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婚約破棄系短編

駄目出し令嬢の婚約破棄未満

作者: サトム

何かと問題があった第二王子の婚約者になった公爵令嬢が、第二王子と問題の素である男爵令嬢に駄目出しをするだけのお話。様々な人々の様々な思惑が絡みつつも、山なしオチなしざまぁなし。

 穏やかな木漏れ日の中、書類を抱いた女子生徒が渡り廊下を軽やかに歩いていた。艶の良い黒髪は緩やかに細い背で揺れ、その後ろ姿だけで品の良さがにじみ出ている。学園の制服をそつなく着こなしているが、それでも彼女のスタイルの良さは誰にでも分かるはずだ。

 なんの変哲もない日常の風景。そこに忙しなく騒がしい足音が割り込んできた。


「ティーフォーヌ様! 王子殿下を……オスカー様を開放してください! 彼は愛のない婚約に苦しんでいます! どうか、どうか彼の為に……」


 フワフワの淡い金髪と晴れた空のような青い目を持つ小柄な女生徒が胸の前で腕を組み、その大きな目を潤ませて懇願する。庇護欲をそそるその行動に、それでもティーフォーヌと呼ばれた女子生徒は冷ややかとも取れる冷静な面持ちで口を開いた。


「駄目ですわ」

「そんな! そうまでして王妃の座を」

「いいえ、そういうことではありません」


 ショックを受けた女生徒の言葉を遮って黒髪の生徒はキッパリと言い切る。


「学園の廊下を走ってはいけないのですよ。初等部生ですら知っている常識ですわ。貴族の子女としてもはしたないですし」


 仕方のない子供を見るそのまなざしは彼女を知る人間が見れば本気で真剣だということがわかるが、言われた少女は初対面だ。そこまで分かるわけがなかった金髪の女子生徒は口を開けて間抜け面をさらす。


「ですからやり直してくださいませ。ごきげんよう」


 それまでの無表情が嘘のようにニッコリと愛想笑いを浮かべた黒髪の生徒は、そのまま優雅に立ち去ったのだった。







 黒髪の女子生徒の名はティーフォーヌ・トリント。この国に5つある公爵家の一つ、トリント公爵家の長女で昨年からオスカルド第二王子の婚約者に『なった』。婚約が発表されたときは王国の貴族ほぼ全員が納得するほどの才媛で、少し前から何かと悪い評判が流れていた第二王子を助けるために王家から打診されて結ばれたものだという話は周知の事実である。


 そして第二王子の悪い評判に拍車をかけたのが先ほどティーフォーヌに暴言を吐いたカスリーン・リーデンローズ男爵令嬢だ。去年学園に入学すると瞬く間に上位貴族の子息たちを虜にして、婚約者のいる第二王子とも親密な仲になったらしい。


「ティーフォーヌ様! オスカー様を開放してください! 愛のない婚約なんてオスカー様が可哀そうです!」


 前回走って来たことを注意されたのが恥ずかしかったのか、今度は教室の前で待ち伏せたカスリーンが自分こそが正義であると言わんがばかりに声を上げた。授業が終わり、たくさんの生徒が行きかう廊下のど真ん中である。大勢の生徒に注目され、ティーフォーヌは小さくため息を吐いた。


「駄目ですわ」

「やっぱり貴女が欲しいのはオスカー様ではなくて」

「ねぇ、あなた。少し想像してほしいのだけれど」 


 カスリーンの言葉を遮ってティーフォーヌは微かに首をかしげながら事実を淡々と口にする。


「あなたをよく知る、けれどあなたはよく知らない学生に話しかけられて、突然根も葉もない非難をされたらどう思いますか?」


 周囲には大勢生徒がいるというのにシンッと空気が凍った。そんな中、空気が読めないカスリーンが的外れな非難の声を上げる。


「なんでそんな関係のないことを言うんですか?! 私の家が男爵だからってそんな非常識なことをするとでも言いたいんですか! 身分をかさに着てそんな言いがかりをつけるなんて酷い!」


 再び周囲の空気が凍るが、ティーフォーヌは微かに安堵したように小さく頷いた。


「そうですわね。わたくしが例えた話は非常識ですわ。初対面ならまずは自己紹介から始めるのが常識ですわよね。それでわたくしとあなたは顔見知りでしたかしら? 前に一度でも名乗りあったことがありまして?」


 静かな声はその正しさで反論を許さず、公爵令嬢の意図を痛烈に印象付けて。悔し気に口を閉じたカスリーンはそれでも自分の正当性を訴えようとする。


「……それは私が男爵位だから、あなたに話しかけてはならないということですか?」

「ここは学園で、わたくし達は学生同士なのですから爵位の上下は関係ありません。平民でも貴族でも、初めて会う人同士の礼節の話をしていますのよ」


 子供でも知っている常識を苛立つことなく懇切丁寧に教え説く公爵令嬢の姿に、野次馬たちは尊敬の眼差しを送った。さすが王家と婚約を結ぶだけのことはあると、ある種ゆるんだ空気が流れた廊下にカスリーンの不機嫌な声が響く。


