないことは知ってるわ。」

「ただこの場所ではそうなのよ。あなたのいるそこでは炭を燃やさないといけない理由があるの。」

「理由?」

「列車をちゃんと日常の世界へ運ぶため。」

「つまらない言い方をすれば行きと帰りでは列車が運行するだけのエネルギーの量に違いがあるのよ。どうしてかわかる?」

「もしかしてあなたはどの路線のどの列車や電車においても、上りと下り、外回りと内回りではそれらの運行エネルギーは全く同じだとでも考えていたりした?まあ、ありがちな勘違いではあるけどね。」

「そんなこと考えたことすらなかったな。だがそうなる理由はたぶんわかる。」

「行きと帰りではその終点の場所に高低差があるのだろう。行きに比べて帰りの列車に多くの力が必要というのなら、それらのレールはこのサーカスに対して下り方向で傾いているということになり、帰りの列車となればそこを上っていかなければならない。」

「その傾斜は僅かなものでもずっと長いことそんなのが続くことになれば、結果的に登らなければならないその高さだってバカにはできないものだしね。」

「頑張って登っていくためには特別な燃料、人由来の炭を燃やす必要があるって、そういうことらしいわ。理由としてはもっともらしいものだと思わない?」

「炭にされる人はかわいそうだけど、でもそのおかげで私たちは日常へと帰り、残りの人生を送ることができるのですもの。それがどんなものであれ、途絶えさせられないことをならば幸せだと思わなければね。」

「それにもうその人についてなら、それはどんな扱いを受けようともそれは変わらないの。意味合い的には。だって生きている人が燃やされるわけでもなく、その人は既に炭になってしまっているのよ。」

「それは生きている状態とは言えず、その状態が終わった時点のことと言えばそれは炭になったとき。もしくは見た目からして炭になるその前のなにも喋らなくなったその時。もっと言えばカプセルを飲んだ時かしら。」

「その時点で私から言わせればその人は、生きているんだかと死んでいるだかなんだかわけのわからない状態にある変なものって感じだわ。こう考えるのはおかしいかしら。例によってまだそうなると決まったわけじゃないのなら。」

「でも少なくとも燃やされる段階においてその人は熱さを感じることはなく、そういうものを感じ取る存在ではなくなっているのだから、それがせめてもの救いではあるわよね。」

「もっともあの頭の中心が硬くなり始めたその瞬間において、その人がどういう感覚を受けとっているものか、今の私達にはまだ知りようがないものだけど。」

「それはもしかしたら信じられないような激痛だったなら、そうであるならあなたはどうする?」

「泣き叫び、悶絶して余りあるような苦痛と苦しさ、それにも関わらずその人はどうすることもできないの。動けず喋れもできなくなっているんだから。ねえ、想像できてる?」

「いいや。」

「そうよね、それはあなたがなるとは限らないのなら、その必要もないものね。」

「ああ。だが不可解なことはある。それはそういう理由があるのなら、炭は必ず必要とされる、ということになる。そうであるなら、芸をして回避させるなんてことは合理性に欠けるように思う。」

「もし成功者が出たらその分の炭が調達できないことになるから?」

「もしかして、そう言われているだけで過去に一度も成功者はおらず、芸を披露するということも実のところ必要がなく、無条件にそうなるものなのだろうか?」

「ありそうね。だけど違うみたい。わかってるでしょ?違う理由もある事に。」

「ああ。一回の運行に必要な炭は一体分となるが、調達できる炭の量は一体だけとは限らない。そこには使わなかった分が存在している。」

「そう。調達できない回があっても平気。たくさんのストックがあるからね。」

「ちょっと恐くなってきた?」

「どうだろう。」

「まああくまで噂だもの。本当のところがどうなのかはわからないわ。もしかしたらこの噂自体がアトラクションの一つなのかもしれないし。」

「だがこれを聞いた人の中には、隠れて睡眠薬を飲まなくなる人も出てきそうな気がするな。」

「じゃあこの噂はサーカスバルーンの運営側が流したものではなく、それらから見ては、ちょっと困った噂ということになるかしらね。どちらにしろ真偽はわからないわ。」

「今ここにおいて君達に聞かなかったら、ぼくはずっとこの噂について知らないことになっただろうか。」

「さあどうだか。でもよかったわね今知ることができて。帰る段になったあなたはやっぱり、なんらかのこういう話を知っている立場からすればちょっとわざとらしい形でこういう話が耳に入ることになったなら、それは割合と運営側が流しているものとあなたはあなたの中でその可能性を高めることができるもの。」

「でもどこまで行っても噂に過ぎないことよ、この話は。だってあなたにしても誰にしてもその真偽を確認することはできないんだから。」

「そうではあるかもしれない。」






「そう答えつつもあなたはまだなにか納得のいっていない表情をしているようね。」

「あなたの知りたいことなら私は全部答えてあげてきたように思うのに、まだ疑問に残ることでもある?」

「話していけばいくほどある疑問が立ちのぼってきている。それは聞けばすぐにでも解決してしまうようなことだが、全部が全部聞いてしまうのでは面白くない。」

「僕にとっても君たちにとっても。それはまた自分の頭で想像してみるだけでいいとも思えることであり、本当のことは確かめずにおくことでいろいろな可能性が残って楽しめるだろうかと思った次第さ。」

「それってきっと私達のことかしら?」

「そうさ、その答えは君たちが知っており、またたぶん君たちにしか答えることができないこと。」

「そう、でも今になってはもはやそれはあなただけの中だけにとどめておいていいようなものではなくなっているようにこの私は思うわ。」

「わかるでしょう?私たちの心情を。」

「僕が君たちのいったいなにについて疑問を持っているのか、君たちはそういうものの存在を知らされたばかりにそれがなにか気になってしまっている。」

「でも一方であなたのような人が見ず知らずの私達に、そしてこういう場所で疑問に持つことといえばそれはある程度限られていることも事実だし、大体わかっちゃっているの。私なんかからするとそんなのは。」

「だから立場としては君たちが上なことに変りはない。僕は促される前にその疑問に持つことについて君たちに聞いてしまったほうがいいかもしれない。」

「目の前に座る二人はどうやってこの場所に来る券を手に入れたものか、というような感じのことでしょ?」

「君たちはこの場所に5日間をかけて来ながら、ここについて、サーカス「バルーンについての殆どを知らないと言う。一方でサーカス「バルーンの券、厳密に言えばこのホテルの宿泊券は決して安いものではないし、一般のサーカスと比べればその値段ははかり知れないくらい高額なもので、流通場所も限られる。入手ルートさえ一般には知られていないものだ。君たちはここについてサーカスということ以外何も知らないで、どうして高い券を購入できたのだろうと、そう思ったのさ。」

「当然の疑問だと思うわ。それで、あなたはどう結論を出したの?」

「よくある話で、券は君たちが誰かからもらったものだと思う。」

「そう、それで誰に?どんな理由で?」

「そこまでは考えていないし、まだ考えるつもりもなかった。これ以上具体的に答えるとなると、事実にを言い当てる確率が比較にならないほど落ちてしまう。」

「でもしいて言うとすれば、私たちのどちらかが暗めの照明のお店で働いていて、ある夜もいつもどおりそこにはなじみの客が来ているんだけど、彼はお店でこうなったのかまたは別の店でそうなったのか既に泥酔してしまっており、気分よく飲みつつもいずれ店を閉じるようきになりつまり会計時となるが、彼はその時にはじめて自分の財布にお札が一枚もないことに気づいてしまう。」

「そんな彼は慌てるどころか愉快な気分になっており、彼は酔った頭で早く家に帰ってベッドに横になりたいと思っているため、財布にあった2枚の券を抜き出してこう言う。今日の分の料金はこれで払いたい。今夜もお世話になった、じゃあまた。そう早口で告げると彼は店員の反応も聞かずにそそくさと店を出て行ってしまう。困った店員だが常連の彼を追うわけにもいかず、急いで店のマスターに相談すると彼女はしょうがない人、などと言って何事もなかったかのように店の奥に戻っていこうとする。あわててこの券をどうするか聞くと、そんなの使えないから持って帰っていいなどと言われてしまう。」

「そのせいで君達は今こうしてここにいることになった。」

「そうは思わないでしょうけどね。きっと私たちのどちらかが、ある時ファンレターなり企業へのクレームか文句の手紙なりを郵便物として出そうとポストにそれらが入った封筒を挿し入れた際に、手を不必要に中に入れ込んだものだからそれを苦労して引っ張り出したなら、親指と人差し指プラス中指のその間に2枚の券が挟まれて出てきたなんていうごくたわいのないことなんじゃないか。」

「要するに拾ったってことだろうか?」

「まあ日常生活においてなにかの拍子にものを拾ってしまうことはよくある。砂利の場所を歩けば靴の溝の間には必ず小石を挟んで持って帰ってきてしまうし。目の粗い布地の服を着て外出したなら、」

「意図せず花粉をくっつけて来てしまう。そういうこととそれは同じという感じで?」

「ああ。」

「まあちょっとわからないけど、拾ったという部分だけはあってるかもね。真実は私達のどちらかの人がある時、高いマンションから飛び降り自殺をしようとしている人を見かけたことがあって、それは既に結構な野次馬がいたものだからわかったのだけど、その時その人はぼーっと野次馬の様子を見ていたの。」

「どうして上じゃなくて野次馬を見ていたかと言えば、その人達って上をずっと見上げてるでしょ?ちょうどその時寝違えたかで首を痛めていたものだから、よくあんなに首を曲げ続けて痛くないななんて思っていたところなのよ。野次馬って大抵暇な人達ってイメージがあるけど、そのときはその人達よりももっと時間を持て余していたのでしょうね。そうしてバカみたいにぼーっとみていると、すぐ近くにコトンとなにかが落ちてきたの。」

「それが券というわけだ。」

「そう。2枚の券が円柱上に丸められて輪ゴムを巻かれている形のもの。そんな感じだったかしら?」

「違うよ。その時君が拾ったのは、映画のチケットだろう?」

「あら、そうだったわね。それでその後友達みんな用事あるもんだから、仕方なしにあなたと映画に言ったのだものね。どんな映画だったかタイトルはおろか、内容やポスターさえどんなものだったかまるで記憶にないけど、本当につまらない映画だったってことだけは印象に残ってるわ。」

「そうだね。」

「じゃああのときよね。私達のどちらかは常日頃楽にお金が稼げないものかと思ってるような普通の人でね。あるときそのどっちかの人は高く危険なところにでも唐突に登りつめて目撃されでもすれば、きっと多くの暇人が見に来るだろうと考えてそれをもってなにかしらの人気者になって、その知名度を使うなりしてなんとか金稼ぎができないものか。」

「とにかく高いところに上ってみたと。」

「廃ビルの屋上から生えている高い鉄塔を見上げると、白い雲が行儀よく気の抜けた青空を流れていく様子が見れたものよ。上を見上げていたその人は難なく屋上まで上ると、鉄塔にくくりつけられている頼りない梯子を仕事場で使う樹脂製の手袋をはめて登りはじめたわ。」

