第8話「酒神。夏帆。寮の食堂にて。朝酒について①。白ワインについて①」
~~酒神~~
シャコシャコと鰹節を削る音が台所から聞こえてくる。ほのかな香りが、炊きたてのご飯の匂いや鮭の身の焼ける匂いに混じって一体となり、鼻腔をくすぐる。食卓にはいち早く菜の花ときゅうりの酢の物が並び、常備菜のれんこんのきんぴらとともにたまらなく食欲を煽る。
旧華族の娘さんの別荘を改装した寮の食堂は、オープンキッチンに面した造りで、6人がけのテーブルが4つある。
ごく最近までは、広さが淋しいこの空間で、コンビニ弁当を食べていた。時に仕出しをとることもあったが、大抵の場合、機械的で人の温もりのない、味気ない食事をとっていた。
その期間は長く、10年より前は数えていない。
壁掛けのホワイトボードは寮の最大人数分41マスに区切られており、朝夜の食事の要不要を書き込めるようになっているが、かなりの年月、そこには酒神の名前しか書かれていない。
キッチンを見やる。
寮内履きのスリッパに紺色の高校ジャージ、その上に古式ゆかしい割烹着を着込んだ夏帆が、お湯の中から昆布を掬い上げ、代わりに鰹節を入れている。ふわりと優しく広がる香りをたしかめ、「うん」とひとつ頷いている。その立ち姿は堂に入ったもので、とても今般の女子大生のものとは思えない。
「……しみじみ思うけど、夏帆くんは料理が上手だねえ」
後ろ姿に声を掛ける。
「正直におばさんくさいと言っていいんですよ?」
「褒め言葉さ。今どき昆布と削った鰹節から出汁をとる女の子はなかなかいない」
「今どきの女の子にお詳しいようで」
「一般論としてさ」
「祖母が言ってました。あんたはおつむが弱いんだから、せめて家事万能になりなさいって。手料理で意中の男の胃袋をぎゅっと掴んで、さっさと嫁に納まるんだよって」
「さすが真紀子というか……。孫娘に教えることかね……」
はっきりした物言いをするかつての少女の姿を夏帆にだぶらせ、酒神は懐かしいような切ないような、複雑な気持ちになった。
そういえばあの時もこんな会話をしていたっけ。キッチンの中で忙しく働く割烹着姿に声を投げ掛けたものだ。テーブルには他にも学生の姿があり、茶化し合ったりじゃれ合ったり、賑やかで活気に満ちていた。そんな時代もあったのだ。
朝食の出来上がりを待つ間、一杯やっていた。傍らには白ワインの入ったグラスがひとつ。入っていないグラスがひとつ。半分ほど残った720mlのボトルが1本。
酢の物をついばみ、れんこんをかじる。ポリポリと軽快な食感を楽しみながらグラスを掲げ、口内に何もなくなってからくいっと傾ける。ドイツの白ワイン特有の甘味がすっきり喉を通りすぎると、入れ代わりに幸福感が立ち上ってきた。
酒神はほうとため息をつく。
酒呑みにとって、待つ時間は友だ。苦しくもないし長くも感じない。むしろもっとこの時間が続いてくれたらいいのにとすら思える至福の時だ。自分のために料理をしてくれる誰かがいるならなおさら。
「聖母の乳」と名付けられたそのワインは、滋養に富みまろやかで甘く、ドイツの主産銘柄だ。輸入量も多く取り立てて珍しいものではないが、造り手の優しさを感じる。ビールを覚えたばかりの夏帆には合うかもしれない。
焼けた鮭を皿に乗せ、炊けたご飯を茶椀に盛り、夏帆が輪島塗りの丸盆を抱えてやってきた。
「やあ、ありがとう」
顔を上げると、夏帆はどこか気まずそうな顔をしていた。立ち位置がテーブルより微妙に遠く、酒神から距離を置いているように感じる。
「どうかしたかい?」
「別に……。あたしはそういうつもりでここに来たわけではないので……。胃袋掴むつもりはないので……」
ゴニョゴニョ、声が小さくて何を言っているか聞き取れない。
「と、ところで教授」
何故か顔を赤らめながら、照れ隠しのようにそっぽを向く夏帆。
「今度、薫と千鳥ちゃんが泊まりに来たいって言ってるんですけどいいですか?」
「うん? いいよ。部屋なら売るほどあるし、気がねなくどうぞ」
「ありがとうございます。んでですね。それは予行演習も兼ねてまして」
「なんの」
「寮に入りたいんですって」
「……おお」
酒神、ぽんと手を打つ。
「そういやここは寮だったなあ。長い間ひとりで誰も入ってこなかったから、正直忘れかけてた」
「あたしは止めたんですけど。いやほんと、止めたほうがいいって言ったんです。危ないし」
「危ない? なんで?」
「だって……」
と、じと目。
「聞くところによると、女と見れば誰でも構わない、見さかいなしのたらし神様らしいじゃないですか」
左右をキョロキョロ見回して、他に誰もいないことを確認する。
「……僕が?」