「私はカスリーン・リーデンローズ。初めまして、ティーフォーヌ・トリント様。それでお話があるのですけれど」

「駄目ですわ」


 棒読みの自己紹介に再び待ったがかかった。


「なぜですか! 自己紹介はちゃんとしました!」


 むきになって反論するカスリーンにティーフォーヌは脇に抱えた封筒を示す。


「わたくしはこの後に用事があるのです。一週間前から入っていた予定ですので遅れることはできませんの。話をしたいのなら、相手の予定を伺うのは当たり前ではなくて?」


 ここは初等部か!と突っ込みたくなるような、まるで教師と生徒のようなやり取りの後、ティーフォーヌはニッコリと愛想笑いを浮かべてごきげんようと挨拶をし、踵を返したのだった。







 ここからさらにティーフォーヌのダメ出しは続く。


「ティーフォーヌ様、こんにちは。私はカスリーン・リーデンローズと申します。お話があるのですが、お時間はございますか?」

「こんにちは、リーデンローズさん。少しの時間でしたら大丈夫です。それとここは学園ですのでわたくしにも様付けは必要ありませんわ」


 前回、前々回の注意を受けて会話だけなら必要最低限の礼儀をクリアしてきたカスリーンに見守るような視線を向けるティーフォーヌは、時折通りかかる生徒の邪魔にならぬように廊下の端へと移動する。そうしてようやく話し合うことができたカスリーンが、もうすでに何度も口にした要件を告げようとしたときだった。


「駄目ですわ」


 今度は取り巻きの侯爵子息二人と三人で話しかけてきたカスリーンに……ではなく、背後で騎士のように彼女を見守っていた二人にだ。カスリーンに向けるよりも幾分厳しい目線で背後の二人を睨むティーフォーヌに、人数差があるにも関わらず三人は気圧される。


「あなた方はなぜここにいるのです? 彼女の付き添いならば話の聞こえない場所で待つべきでしょう。話に入るのならしっかり挨拶をなさい。オスカルド殿下の側近『候補』ならばその程度の礼儀は心得ているはずですわよね? それともすでに側近だと勘違いして、第二王子の婚約者であり公爵位を持つわたくしに横柄な態度をとっても構わないと思われているのかしら?」


 清楚な美しい女性から放たれた厳しくも正しい言葉に反論もできず、視線をそらすことしかできない侯爵子息二人。そんな二人の為に健気なカスリーンは誤解を解くべく目を潤ませた。


「違うんです。私が彼らに付き合ってほしいって頼んだんです。私ひとりじゃ怖くて……だからカル君もジル君も悪くないんです!」


 懸命にかばうカスリーンを見つめたティーフォーヌは、一度目をつぶって自分を落ち着かせてから厳しさを取り除いた声で話し始めた。


「いいえ、カスリーンさん。わたくしが指摘したのは『どういった理由でここにいるのか』ではないのです。『第二王子の側近候補として礼節をわきまえなさい』ということですわ。オスカルド殿下のそばにいるつもりならば、貴女も、彼らも、例え学園内であろうとも評判を落とすような行動をせぬよう注意しなければなりません。分かりますか? 配下の不始末はあるじがとらなければならないのですよ」


 学園はその予行演習を兼ねているのだと説明するも、カスリーンはそうではないと反論する。


「違います! 私にとってカル君やジル君、レイト様やジャスティン様だって大事な人です! 配下なんかじゃありません! 大切な人を配下としか思えないなんて……ティーフォーヌさんは酷い人ですね!」


 そこまで非難されて、それまで一度たりとも気にした様子のなかったティーフォーヌの顔から表情が消えた。その様子を見てびくりと肩を震わせるカスリーンだが、いつもなら抱きしめてくれる『大事な人』たちは後ろで視線を逸らすばかりで慰めてもくれない。


「ではカスリーンさん。一つお伺いします。学園だから身分も関係なく大事な人だとおっしゃっているんですよね? では学園を卒業したらあなた方の関係はどうなさるおつもりなのかしら? まさか学生と同じだとは思っていらっしゃいませんわよね?」


 学園の外に出れば貴族のみならず平民ですら身分に従う。それがどんなに仲の良い関係であったとしてもだ。それが大人であり、そういった態度を学ぶのも学園の役割なのだが。


「えっと、卒業しても一緒ですよ? 私は成人したからといって変にかしこまったりするつもりはありません。大好きな人と結婚してもカル君もジル君も大切な人だからね! 私のそばにいてくれるよね!」


 そう朗らかに語るカスリーン。後半は取り巻き二人に話しかけたのだろうが、子息二人はその内容が内容だけに見目麗しい顔が蒼白だ。さすがに哀れに思ったティーフォーヌは話をそらすことにした。


「そういえばわたくしに何かお話があるということでしたけれど……」

「あ、そうだ! オスカー殿下との婚約を解消して下さい! オスカー様は愛のない婚約に悩み苦しんでいます。だから、どうか……」


 感極まって潤んだ瞳にはティーフォーヌの冷静な顔が映る。とはいえかれこれもう三度ほど聞いていた話だったのでこれといって反応のしようがなかったのだが、ティーフォーヌはしばらく考え込んでから静かに言葉を紡いだ。