「高いところが得意なのだろうか。」

「いいえ。2,30秒もしたくらいのことかしら、ふと勢いよくあたまになにかがぶつかる感触があったの。きっとそれまでは下ばかり見て、半ば目を瞑って一心に登っていたものだから気づかなかったのね。普段ぼーっとして毎日がつらいとかつまらないとばかりぼやくその人でもその時ばかりはちょっと驚いて動揺したものよね。だってしょうがないじゃない?廃ビルに登ること自体がいけないことだし、てっきり悪いことを叱られて頭を叩かれたって瞬時に悟ったのよ。」

「そう思いを巡らしていると、下の方でドサッと何かが落ちる音がしたんだよね。」

「ビクッとなったけど、私はまたも瞬間的に思いを巡らしてそして安堵したものよ。ああ、怒られた訳じゃないのね。梯子に引っかかっていた邪魔ななにかが頭に当たった拍子でバランスを崩して落下したんだわって。」

「なにが落ちたのか気にはなるけど、その人はすぐに上を向いて登りだすの。どういう気でか。するとさっきまでなにかが引っかかっていたその部分の手摺りにはなにやら茶色の様な黄色いような脂にも似たべとべとしたのがこびりついているのを見て、ひとつため息をつくと引き返すわ。」

「嫌な予感がする感じよね。」

「ああ。」

「でも嫌な予感も何も、落ちているものがなんなのかなんてさっきの落ちた音の感触からして、その人は既に分かっていたものよ。近くで見るとそれはちょっとばかり表面が溶けかけた感じだし、梯子の途中でどうやって死ぬのよって感じ。」

「どういう経緯でそうなったかはわからないけど、その人は迷うわね。これをどうするか。」

「通報するにしてもどうしてその場所にいたかと聞かれてしまうものね。」

「結局どうしたんだろう?」

「ちょっとばかり考えた後、隅の方にその死体を引きずっていって、そして蹴り落としたわ。下に。もちろん周囲をよく確認してからよ。」

「それで?」

「何事もなく、何もしなかったのごとく家路についてテレビを見たわ。夕方のニュースがやっていたけど、まだ見つかってなかったのかその死体のことは一切流れなかったわね。でもその後数日経ってもそれ以降もそれがニュースになることはなかったの。普通こういうことがあったら取り上げられるものよね。あの死体はどうなったのかしら。」

「それで券はどうやって手に入れたんだろうか。」

「ああ、そうだったわね。死体を引きずるときにジャンパーが脱げたのよ、その人の。その人っていうのは死んでたやつのことね。その人Bとでも呼ぶようにすればわかりやすいかしら。その人は屋上に一つ残されたジャンパーを見て、それも地上に投げ捨ててしまおと汚いものを扱うように指で摘んで持ち上げると、内ポケットからなにかがはみ出していたのよね。」

「それがチケットだったってことだろうか?」

「いいえ、チケットは廃ビルから帰る道中に拾ったものよ。」

「そう。ジャンパーの内ポケットにはなにが入っていた?」

「それってあなたが気にすることかしら?」

「いいや。」


「ちょっと飲み物を取ってくるわ。」

「あなたたちの物も取ってきてあげる。なにがいいかしら?」

「なんでもいい。」


「どういう感想を持った?あなたはここに。」

「なにも言うことはないね。すべては僕の想像を上回り、あれらサーカスはそのどれもが本当に素晴らしく、どれもがそうだがしかしそのどれもが同じようでもない、一つ一つが趣向、色合い、独自の物語を持っていて、優劣をつけられないことはないがしかしやはりどれもが愛おしい。」

「あえて文句をつけるとすれば?」

「いたく気に入ったサーカスをまた次の日になって見ようとしてもそれができないところかな。」

「そうね、でもそういう言い方ではなにかそういうルールがあるように聞こえてしまうわ。実際にそんなものはなく、私達は見ようと思えば次の日だってその次の日であっても同じテントを訪れてそれを見ることが許されている。そうであるにも係らずそう出来ないのは、私達が他の数々のそれらに目移りしてしまうからよ。」

「だって仕方ないわよね。みんながみんなしてそれを一目見なければ、人生における大いなる機会の損失として後々後悔してしまいそうだと思い込んで疑わないようなものたちばかりなんだから。」

「勇気をだして今日こそは昨日の本当に度肝を抜かれたあのサーカスをもう一度見るんだって息巻いたところで、サーカスゾーンに2,3歩足を踏み入れた私たちはもう諦めてしまっているのよ。」

「そうせざるを得ない。」

「残り少ない滞在日数で僕たちはあとどれだけのものを見ることができるのか、そう考えるとちょっと怖くなってしまう。」

「嬉しい悩みだもの、我慢しなければならないわ。」

「しかしこのホテルにしても申し分ない。メインはやはりサーカスで、ここにはその興奮した頭を冷やし、思考をリセットするために眠るのと、その前にこうしてそれらの余韻を楽しむひと時を過ごす用事しかないものだが、それらをするに足りていないようなサービスは存在しないし、清潔感だけではない、宿泊客に自身をヴイアイピーだと自覚させるモード性をもこの空間には満ち足りている。僕は決めたよ。」

「決めた?そうかしら?あなたはここに来る前からこの場所におけるその評判を聞いてチケットの手配をする前にもあなたの中ではそう決定していたものと私は思うのだけど。」

「そもそもそう決めなければチケットを手配しないだろうし。そうではない?」

「そうかもしれない。」

「きっとそうよ。今までがそうだったのだから。あなたが私を引き連れてここに来たのは、セレブで噂されるここに対するその評価というものが正しいものかどうか、実際に自分で見てそれはそうするに値するものかを自分で見てチェックする、そのためだけ。それで?ここはそうするに値するものかしら?今の時点においてどうなりそう?」

「もちろん先ほど言った通りさ。僕は僕たちの孫である彼女がここに来るように促すことになるだろう。」

「そうなればあの娘はいつもの親友たちを誘うでしょうから、きっとお決まりの3人で来ることになるでしょうね、絶対に。」

「だが、そうするには準備が必要だ。非常に面倒ではあるが。」

「あなたにしてはそうでもないでしょ。」

「そうかな。」

「そうよ、だってそれこそがあなたにおける主なる作業にして、そもそもの目的になるんだから。」

「まったくいつから始めたものかしら、こんなこと。」

「さあ、覚えてはいない。気づいたらしていたことだ。」

「非常に楽しみながらね。それは私が気づいて注意してもやむことはなく、今にしてはこうやってその作業の一貫に参加させられちゃっている次第なんだから。」

「誰も傷つけることのない趣味さ。君だって大して悪いことじゃないと思っているからこそさして抵抗もなく、今こうして私の横に座っている。それはきっと間違いがないし問題ない。問題があるとすれば今回もまたうまくいくかということだ。」

「1回でも失敗すればあなたは途端にやる気をなくし、この密やかなる趣味に興味もなくなってしまう。だからこそ、今度も成功させなければならない。あなたとしては。」

「そうだろうね。」

「そのためには今度もうまいこと彼女に気づかれない形で、彼女がさも自分の意思でここに来ようと思い立ちそして親友二人を連れてここを訪れた。というように認識させなければならない。」

「彼女は終始祖父の存在など意識することなく、ここでの滞在を楽しむんだ。」

「そう気づかせることなくそう促すのは簡単なことじゃないけど、あなたはそれが楽しいものだからね。」

「そうさ。そして僕はまた成功するのだろう。彼女に僕の思い立ったいろいろな場所を訪れさせ、また僕の意図した数々の行動をさせて来れた今までのようにね。」


「どう思う?」

「自信があるならうまくやるんじゃない?でももし彼女にそれがバレた時、その出来事をどう思うのだろう。本当のところは。」

「というと?」

「バレずにやることが楽しいのは事実ではあるんだろうけど、もっと深いところ、その奥にある心理としては、それに気づかれて彼女に反応される様子、もちろんそれはちょっと怒りながらもしかし笑顔で感謝される光景を想像して、いつかそういう日が訪れて欲しいと思ったりしてはいるんじゃないかな。」

「なるほど。」

「でもそうとは限らないか。世の中にはいろんな心を持った人がいるもの。彼は彼女に気づかれてなにを言われる前に、この世から姿を消すことを純粋に願っているかもしれない。」

「その光景を想像したままでいるしかないのなら、逆にそれは死ぬ瞬間までその想像を楽しむことができるということでもある、ということかな?」

「そう。」

「どうだい?それはその通りか聞いてみようか?本人に。」

「彼らがその席を後にしてからちょっと経ってしまっている。今から走って追いかけたところでエレベーターホールにその姿はなく、見回したならすんでのところでその扉が閉まるのを見送るしかなさそうだ。」

「そうかもしれない。」


「君は楽しみだろうか。」

「これからのここでの短い滞在のことが?」

「ああ。」

「森を抜けると君の言ったようなテントの都市がそこに広がってるんだろう?その光景を思うだけで胸がいっぱいになってくるね。」

「普段の生活でも刺激がない訳じゃないけどそういう刺激って大抵は恐怖や嫌な気持ち、胸がむかむかして眠れなくなってしまう症状が伴うものだから。」

「こういうただ単に楽しい時間が送れそうってそういう期待感は、大人になってしまった自分にとっては非常に貴重なものだと思う。何事にも変えられないものだとさえ思うよ。」

「君はここにいる限りそういう感覚を味わうことができる。長いこと滞在してきた自分もそういうのを失った訳じゃないが、君たちはここに来てすぐだ。まだなにも見ていないのだから。その期待感、わくわく感はこの僕よりもずっと大きく息づいているんだろう。若干羨ましくも感じる。サーカス「バルーンのサーカス達はすばらしいものばかりさ。君は期待していい。」

「今日から夜が待ち遠しいね。しかし、いざそこに立ったら大小様々なテントが所狭しとくっつきあっているんだろう?なにを見ようか迷って身体が硬直したらどうしよう、そうなってはもったいない。」

「サーカスは規模の大きなものも小さなものもどれも洗練されたもので、なにを見ても後悔はしないのだろう。さっきも言ったがここは入れ替わりも激しいものだから自ずとその質は高く、観客が認めるものだけが残ることになるものだから。」

「サーカス界ではこの場所にテントを構えることは一種のステータスであり、少なくない数のサーカス団がそれを最終目標に掲げていたりもする。」

「なにも考えずに最初に目をひいたテントに躊躇なく入ってしまっていい、むしろそうすべきだということだね。」

「そういうことだ。サーカス団によっては夜ということ以外開演する時間や終演する時間も違っているから、いくつかの演目を周ってみたりするもでき、むしろそうすることが主流だったりする。サーカステントはどれも出入り自由だ。基本的には。」

「テントによっては恐ろしく混んでたり、またはガラガラだったりするものもあるんだろうな。」

「そんな中で君たちがここに滞在するその短い間、これだけは必ず見ておいた方がいいというものがある。これを見なければ君たちはサーカス「バルーンに来た意味がないとさえ言ってもいい。」

「なんだろう。それを見ないと損してしまうような感じ?」

「確実にそうなる。数あるサーカステントのうち、そこに限ってはそうなんだ。」

「もし君たちがそれを見ぬまま帰りの列車に乗り、他の乗客にそれを見ていないと知られるようなことがあれば、君たちは帰りの5日間はずっと笑いものにされ、軽蔑の目を向けられ続けることになるかもしれない。」