「他に神様なんて名乗る人いないでしょう」
「いやけっこういるんだけどね」
この辺だけで3人はいる。
「聞きましたよ。大山学長が真剣に話してるのにへらへら笑いながらハーレム構築宣言してたって……」
「ああ昨日の……。しかしあの娘も盛るなあ」
ゼミ室での騒ぎを思い出す。なぜか酒神に対抗意識を燃やしていたみたいだから、さもありなんといったところだろうか。
「そのあと女性を泣かせてたって。胸にすがりついて、捨てないでとお願いされてたのをすげなく突き飛ばしたって」
「ちょいちょい真実を混ぜてくるのが性質悪いよねえ……」
「どこまでが本当なんですか……」
明らかに引いた表情の夏帆。
丸盆を抱き締め、より遠くへ離れようとしている。
「……ん? もしかして、半信半疑だった?」
「今確信に変わりました。外形も言動も変な人だけど、悪人ではないと思っていたのに」
裏切られました。夏帆は真面目な顔になり、割烹着のポッケから携帯を取り出した。片手で素早くボタンを操作する。
「……このタイミングでどこへ?」
「お婆ちゃんに。一連の流れを包み隠さず」
「ちょ」
携帯を取り上げようと立ち上がり近づくと、夏帆は凍てつくまなざしを酒神に向けた。
「……別に警察でもいいんですが」
慌てて後退し、他意のないアピールで両手を上げる。
「待った待った。誤解があるんだよ。僕と彼女の間には。おそらく君と僕との間にも」
「でも朝からお酒呑むダメ大人ですし……」
平素の信用の無さが地味に痛い。
「朝酒ってのはね、海外ではわりと普通なんだ。某有名な海外アニメの大立て者は、スコッチにドーナツを浸して食べるのが好きだったらしいし。そもそも日本だって、旅館の和定食で一杯やる人はざらにいる。これくらいは普通だよ」
「ここ旅館じゃないですし……」
「そもそも和定食ってのが、酒の肴になるんだよ。小鉢にちょこちょこといろんなものがあるだろう。そうだ、君も試してみるといい。一般的に、赤ワインは肉に、白ワインは魚に合うっていうだろ? 魚の多い日本食には白が合うんだ。君の美味しい朝御飯には、白ワインが良く似合う。今日は休みだろ?」
「いやいや、なんであたしが呑む流れに」
「ワインは美容にいいんだよ。君の美貌を際立たせる一助になる」
夏帆の顔が「ぼっ」と明かりを灯したように染まる。
「び、びびび美貌なんてそんな、心にもないことを……っ」
「謙虚は美徳だけどね。度が過ぎると嫌みだよ。君は綺麗だし可愛いし美しいよ」
「な……なぁにを言ってんですかもうっ。やめてください!!」
これ以上は耐えられない、聞いてられない、といった風に、目の前で手を振る夏帆。
「この前呑んだビールとは違って、これは甘い。さらに殺菌作用があって腸内のバランスが整い、カリウムの接種が新陳代謝を促す。ポリフェノールの抗酸化作用で美肌効果もある。君の健康美はさらに輝きを増すだろう。もっと綺麗な君を、僕に見せてくれないか」
「も……もうっ、もうっ……!!」
夏帆は丸盆で顔を隠し、閉じこもる。
(社会的に抹殺される瀬戸際だからな。なんでもするさ……。しかしなんか……どこかでこんなやり取りしたことがあるようなないような……。致命的なミスを犯しているようないないような……)
「わぁかったっ。わかりましたよっ。しょうがないなあ!!」
渋々折れた夏帆をテーブルへ促し、空いていたグラスに白ワインを注ぐ。
夏帆はグラスをきっと力強く睨みつけると、
「やる気!! 強気!! 元気!!」
何かを誤魔化すように一気にあおった。
「っはあ~!!」
一瞬で空にする。
「な、夏帆くん。これ、ビールと違って度数が……」
酒神は慌てた。
一般的に、ビールが4~6度。赤ワインが11~14度。白ワインは7~14度くらいある。この「聖母の乳」は9度だが、それでもビールのようにがぶがぶいってしまうと一気にアルコールが回ってひどいことになる。グラスの容量は250ccくらいだろうか。昨日今日呑み始めた人間が一気に呑める量とは思えない。
「……大丈夫かい?」
心配して訊ねると、うつむいていた夏帆が顔を上げた。びっくりしている。
「教授……これ……美味しいですっ」
「そ、そうか。それはよかった」
白ワインは赤と異なり、葡萄の皮や種を製造に用いない。だからタンニンによる渋みはごく少なく、女性向けに甘く仕上がる傾向になる。
度数はともかく、ビールのような苦い酒しか知らない夏帆には鮮烈だったのだろう。好みにもぴったりだったようで、「お代わりくださいっ」と勢いよくグラスを差し出してくる。
「お気に召したようで」
注いでやると、ちょうどボトルが空になった。
「……まだいくかい?」
「もちろんっ」
