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第32話「ドリームメイカー編ラスト。もっきりについて①。盛り塩について①」

 ~~現代・酒神さかがみ~~


 塔屋から出たところにあるテラスのベンチに腰掛けて、酒神は酒を呑んでいた。夜空に星が瞬くのを、いつもなら風流と感じるところだが、今夜はそんな気分にならなかった。

 夏帆なつほの意識が戻らない。

「理由としてはわかってるんですよ。僕とかおるくんが呑んでいたドリームメイカーの量と、夏帆くんの呑んでいた量は違い過ぎた」

「一升瓶をラッパ呑みしていたからの」

 ええ、酒神は首肯する。

「もちろん、戻って来ないわけじゃないです。なんせこの僕がいるんですから。酒の神様がついていながら、酒による健康被害を出すわけにはいかない」

「医者の不養生ってわけにはいかんからの」

 ええ、酒神は首肯する。

「健康と精神を慮ってるんです。彼女の心と体は、中世のあの時代に寄り過ぎました。真樹子の血筋ですから、もともと依代よりしろ体質でもあったのでしょうが。絶妙にマッチしすぎた。だから――」

「びびってる、と」

「――慎重に事を運んでるんです」

 おお怖い。テラスの手すりに座って足をぷらぷらさせている咲耶さくやは大げさに首を竦めた。

 梅雨が過ぎ夏になって、からからに乾いた風が頬をなぶるようになっても、彼女の服装は変わらない。遥かな昔から同じように、和服で隙なく固めている。幼い顔立ちなのに辛辣な台詞を叩き続けるスタイルも昔通りだ。


「……そのへんにしといたらどうじゃ?」

 升酒に盛り塩。酒神の呑み方を、咲耶は嗜めてくる。

「おや、日本のお酒の神様ともあろう方が、らしくない。酒に塩は、山上憶良の昔からの伝統的スタイルじゃないですか」

 塩を肴に酒粕を湯で溶いたものを呑む。貧窮問答歌に詠われたそれは、貧しい暮らしぶりの儚さ侘しさを表したものだ。時代代わって小粋な呑み方の代表のように言われてはいるが、そもそもの始まりは、呑兵衛が貧しさの中でも精いっぱいに飲酒を楽しもうとして生まれた工夫だった。

「江戸時代には味噌を肴にする風習もあったでしょう。塩分は酒の友です。日本酒の甘さを引き立てまろやかにする。日本だけじゃない。ソルティードッグだって塩を縁に塗りつけるでしょう。テキーラだってライムに塩は欠かせない。いったいなんの問題があるっていうんですか」

「分量が違うのよ。酒も塩も。高血圧に動脈硬化。自身の体への害を無視するならそれ以上何も言いはせんわい。成人病で神が亡くなったという話は寡聞にして聞かぬし、おぬしがそうする分には構わぬのだろうよ。……じゃがのう。皆が皆、そう思ってくれるわけではなかろうよ。少なくともあやつらは、おぬしの体を気遣い、心を痛めておる」

 咲耶は酒神の目線を誘導する。屋内への入り口から、ふたつの影がこちらを窺っている。薫と千鳥ちどりが、こそこそと囁き交わしている。


「……」

 酒神は反論できずに押し黙った。ただ目を閉じ、眉間に皺を寄せて煩悶する。

(ああ、何やってるんですかね僕は……)

 後悔は先に立たない。夏帆を巻き込んだことも、この結果も、いまさら覆る事実ではない。

「――い」

 真樹子とこじれたことも、元をただせば自分の優柔不断にあった。もっと早く、断固とした態度で彼女の求愛を断っていれば、事はこれほどに大きくならなかったのに。彼女は夏帆を送りこんでは来なかっただろうに。

「――せい」

 そうだ。悔やむのはあとにしよう。酒も止め、夏帆が戻って来るまでひたすら待とう。

 ――戻ってこなかったらどうする?