「そんなにすごいことなんだ。」

「それだけすごいサーカスなのさ。」

「それはどんなサーカスなの?」

「言ってしまっていいのかい?」

「うーん、やっぱりいいかな。」


「そういえばふと思ったんだけど、このホテルの中は通路でもなんでも必ず宿泊客の姿が見えて、まるで人がいないところがないみたいだ。このロビーにしても既に並べられた椅子は埋まってしまっているし、あふれかえっていると言っていい。どことなく宿泊している人みんながこのホテルの中にいるように思えるんだ。」

「なるほど。」

「確証はないけど見たことが無い風景だから。」

「たしかにそうかもしれない。」

「さっき夕方からサーカスに行くっていうようなことを君は言ってたけど、このこととなにか関係があったりする?」

「ああ。それは君の予想する通りだと思う。」

「サーカスは昼間の間はやっておらず、夕方からしか開演しないということ?」

「そう。」

「バルーンにいるたくさんのサーカス団全てが?」

「このホテルからバルーンに行く通路は一つで、橋を渡ってその森を抜けると僕は言ったと思うが、昼間の間はその橋が閉鎖されている。」

「封鎖?」

「物理的に行くことができなくなる。」

「そうなんだ。夜しか開かないって言うのはなんだか怪しい雰囲気がしてそれもまたいいものだけど、1日の内半分は閉じてることになるんだろう?それはもったいない気がするな。」

「サーカスを夜しか開かない理由は諸説あって、それはジンクスでそうされているんだという人がいる。」

「ジンクス?」

「サーカスというのは太陽に見られると事故が起きてしまうものなんだそうだ。」

「太陽に?なぜだろうね。」

「サーカスというものはその性質上危険なことをする行為にあたるだろう?自らそのような行為をすることを太陽が許していないとかなんとか、そういう話だ。」

「昔のサーカスは屋外で行われてたってことだったもの。その話の通りだったらもうそれは夜にやるしかなくなるよね。その名残なのかな。」

「さあどうだろう。」

「別の説は?」

「昼間やっても迫力がでないからという単純な理由さ。太陽の光が透けてテントの中が明るくてはサーカスとしてはまずいんだ。」

「迫力がでない、言われればそうかも知れない。」

「それだけじゃない。サーカスに使われる設備はどれも古い。鉄柱はほぼ全部さび付いているし、テントはよく見ると日に焼けてつぎはぎだらけ。そんなのを見たら興ざめしてしまうだろう。」

「どうしてそうなのかな、資金繰りが苦しいのか。」

「仕方がないのさ。サーカスはおいそれとそこらにあるようなものではないし、とても希少なものだろう?そうなるともちろんそれ専用の建材を扱う企業なんてものはなく、いつもどこかから集めてきた廃材の鉄管やどこかの電車で使われていた基礎鉄鋼をなんとか切り貼りしたりしていつの時もサーカスはそうやって作られているらしい。」

「大変なんだね。」

「またはこういう説もある。観客が過ごしてきた1日の記憶のうち、サーカスを見たその印象を一番強いものとしてそこに留め、そのまま眠りについてもらうため。」

「強く印象に留めたまま眠りについてもらう?」

「見聞きしたことの印象が強ければ強いほど、夜の夢にそういったものが出ると言われてるだろう?」

「夢の中で楽しませてまでがサーカスだってことだね。」

「そうさ。そのために、サーカスのテント内では夢に出てきやすくするような様々な仕掛けが幕の絵柄からあらゆる小物まで巧みに施されているらしい。暗さでよく見えないが観客が目をこらすとテントの隅の方にひしめき合った模様の瞳が見つめていた、というような感じさ。」

「君はどれが一番真実に近いと思ってる?」

「ぼくはそうだな。サーカスというものは元々は闇の住人達が行っていたものだという説が有力だと思っている。闇に生きるものは太陽の下に出ては来れない。」

「そういう説もあるんだね。そうなら彼等はなんのためにサーカスを開催していたのかな?」

「子供をさらうため。」

「さらう?」

「楽しいサーカスを開いてたくさんの子供を集めるんだ、そしてあるときそれらを一気にさらって姿を消してしまう。悲鳴一つあげさせないままに。」

「恐いね。」

「子供をさらわれたことに気づいた親たちは必死に探し、消えたサーカスの後を追ったが結局子供たちは取り戻せず、代わりにサーカスに出ていたもの、闇のなんだかの一匹のみを捕まえることができただけだったらしい。」

「無念な彼らだが、捕まえたそれを小屋に厳重に閉じ込めた上で、他の子供たちやその親をそこに呼び出して見せることにした。」

「こういう危険なものがいるという注意喚起をするために?」

「そう。たくさんの人が集まったものさ、それはちょっと目に入れるだけで目に焼き付いてしまうようなものだったから。わかるだろう?大人でも子供でも人はそういうものに目がない。」

「わかるよ。でもなんだかそれって今でいう見世物小屋みたいだね。」

「そうさ。だからサーカスにおいてはなんとなくそういう色合いもないことはないだろう?それはその名残というわけさ。」

「だが、時が経てば子供やその親をいくら呼んでも来なくなる。」

「慣れてしまうから?」

「そう。人はまたそういうものだ。」

「でも、だからといって忘れられては困る。なんとか人を呼ばなければならないと思った彼らはどうしたか。どうしたと思う?」

「自分たちでサーカスを開くことにした。そういうこと?」

「そう、闇のあれらを真似して。そうすることには人を呼ぶ効果もあるが、それ以外にも期待できることがあったんだ。」

「サーカスを物珍しいものでないものにしてしまえば、次にそれが来てもそこに人は集まらなくなる。」

「その通り。」

「だけど、ここを見る限りそうはできていないように見えるね。」

「確かにそうではある。だがそういったことが今に伝わるサーカスの起源だと言われている。理由がなんにせよ、ここは昔のサーカスに忠実で、その名残を色濃く残している場所になるんだ。」

「そういう背景があるからか、ここでは昼間はサーカステントに決して近づかないという暗黙のルールがある。橋が閉鎖されているから物理的に行くのも困難だが。それにサーカスの方では昼間あちらの領域に入り込んだ人の身を保証していないとも言われている。」

「昼の間、人々はサーカスを恐れているか。」

「君はこの話を聞いてどことなく恐くなったりしてしまっただろうか。」

「いいや。そういう話は嫌いじゃないよ。関わらない程度なら、そういうのが耳に入る程度の距離には常にいたいと思うね。」

「それはよかった。」


「でもさ、そうなるとサーカスのお客達は昼の間は時間を潰すだけになってしまうね。僕らは4日間だけど、きっと他の人はもっと長いこと滞在するって話だもの。君だって。」

「サーカスがいくら飽きの来ない楽しいものでも、昼間ホテルにこもりっきりってのはすぐに飽きてしまいそう。みんな列車の旅の時みたいに惰眠を貪っているのかな。」

「寝てるだけでは無理がある。ホテルのほうでもいろいろと考えて、お客達を飽きさせないようなサービスを提供したりはしているようだ。最近ではそれを目当てにここを訪れる人もいると聞いたことはないが、君たちは少ない滞在中、ぜひためしてみるといいと思う。」

「僕たちがこうしてホテルでぼーっとくつろいでいる間、サーカス団の人達はなにをしてるんだろうね。演目の練習やら仕掛けの準備でもしてるんだろうな。」

「以外とホテルの客と同じで眠りこけてるんじゃないだろうか。サーカスは身体を酷使する仕事にはなるものだから。」

「確かに毎日毎日ショーを行うためには十分な休息が必要かも知れない。」

「とはいえ中には身体を使わないで、終始機械人形の仕掛けだけで魅せるサーカスもあったりする。ここには大小様々なサーカス団があるもので。規模も違えば披露される演目も多岐にわたる。」

「空中ブランコや猛獣使いとかの馴染みのものももちろん見たいものだけど、せっかくだから僕は見たことが無いサーカスが見たい。ああ、ちょっと変な気分になってきたよ。」

「変な気分?」

「説明しにくいけどさ、例えるなら目の前に差しだされたたくさんのショートケーキを前に、これ全部は食べきれないだろうなっていう気持ちかな。」

「今それを食べなければ残りが下げられてしまうと。」

「そう。嬉しい悩みなんだけど、悩みは悩みに変わりないから。もう少ししたら胸焼けがしてこないかぼくは少しばかり心配だ。」

「バルーンを前にしたら頭を空っぽにしてひたすら時間を忘れて楽しめばいいさ。酒が入ってればなおいい。」

「こんなぼくだから知らない方がいいとは思ってるものだけど、やっぱり知っておきたいな。きみと会話するのも今のこれだけなんだろう?サーカス「バルーンにはどんなサーカス団があるのだろう?」

「そんな君は考えつく限りの危険な行為を頭に思い浮かべればいい。」

「危険な行為?」

「そう危険極まりない愚かな行い。」

「そういうのが実際に行われているということ?」

「そうさ。君の考えた分なんて全部がこのサーカス「バルーンで網羅されてしまってるばかりか、想像し得ないまさかと思うようなことだって少なくはないはずだ。」

「そうなんだ。」

「サーカスはよくよく考えてみれば、それはどれも危険きわまりない行為ばかりだ。ジャグリングだって只の棒なんてものはとっくに使われてはいなくて、今は火炎瓶とかまたは毒ガスが詰まった瓶なりを使うようになっているし、今日びの一輪車は命綱なしで綱を渡るのが当たり前。君はなぜサーカスは危険な行為ばかりなんだと思う?」

「そういうことが好きなのかな。サーカスの団員達は。」

「いいやそうじゃない。」

「そうでなければショーにならないからだ。中には自分の命を危険にさらすことにこそ快感を感じる者も少なからず混じってはいるだろうがね。」

「危険じゃなことじゃなければショーにならない・・。」

「人がサーカスを見に行くのは、誰もやらないようなことがそこで行われているからさ。逆にサーカスを開く側からすれば、誰もやらないことをしなければ人は見に来てもくれない。だから人がやらないことをしなければならない。それはなにか。」

「危険な行為。」

「それも命に関わるような本当に危ないもの。」

「そうでなければ誰かがやってしまうか。」

「そういうことさ。恐ろしく危険な行為じゃないとどこかの誰かがやってしまう。子供でさえ気絶ゲームなんてやるのがいるのだから。」

「そうだね。」

「だからさっき言った機械人形のサーカスにしてもただの人形劇が行われているわけじゃない。ゼンマイやギヤや油圧ポンプだらけの人形が人と変わらないかもっと滑らかにウォーキングをする様子は見た目にもすばらしいものだが、それだけじゃ観客はすぐに飽きてしまう。」

「だから、目隠しをした人間とてんでバラバラに鋭利なナイフをフリながら前進する人形とを対面させ、数ミリ単位ですれ違わせるということをやったり、体が刃物だらけの一見壊れているかと思わせるようなコミカルな動きの人形達の輪に人をいれて、密集して踊らせるといったことをしなければならないんだ。」