満面の笑顔でうなずく。顔の赤さは、おそらくこれはもう酔いの赤さだ。
「ちょっと待ってなよ」
きんぴらや鮭をつまみながら本格的に呑み出した夏帆を置いて、ワインセラーへ向かう。
道すがら、ふと気づく。
「なんかこれって……知流くんとの時に似てるかもしれないなあ……」
自分が何を言ったか思い出して、少し後悔した。
嘘は言っていない。夏帆のほっそりとしながらしなやかな筋肉のつき具合は美しいし、化粧っ気のない肌はすべすべとしていて綺麗だ。髪の毛はさらさらで、形の良い頭ごとくしゃくしゃと撫で回して可愛がりたくなる衝動につい駆られる。
子供から大人になる過渡期に特有の、清潔な、純粋で儚い美しさだ。
外見を褒められたことの少なそうな夏帆はかなり動揺していた。その動揺につけこむことで色々と誤魔化すことができたわけだが、あれでは勘違いされてもおかしくない。今さら言っても詮無きことではあるのだけど。
真樹子の怒り顔が脳裏に浮かんで、胸が痛む。
「もっと距離をね……置こうとは思ってたんですよ……。思ってはね……」
~~夏帆~~
(メインの鮭。我ながら良い焼け具合だと思う。身はしっかり火が通っていながらふんわりしていて、皮はパリパリで適度に焦げ目がついている。れんこんのきんぴらも歯ごたえよく、酢の物の爽やかさとともに食卓を彩ってる。
そしてワイン。甘くてまろやかで、食欲を爆発させる。箸を持つ手が止まらない。むしろ足らない。つまみが足らない。味噌汁も白飯もつまみにはできない。冷蔵庫に何かあったかな。これに合うものは……。
脂っこくないほうがいい。煮る焼くには手間がかかる。待つ時間が耐えられない。食材系を生でいくのはどうかな? ハムやソーセージ……は重いか。野菜を洗ってケチャップやマヨネーズでいくのは悪くないかもしれない。れんこんのきんぴらはまだあるけどさすがにしつこいかな。もっと冷凍食品の用意があれば選択肢が……いや、甘えはよくない。冷食は甘え!! 待てよ? 塩空豆の缶詰があったっけ。あれをレンジでチンするか。いや……)
「そうだ……チーズ!!」
がばりと席を立ち、はたと気づく。
「違う……そうじゃない!! いいこと思いついてる場合じゃない!!」
立った時と同じ速度で座り、かぶりを振る。
(食欲に踊らされてちゃいけない!! 考えないと!! さっきあたしはなんと言われた!? 教授に……男性に……)
「綺麗だって……可愛いって……っ」
自分で口にしながら、恥ずかしくて身もだえた。
体温が上がる。アルコールが体の中を駆け巡る。
思考が鈍る。頭がぐるぐる回って考えがまとまらない。
(そんなこと言われたの初めてだ。今まで誰にも褒められたことなんてなかった……。元気だねとか、きりっとしてるねとか。ずっと走ってばかりで、外見に気を使ったことなんてなかったから……や、別にもともと造りがいいわけじゃないし、気を使ったところであんたごときがだからなんだって話なんだけども!! なんだけども!!)
「……ふー」
深呼吸するが落ち着かない。
(なのになんでだ!? 大学デビューか!? 女子大生になったら女子としてのランクが上がって人の目に止まるようになったのか!? でも、響き的には女子高生のほうが世間の評価がいいような!? JDよりJKのほうが世の男性たちは喜ぶんじゃないのか!? 世の……っ)
酒神の顔を目に浮かべる。ドテラにスゥエットというだらしない部屋着で、無精髭もぼうぼうで、髪の毛はもじゃもじゃで。でも、脳内補正がかかってキラキラしていた。口元には笑み。歯がキラリと輝いていた。
(教授が特別なのか!? ブス専なのか!? いけてない田舎女子が好きなのか!? 好き……好き……す……っ)
「やあ待たせたね」
「うわぁああああああっ!?」
ガタガタガタッ。慌てすぎて、椅子から転げ落ちた。ワインの瓶を手にした酒神が、心配そうに見下ろしている。
「大丈夫かい? 怪我は? やっぱり、急激に呑みすぎたかな。今日のところはやめておこうか」
差し出された手を、全力で首を振って遠慮すると、夏帆は酒神から距離をとって立ち上がった。
「だ、大丈夫!! 大丈夫!! あたしは平気!! 元気!! まだまだ呑めます!! むしろ呑まないとやってられません!!」
「それはそれで問題だと思うけど……」
「お願いです!! 後生ですから、あたしからお酒を取り上げないで!!」
ワインのボトルにすがりつくようにして懇願する夏帆の剣幕に、ちょっと引く酒神。
「そりゃあ酒を勧めたのは僕だけどね。なんだか君の将来が心配になってきたよ……」
「あはっ、あははははははっ」
夏帆の空笑いがむなしく食堂に響き渡る。まだ日の高い、朝の出来事であった。




