第7話「酒神。ゼミ室にて。酒の温度管理について①。ウイスキーについて①。他神話の神について①」
木花知流比売=磐長姫説をとってます。
この辺はぬるくやっていくつもりなので、あまり深くは語りません。
神話なんてそもそも適当なもんですし。
人文学棟3号館の各教授たちのゼミ室は、最上階の5階にあった。たびたび騒ぎを起こしては問題視されている酒神ゼミは、中でも奥まったところにあり、隣にひとつ空室を作って隔離されていた。
部屋自体に他と変わったところはない。前室は20畳程度の広さで、ゼミ生用の事務机と応接セット、各種資料の収納されたキャビネットがある。取り立てて変わり映えのない、ごくごくありふれた作りだった。
問題は応接セットの脇をすり抜けて隣の部屋のドアを開けてからで、そこは酒神の個室で、彼が過ごしやすいように整備されていた。
10畳ほどのスペースに、個人の事務机、キャビネット。ソファ。揺り椅子。ハンモック。畳敷きの和のスペース。小型のキッチン設備。フィールドワークの際に各地各国から持ち帰った変わり種の酒器、変わり種の酒を収納する小型の冷蔵庫が2つあった。
「内訳としてはですね。生酒・ビールなどの低温の醸造酒は5℃。生酒でない日本酒・ワインが10℃。温度変化に強いウィスキーや焼酎などの蒸留酒類は常温。本当はもっと厳密に管理したいんですが、スペースの関係でこれくらいが限界です」
酒は、酸素や温度変化に弱い。とくに醸造酒など度数の低い酒は、開栓して3日も経つと酸化し、日光や温度上昇に晒されると酒質が変わり覿面に味が落ちる。もっとひどく年月を重ねると腐敗する。
といって、ガッツリ冷やせばいいというものではない。人間の体感気温がそれぞれ異なり、エアコンの設定温度が一定でないように、成長する液体である酒にもそれぞれベストの環境というものがある。
そういう意味では、酒神の設定はベターといえた。温度設定としてはやや低いが、呑み頃の温度にもっていき易く、長期保存さえ前提にしなければ、個人の所蔵としては充分だ。
「本音を言えば隣の空き部屋も貰って壁一面に冷蔵ケースを設置して、この世の楽園を現出させたいのですが、まあ無理にとは言いません」
酒神はハンモックに身を沈ませ、クリスタルグラスを手にしていた。中身はウィスキー。アイラ島のシングルモルトだった。アイラ島はスコットランドにある。つまりスコッチだ。
シングルモルトというのは、ひとつの蒸留所で大麦麦芽原料のみで仕込んだウイスキーのことを指す。味わいや香りなど、造り手の個性が出やすくクセが強い。
ボアモアの25年物。レジェンドクラスではないが、量販店などでは手に入り辛い、贅沢な一品だった。鼻腔を貫く泥炭の香りは強く重く、熟成を感じさせた。
「今日はウイスキーの気分なんです。ロックでもなく割り水もなく。ストレートで常温で、素のままを楽しみたい気分でして。なんで? いや理由はとくにないんですけど、がぶがぶ呑むのが疲れる時ってないですか? 度数の高い酒をちびちびやりたいような、そんな気分なんです」
いい天気だった。空いた窓から時折春の香りが吹き込んでは、酒神の髪の毛先を揺らしていた。遠くアイラ島の浜に打ち寄せる波を想像しながら、気持ちよく浸っていた。
ソファに、男がひとり座っていた。勝手にグラスを持ち出し、勝手に同じものを注いでいる。酒神の語りを、とくに興味もなさそうに流していた。
年かさのいった、小さな男だった。総白髪は前頭部が無く、側頭部がぴんぴんと跳ねている。開いた目の間隔と相まって、ウーパールーパーのような水棲生物を想像させた。