「そういうショーがあるの?それは無事で済むのかな。」

「人形の動作は人に接触しないように制御されているから何も起こらない、と種を知る者は言う。だが一歩間違えればその演者は大事な血管をダメにしてしまうか、おでこに刃物をぶっ刺されて死ぬことになるだろう。だがそうでなくてはならない。観客達を魅了するには彼等の危険で卑しい本能的な部分を引き出してやらないとどうしてもダメなんだ。」

「サーカス団員たちは命懸けなんだね。」

「別に命を危険にさらすのはサーカス団員でなくてもいい。こういうのもある。観客参加型の殺し合いゲーム。」

「殺し合いゲーム?」

「その演目では観客の中から数名の参加者を選び、多数の団員とともに壮絶な殺し合いを行わせる。」

「それっていいの?」

「だがナイフには刃が収まる仕掛けがしてあり、相手に押し込んでも怪我をすることもない。それは本物ではなくそういう演劇なんだ。」

「うん。」

「選ばれた観客は、時代劇のごとくどのように斬りかかりどのように避け、そして刺されるかを時間を掛けて指導されることになる。そして本番で大勢の観客の前に立ち、たくさんの団員達と殺し合いの演劇を行う。」

「それのなにが楽しいの?」

「その演劇にはある噂がある。数回の公演のうちの1回においてサーカス団のナイフの一本が本物になっていて、本当に刺し殺される人が出ると言われている。」

「刺し殺される?」

「もちろん死ぬのは参加した観客のうちの一人で、その噂のせいで参加者はいつ自分が本当に刺されるのかビクビクと怯えなければならなくなる。参加者には当然刺された際の悲鳴の上げ方や倒れ方も入念に指導されることになり、血のりも用意されることから、観客からはそれが本当のことなのか演技なのか分からないといった次第さ。」

「そんなのじゃ誰もテントに入ろうと思わないよね。」

「刺し殺される恐れのあるサーカスに喜んで行く人なんていない?」

「当然だよ。」

「そうかな。」

「実際は違うんだね。」

「そのサーカスは盛況だ。連日多くの客が訪れ、常に満員状態にある。」

「どうして?」

「どうしてとそう聞く君だって、分かってると思うがね。いい大人なんだから。」

「まあ確かに。まったく理解できないと言ったことではないよね。自分は嫌だけど世の中には様々な理由でそういうスリルを求める人はいるんだろうさ。日常がつまらない人、鬱憤を抱えている人。」

「自暴自棄になってしまっていたり、普通の刺激では満足できない人でもいい。」

「または生きることをとめたいひと。いくらでもいそうだ。」

「でもなんとなくだけど、年齢を多く重ねた人が多い気がするんだよね。」

「確かにそういう傾向はあるらしい。」

「こう言ってる僕だって、将来そうならないとは限らないと思っていたりするもの。」



「でもさっきから僕はホテルの従業員の人達を見てるんだが、君の言うことが分かった気がするよ。」

「僕の言ったこと?」

「ホテルマン達が活き活きしすぎてないって言ってただろう?」

「ああ。」

「どことなく態度もそうなんだけど、一番そう感じるのはその瞳なんだ。彼等はどれもちょっとばかり悲しい目をしているように感じる。」

「目か。」

「目尻のどの辺のしわがどう作用して瞳の光彩がどんな感じで濁っているとかそれを勘案してこうこうこうかんがえるからそう見えるんだ、なんていうようなメカニズムはまったく分からないし根拠は無いものだけど、たぶんそれはきっと当たっていて、本人達は本当にそういう目をしているんだと思う。」

「君が確信するのも無理はない。彼等にはそうなるだけの理由があるんだから。」

「理由?」

「彼等にはちょっとしたある秘密がある。君は、態度や目の感じの他にホテルの従業員達の姿に感じるもの、もしくは他に気づいたことはなかったかな。」

「きづいたことか。」

「何でもいいさ。」

「女性の従業員が恐ろしく美人だなってことは感じたかな。」

「なるほど、確かにそうだ。その美しさは女優に匹敵するくらいだろうな。」

「そういうのが一人や二人じゃなく目に入った人みんながそうなんだ。それに彼女達はスタイルも抜群にいい、みんな出てるところは出てるのに、シルエットはスラッとしていて一様にモデルみたいな細い足をしている。その中にはいい年をした人もいるけど、その人もまた絶世の美女だったであろう過去の面影を隠し切れていない。」

「そんな人達が揃っているんだ。ここがホテルと忘れることがあったなら、花の都のファッションショーのど真ん中、もしくは映画の撮影所と思って疑わない保証はないかもしれない。」

「オーディションでもしてるのかな?」

「このホテルの従業員になるために?」

「分からないよ。僕たちはこのホテルに来たばかりだもの。もしかしたらこのホテルは芸能事務所と提携していて、演技に磨きが足りない女優とか、スキャンダルでイメージが崩れてしまったタレントとかそうなった女性達の一時的な、もしくは恒久的な救済場所だったりするのかな。」

「もしくは女優の卵を悪い虫から遠ざけておくとか。」

「そういう人も含めて。もしそうでなかったとしたら、こんな場所に働かせておくのはもったいない気がするよ。」

「そうかもしれない。だが彼女たちは女優や女優の卵やタレントなんかではない。それでいて、ただここに偶然に美女が集まったという訳でもない。」

「それがここの従業員達の抱える秘密ということなんだよね。」

「彼女たちはみな、このホテルで働くためにこの地に来た訳じゃない。みんなこの地の、このホテルじゃないどこかにいたものさ。」

「ホテルじゃない別の場所。」

「わかるだろう?」

「そういえば男の人達も普通じゃなかったもの。彼等は彼等で一見してそれとわかるものだった。」

「どんな人がいた?」

「絶世の美女達の中に放っても決して引けを取らない整った顔立ちの男の人、屈んでも僕の背よりずっと大きい身体をした人、そしてとても窮屈そうな小さい身体をした人。彼等がいかにすました顔して業務をこなそうとも、それらは隠しようがない。」

「そんな彼等や彼女はなにか。」

「元々サーカスの団員だった人達ってことかな。」

「そう。ホテルの従業員はみなバルーンのいずれかのサーカス団に所属していた団員達になる。」

「サーカス団員の現役寿命は短そうだものね。ただそれにしてはまだまだ現役でやれそうな若い人もいるようだけど。」

「年で使えなくなった者の他に、怪我をしてサーカスに出ることが出来なくなった者や年々過激になっていくショーに怖じ気づいてしまったもの。もしくは心が壊れてしまったもの。団員がサーカスをやめる理由は様々だ。むしろそういうことのほうが多い。」

「サーカス団をやめても彼等がこんなに近くにいるのは、やっぱりサーカス以外を知らないからなのかな。小さな頃からサーカステントで育ち、ひたすらショーの練習の日々だっただろうから。一般社会に放り込まれてもなにをしていいか分からないし、馴染みの土地があるわけじゃない。」

「だからこうして元サーカス団の集まりに身を寄せるしかない。確かにそれもあるが、それだけじゃない。みんなサーカスという非日常的な、あの独特の雰囲気を忘れることが出来ないでいる。」

「サーカスがある場所から離れたくないか。だけどそういう彼等によってホテルはなり立っているんだものね。」

「彼等のサービスは十分すぎるほど行き届いている。なぜならサーカスの元団員とホテルというものの相性は最高なんだと思う。彼等は人を楽しませることに長けているし、そのためなら喜んでなんでもしてくれるだろう。」

「なんでも?さっき、新しいサービスがホテルで提供されはじめたと言っていたよね。それはそのことと関係があったりするのかな。」

「それは非常に好評だ。男性に限らず女性達も満足していると聞く。」

「そう。」

「こういう非日常的な場所には実にぴったりなサービスだと思わないか?客達は昼間から情事を楽んでその後ぐっすりと眠り、夜になったらワイングラスを片手にサーカスに興じる。これがサーカス「バルーンの正しい楽しみ方なのさ。」






「なんの話しをしていたのかしら。」

「おかえり。」

「他人に迷惑を掛けずにサーカスを楽しむ作法についてだよ。」

「あらそう。変なの。」

「それ以外は?」

「特に変わったことはない。」

「そうね。はい、ちゃんと持ってきたわよ。なにがいいかしら?私はこの炭酸水にしたいのだけど。」

「いいんじゃないかな。」

「あなた達は?どっちにする?といっても両方同じコーヒーよ?いいの?」

「ちょうどこれが欲しかったんだ。「「やっぱり香りが強い。そして高そうな色をしている。だけど君は随分ととは言わないけど、ある程度は掛かったものだ。」

「時間的なものについて言うとすると?」

「うん。」

「そういうことは言わないのが普通なのじゃないかしら?あなたと私の仲でもね。100歩くらい譲って二人の時はまだしも、第三者がいればなおのことよね。でもお腹が痛かった訳じゃないのよ。便座に座ってたら、昨日の夢が思い出せそうな気がしてきたものだから。」

「ひとつだけ思い出せなかった夢のこと?」

「そうよ。トイレそっちのけでずっと頭を抱えてたわ。わたしはすっきりしたかったの。」

「それはどんなものだった?いい夢?」

「こんなのは思い出さなければよかったわ。」

「ひどい夢なのかな。

「私はどこかにいてね、じっとしているの。


「私の目の前ではいくつかの猛獣たちのぬいぐるみが固まってあっちへ行ったりこっちへ行ったり。」

「どれもふわふわしていて、柔らかそうなのが一生懸命トソトソ走るわ。」

「その後ろをブリキの四角を繋げたようなロボットがちょっと遅れて不器用に追いかけている。」

「それらがどういう仲かはわからないけど、後を追うのはどうやらその集団に入りたい様子。」

「その光景を岩の物陰から自分は隠れて見ている。じっと息を殺して。なぜか?」

「ぬいぐるみたちはブリキのロボットから逃げているのではないから。」

「それらは探しているのよ。何をかといえば、わかる?」

「君のことを?」

「そう。」

「探されて、何を心配しているものかしらね、私は。」

「噛みつかれるとか?猛獣のぬいぐるみたちだから首元をガブッといかれちゃうかも。でも所詮はぬいぐるみだからね、たとえ噛まれたとしても痛くもないでしょうし、ちょっとふかふかして暖かいくらいよ。」