「答える前にいくつか質問なのですけれど……婚約を解消したいとオスカルド殿下が貴女におっしゃったのですか? そしてそれを貴女に解決してほしいとおっしゃったの?」


 ティーフォーヌが小さく首をかしげるとカスリーンは興奮したようにギラつく目を挑戦的に向けてくる。


「いいえ。でも彼が苦しんでいるのは」

「それでしたら駄目ですわね」


 もう何度目になるだろ。言葉を遮る公爵令嬢の駄目の言葉にカスリーンの可愛いと言われている顔が怒りに歪むも、感情のままに叫ぶことなく低い声で理由を問う。


「……どうしてですか」

「わたくしと殿下の婚姻契約は国王陛下とわたくしの父であるトリント公爵の間で取り決められたものです。ですから破棄するのは国王陛下と父であり、わたくしと殿下にはその権限はないのですわ。どうしても無効にしたいのならば殿下が直接国王陛下を説得なさるのが一番早いかと存じます」

「あなたが! あなたが無理を言って殿下と婚約したと聞きました」

「誰に聞いたのかは知りませんが、もし本当にそう聞いていたのなら貴女は情報収集能力をもう少し磨いたほうがよろしいですわ。お茶会やサロンへの参加はしておりますの? 同性のお友達がいらっしゃらなくて無理だとしても……ほら、後ろの大切なお友達に聞いたらいかが? 候補とはいえ彼らは王族の側近になるべく勉強をされています。正しい情報を教えて下さると思いますわ」


 親切心からかカスリーンの足りないところを指摘する。ついでに側近候補の情報収集能力も図ろうとティーフォーヌは彼らに微笑みかけた。


「ではもしオスカー様が私に、婚約を破棄したいとティーフォーヌさんに伝えて欲しいと言われたら……」

「その時は殿下に注意をいたします。王族として側近でもない人間に不用意に命令することはならないことです。ましてや男爵令嬢に公爵令嬢へ婚約破棄するように申し入れる命令をするなんて……正気の沙汰とは思えませんわ」


 言葉と同時に吐かれたため息は自身の婚約者へのものなのか、目の前の令嬢になのか判別がつかぬまま。それでも艶やかな憂いを色濃く漂わせたその姿にカスリーンを含めてその場にいた三人は思わず見惚れる。

 その様子にこれ以上話すことはないと判断したティーフォーヌは時計をちらりと見て優雅にお辞儀をした。


「申し訳ありませんが、時間が来てしまいましたわ。これで失礼しますわね」

「ちょっと……!」


 引き留めようとしたカスリーンだが、付き合ってくれた侯爵子息が同時に二人とも踵を返したことで迷いが出て、結局どちらも反対側へと歩み去っていく。そして「あ……、え……」と言葉も出ない彼女は間抜けた様子で三人の背を見送ったのだった。







 もちろんティーフォーヌの駄目出しは第二王子にも同様に行われた。こちらは彼女から積極的に行われていたので、カスリーン男爵令嬢とは趣の異なるものではあったが。

 昼休み。中庭という校舎から丸見えの場所でベンチに座り寄り添う二人に歩み寄るティーフォーヌ。最近カスリーンを取り巻いていた高位子息たちが軒並み姿を消し(学園には在籍しているのだが、第二王子と男爵令嬢を遠巻きにしていた)、二人の世界を作り上げていたオスカルドは不機嫌を通り越して憎しみのこもった目で自身の婚約者を睨んだ。


「なんだ」

「オスカルド様に申し上げます。このような人目に付く場所で女子生徒と親しくされては駄目ですわ」


 丁寧に話してはいるがたしなめる言葉にオスカルドの怒気が増す。それすらも気にせずティーフォーヌは話を続けた。


「秘密の恋というのは誰にも知られぬからこそ燃えるのです。このような誰でも目にする場所で親しくしていても、それは考えの足りない者の幼稚な恋としか取られません。婚約者ではない者と秘密の逢瀬を楽しみたいのなら、誰にも知られぬよう用心なさいませ」

「お前には関係ない」


 婚約者から浮気を推奨する言葉をかけられたというのに、オスカルドは余計なことを言うなと返す。ここに王子に文句の言える常識人がいれば「関係あるだろう!」と注意しただろうが、ティーフォーヌは彼の言葉に無関心で流した。

 とはいえオスカルドとカスリーンの秘密の恋はすでに秘密でもなんでもない上に学生たちからは呆れられているのだが、もちろん二人きりの世界を作り上げている彼らが気づくことはない。それどころか未だ秘密の恋なのだという行動を取るので滑稽にさえ見えるのだ。二人きりになるためにわざと目配せをして待ち合せたり、人に気づかれないように微笑みあったり。もちろん周囲にはバレバレなので、彼らが秘密の恋を満喫していられるのは単に周囲の人間の努力の賜物である。


「とにかく忠告申し上げました。それでは失礼いたします」

「カスリーンは私の『大切な友人』だ。下手なことは言うなよ」


 用は終わったとあっさり背を向けたティーフォーヌに秘密の恋人をばらすなとの牽制が飛ぶが、周知の事実をどうやって隠せというのか。困難どころか不可能な命令に公爵令嬢は黙ってお辞儀をすることで答えた。







「ティーフォーヌ。お前に聞きたいことがある。お前がカスリーンに暴言を吐いたり、彼女の物を盗んだりしていじめたというのは本当か」


 雨降りの図書室で本を読んでいたティーフォーヌに肩を怒らせたオスカルドが詰め寄る。王妃に似た優しい顔立ちが驚くほど歪められ、低い声は彼が本気であることが窺えた。さすがに驚いたらしいティーフォーヌは目を丸くするも、すぐに落ち着いて図書室の外へと第二王子を誘う。