だからというか、仕立ての良さそうな三つ揃いを着ている様は戯画的で、相手をしていると力の抜ける男だった。
「一生よ」
「なんでしょう」
「今朝、うちの居間に嵐が発生した」
「異常気象ですねえ。エルニーニョのせいですかねえ」
「その嵐はテーブルをひっくり返し、途中まで並べていた料理を床にぶちまけ、それでも割れなかった食器を手当たり次第ぶん投げた。床が傷つきガラスが割れて、近所から死ぬほど苦情がきた。ちなみに俺は額を切った」
「家の中でもヘルメット着用の時代ですねえ」
「嵐は目下、こちらに向かっている。このゼミ室をぎざぎざに引き裂き、主を粉微塵に打ち砕こうとしている」
「……天気の話でしたよねえ?」
「昼にかけてはあいつも忙しいだろうから、そこまでは平和だろうさ。その間に避難なりなんなりしたらいい」
「……風向きが逸れることはないんですかねえ?」
男の額には、大きな絆創膏が貼られている。
「俺もな。お前さんの気持ちはわからねえでもねえんだ。男たるもの女遊びのひとつやふたつして当然。ましてお前さんみたいな色男さまだ。故事来歴や神語りに照らし合わせてみても、遊ぶなっつうほうが無理な話だ」
だがな、と男は続ける。
「知流は今まで男ってえものに縁がなくてな。さらに承知の通りの嫉妬深い性格でよ。お前さんみたいな色男に振り回されんのは初めてなんだ。だから本気で、真剣で、加減を知らない。いったいどこを納めどころにするつもりなのか、本人にもわかってない。せいぜい覚悟は決めておいたほうがいいぜ」
そういって、男は嘆息する。
「ちょ」
酒神の額を汗がつたう。
「学長。別に僕は知流くんの恋人になったつもりはないんですが」
「お前さんよ」
学長はさらに大きくため息をつく。
「むかーし昔、知流が、『いいんだ。ボク、可愛くないから』って拗ねてヤケ酒かっくらってた時に、お前さんはなんてぬかしたんだっけな?」
「『そんなことはないだろう。君ほどに美しい人は滅多にいない。君自身が気付いてないだけ、自己評価を勝手に引き下げて押し下げて、目立たぬようにひっそりと、心の中の岩戸の奥に隠れているから、誰にも君の良さがわからないというだけなのさ。だから、心の殻を破って出て来てごらん。マイスウィートハート』」
「……正直、親としてはぶん殴りてえ気持ちだな」
「あん時は酔ってたんですよ」
「いつも酔ってるじゃねえか」
「大山祇神、あなただってこの地の酒の神でしょう」
「俺はお前さんと違ってわきまえてるつもりなんでね」
酒神は「ううむ」と唸って腕組みした。
「知流くんって、なんの神様でしたっけ。水と安産と酒の神?」
「そいつは妹のほうだな。木花知流比売、凶作・疫病・害虫の神だ」
「……悪魔の間違いじゃないんですか?」
「負の面を司るっつーことは、裏返しでそれらをコントロールすることも出来るっちゅーことよ」
「豊穣神でいいじゃないですかっ。なんで悪い風に言うんですかっ」
「昔、なんかの拍子であいつを怒らせた時によ、俺の服や靴のすべてをイナゴで一杯にされたっけ。あん時ゃ、まったく泣かされたもんだぜ」
「……なんとか穏便に済ませられませんかねえ」
「お前さんが責任とれば、すべて解決するだろうよ」
「国際結婚にもほどがあるでしょう」
「昔の女の孫娘だったらいいってか?」
酒神の背中を汗が伝う。
「かてて加えて新歓早々、新1年の女どもと、呑めや歌えの大宴会。おまけに全員お持ち帰りの酒池肉林だったそうじゃねえか」
「その歪んだ情報ソース……誰なんですかねえ……」
酒神が真剣に身の処し方を考え始めていると、外で大きな音がした。バイクのブレーキ音だ。