「それらが私を探しているのは抱きつくためだということを私はちゃんと知ってるわ。」

「抱きつく?」

「指もないのに組み付いてくるとこれがなかなか離れなくてね。刈る側のほうの動物のもつような、指のなかに隠れた爪でももっているのじゃないかって感じ。」

「でもやっぱり痛くはないの。」

「だってその爪が私の体に食い込むことはないもの。」

「それらに悪意はないのよ。でもだからこそ恐いこともあるってこともあるの。」

「走る姿はかわいらしかったけど、それらは必死になって走っていたものなんだから。」

「そのぬいぐるみも、もちろんブリキのあれだって。」

「なぜそうする必要があるのか?」

「寒いのでしょうね。」

「あんなにモコモコとしていて、そうは見えないでしょうけど、でもぬいぐるみは自分で熱を持つことができないものよ。」

「周囲が寒ければそれは寒いまま。凍えるならずっと凍えるだけ。」

「本当にかわいそうなのたちなんだから。見た目以上に。」

「そんなぬいぐるみたちに見つかったら私はどうなると思う?」

「体に比べても足が太くて短くいずんぐりとした、それでいて体の小さなぬいぐるみたちよ。」

「どんなに急がれても、今しているようなかわいらしい走り以上のことはできないものでしょうね。」

「だったら見つかったなら逃げてしまえばいいと思う?走って振り切ってしまえると当然思うもの?」

「でもね、それはできないの。だってわたしだってそうなのだもの。」

「いいえ、わたしもまたぬいぐるみだとか、そういうことじゃないのよ。」

「私はぬいぐるみなんかじゃない普通のわたし。」

「でもそれらと似通った感じでその体はずんぐりとしていてね。」

「足首は本当にかわいそうなほど細いのだけど、」

「腰から上に行くに従って、ちょうどその背の半分ぐらいのところ、お腹周りのところにしては、ぺらぺらしたタイプのメジャーも出し切らないと一周もできないようなもので、全体的に見てもそれはボールみたいに丸っこいものだからろくに走れもしないの。」

「そんなわたしじゃ逃げることができないのよ。見つかってしまったならね。だから隠れているの。」

「でもわたしはわかってもいるのよ。どんなに隠れようといずれすぐ見つかることになるってことを。」

「その場所についての説明をしなくちゃいけないことに気づいたけど、話の通りでいくと、そこはもちろんそこは寒いところになるわね。でも少しくらいも走れば汗をかいてしまうような、そんなところでもある。」

「そしてその辺にはごつごつとした岩がたまにごろんと一つずつ転がっているようだけど、それらのどれもが太った私の身体を隠しきるにはちょっとだけ足りなくてね。」

「ほら、石って灰色で一見して地味じゃない?あれらはいろいろな時代のものが積み重なってはじめて色合いを持つものになるわ。茶色、灰色、白、黒とかの縞々模様がね。」

「そんな中において私の着ている服といえば。それはとても目立ってしまうものでね。」

「奇抜な形をしているというわけじゃないわ。

「その生地やそれにプリントされた柄がいかにもそういうもので、それらの色合いはそれぞれの個性を打ち消し合いながらも全体で見るとちょっとショッキングに、主張するものだから、私は目立って仕方がないの。その場所においては一番そういう感じ。」

「ぬいぐるみ達が目が見えるのなら絶対にみつかってしまう。」

「私はちょっと期待して、願ってみるものよ。そうであってほしいって。」

「ボタンでできた目では何も見えず、それらは音で探し回っているものなら、わたしはいくらだって息を止めてみせるし、まあにおいとなったらどうかしら。」

「でもそれもきっと大丈夫ね。それらは薄汚れて、遊ばれ過ぎたようなものばかりだからね、お日様の香りをひどくしたような、小麦かコーンのスナック菓子のにおいを嫌な感じに強くしたような感じがそれらがポンポン走った後には漂っているようよ。」

「まあきっとうまくはいかないのでしょうね。」

「それで私はモタモタしているうちそれらに抱き着かれてしまう。」

「寒い中を走って来たそれらだから一瞬ひやっとする感触が気持ちいんだけど、すぐに私の熱を返してよこすものだから、すぐに暑くなってしまうのよ、ひどく。」

「わたしはそれに我慢できなくなって服を脱いでいくことになるの、涼しくなるまでずっと。」

「でもそれらは脱ぎずらくてね。ボタンが付いたものもあるんだけど、バンザイして首を通さないと脱げないものもあるからね。」

「それにそうするために最初腕をクロスさせることをしたいじゃない?私にはそれができないものだからね。」

「でもね、悲しいことにいくら脱いでも私の期待した通りにはならないわ。まったく涼しくもならないの。何枚もの服がそこに散乱することになってもね。

「わたしはそうしながらのそのそと歩み始めるわ。」

「ぬいぐるみたちにまとわりつかれながらどこを目指すかといえば、他の岩の物陰になる。再び隠れようとしてのことじゃないわ。」

「そこまでバカなことは考えない。夢の中であってもね。」

「じゃあなぜそうするかといえば、それらゴツゴツした大きさの足りない岩々の一つにね、その様子を、私が苦労するその様子を見つめてくるなにかの目線を感じたものだから。」

「どういうものか?その時のわたしは知らなかったわ。」

「今から思えば最初から見ていたのよそれは。私がその夢に登場する前から。」

「そう、わたしに抱き着くことを吹き込んだのもきっとそれだろうから、わたしはきっとそんな意地悪なのを見つけだして、今の私が溺れるぬいぐるみの海に巻き込んでやろうと思ったものよね。」

「でもね、私なんかが探してもそれを見つけ出すことなんてできないのよ。」

「そのどこかには必ずいると思うのに、わたしはことごとく外してしまうのでしょうから。運が悪いのよ、夢の中の私は。」

「でもこうも思うの。」

「もしかしたらこの夢っていうのは、私の物なんかじゃなくて、それが見ている夢、ということだったのかもしれない。」

「なんて思うこともわたしの自由だと思わない?

「そういうことを確かに体験して、そしてちゃんと覚えている私にだから許されたことになるのよ、これは。」

「それでね、そんなことをしている間にも、ふと私は思い出すの。」

「なにについてか。あなたはわかる?最初の方はいたのにその存在感を失ってしまったもの。」

「そう言わなくてもわかるわよね。夢の中の登場人物はとても少ないもの。」

「私は見回すのだけど、ちょっと遠くのほうにそれはいるの。全くの素材感を失ってね。」

「地べたにちょこんと座ってるわ、それは。まるで初めからそうしていたようにね。」

「でもそうじゃないのよ。それはだって、私の脱いだ服をその体に巻き付けていたりするのですもの。」


「その様子を見ている私はだけど、ちゃんと横目で探してもいるのよ、それを。」

「だって顔を出すのはきっとそういう瞬間になるものだと思うでしょう? 」

「あきらめの悪いやつだと思うでしょうけど、しょうがなかったのよ。」

「それを見つけなければ私はこの嫌な夢からずっと出られないのじゃないか、そんな気がしていたものだから。」

「そうなら君は見つけられたのだろうか。それを、今君がここにいるということは。」

「それはピエロのような見た目をしていたような気がするわ。」

「ピエロ?」

「ある人から聞いたことがあるの。」

「ピエロというものは生きている人なら誰でも知っているようなものだけど、実のところその正体を知るものは殆どいない。君はそれについて考えたことはあるかい?」




「ないわ。ピエロって好きじゃないもの。サーカスを彩る一つのエッセンスなのでしょうけど、私からすると要らない存在よ。まあショーの間の短い休み時間に出てきてすぐ引っ込んじゃうくらいなら薄目でやり過ごすけど、生活圏ではあんなのに遭遇したらただの恐怖よ。出来れば目にもしたくないわね。」

「君はピエロのなにが嫌いなんだろう。」

「汚ならしいのよなんとなく。ナイロン製のもじゃもじゃの毛や蝶ネクタイやぶかぶかのサテン生地の衣服がそう感じさせるの。求められてはいないしおもしろいものでもない。それなのになぜあんな格好をするのかしら。」

「センスが悪いどころじゃないわ。病気よ。いいえ、それならまだいいの。どこかの誰かがそういう病気か、もしくはおかしすぎるセンスだとしてもそれはしょうがないの。」

「私が理解できないのは、その格好をすることは誰が見たって愚かなことなのに、そういう場所には当然それが最適だと思ってやってしまう人が必ずいるっていうこと。」

「おかしいのはその人自身もその格好をするのは嫌なのよ。世間がそれを求めているとなぜかそう思ってしまっている。そうよ、おかしいのはここなの。そして当日それは披露され、全員が薄っすらと嫌悪感を感じつつもはっきりと拒絶してとがめないために、次の機会にでもこういうことは続いていくのよ。」

「だからその正体は簡単に言うと、理解不能な悪習ってとこね。私はほんとうに悲しいわ。情けないもの。」

「そう。だが悲観することはない。そんな悪習はないのだから。」

「そうかしら。じゃあなに?あんなのの正体っていうとそれはなにになるのかしら?」


「それに綿を手渡すとお返しをてくれるのだって。」

「気に入られたりすると?」

「いいえ、絶対もらえるの。それを渡したならね。」

「絶対に?でもなんで綿なのだろう?」

「さあ、それが決まりなんじゃない?」

「それでね。お返しとなるものといえば、それは包み紙のキャンディになるわ。」

「ポケットのひどく奥のほうから出されたそれは、包みからだして手のひらにコロッと転がすと虹色が120度くらいねじれたような模様がきらめいていてね。」

「惜しみながら口に含むとこれがとっても甘いのよ。」

「もらったことがあるの?」

「そう聞いたんだって。」

「でもだからかしらね、それが姿を見せなくなったのは。」

「どういうこと?」

「キャンディをあげたくなくなったものかもしれないわ、それは。」

「だってその数にも限りがあるものでしょう?ポケットなんてきっとそんなに大きくはないものだから。」

「もしくはあげたくても、あげるべきキャンディーが一つもなくなってしまったとか。」

「本当はどうだかわからないよ。」

「もしくは誰かの仮説よると、それははサーカスの団員なんかには見えていないらしい。」

「見えていない?どういうこと?」

「それは観客達の前にしか現れないってことだろう。もっと正しく言うと、観客の目にしか見えない。」

「何それ、そんなことを言えばそれは存在しない幻ってことになってしまうわ。」

「そうさ、それは特別な雰囲気になると観客達の浮かれた頭の中に現れるんだ。だがそうだからといって、それが存在しないことになるかは分からない。確かめたことはないが、団員達に聞いてみたならその存在さえ彼等は知らないかも知れない。」

「そんなわけないじゃない。私はそう返そうとするんだけど、どうしてもそれが言葉にならないの。でもそれだけは言ってやりたいものだからがんばるのよね。」

「そうするうちに苦しくなってきちゃってね。大きく息を吸い込むと目の前は白い壁なのよ。トイレのパーテーションね。ん?ちょっと待って、これって今トイレで見たことかしら。」

「さあどうだろう。」





「夢の話とはいえ、その中の私はわたしの考えをちゃんと代弁してくれたものよ。」

「そう。君はほんとうにそれが嫌いなんだろう。」

「アレルギーと言うほどではないわ。たまになら目にしてもなんとも思わないわね。」

「さっき語った印象よりはピエロに対してちょっと嫌いな感じが弱まってるような印象を受けるね。」

「ここはたくさんのサーカス団が集まっている場所なのでしょう?ならピエロだってその分だけいるだろうし、バルーンではしょっちゅう顔を合わせなくちゃならなくなるもの。ちょっとは耐性を付けておかなくちゃ。」

