ルテルニャチャンの地にて
竜樹が辺境伯となったのは、地竜に襲われやすい辺境の地を守るためであり、他国からの侵攻を防ぐためでもある。警備だけしていればいいかといえばそうではなく、領主としての務めもある。学生時代は運動部ではあったが、専攻は理系だ。全く畑違いなうえに世界も違う。配された文官はみな有能であるし、補佐役のルサラシャもよく動いてくれるが、まだまだ仕事をするというよりさせられているとしか思えない現状だった。しかし、本人の評価とは別に、周りの評価はすこぶる良い。理由はわかっている。真樹だ。双子の姉。虹の女神。彼女の助力が大きい。女神力というよりは、彼女のキャリアに助けられている。もちろん、女神の空間にての時間節約も大いに利用させてもらっているのも確かだ。
辺境というだけあって、領地は無駄に広い。ほとんどが荒れ地であったり未開の山地であったりする。そのなかに散在する人里を結んだ要所に関所や砦や郡城がある。それらは竜樹の支配下であり、居住地でもある。そのうちの一つ、ここルテルニャチャンは港を有し、領地の中では最も栄え、曲がりなりにも繁華街があり、市もたつ。そして最も危険な場所でもある。必然的に、ここを中心に活動することになり、最も長く滞在することになる。暮らすには不便のない場所で、竜樹にとっては全く不満はない。
「きゃあああ、タツキ様タツキ様タツキさまああああ」
手にした書類を机上へ戻す。静かな邸に響く悲鳴。今日は何度目だろうか。それでも、面倒だなどとは思わない。
「伯爵さま、私が参ります」
側仕えが頭を下げ、部屋を辞そうとするのを止める。悲鳴の元、ルサラシャの側にも、警護と侍女が居るはずなのだ。腰にある短剣を確かめて竜樹は立ち上がった。
「三、いや四度目か」
ここは港町。邸は海にはさほど近くはなく、小高い丘の上に建てられている。それでもやはり出るときは出る。海辺に居る虫といえば、あれしかない、というほどのものが。
ただ、アレは昆虫だったか? という疑問はある。が、巨大化するのが昆虫に限っているとも聞いていない。数が多く、陸上だから虫が目立つだけで、エビやカニも巨大化しているのかもしれない。今度、瑞樹にでも頼んで海中を見てもらおうと思いながら、竜樹はルサラシャの居る書庫へと急いだ。
ルサラシャは幼い頃からその特異性により、地竜に狙われ続けてきた。つまり、ルサラシャの周りには常に地竜の使い魔たる地小竜がうろうろしていたのだ。うろうろしている地小竜は同じくうろうろしている虫を食べる。別に腹が減ってなくても、手慰みにしちゃったりもする。なので、彼女の周りには、虫は殆どいなかった。
昆虫の変異種は総じて虫と言われる。アリはモルモットほどの大きさになり、カマキリはモノによっては人より大きい。巨大化した後の大きさは元の大きさに多少は左右されるようだが、定かでない。
「タツキ、さまっ」
ルサラシャは姫ではあるが、深層ではない。戦うお姫様であった。特に地竜に対しては、どのような滅し方をして、何が飛び散ろうとも、顔色一つ変えはしない。
「姫」
椅子の上に立っているルサラシャを竜樹はひょいと持ち上げる。するとさらに高くなる。床から。ここまで高くなると安心するらしい。
「どこに?」
この場合、目を逸らし続けていたルサラシャに聞いても仕方ないので警護に訊く。
「は。裏側に入り込まれまして」
書棚を指差している。こんな時、自分の大技が恨めしい。まさしく虫一匹殺す為に邸を破壊しかねない。かといって瑞樹では滅し方に問題がある。紗雪も虫は苦手だ。特にコオロギ。見たが最後発狂せんばかりに雷を落としまくり、部屋中のモノを竜巻で外へと吹き飛ばす。おまえが部屋から出ろと竜樹は思う。
「戻る」
ルサラシャを片手で抱えたまま。こうしてしばらく自室で休ませ、虫が退治されたと報告を受けてからまた書庫へと送る。今日はこれを3度繰り返し、これで4度目となる。
書庫を地下でなく、もっと風通しの良い部屋に変えようと思いつつ、竜樹は置いた書類をまた手に取った。
「姫様」
カップをソーサーに置いたタイミングで侍女が注ぐ。今日は喉が渇いた。悲鳴のあげ過ぎだ。嘘はついてない。ルサラシャは虫を見るのもイヤだ。おぞましく、鳥肌が立つ。ただ、階上の執務室に居る竜樹を地下の書庫に呼びつけるほどかと言えば、そうでもない。目の前に止まったならば悲鳴も出るが、じっとしていれば、いずれ誰かが退治してくれるのはわかっている。竜樹の居ない時はそうであるし、竜樹だってそれを承知のはずだ。それでも呼べば来てくれて、側に置いてくれる。
ただ、それだけのことであるが、幸せが頬を緩くする。
「姫様」
ポットを手に微笑む侍女に笑み返しながら、ルサラシャはまたティーカップを差し出した。