 不吉な想像は、酒神を震わせた。そして同時に、強烈な殺意をも生みだした。ドリームメイカーを醸した者、それをここへもたらした者を滅し、滅ぼさねばならない……。

教授せんせい!!」

 パシン、と乾いた音がした。

 驚いて目を開くと、白髪の女性が平手を振り抜いていた。

 年の頃なら七十か八十か。細身の体に和服を纏っている。その世代の人間にしては背筋がしゃんと伸び、濁りの無い澄んだ目で酒神を見下ろしている。


「………………真樹子?」

 酒神は呆然とつぶやいた。何十年ぶりかももはや定かではない。電話や手紙でのやりとりしか、最近はしていない。だが確信があった。面影があった。なんにしろ最愛の女性だ。見間違うはずがない。どれだけ年老いても、距離を重ねても、彼女のことを忘れた日はなかった。

「なんで、ここに……」

 真樹子は腰に手を当て、大儀そうにため息をついた。

「なぁんだぁ、酔っ払いがぁ。そったらごども想像できんほど呑んでるんだがぁ? あん子のケイタイと連絡がつかねえちゅうで、うちの嫁が騒いどるから、あだしがじきじきに見に来でやったんでねえが」

 ついで、咲耶に目を向ける。

「おめえもよう。この人の傍にいんだったら、もっときちっど手綱ぁ握らねばなんねぇべぇ?」

「……ふん、わしは非常勤みたいなもんじゃからのう。常にいるのはきさまの孫娘よ。悪いというならあれが悪い」

 ふん、真樹子は忌々しげに吐き捨てた。

「ドリイムメイカアだったが? そったら怪しげなもんを呑むとはなぁ。呑み助の血とはいえ、なっさげねぇ」

「真樹子。僕は――」

 酒神は真樹子の前に跪くようにし、その手をとった。歳の数だけ皺の寄った手は、小さく細く、乾いていた。  

「僕は君に、謝らなきゃいけないことが……!!」

 あの時真樹子を選ばなかったのは、彼女に縁談の話があったからだ。田舎の旧家の長男との、振って湧いたような良縁だった。閉鎖的な田舎の村に育った彼女にとって、それは無視できない絶対的な言葉だった。


 ――教授を呪ってやる。いつまでも、この世に存在し続けるかぎり絶対に忘れられないように呪ってやる。


 忘れられない声が、酒神を苛む。心臓を締め付ける。

「僕が君を裏切って……だから君は夏帆くんをここへ……!! 夏帆くんは……!!」

「……おめさんはほんとにばがだどなぁ」

 心の底から、といった調子で真樹子は言った。呆れ顔で酒神を見つめた。

「本気で呪いのためにめんこい孫をおぐるわげねえべぇ? ……まんず、なんといってもよ。こごは人が育つにはいい環境だもの。東京砂漠とは言っても自然もちぃっとはあるし、そごの婆ぁじゃねえけんど、面白ぇやつらもいるしな。だぁがら、人生修養のためにおぐったのよ。あっちの世界に連れてかれるだなんだいうのは、まるっきりあん子のせいだぁ。おめさんが気に病むごどはねえべよぅ」

「だ、だけど……!!」

 納得のいかない酒神に、真樹子は笑って指を突き付ける。

「いまはよう、それどごじゃねえべぇ。あん子らの面倒も見ねばねえしな」

 振り向いた視線の先から、薫と千鳥が小走りでやって来た。

 彼女らは口々にこう告げた。

 夏帆が――

 夏帆ちゃんが――

 目覚めたと。


 ~~夏帆~~


 目覚めたとき、傍にいたのは薫と千鳥だった。ふたりとも泣きそうな顔で夏帆を見ていた。手をとり、抱き付いてきた。

 まだ本調子ではない夏帆にとって、彼女らの圧力は身にこたえた。

 でも嬉しい重さだった。嬉しくて涙が出た。現代に帰ってきたのだという実感が沸いたてきた。


 彼女らが去ってひとりになると、肌寒さを感じて傍らにあった丹前を羽織った。使い込まれた年代物、古い日差しの匂いがした。

(教授を呼びに行ったんだどな……?)