「オスカルド様。ごきげんよう。突然いかがなさいました。図書室であのような大声を上げるものではございませんよ」


 ティーフォーヌの指摘を無視してオスカルドは廊下で声を荒げた。


「カスリーンが泣いていたのだ。訳を聞くと彼女の教科書が破かれたらしい。さらに追及するとお前から爵位を盾に嫌みを言われ、更に酷い噂を流して女子生徒を先導しお茶会に彼女を出席させないようにしたらしいな!」


 彼の言い分を聞いたティーフォーヌは不思議そうに小さく首を傾げた。


「まったく身に覚えはございませんが」

「カスリーンが言っていたのだ。間違いない。未来の王妃だから何をしても許されると思うな!」


 聞き捨てならない言葉にティーフォーヌの目が険しくなる。背筋を伸ばして唇を引き結んだ彼女は頭一つ分も高いオスカルドを見つめ上げた。


「殿下、駄目ですわ。未来の王妃陛下は王太子殿下の婚約者アストリット様です」


 力の入った言葉は逆らうことを許さず。いったい誰の入れ知恵だと目を細め該当しそうな貴族令息を思い浮かべるも、カスリーンの『大人になってもみんなお友達』発言で第二王子と距離を取った者たちにそれらしき家はない。側近候補たちは何をしているのかと舌打ちしそうなティーフォーヌはかろうじて表情を取り繕い、この件は自分の管轄ではないと話を戻すことにした。


「わたくしが教科書を破ったとリーデンローズさんが証言していらっしゃるのでしょうか?」

「いいや、彼女はお前だとは言わなかった。だがお前にいじめられているんだ。犯人はお前に決まっているだろう。カスリーンが教室に入る前にお前が教室から出てきたのは他の生徒の証言で確認している。お茶会だって公爵家が一言リーデンローズ男爵家を誘うなと言えば誰もが倣うはずだ。もういい加減言い逃れはやめて認めたらどうだ」


 勝ち誇った表情のオスカルドは罪人を見るように蔑んだ目を向けてくるも、ティーフォーヌは微動だにせず真っ向から言い返す。


「殿下が今おっしゃったことは複数からの確認を取っていらっしゃいますか? 学園に上がる前の王家の教育にあったはずです。事実と証拠は常に異なった立場三か所以上から集めること、と。殿下をわざとでなくとも騙すことができれば、この国では黒を白と言ってしまえるのです。王族にはそれだけの発言力があることは習われたはずですわ」


 真剣な面持ちで発言の信ぴょう性を問われオスカルドは黙り込んでしまう。この王子の悪い癖だ。黙り込んでしまえばうやむやになると思っているのだとティーフォーヌが気付いたのは最近である。だから彼女は追及の手を緩めなかった。


「この場合の証言はリーデンローズさんとわたくし、そしてリーデンローズさんが教室に入る前にわたくしが教室を出たと証言する生徒ですわね。それで殿下はわたくしに証言を求められたでしょうか。わたくしの記憶違いでなければ結論が出る前に殿下に証言をした記憶はございません。それにわたくしがやったという証拠はありますの? 直前に教室を出ただけでは証拠にはならないのはご存知でしょう」


 そんな甘い考えで王侯貴族の中を渡っていくつもりなのかと、ある意味恐怖したティーフォーヌはどうか理解してくれるように願いながら対処方法を口にする。


「人の証言だけでは人を裁くことはできません。それどころかもっと有力な証言を偽証されれば結果が真逆になるでしょう。ですから証言はあくまで補助であり、何かしら証明したいのであれば完璧な証拠が必要ですわ。たとえ王族の証言だからと強行なさっても臣下は納得しないでしょう」

「……証拠を残さなかった自信があるということか。今は引いてやる。だが私は諦めないぞ!」


 小悪人のような捨て台詞を残し立ち去る第二王子。見送っていたティーフォーヌはポツリとつぶやいた。


「わたくしが本気で行えば『破かれた』程度で済むはずがありませんのに……」







「ティーフォーヌ・トリント! カスリーンに対する嫌がらせと王族の婚約者にあるまじき暴虐、この私が知らぬとでも思ったか! お前のような悪女の血を王家に入れることなどできぬ! ゆえに婚約は破棄する!」


 金髪碧眼というこの国でも最も多い色合いを持つオスカルド第二王子の声が高らかに宣言し、講堂にざわめきが広がった。生徒が騒ぐのは当たり前だろうとティーフォーヌは小さくため息を吐く。同時に夜空のような紺色のドレスを持ち上げて壇上の殿下の前まで進み出ると優雅にお辞儀をして毅然と顔を上げた。


「駄目ですわ、殿下」


 そう。今は学園の卒業パーティーの最中であり、オスカルドは卒業生代表として挨拶をするために壇上に上がっていたはずであるにも関わらず、彼はまったく場違いな話を始めたのだ。