「そうだろうか、その必要はないと僕は思う。」

「どうして?」

「ここにいる間なら、ピエロと遭遇することはほぼないと言えるからさ。」

「遭遇することがない?なぜかしら。」

「普通一つのサーカス団には必ずピエロが1体いるものだし、君もそれを知っているからこそ、ここにはたくさんのピエロがいると考えているだろう?」

「そうよ。」

「だがここに限ってはそうならない。サーカス「バルーンにはピエロは1つだけしかいないんだ。」

「数多くのサーカス団があるにも関わらず、ピエロが1つだけしかいない?それってどういうことかしら。そもそもピエロってサーカス団の誰かがするものなんじゃないの?」

「どうやらそうではないようだ。」

「私達はやっぱり、ピエロについてなにも知らないってことなのね。」

「ああ。」

「でもそうならここのピエロは大変ね。一人だけしかいないならサーカスの間で取り合いになるでしょうし、連日連夜たくさんのサーカステントを渡り歩くその姿が想像出来てしまうわ。いくらやってもまるでニーズに追いつかないもんだからそれに休める日なんて存在しないのよ。」

「実際どうだったかは分からない。今となってはそのピエロに聞くこともできないものだから。」

「今となっては?どういうこと?」

「ここに居たただ一つのピエロが今はいなくなっている。」

「いなくなった?」

「失踪したんだ。だから今このサーカス「バルーンにはピエロが一つももいない状態にあるのさ。」

「さんざん酷使するもんだから嫌になってしまったのよ。」

「さあ、どうだか。本当のところなら本人に聞いてみなくては分からないのではないだろうか。」

「どこに行ってしまったのかしらね。」

「さあ。」

「案外まだこの近く、もしくはバルーン敷地内にいて、観客に混じってサーカスを見てたりするかもね。」

「あながち間違っていないかもしれない。それはまだサーカステント群の中にいるという情報がある。」

「そうなの?なぜそんなことが分かるのかしら?」

「詳細は僕も知らないけど、それは確かなことらしい。」

「サーカス団員達はたくさんいるから、彼等で手分けすればすぐ見つかりそうだけどね。」

「彼等はそんなことしない。」

「どうして?」

「どこのサーカスも団員達はみな忙しい。ショーの間はもちろん、ショーがない昼の間だって夜のために十分な休息を取らないといけないし、新しく難解な技の練習だってしなければならない。ピエロを捜している暇なんてないのさ。」

「じゃあどうするの?このままなにもしないっていうことになっちゃうと、私の感覚としてはたった一人のピエロは戻ってこないままになるわよ。それどころか時間が経てばバルーンからもいなくなっちゃうかも知れない。それとも今のままでもサーカスは回せてるから、どうでもいいって感じ?それってちょっとばかり冷たい気がするわね。」

「それでもやはりサーカスの団員達は宛てにはならない。だけど大丈夫さ、既に探索作業は始まっているらしいから。」

「そうなの?誰が捜してるのかしら?」

「団員ではない一般人になる。」

「なるほど、わかるわ。それは仕事として依頼が出されたということね。」

「そう。今現在において仕事を受けた探索員はピエロを探し回ってることだろう。だから君たちは拳に力を込めてしまうほど思ってやる必要はないと思う。」

「そうね。よく考えればそうよ。そんなことに気をやる筋合いなんてないわ。私達には関係ないことだもの。私達はこれから訪れる、いやもう訪れている短いサーカスライフを楽しむことだけに集中すればそれでいいの。」

「その通りさ。」



「ところでさっきトイレでこんなことがあったわ。私は例によって黙り込みながら便座に座ってるとするじゃない?」

「ああ。」

「すると女性の声がするの。その人は洗面台で鏡を見ていろいろ作業をしながら誰かと話をしているようなのだけどね、私はそこにちょっと違和感を覚えるわ。」

「どんな違和感?」

「話し声がね、1人分しか聞こえないのよ。ただその声が話す話の内容は、その声の主が一方的に喋るような内容のもので、もし相手の声が聞こえたならそれは相づちくらいかと思える代物なの。私はそこで考えるわよね。」

「この人は誰に向かって話をしてるんだろう。」

「君はどんな人を想像したのかな。」

「彼女の隣には同じく洗面台に向かう女性が居るのよ。」

「顔でも洗ってるのだろうか。それで相づちを打ってる場合ではないとか、声自体が聞こえないとか。」

「違うわ。水の流れる音はしていないもの。その女性の声以外にトイレ内は静まりかえってるの。きっと彼女は顔に細工を施してでもいて、今ちょうど眉毛辺りの重要な部分をチクチクやってるのではないかしら。」

「眉毛?」

「とにかく彼女は集中してるためにそれどころじゃないってこと。もしくはそうじゃなくて、相づちというものを知らない人かも知れないわね。」

「そんな人いるだろうか。」

「いるわよ。あいづちなんてただの習慣でしかないんだから、この世界のどこかではそんなのがいらない地域だってあるかも知れないわ。」

「彼女はそういうところから来た人ということ?」

「いいえ違うわ。きっとあれよ。彼女は人というものにまったく興味がないままに今まで生きてきた中、他人のことを少しばかりも見てこなかったような人なの。」

「人を見ない?そんなこと可能なのだろうか。」

「それは目で見ないようにするってことなら、世界にはそこかしこに人が溢れてるから無理があるでしょうね。そうするには一日中引きこもってなければならないし、買い物も出来ないし、普通の生活なんか出来ないわ。だから彼女の場合はそうじゃなくて、人に顔や目は向けることはあるけど、それらがまるで目に入ってないの。」

「人を人と認識してないって感じのことかな。」

「いいえ、人とは分かってるわ。それを見てはいないだけよ。だってそうでしょう?」

「人というものに興味が無いのだから。」

「じゃあ彼女はなにを見てるって言うのだろう。」

「それは今あなたの目に映るものをよく考えれば分かるものよ。視界の殆どは人じゃないもので溢れているのじゃないかしら。」

「確かにそうだ。だけどなぜ彼女はそんな風になってしまったんだろう。そういう病気?」

「そんな病気なんて言葉を使うと、なにが病気でなにが病気じゃないなんてことをすりあわせないといけなくなるわ。」

「たぶん彼女の場合、親が余程出来た人で、幼少の頃から人における全てのことを彼女に教えてあげてしまったために、結果として彼女は人というものの全てを知り尽くし、それをもってそれに興味を示さなくなってしまった、ということなのじゃないかしら。」

「人について知らないことがないか。」

「あなたはどう思う?」

「分からない。」

「そう、私はないと思うわ。」

「例えそういうことを教え込まれる女性が仮に存在したとして、そうなるとそれを教え込む親が人の全てを知らないといけないってことになってしまう。」

「そう。人の全てを知る人物なんて今まで生きてきた中で聞いたことないわ。そうじゃない?」

「そうだね。」

「現にそうなのよ。」

「じゃあ、そういう人がいないと思う君は、その人についてはどう考えている?」

「彼女の話す相手はじゃあ一体どこの誰かってことね。たぶんやっぱりその女性は相づちをうってはいないのよ。トイレの個室の中の一つにその相手はいるのじゃないかしら。それで連れの女性からは話を聞かされるけど、他の客、つまり私がいることがその人は分かってるから、個室から相づちを打つなんて間抜けなことが出来ないでただ黙ってるの。きっとそうでしょ?私としてはそうあって欲しいと思ったものね。」

「なぜそうあってほしいと思うの?」

「そうじゃなかったら彼女は私に話をしていることになり兼ねないじゃない。もしそうならなぜそんなことになってるのか。考えれば考えるほど冷やっとくるものになりそうよ。」

「彼女はどんなことを話していたのだろう?」

「サーカス「バルーンには普通じゃ信じられないくらいたくさんのサーカス団がいるものだから、観客はどのテントに入るべきか最初の内必ず迷ってしまうらしいの。だけどそのどれもがすばらしくはずれがないものだから、彼等は選ぶ必要なんてなく、それはただダブらないようにだけ気をつけていれば、目を瞑って行き当たったテントに入ることにしたっていいの。ただその中で例外となるテントが一つだけあって、観客はそれだけは選んで入るべきだということなのよね。なぜならその中で行われているショーは、他とは比べものにならないものだから。」

「それはどう比べものにならない?どんなすばらしいショーだって?」

「思わず私はそう聞いてしまいそうになったわ。でもそんなサーカステントがあるなんて聞いたらぜひ見てみたいと思わない?」

「私達の滞在は短いけど短いからこそ必ずはそのテントに入らなくちゃね。もしもあなたがまだそれを見ていないのなら、絶対見るべきね。なんなら今夜そのテントに私達一緒に3人で行ってあげてもいいわよ。」

「ん?でもちょっと待って、そういえばそのテントってどうやって探せばいいのかしら?私うっかりテントの行き方について聞きそびれちゃったみたいよ。なぜそんなことになったのかしら?」

「たぶんその直後、彼女がトイレから姿を消してしまったからよね。一方私はそれがどんなサーカスなのか思いを巡らそうとしたものだから、そんなことにも気づかなかった次第なの。まあきっと大丈夫よ。」

「そのテントの特徴やなにやらはまったく知らないものだけど、3人で手分けして探せばきっとうまくいくわ。」

「たくさんのテントの下で右往左往する観客達から声を掛けやすそうな髪型の人を選んで聞いてみるっての全然いいものよ。それでもし見つからなければ、私達はこの4日間の滞在期間の殆どをそのテントの探索に当ててしまってもいいかも知れない。だってそのテントのショーは、このサーカスバルーンの中で一番のものなんだから。それくらいの決心は必要よね。そうだと思わない?」

「そんなのは危険だよ。もしそれで見つからないようなことになったら、サーカス・バルーンに来たのにほとんどサーカスを見れなかったという大きな後悔に襲われることになってしまう。」

「それよりは、無理にそのテントを探さずに普通にいろいろなサーカスを無作為に楽しみ、そして一番のショーを見れなかったという割あい小型の後悔を抱えて帰路に就いた方が絶対いい。リスクをとって全てを失うよりも、今もってるものを確実に守っていく方が大事なんだ。」

「株の評論家みたいなことを言うのね。これはちょっと話し合いだけでは解決しそうにないことかも知れないわ、少しばかり手が出ることもあるかも知れない。本当に悲しいことだわ。」

「悪いが、その争いに僕は巻き込まれることはないが、それでいいかな?。」

「それはどうかしら?私達と会話をはじめた時点や私の汲んだコーヒーを口にした時点であなたは私達のなんらかの関係者ということになってしまってるかもしれないわ。だから私達が誘えば、一緒にそのテントを探す必要だってあるかも知れない。」

「そうはならないよ。僕は今日でここを去ることになる。」

「そうなの?それにも関わらず、一番のショーを見ることなくこの地を後にしてしまうのね。なんだかかわいそうだわ。同情、そんな言葉があれば、この気持ちをうまく伝えてあげることが出来たのにね。」

「彼は後悔なんかしないよ。そのショーを見てるんだから。」

「本当に?」

「君がトイレで眠っている間、そんなショーがあるなんてことを聞いていたんだ。もっともその内容はちゃんと聞いてないものだけどね。」

「しかしながら、そういえば僕は君にそのテントの行き方などを伝えてはいなかった。」

「ん、確かにそうだ。」

「会話をしている間、そのことを言い忘れたことに気づいた瞬間は二度くらいあったんだが、すっかり忘れてしまっていたらしい。」

「僕はそのことにすら気づいていなかったさ。危なかったよまったく。」



「得意になって言うことじゃないわ。だけどそういう大切なことは、別の話題に移るとまたうっかり忘れてしまいそうだし、私達ってそういう愚かな部分が少なからずあるものだから、今の内に聞いてしまいたいわ。」