 ということはもうすぐここに酒神が来るのだ、改めてその事実に気が付いて、夏帆は慌てた。 

 手近の鏡を覗き込むと、ひどい顔をしていた。髪はほつれ、尻尾のようにぴょんぴょんと跳ね、肌にも潤いがない。目尻にはヤニまである。もともと化粧なんてするほうではないが、あまりのひどさにぞっとした。

 ダダダダダッ。

 廊下を走る音がする。複数の足音。ひとつだけ重い足音が混じっている、それは多分、一番体重の重い酒神の足音だ。

 身だしなみを整える暇がなくて切羽詰まって、夏帆は蒲団の中に身を隠した。膨らみがあるからバレるのはわかってる。でもこの有り様を見られたくなかった。

「夏帆くん!!」

 バタンと勢いよくドアが開かれた。ついで、ぞろぞろと皆が入って来る気配がした。丸まった布団を見下ろし、何事か囁きを交わしている。


「夏帆くん……」

「ダメ!!」

 間髪入れずに拒否した。

「え……」

「ダメ!! 出ていって!!」

「や、夏帆くん……体の調子は……」

「お願いだから出て行って!!」

「顔も……見たくないってことかい……?」

(そ……そんなんじゃ……!! いまはとにかくひどい状態だから……!!) 

 夏帆が答える前に、咲耶の声がした。

「ほれ見ろ一生いっせい。だから言うたじゃろ? おぬしはとっくのとうに、小娘に嫌われとるんじゃよ」

「そうだぞおっさん。自分がやったことを考えてみなって。あんなハーレム築いておいて、犯罪にまで手を染めちまって、普通に考えてそんなやつ、相手にするわけないだろ? 拒絶して逃げ出すのが関の山だってーの」

「そうですよ~。夏帆ちゃんみたいな純粋な乙女が~。教授みたいな女たらしの犯罪者を許せるわけないじゃないですか~。百年の恋も冷めますよ~」

 そうじゃそうじゃ。行こうぜおっさん。向こうで呑み直しましょ~。

 好き勝手を言いながら皆が部屋を出て行く気配がして、さらにはドアを閉じる音までして、夏帆は慌てた。

「ちょ……ちょっと、あたしそんなつもりじゃ……!!」

 がばりと布団を跳ね上げ、上体を起こす。

 目の前に酒神がいた。あぐらをかいて、困った顔で頭をかいていた。


「……や、やあ。体のほうはもう大丈夫かい?」

 それきり話の接ぎ穂を失ったように、酒神は黙り込んだ。

 夏帆はただただ気恥ずかしくて、丹前を引き上げて顔を隠した。目元のヤニをとってから、顔の上半分だけ出した。それでも羞恥で顔が赤くなる。体が震える。

 夏帆の様子を見て、怒っていると思ったのだろう。酒神は急に多弁になった。彼がいつもそうするような、酒場での薀蓄話だった。

「さっきまで枡酒を呑んでたんだ。いわゆるもっきりさ。元は盛り切りって言ってさ、枡やコップに一杯きっかりって売り方出し方のことを差したんだ。居酒屋なんかでコップを枡に入れてこぼれさせて出す店が多いけど、あれは盛り切り以上に入れましたよってサービスなんだ」

「……?」

 夏帆がきょとんとしていると、酒神は慌てた。

「呑み方がわかんないです、なんてよく生徒に質問されるんだけどね。別に決まった作法なんてのはないんだ。コップの表面張力分を口をつけて啜って、こぼさないようにコップを持ち上げて呑んで、あとは枡で呑むなりコップで呑むなり好きにすればいい。枡に酒が染み込むとか、枡の酒をコップに注ぐのが正しいだとか、いろいろ言う人はいるけど、しょせんは作法がきっちり決まってるわけじゃない酒場での話さ。あれこれ決めつけるのは野暮だよね」

「……」

 夏帆は黙っていた。黙って、自分のために慌ててくれる酒神を見つめていた。


 突如、いろんなものがこみ上げてきた。中世に旅したこと。出会った人々の顔を思い出した。アル。フロール。ケイン。オデッサ。コロラゼ。リュシオス。クラレット……。

 涙が出て来た。安堵からのものではなかった。それは寂しさに似ていた。

「教授……」

 丹前を頭からかぶって、もごもごとつぶやいた。

「……なんだい? 夏帆くん」

 酒神の声は優しい。ぬる燗が体内からじんわりと体を温めるように、夏帆の気持ちを温かなものが満たした。

「教授は知ってるんでしょ? あのあとみんながどうなったか……」

「……ええ」

「教えて。全部――」


 しばらく間を置いて、酒神はぽつりぽつりと語り出した。

 ケインは、グリムシャーク亡き後の騎士隊長に任命された。英国王の呼集した戦いに功あり、特別の栄誉を賜った。

 アルは、ケインの家付きの使用人となったが、後に学問を志し、オクスフォード大学で神学を修めた。

 フロールは、ケインにくっついてオクスフォードに移り住み、土地の名家の跡取り息子に見初められ、二男三女を儲けた。

 オデッサとコロラゼは当然のようにリュシオスと行動を共にし、魔女狩りの嵐吹き荒れる欧州本土に渡った。ハーレムはその後も増え続けたが、その中には常に、口の悪い一人の女の姿があった……。