「何が駄目だ! 証拠も証言も取ってある! お前の悪行を父上が知れば公爵家の権力をもってしてもこの婚約は破棄されるぞ!」

「いいえ、そうではありません。今は何の式を執り行っているのでしょう?」


 黒髪と茶色の目を持つティーフォーヌは厳しい視線と有無を言わせぬ声を壇上に向ける。その人を従わせる声にオスカルドは怒りをあらわにした。


「学園の卒業パーティーだが、お前の罪を公にするには仕方がないだろう!」


 オスカルドの自己中心的な考えに学生たちは眉をひそめつつも成り行きを見守る。そこにあるのは王族への尊敬ではなく、公爵令嬢への信頼だと壇上のオスカルドは気づくこともない。


「いいえ。この式は先生方と在校生がわたくしたち卒業生を祝い、送り出すために催してくださったものです。この場にいる者たちにとって一生に一度の卒業パーティーを、たとえ王族であろうとも個人的な理由で中止にしてよい訳がありません」

「だが内々に告発してもお前とお前の父親が公爵家の権力ですべてなかったことにするだろう! 王家に悪女が入り込むのを阻止できるのなら、ここにいる者たちとてパーティーが中止になることくらいなんでもないと思うはずだ!」


 自分こそが正義であると疑わない第二王子は怒りに顔を紅潮させながらティーフォーヌを指さすと、彼女は言い分を聞いて頷いた。


「そこまでしてわたくしを弾劾したいのでしたら来週に行われます国王陛下の誕生パーティーになさるとよろしいですわ」

「え?!」


 王子のみならずその場にいた者すべてが毅然とたたずむ公爵令嬢を見る。まさに名案だと、いつになく美しい笑みを浮かべているティーフォーヌは周囲からの驚きの視線をものともせずに言葉を続けた。


「国王陛下のパーティーも国を挙げてのもので、それこそ半年も前から準備が進められてきました。王妃陛下も王太子殿下も、他国に嫁がれておられる王女殿下方も帰国なさってそれは楽しみにしていらっしゃいますし、国内貴族のみならず他国の貴族、王族も出席なさるパーティーですから、そこでわたくしを弾劾すればいかにトリント公爵家の権力を使ったとしてももみ消すことはできませんわ。もちろんそんな騒ぎがあればパーティーは中止でしょうが、ご自分の息子が王家の為に行ったことですもの。国王陛下もお許しになるのではなくて? それに誕生パーティーは毎年ありますから今年くらい中止になってもきっと皆さまは判ってくださいます」

「そんなことをすれば……」


 事を起こした結果を想像して顔色をなくすオスカルドにティーフォーヌの厳しい声が飛ぶ。


「それとも国王陛下の誕生パーティーを中止にするのは駄目で学園の卒業パーティーでは何をしてもいいとおっしゃるおつもりですか?」


 そこまで指摘されてようやくオスカルドは講堂に集まっている学生たちの険悪な雰囲気に気が付いた。そして完全に味方のいない現状に彼は嫌悪の表情を浮かべながらも壇上から退いたのだった。







 結果から言えば国王の誕生パーティーで騒動は起こらなかった。というか当たり前だが卒業パーティーの出来事を聞いた王家が手を打った。


「まぁ、謹慎にしなくとも婚約破棄騒動は起こさなかったと思いますけどね」


 公爵家の庭で優雅にお茶を飲むティーフォーヌの横には白銀の髪と紫の目を持つ美丈夫が微笑んでいた。彼はアルスター・ウィル・ベクター北境伯。服装は王国騎士服と似ているが色が白ではなく群青で、卒業パーティーでティーフォーヌが着ていたドレスと同じ色である。切れ長の目と薄い唇に白い肌と文官のような容姿だが、首筋に見える筋肉と広い肩幅、それでいてウエストは引き締まっていて服の下に鍛え上げられた肉体があることがうかがえた。

 そして彼こそがティーフォーヌの本当の婚約者である。


「それにしても腹が立つな。確かに私は君を貸すことを了承したけれど、偽りの婚約者にまで仕立てていいとまでは許可していなかったはずだ」


 耳をくすぐる不服そうなバリトンにティーフォーヌは学園では見せたことのない穏やかな笑みを浮かべる。


「私が構わないと言ったの。どうせ王都の貴族なんてウィルに嫁げば関係なくなるし、王家に貸しを作っておくのも悪くないかなって思って」


 今回の出来事は全て国王夫妻の計画であったことを知る人間は少ない。

 何かと素行に問題のあった第二王子の行動を矯正するために、公爵令嬢で才媛でもあり相思相愛で北の辺境伯に嫁ぐことになっていたティーフォーヌに、期間限定で偽りの婚約者として側にいるよう要請があったのだ。

 第二王子の言動を諫めつつ、王族たるにふさわしい意志を持っているのか確認するように……と。


 この国の国王の子供は、城にいながら王家ではなく後見人である高位貴族によって育てられると言っても過言ではない。乳母はもちろん執事、教育係、護衛騎士、侍女から遊び相手まで子供を産んだ女性の実家が用意するのだ。国王と王妃は親子の情よりも王族としての立場を優先しており、それ故に次期国王は生みの親如何に関わらず実力で決められるし、逆に王族としての実力が足らぬため臣下に降ろすこともある。

 今回の婚約は第二王子を王家から除籍するか判断する試験だったのだ。


 滅多にないことだが除籍されればその身柄は教育を施した家での預かりとなり、それ以後に騒動を起こせば責任は全てその家が負うこととなる。だから臣下に下った王族はよほど特殊な才能がなければほとんど表舞台に戻ってくることはない。それがこの国の在り方だった。