「あ、知流くんだ!!」
「知流ちゃんっ、今日も配達!? ご苦労様~」
各階の窓が次々と開け放たれ、地上の駐車場に向けて歓声が飛ぶ。その声は徐々に近くなっていく。しかもこちらへ向かってきている。
「……『昼にかけてはあいつも忙しい?』」
ジト目を送ると、学長は目を反らしていた。
「そりゃ仕出し宅配屋だもの。注文があれば来るだろうさ。誰かがオムライスでも注文したんじゃねえかな」
「ジジイ……売りやがったな……っ」
ハンモックから降りる酒神。学長は悪びれもせず、
「俺だけが被害を受けるってのは不公平だろうがよ」
と言い放った。
前室のドアが開く音。ざかざかと足音。
バン。
入口を振り向くと、20歳そこそこの女の子が立っていた。ジーンズにTシャツというラフな服装の上に、「木花≪このはな≫デリバリーサービス」と刺繍された生なりのエプロンを身につけている。
美しく整った顔立ちを、整髪料でガチガチに固めた黒髪ショートのそこだけ長い前髪で、半分ほど隠している。内気な青年といった雰囲気があり、女の子なのに学生たちに「くん」付けされているのには、そういった理由もあるのだろう。
「一生くん……!!」
ここまで全力疾走してきたのだろう。はあはあと大きく肩で息をしている。
カウントを刻み続ける時限爆弾に触るような心持ちで、酒神は手を上げた。
「や、やあ知流くん……ご機嫌麗しゅう」
「麗しいわけないだろ!!」
「すいません!!」
反射で謝った。
知流の目には冗談を許さないような雰囲気が溜まっている。
「一生くん!!」
「ま、まあ落ち着いて!! 暴力反対!!」
血相変えて詰め寄ってくる知流を両手で押し留めながら酒神。
だが知流は構わず、ぐいぐいと顔を寄せてくる。
「キミという人は……新歓早々っ。新入生をとっかえひっかえ朝までお楽しみだったそうじゃないか!! ボクというものがありながら……!!」
「ええっと……知流くん……」
「うぐぐぅっ……!」
知流は泣きながら、酒神の胸に倒れ込むように顔をうずめた。
彼女と初めて出会ったのは、九曜駅前の居酒屋だった。日本酒の一升瓶を抱えてぐいぐいと痛飲していたのを見かねて声をかけた。
日本の男神に手酷くフラれたらしかった。男性不信に陥りかけていた。しかも見た目を徹底的に叩かれて、女性としての尊厳を粉々に打ち砕かれてすり潰されての撥ねつけられ方だったらしく、元々あった外見へのコンプレックスが激しさを増していた。
君は美しいよ世界一可愛いよと誉め称え続けた結果、彼女は立ち直り、ここまで慕われ、惚れ込まれることとなってしまった。
励ましや哀れみだけの気持ちではなかった。可愛い美しいというのは実際事実だったから。
でも、神様同士の国籍を越えた恋というのは明らかに問題で、酒神としても正直扱いに困っていた。
といって、ここまで思い込みの激しい女神さまを見捨て突き放すのは、雨の日に拾った子犬をもとの位置ではなくゴミ捨て場にぶん投げてくるくらいの冷酷さが必要で、だから酒神は、知流を明確に拒絶することができないでいた。
「これは~……修羅場ととっていいんですよね~……?」
入口から、千鳥がひょこりと顔だけ出していた。昨夜と同じスーツは皺が目立つものの、化粧は完璧で、アルコールの形跡すらとどめていなかった。ふんわりと万人受けする笑顔のままで、しかしどこか黒いオーラを漂わせながら、彼女は頬に手を当てる。
「可愛いコがいたからふらふら後をつけて来てみたら~、思わぬ収穫でしたぁ。ぶっちゃけ一石二鳥、いや三鳥ぐらいありました~。2人の反応が楽しみぃ~」