「そうかぁー……。へえー、アルが学士様にね~。ふふ、似合わないの。フロールはいい子だから、ちゃんとしたお嫁さんが似合うと思ってたんだぁ。にしても5人てのは子だくさんだなあ~。ケインさんも頼りない感じだったけど、約束通り頑張ってくれたんだねえ~」

 体育座りして膝頭を見つめて、夏帆は嬉しそうにひとりごちる。

「あの3人はそのままで安心した。みんなでいろんなところを旅して、お酒呑んで酔って歌って。楽しいんだろうな~。そこにクラレットがいたんなら、もう最高。ね、教授?」

「……ええ。楽しかったですよ」

 酒神は笑っていた。笑ってはいたが、どこか悲しそうだった。何かを引きずっているように見えた。いったい何がひっかかっているのか考えて、夏帆はすぐに思い当たった。

「ごめんなさい……。寂しいですよね?」

「いえ、僕は……」

 反論しようとした酒神よりも先に、夏帆は言った。パジャマの胸元を、ぎゅっと握った。

「嘘だよ。だって、あたしがこんなに悲しいんだもん……!! たった数日なのに……ほんのわずかな間なのに……。こんな……胸におっきな穴が開いたようになってるんだもん……!! もうみんなに会えないなんて……これで終わりだなんて……!! そんなのやだよ……寂しいよ……!!」

「……夏帆くん」

 酒神に抱きしめられた。泣く子をあやすのに手間取る父親のような、不器用な抱き方だった。

「教授ぅ……」

 言わなきゃよかったと後悔したが、もう遅かった。言ってしまった言葉は、露わにしてしまった気持ちは、もう元には戻らない。

 たまらなくなって、ぎゅうぎゅうと酒神に抱き付いた。髪が乱れているとか、肌が荒れているとか、そんなことはどうでもよかった。この人を、自分よりもはるかに傷ついているくせにこんなにも優しいこの人を、どうにかして慰めてあげたかった。

 でもその方法がわからなくて、ただひたすら、すがりつくように抱き付いていた。


 ~~真樹子~~


「……ふん」

 食堂で、咲耶を相手に一杯やっていた。酒神の残したもっきりを呑み、冷蔵庫の中にあったレンコンのきんぴらをあてにした。

「まぁだまだ甘いねぇ」

「そうか? おぬしがおった頃に作ったものよりずいぶん美味いように感じるがのう?」

 挑発的な言動をする咲耶は、対面の席でわざとらしいニコニコ顔をしている。

「塩っ辛いのが好きな若者には合うだろうがよ。あだしみてぇな婆っちゃには濃すぎんのよ」

「そうじゃのう。おぬし『だけ』、ずいぶんと歳をくったようじゃからのう。んーで、臨終はいつだ? もうオシメはしてるのか?」

「抜かせぇ。なんだったらしばらくとどまって、おめさんのぶんも作ってやっか?」

「と、とどまる……じゃと?」

 予想外の反応だったのか、咲耶の頬が引きつる。

「ああそうさ。――決めた。どうせうちじゃあ、やがましね(うるさい)って煙たがられてるかんな。しばらくとどまって、あん子に再教育してやっべ」

「お、おいそれは――」

 騒ぐ咲耶。だが真樹子はもう聞いていない。


 ――いずれわかるわ。そんな遠くない未来よ。楽しみに覚えていて。だからそれまで……あたしのことを覚えていて。


「……」

 ちくりとした何かが胸を刺す。その正体を知らないふりして生きてきた。酒を呑んで強がって誤魔化して、いつの間にか何十年という時が流れてた。いくつもの秋が暮れ、冬に閉ざされ、春が芽吹いて……。そしてまた、夏が来る――。

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