「貸しか……ずいぶんとでかい貸しになったようだな」


 結果として第二王子は再教育を施されることになり、これで矯正できれば同じく再教育を受けたカスリーンと結婚させて王位継承権を破棄させた上で王族として国を支えていくことになりそうだ。ティーフォーヌの助言をしぶしぶでも聞き入れていたのが功を奏した形である。もし矯正できなければ……彼らは二度と表舞台に立つことはないだろう。


「なるべく不利にならないようにカスリーンさんの危険な発言は途中で止めていたのですけど……さすがにオスカルド様の発言を止めることはできなくてこの騒ぎよ」


 結局第二王子の起こした騒動は広まってしまい、ティーフォーヌは婚約を破棄された令嬢といううわさが流れて公爵家には随分と下世話な貴族たちが『傷物令嬢』を『貰ってやる』ために訪れたのである。もちろん娘を溺愛しているトリント公爵は爵位に関わらず彼らを叩きのめし、公爵夫人は社交界での彼らの居場所を抹消してしまった。その中には悪事をなかなか掴ませないとある伯爵家も含まれていたので、国王などは一石二鳥になったとトリント公爵から凍てつく視線を受けながら笑っていたらしい。


 その話を聞いて国王の誕生パーティーを滅茶苦茶にしてやれと多少冗談でも助言した私は悪くないと思うティーフォーヌである。


「貴方を守るためならどんな手でも持っておいたほうがいいもの」


 頬に添えられた大きくて固い手にすり寄るとティーフォーヌはうっとりと潤んだ目でウィルを見上げた。そのしぐさも眼差しも年相応の恋する女性のもの。


「貴方と共にあり、共に戦うことが私の望み。貴方が守るものを私も守るわ」


 北方という魔物が出現しやすい危険地域に嫁ぐ彼女は、それは些細な事であるとばかりに幸せそうに微笑む。それを見た辺境伯は苦みを含んだ笑みを浮かべて愛しい女性の唇を親指でそっと撫でた。


「君のことは私の命に替えても守るけど、完璧な淑女である君を王都から連れ去っていいものかどうか未だに迷うよ」

「完璧な淑女とはアストリット様のことを言うのよ。少なくとも剣と魔法で魔物と戦ったり、単騎で馬を駆ったりしないわ」


 貴族の子女としては恥でしかないそれらの行動を上げてティーフォーヌは誇らしげに笑い、二人は仲睦まじく寄り添っていた。








 王城の鐘が祝福するかのように鳴り響く。王室の歴史を再教育されていたオスカルドは貴重な本から窓の外へと視線を向けた。

 窓は以前のように大きく庭に面した景観ではなく、大人では通り抜けできないような大きさで青い空と時折流れる雲が見えるのみ。それでもいつもと異なる周囲の喧騒に不思議に思って教育係に目を向けると、眼鏡をかけた壮年の男性が無感情に答えた。


「本日は北の辺境伯とティーフォーヌ・トリント公爵令嬢の婚姻式が執り行われております」


 「は?」と間の抜けた返事に教育係からきつい視線で叱咤が飛ぶが、オスカルドは聞いた事実に混乱しつつなんとか理解しようと努める。


「彼女の罰が辺境伯との婚姻なのか? 魔物の跋扈する北方の地に送られるとは、少しきつすぎるんじゃないのか?」


 オスカルドが無意識に発した言葉に教育係が目を細めて反応する。気配を凍らせ、読んでいた書物を少し乱暴に閉じて蔑みの視線を向けてきた。


「オスカルド様。なぜトリント公爵令嬢が罰を受けねばならないとお考えになったのかお教えいただいても?」


 ティーフォーヌの働きかけで決定的な失態を犯す前に止められたお陰で、彼は今王籍を外れることなく再教育を受けられていることは説明してあったはずだった。なのにまだ教え足りないのかと苛立つ教育係にオスカルドは事も無げに答える。


「彼女はカスリーンを階段から突き落として害しただろう? それにいじめを行っていたようだし。けれど私と婚約破棄されただけでも罰になるだろうに、その上辺境に送るのは少しやりすぎではないのか?」


 その言葉を聞いた教育係はめまいがした。この王子は知識は十分すぎるほどあるというのに常識がないのだ。裏事情や表立った事実に隠された裏話を、誰もこの王子にしてこなかったのだろう。それが自分の役目であることは十分承知していたはずなのだが、それでも覚悟が足りなかったらしい。

 気を取り直した彼は腰を据えて王子と向き合った。


「一つ一つ間違いを訂正していきましょう。まずトリント公爵令嬢は表向き殿下の婚約者と言われておりましたが、正確には国王夫妻から殿下に付けられた裁定人でした。かのお方は北の辺境伯と婚約を結んでおられましたので、学園に在籍している間に殿下が王族に相応しいか否かを見極める役を仰せつかったようです。ですのでリーデンローズ男爵令嬢を害する理由がないのですよ。それに公爵令嬢が男爵令嬢を害した証拠はねつ造されたものだと報告してあったはずです」


 これに関してはさんざん説明されたはずなのだが、言葉の裏を読むような回りくどい言い方では理解できなかったのだろう。彼の頭の中では愛する女性がいる自分をティーフォーヌが諦めきれず、振り向かせようと必死で追いすがっていると思っているからだ。だから教育係は厳しい事実をはっきりと言葉に出した。