「そしてあなたを私達にとって一刻も早く、必要のない存在にしてあげなきゃならないの。」

「だからあれね、そのメインのサーカスについて、その内容、知っていることや実際に見たことを話してしまってちょうだい。」

「いいのだろうか。」

「私達はなんだかそんな気分になってきたものよ。」

「そうなの?」

「そうなのよ。全て話すつもりでいいのよ?聞きたくないと思ったならわたしたちがストップと言えばそれで事足りるのだから。」

「逆に言えば、君たちが止めなければ僕はそれらを全部話してしまうことになるが。」

「だからかまわないわ。」

「僕たちはそのテントをどのように見つければいいのかな。」

「まず君たちはホテルのチェックインを済ませなければならない。」

「言われなくてもそうするわ。私達は今、あなたとだってただこうして喋ってるってわけじゃないのよ。あなたとここにいるのはただの時間つぶし。手元の番号が表示されるまで私達にはなにも出来ることはないの。」

「そうでなければ今さっき会ったような赤の他人とこんな退屈な話を延々と続けると思う?あなただってそうよ、所詮この会話は暇つぶしのための道具ってだけ。」

「その通りさ。ただその番号を見る限り、あとそんなに時間は残っていないかもしれない。」

「そうね。」

「君たちはチェックインを済ませたなら部屋に一直線に向かい、そしてすぐに眠りにつかないといけない。」

「眠る?」

「今の時間からだとバルーンへのゲートが開くまでは時間が余りすぎているんだ。」

「確かにそうかもね。日が昇ってからも数えるくらいしか経ってないものだし、世間的には日常生活をまだはじめていないという人も大分残ってるような時間帯だもの。」

「今から一時間かもう一時間のそのうちに眠りに付けば、君たちはちょうどいい頃合いに目ざめることが出来る。」

「うまく寝られるかしら?」

「心配はいらないと思う。これまでの旅で散々そうしてきただろう?その身体は昼間に眠りこける習慣をまだ忘れることはできていないはずだ。君たちは列車の旅を終えても、あのまどろみの日々から抜けだした訳ではないのさ。」

「あなたもそんな日々を送っていたの?」

「ああ、今日の今日まで。」

「いいえ違うわね。あなただって列車に乗って帰るんだから、少なくともあと5日間はそんな日々が続くものよ。私達がここでの少ない日々を終える頃になっても、まだ1日を残してあなたはそのまどろみってものの中に身を浸さざるを得ない状況にいるってことなんだから。」

「その通りだと思う。」

「それでホテルを出た君たちは、空っぽな頭でどこかに向かう人々の波に乗ればいい。そうすればしばらくもしない内、君たちはバルーンの群れを目の前にしていることだろう。」

「そこからが問題よね。蟻の列をなしていた人の群れはそこから散り散りになるってことは私達でも容易に想像出来るわ。そこからどこをどのように進んで、なになにが見えたら回れ右してどのくらい進むとかそういう風なことを今から私達は聞くことになるのでしょうけど、ちょっと覚えられるか自信がないわ。道順と風景の特徴の二つを同時に覚えなくちゃならないんだもの。でもがんばらなくてはけないわ。」

「そんなに気を張る必要も無い。そのテントは以外と容易に見つけることができる。」

「本当に?それは一番手前にあるとか?」

「いいや違う。簡単に言えば、それはこのバルーン「サーカスで一番大きいテントになるからだ。」

「一番大きなテント、たしかにわかりやすいわね。」

「君たちはテントの群で形作られた都市かその山の頂上を目指すように進めばそれでいい。もうわかったと思うが、バルーンサーカスのテント群の中心にそれはある。」

「頂上・・、そのテントはどの程度大きいのかしら?」

「君たちが知ってる地方を巡業するサーカス団のテントがあるだろう?ここではあれの8~10倍くらいの大きなテントが平均の、言わば通常のスケールサイズになる。」

「ここはやっぱり普通じゃないのね。それが普通となるとそれよりもずっと大きなテントがゴロゴロあるって言うことでしょう?そして中心のテントはそれよりももっと大きいってそれじゃあそんなのもはやサーカステントと呼べるのかしら?」

「確かにテントというよりはドームと言った方が正しいかも知れない。」





「思ったのだけど、サーカスのテント群はお互いにくっつき合ってるって言ってたわよね?」

「そうさ、各サーカス団のテントはお互いにワイヤーで接続しあっている。」

「そしてその光景はまるで泡のよう、だったかしら?」

「そんなこと聞いたっけ?」

「確かに大小様々のテントが密集する様は、洗剤の泡と言うよりはむしろ石けんのそれに似ている。もっともその色は白や透明といったものではなく、それぞれが原色のままに縞々や水玉模様が好き勝手に描かれているため、初めは気持ち悪く見えるかも知れない。だがそれはすぐに慣れるし、それがまた夜の暗さに溶け込むと怪しげな雰囲気を作り出していいいものなんだ。」

「今になって気づいたけど、それってそもそもわたし達の思ってるようなテントじゃないわよね。」

「そうさ、それらは君たちの思っているようなお馴染みのそれじゃあない。バルーン・サーカスのテントはどれも歪みのない球体になる。君たちがそれについてなぜそうなのかと関心を示すようなら、僕はそれにも答えるだけの準備がある。」

「いや結構よ。私が関心を持ってるのは別のことだから。」

「別のこととは?」

「そのテントはそれでよく破けないなって思ってるの。私の見立てだとね、中心のテントには相当な力が掛かっていることになるのよ。」

「数百ものテントの真ん中に位置するそれは、結局のところそれ以外の全てのテントと繋がっている様なものでしょう?だから力学上のいろいろな法則があれこれした結果、それら全ての力を引き受けることになって、結果として中心のテントには莫大な引っ張るような力が掛かっていることになる。あなたもそう思うでしょ?よく考えてみるとね。」

「たしかにそうだと僕も思う。だが君の心配することは起きない。」

「そうなの?既に私の頭の中では、中心の球体が爆発してその周囲の球体全てがちりじりに飛んでいく様がありありと映し出されているわ。そんなことが起きないなんてあなたはなぜ断言出来るものかしら?」

「中心の大テントは特殊な布で作られている。」

「特殊な布?」

「それは切ったり縫い付けたり加工することは容易に出来るが、破こうと力を加えてはけっして破けることがないという珍しい性質をもったもの。」

「そんな便利なのがあるのね。」

「聞いた話によると、理論上では地上に存在するどのような力を持ってしてもその布は破けることはないらしく、もしそれが破けることがあったなら、それは流れ星が落ちた時くらいだとも言われている。」

「実に都合がいい魔法の様な布じゃないの。きっとそれを作ったのは科学者達でしょうから、世間の裁縫好きな主婦達はさぞ悔しがってるんじゃないかしら?彼女達ったら自らの領域を侵されることに関してはとても敏感な人たちだもの。」

「その布は作ろうとして出来るようなものじゃない。今を生きるちっぽけな僕たちのような存在の集団にそんな技術はない。それは掘りだされたものになる。」

「掘りだされたもの?」

「地面の遙か下には古い時代の高度な技術が眠っていることがある。そんな話を聞いたことはないだろうか?」

「国や企業、あるいは組織や機関は専門家を雇い、常に世界を飛び回らせそういったものを求めて地質調査をさせている。そしてどこかの土地で可能性を見いだしてしまえば、その地には巨大な穴ができることになるんだ。」

「君たちがもし世界の果てを旅する孤独な旅人だったなら、何も無い荒野になんの脈絡もなく巨大な掘削機が転がっている光景を何度か見ることがあるかも知れない。」

「そうして手間暇掛けて掘り起こされたものがサーカステントの布地ってわけ。」

「もっとも掘り起こせた布の数も限られてる為、このサーカス「バルーンにおいてそれが使われているのはそのドーム一つだけになる。」

「それはいいけど、それもなんとなくもったいないと感じてしまうわ。もっと有意義なことというか、そういうこと以外のことに使えなかったものかしら?なんというかもっと重要でそれを使うにふさわしい、より公益性の高い事業か何かがありそうに思うのよ。」

「十分に有効活用されてると僕は思う。」

「でも企業や国がこぞってそうするのは、それだけのリターンがあるからでしょ?私達もちょっと挑戦して一攫千金なんか狙ってみるのもいいかもね。」

「個人では無理なことだ。」

「どうして?」

「掘削するにも莫大な費用が掛かるからさ。企業や国と言ったがそれらはみな単独で行っているものでもなく、例えば大企業間で資金を出し合った合同事業だったりする。」

「穴を掘るだけでそんなにお金が掛かるものなのかしらね。」

「それは地表数メートルや数十メートルの砂を削り取ったところで出てきやしない。そういうものは地下数千メーターに位置する固い岩盤を超えて、それからも長いこと掘り進めてやっと出てくるものなんだ。しかも入念に調査していても出てこないケースが殆ど。」

「世界は思ってるより優しいものじゃないのね。」

「あるデータによるとそういった掘削事業の数に対して、なにかしら掘り起こすことができた数の割合は、限りなく0パーセントに近いものらしい。」

「ほとんどないってことね。本当に厳しいじゃないの。」

「この世界の無慈悲さを味わっているのは、僕ら弱いものだけじゃないということだろう。大国や名のある大企業たちだって、そういう現実世界の厳しさと日々命懸けで戦ってるんだ。」

「そんなの知らなかったわ。」




「さらに言うと、掘り起こせたとしてもそれは、残念ながらいいものであるとは限らない。」

「限らない?それはどういうもの?」

「掘り出さなければよかった、掘ったこと自体を後悔するようなもの。地中深くに眠っているのは、過去の栄光の軌跡だけじゃない。」

「それはもしかしたら、物めずらしいものを地下にちりばめれば、それに釣られてあちこちを掘るようになることを見越して置かれたそういう罠だったとか。僕たちは頭がいい訳じゃないのだから、もっと真剣に考えなければならなかったのかもしれない。」

「それは一体なんなの?」

「いろいろなものがあるが、それらは決まって地上に出してはならないもの、手に負えないものさ。形や定義も様々だが例えばそのうちの一つを言えば、それは僕たちと似たような見た目をしているかもしれないが、中身がまったく違っているもの、と表現できるだろうか。」

「中身が違う?」

「意思の疎通ははなから期待できず、僕らの頭ではそれが起こす行動の意味を理解できないし、もしかしたら見ている世界すら違うかも知れない。そういう存在。」

「そういうのが出てきたらどうなるの?」

「少なくとも僕たちにとっていいことにはならないだろう。」

「なんだか想像できないわ。」

「そうさ、こちら側の頭ではそれを理解することは出来ないものなのだから。」

「でもそういうのが出てくるなら、少なくとも私達に害が及ばないところでやって欲しいものだわ。得体の知れない事業に私達は関係がないもの。でももしそういうのが出てきたら、彼等はちゃんと責任を持って埋め戻すまでしっかりとやってくれてるのかしら?」