「それと庶民の間でこう言われているのはご存知ですか? 『今回はずれを引いたのはアストリット様だ』と」


 突然出てきた未来の義姉の名に頭の整理が追い付かないオスカルドは返事もできない。それでも事実は告げるべきだと教育係は話を続けた。


「東西南北、すべての辺境伯は政略結婚をしたことがありません。常に自分が心から愛する女性を口説き落として婚姻を結ばれるのです。それも爵位の高低に関わらず口説かれた女性は王家に嫁ぐことができると言われるほどの美貌を持つ才媛が多いのです。逆に王家は政略結婚以外ありません。それも貴族の義務ですので一概に優劣を付けられるものではありませんが、自由恋愛での結婚が多い平民の間では『王家に嫁ぐのは可哀そう』とまで言われることがあるのですよ」


 王妃が王との子供を他人に託すことが義務付けられているのも噂に拍車をかけたのだろう。


「もちろんトリント公爵令嬢とて例外ではありません。学園に入る以前に辺境伯が参加した舞踏会で見初められてから、王都にはたまにしか訪れることができないのにも関わらず熱烈に口説かれたとか。令嬢の方もすぐさま恋に落ち婚約を結ばれたとお聞きしています。ですが辺境伯であるが故に令嬢の身の安全を守るために婚約の事実は一部の者以外隠されました。そこに目を付けたのが国王陛下だったわけでございます」


 外では再び鐘が鳴り、人々の歓声がこの部屋まで届いてくる。歓喜に包まれたそれに教育係は更に追い打ちをかけた。


「今、貴族を含めた女性が憧れているのは辺境伯との恋愛物語だとか。王家を凌ぐ美貌を持つ辺境伯に嫁ぐのを罰だと思う人間はかなり少ないでしょう」


 同年代に辺境伯子息がいなかったこともあってかオスカルドは王家王族こそが民に親しまれ尊ばれると思っていた。民の国への忠誠は王家一点に注がれているとも思っていた。だが教育係が告げた事実は今までオスカルドが側近たちと話してきた事実とは大いに異なり、彼を混乱へと突き落とした。


「なぜ、なぜ誰も教えてくれなかった」


 頭を抱えて短く息を吐くオスカルドに教育係は再び椅子に座りながら閉じていた本を開く。


「それらはご自身で気が付きませんと……誰かに教えてもらうようなことではないでしょう?」


 人の悪意を悪意と気づかなかったオスカルドの性格は、多少愚直でも平民ならば美徳であるといえた。ただ王族としては致命的な欠陥であり、それ故に王族らしくない行動をとる彼の悪名が広がってしまったのだ。

 国王夫妻はそんなわが子の欠点を見抜き、トリント公爵とベクター辺境伯に借りを作ってまでティーフォーヌ公爵令嬢を借り受けた。他の裁定者ではオスカルドは王族として残るどころの話ではなかっただろうが、今の彼にそこまで想像することはできないだろうと教育係はため息を吐き、盛大な式が行われている澄み切った青空を小さな窓から見上げたのだった。







(おまけ)


 今日、王城で何かの式典が行われているらしく、侍女たちの監視の目がゆるんだカスリーンは息抜きの為に小さな庭に逃げていた。オスカルド第二王子に嫁ぐためとはいえ、毎日毎日勉強漬けな上に王子にも会うことができず精神的に参っていたところだったのだ。それに未来の王子妃なら許してもらえるだろうという甘えもある。


 廊下に隠れてやり過ごした侍女も騎士も侍従も皆浮かれており、まるで王族の祝賀でもあるような騒ぎだと思いつつも光あふれる庭から廊下に目をやった時だった。

 カスリーンは盛装して颯爽と歩く青年貴族に目を奪われる。

 風に揺れる銀髪と切れ長のブラックパープルの瞳を持ちオスカルドなど普通の男性に見えてしまうくらいの美しい面立ちだが、それでいて雄々しさを感じさせる逞しさもある。紺色の見慣れぬ騎士服に白のマントを羽織り、覇気を滲ませて歩く姿だけで他を威圧しているように見えた。


「あの!」


 思わず声をかけたカスリーンは振り向いた男の甘い眼差しに体が引き寄せられるような気がした。


「私、カスリーンと申します。貴方のお名前を教えていただけませんか?」


 震える体を男に摺り寄せて潤んだ瞳で見上げれば、彼は優しく微笑んで小さく頭を下げる。


「私は北の辺境伯、アルスター・ウィル・ベクターと申します。リーデンローズ男爵令嬢」

「いやです。私のことはカスリーンと呼んでください。アルスター様にはそう呼んでほしいです」


 名乗らなかった家名で呼ばれたことを不審に思うこともなく、頬を染め初々しい反応を示す令嬢にアルスターが楽しそうに笑った。


「そんなわけには参りません。オスカルド様がお許しにならないでしょう」


 彼の口からオスカルドの名が出た途端、カスリーンの華奢な肩が震えて青い瞳から涙がポロリと零れ落ちる。学園の男子生徒ならそれだけでカスリーンの味方になったが、アルスターはその大きな熱い指でそっと涙をぬぐった。


「私、オスカルド様の妃になんてなれません。私の家は男爵家で、とても王族に嫁ぐような家柄ではないのです。アルスター様……」


 カスリーンの頭の中では、この王族をもしのぐ美男子に不満な現状から助けられて愛されるまでが思い描かれていた。自分は子供のころからこうやって思い描いたとおりに叶うという不思議な力があるのだ。それはまるで思い出すように鮮明で詳細で、それを元に行動すれば学園ではオスカルドや高位子息たちを簡単に虜にすることができたのである。


 だからこの素敵な青年も自分を恋い願うようになるだろうと微塵も疑わないカスリーンは、アルスターが切ない眼差しで一歩引くのを胸を高鳴らせて見つめていた。


「そのような相談は私では分不相応です。……申し訳、ありません」


 声に苦渋を滲ませて再び歩き出したアルスターの背をじっと見つめるカスリーン。戻ってきてくれることを期待している眼差しに、陰から見ていた人物がクツリと笑った。


「気づかれますよ」


 廊下を曲がりカスリーンの視線が途切れたところでそれまでの甘やかな様子から一変、氷のように表情をなくしたアルスターが笑っていた人影に声をかける。その変化ですら可笑しそうに笑うのは第一王子であり王太子であるロスコライだった。


「ご命令通り落としました」


 壁から離れたロスコライ王子はアルスターと並ぶとどちらが王族なのか間違うほどに地味であるが、政治手腕もカリスマ性も国王となるにふさわしい要素は全て持ち合わせ磨いてきた男である。その彼直々の命令だからこそ、婚姻式当日だというのにこんな面倒なことをしているのだ。人生最高の日だというのに不機嫌さを隠しもしない辺境伯にロスコライはニッコリ笑って歩き出した。


「いいじゃないか。ティーの許可ももらっているし、君たちは北方に戻るんだろう? あの女性と会ったとしても一年に一度くらいだ。それならこれから当分顔を合わせることになる私に楽をさせてくれ」


 できることなら違う女性に代えてもらいたいと頭を痛める王太子に氷の貴公子は表情そのままの冷たい怒気を纏わせる。


「ティーを婚約者として第二王子のそばにおくよう陛下に進言したのは殿下でしょう。もし私のティーを彼が見初めでもしたらどうするおつもりだったのですか」

「『それができていれば』オスカルドは最初から裁定など受けないよ。私がアストリットを選んだようにね」

「……そこまで分かっていらっしゃるのなら、さっさと結婚されたらよろしい。お世継ぎさえできてしまえば、第二王子にもその伴侶にも気を使わなくてすむでしょう」


 配下の反論に沈黙で逃げた王太子は、人目につかぬよう遠回りをしながら婚姻会場へ歩みを進めた。花婿たる伯爵は前を歩く未来の国王の背中を見て小さく微笑む。


「だいたいなぜ私が彼女を落とさなくてはならないのですか。今日の主役ですよ。こんな下らないことに付き合っている暇はないんです。そういう悪巧みはリシルソートとやって下さい」


 王太子の側近の名を出しながら表情とは裏腹なアルスターの不満の言葉に、ロスコライは居直って王族の高慢さでもって言い放った。


「リシルソートでは豪快すぎて『王子様』にはなれないよ。どう見てもあの女性は君の方が好みのようだし、君ならどんな女性も落とせるだろう?」


 気安い言葉は信頼の証なのだろうと自分を納得させていたアルスターは彼の言葉を鼻で笑う。


「私にも無理な女性はいましたよ」

「へぇ。それは奇特な女性だね。ちなみに誰か聞いても?」

「ええ。アストリット様です」


 一歩前を歩いていた王太子が彫像と化した。素知らぬフリをしながら側に控えていたアルスターは、誰に話すでもなく言葉を続ける。


「危険な辺境に行きたくないとか王都から離れたくないなどといった理由ではなく、単純に私が好みではないそうです。それと恋い慕う殿方がいらっしゃるとか。その方はご自分の平凡な容姿を気にしてなかなか手を出して下さらないのだと、大変情熱的に惚気て下さいました。私としてもティーに出会う前の話なので誰にも話したことはありませんが、貴重な一時間を返せと罵りたくなりましたよ」


 そう無表情に言い終えてからアルスターはマントを翻して歩き始める。


「殿下。私の花嫁が待っているので先に行っています。顔の赤みが引いて動揺が収まってからいらして下さいね」


 政治や外交などをそつなくこなす王太子が恋愛にだけ奥手であるなどと誰が知るだろう。お互いの身分故に滅多に会うことができなくなった学友に特大の爆弾を落とすも、これでこの国の後継者問題が片付けば心置きなく新妻と辺境に籠れると氷の伯爵は満足そうに笑うのだった。


流行りの峠を超えたと思われる婚約破棄物語(?)を、ざまぁを交えず穏やかに収めてみたかった。


 誤字報告ありがとうございます。

 作品内の王妃への敬称ですが、現代とは異なる世界のお話で、王妃も国王と同程度の権力を有するという設定のために『陛下』で統一しております。

 子供を自分で育てるのが困難なほどのハードワークなんだから、その程度の権力はあげないとね^^という作者の意向です。

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― 新着の感想 ―
[一言] 貸し出してただけって、ちゃんと訂正されたんですかね? 傷もの扱いのままで貸し?
[一言] 北の辺境伯夫妻のラブラブな新婚生活が読んでみたくなりました。
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