「もちろんそうするだろう。だがそういう穴ではふさぐのも容易でなく、数十年かかってもまだ閉じきれていないものもあるらしい。」

「あなたはそういう場所を知っているの?」

「ああ。」




「そこも荒れ果てた世界の果てのような所なのかしら。」

「肌色の岩と砂しかないような風景が延々と続いている大地。そのどこかでは、一本の管が地面から突き出ている様が伺える。」

「管?」

「銀色の怪しい輝きをみせるその管は、厚みも十分なまま一直線に空へと続く。」

「とても大きいのかしら。」

「地上数百メートル上空まで延びたところでそれはあるものと接続されおり、管の穴の周囲にはたくさんの戦士達が集結している。」

「戦士達?」

「どこから集められたのか、どれも人の域を超えた素晴らしい手練れ達だ。彼等は一様に管の穴を見下ろしている。管は地下数千メートル深くまで突き入れられているから、きっと管を通して向こうの様子をでも伺っているのだろう。時折管に飛び込んでいったりする戦士もいる。」

「その先ではもしかして穴の埋め戻し作業が行われているのかしら。」

「そうさ。」

「そこではどんな光景が広がっているの?」

「それは僕にも分からない。ただ、時折その管を通って上って来たであろう得体の知れない存在が戦士達の目の前に姿を現すんだ。」

「彼等はそれをどうするの?」

「もちろんよってたかって串刺しにしたり、さまざまな道具で押し潰し、すり潰し、一瞬でミンチにしてしまうだろうさ。」

「まあ、残酷ね。」

「彼等は上って来たものの恐さをよく知っている。真剣そのものなんだ。相手にしてるのは自分たちの概念が及ばない存在であり得るのだし、こちらからみれば恐ろしく邪悪な存在、という言葉で評する学者もいる。」

「恐ろしく邪悪な存在?」

「そう。だから瞬きをした一瞬のうちに、数十人の戦士達の首がその辺に転がっているなんて光景も珍しくはない。切り落とされた頭の一つはなにが起きたのか目をぱちくりさせて理解しようとしていたが、すぐに眠気に誘われたのか薄目になって、あっという間に粘土のような質感になってしまった。」




「さっきからまるでそれを見た様に話すわよねあなた。私の目の前に座ってる人って一体何者なのかしら。」

「サーカス・バルーンホテルの平均的な宿泊客の一人には違いない。まあ宿泊客というよりは、サーカス・バルーンの観客になるのだろうが。」

「滞在期間が多少長いくらいで、その他に特筆すべき点はなにもないさ。」

「あらそう。じゃあ私の目の前にいる人はなんの変哲もなくおもしろみもなにもない普通の観客ということでいいわ。」

「その人は普通の観客であるにも関わらず地中深くから浮上してきた恐ろしいなにかを、得体のしれないものと感じて人に話すような経験、つまりそれと同じ空間にいたこともあったし、それを戦士達が血眼で斬りつけ、多数が首を失う凄惨な光景を目の前にしていたこともあったらしいわ。なんだかおかしな人よね。」

「おかしいかおかしくないかは分からないが、その光景を僕だけじゃなく大勢の人が見ていたとしても、僕はやっぱりちょっとおかしな観客になるのだろうか。そんなことはないと思う。」

「なによ、その光景はあなただけじゃなく、大勢が見ていたということ?観客として?」

「そうさ。僕だけじゃない大勢の人がそれを目の前にしていたんだ。観客として。」

「本当かしら?」

「嘘は付いていない。」

「疑わしいわね。それが観客というのなら、そんなところに一般人をいれる意味が分からないし、客だって集まるとも思えないわ。あなたの話では、それは見るだけでも恐ろしく危険が伴うものになりうるわ。」

「そうだが、完全に穴を閉じるためにはまだまだそれなりの年月が必要になるんだし、事業を継続していくには資金が必要になる。名だたる戦士を留めておくにしても莫大な金が掛かっているはずだ。」

「しかもそれは事業の性質上いかなる保険にも参加できないものになるため、手持ちの資金は多いに越したことはない。」

「そのために観客を入れて収益を出そうと?」

「もっともらしい理由さ。それに観客だって君の思う通りにはなっていない。」

「このあなたがいい例ってことね。」

「そう。」

「あなたはなぜそんな危険なショーに足を運んだの?死ぬのを恐れてないの?」

「そんなことはない。だけど僕たちのすぐ目の前には頼もしい戦士が何十、もしくは百何十と控えているんだし、もし僕たちがそういうことになったとしたらその時といえば戦士が全員命を落としたということだろう?」

「彼等はたぶんこの世界が用意できるだけの最高位にあたる戦士達だと思う。ということはだ、彼等が全員やられてしまうようなことになったなら、それこそ世界の終わりを意味するってことになる。」

「そうならどこにいても同じことだ。まあ、例によってドームは恐ろしく頑丈なもので、現存する人が作った構造物の殆どよりはずっと、そしてそういった用途に作られた最新の施設とも肩を並べるくらいには頑丈だろうが、いくら閉じ込めたところでそれを消し去る戦士もおらず好き勝手にされればいずれは出てきてしまう。だから死ぬのが遅いか早いかの違いだけ。そうは思わないか?」

「それはただの口実よ。あなたを含めた観客ほぼ全員はそんなことをヘラヘラと口にしながら、ただスリルを欲しがってその席に座ってるのよ。命を落としかねない危険な時間を大勢の人と共有するのがたまらなく快感なんだわ。」

「君はよく分かっている。」

「そういうものに限って人は惹きつけられてしまうものだから、噂が噂を呼んで観客の数はねずみ算式にどんどん膨れあがっていくのよ。」

「それでその大勢の観客に目を付ける者達が現れる。」

「それがサーカス団ということ?」

「危険な行為を売りにする点で似ているだろう?両者は。」

「各サーカス団はそれに似せたような球体のテントを制作し、その周囲に勝手にそれを張り、そして接続もしてしまう。」

「同じ形にすれば間違って入ってきてくれるだろうなんてことは考えないにしても、それだけで集客効果は十分だものね。」

「相乗効果があったかは分からないが、ますます訪れる客や、寄りつくサーカス団は増え続けて、」

「そこはいつしかサーカス「バルーンと呼ばれる場所となった。」

「君はそのショーの正体がそんなものだと知り、見たい気持ちが失せてしまっただろうか。」

「どうかしら?見るか見ないかに関わるのなんてその時の私の気分だけだもの。そんなの今の私には分からないわ。」





「だけどあなたが話してきた場所がここのことなのだとしたら、このサーカス「バルーンはいったいどんな場所になるの?もちろん私は位置的なことを聞きたいの。確か戦士達がいる中央大ドームの底には地上に延びる管の端が口を開けていて、それは地表に突き刺さるまでも数百メートルを要するものなんでしょう?逆を言えば地上から数百メートル上空に大テントはあることになるわ。これはちょっとおかしい気がするの。」

「そうかな。」

「そうよ。大テントがそういう場所にあるのだとしたら、それに付随するその他の全てのサーカステントに関わらず、私達がいるホテルや鉄道駅、それだけじゃないわ。ここ一体を囲む厚い森だってそうでないといけないもの。列車を走らせる線路にしたってそうよ。どういうものになってるの?橋脚が数百メートルに達する鉄道橋なんて想像も出来ないわ。」

「あなたの説明の仕方に問題があったのかしら?」

「君たちがそう思うのも無理はない。地上数百メートル上空にホテルや駅や、ましてや森が存在するなんてことは考えづらい。しかしながら、やはりそれらは中央大テントと同じ場所にあることも事実。」

「じゃあいったいどうやってそれらはそこにあるのかしら?管が関係しているのかしらね。話の流れからして、その管もどこか寂しげな荒野の大地から掘り起こした特殊なものだって言いたいのでしょうし。もしかしてその一本の管でここの全ては支えられているのかも。」

「どうもそうではないらしい。」

「じゃあどうらしいのかしら?これまで話を聞いてきた中で、聞き手の私達が勝手に勘違いして思い込んでいるようなことがあったりする?何かしらね。あなたは私達がそれに気づくことができると思う?」

「ちょっと無理かもしれない。」

「それはなぜ?私達の考える力がちょっと残念なものだから?それともそんなものはないってことになるから?」

「君たちを含めたここにいる殆どの人間、そして過去にここを訪れた人間のほぼ全てはこの場所がサーカス「バルーンと呼ばれているその由来についてさして興味を持っていないし、その解釈を自分で作って解決してして済ませている。」

「君もそうであるように、サーカス・バルーンのおびただしいまん丸なテント群を目の前にした客達は、その語源をバルーンのような形のテントに求め、以後疑うことがない。」

「だけど真実はそうではなく、サーカス「バルーンのそれはテントの形を言ったものではない。そうなるならそれはなにを示しているのかしらね。」

「客がみな、君と同じような話を聞くことができていたなら彼等はきっと自分が誤解していたことに気づくだろう。彼等は今の君達と違って、ここがどのようにして出来たのかを知らないし、地上数百メートルにあることを知る由もないのだから。」

「逆にそれを知っている今の君達なら、バルーンの語源が違うものだって考えるだろう。」

「ええ、そうでしょうね。でもだとしたら本当なの?そんなこと。」

「にわかには信じられないだろうがね。ここにある全てのものは、無数のバルーンで空中に浮かんでいるんだ。このホテルも、駅や、森。ここに続く鉄道線路もそうさ。」

「それにしては駅からこのホテルに歩いている間も、私は緑の切れ間から空を何度となく見上げたものよ。閉塞感のある列車での旅から開放された直後だったのですもの。」

「だけどそこには朝焼けの濃い青や、ミルフィーユとは違った質感の雲がちょこちょこっとただようだけだったわ。もう一度見返してこいと言われればそうするけど、そこにはこの一体の全てを浮き上げるほどの大きな無数のバルーンと、それらとをつなぐワイヤーなりが見えるのかしら?」

「それから幾分も経ってないということを考慮すれば、君の見た光景はその通り今そこにあるんだろう。だがそれが正しいんだ。」

「バルーンは目の前にあるもの、それらはサーカスが行われている球体上のテントがそれにあたり、それらの浮上力によってこの一帯は支えられていると。」

「そうではない、そうするにはサーカステントの中に空気よりもよほど軽いガスをパンパンに充填しないといけないし、そのバルーンをサーカステントに紛れ込ませたなら、そのサーカステント群は僕の見たものよりももっとずっと巨大なものでなければならない。」

「サーカステントではないということね。じゃあバルーンはどこにあるのよ。」

「探しても無駄なんだ、それその目で見ることはできない。」

「どうして?それらは透明だということ?」

「いいや違う。」

「なにかしら?」

「それらは恐ろしく高い位置を浮かんでいるんだ。」

「肉眼では捉えられないほど?」

「そう。サーカスバルーン一帯を浮かせる莫大なバルーンの群れは。ただ、寝ぼけ眼で見上げた青い空に白い月を見つけることがあったなら、それは一番低い位置にあるバルーンだったなんてことはあるかも知れない。」

「それでワイヤーについてもきっとそうなのね。例によって発掘した恐ろしく強度の高い糸のようなワイヤーなものだから、意識しなければその存在にすら気づかないってことになってるのよ。ほんと、ここって高度な技術に囲まれたような場所になるのね。」

「それを使うだけの理由がここにはある。君たちも知っているように。」


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