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第31話「ドリームメイカー篇⑯。酒の健康被害について①」

 バッカスというのは不思議な神だ。胎児期に死に瀕し、幼年期、青年期をへて成長する中、何度となく命を落とした。その都度蘇るしぶとさから、蘇りの象徴とされる。

 旅をする神でもある。諸国を放浪し、酒の製法を伝え、多くの女性と浮き名を流した。

 戦う神でもある。時に軍を率い、あるいは単身で戦場に挑み、多くの敵を討った。

 身近な神でもある。多くの時を巷間で過ごし、分け隔てなく誰とでも打ち解け、酒を酌み交わした。人々の気持ちを緩め、解放することから解放するリュシオスと呼ばれる。

 彼の存在は、為政者にとって脅威であった。権力も金の力ももたない一個の存在に民衆の人望が集まるのは、支配する側にとって許容できることではなかった。

 多くの者を愛した。多くの者を殺した。酒が人にって薬になり、毒にもなるように。彼の存在は、酒そのものだった。


 ~~中世・夏帆なつほ~~


「ちっくしょう!! なんだこれ!! 体が動かねえ!!」

「あれれ~? 動かないよ~?」

 アルとフロールの短剣は、リュシオスの首筋の数ミリ手前でぴたりと止まった。もう少しなのに、見えない壁でもあるように、そこから先はぴくりとも動かない。戸惑ううちに、ふたりは短剣を取り落した。拾おうと屈むが、足元がふらつき、転んでしまう。 

 リュシオスは平然と座り込んでいる。鏡面のようにまっさらな眼球には、立ち上がろうともがくふたりの子供の姿が映っている。

「へっ、百年早いっての……」

 口調の割に、冷や汗を浮かべるリュシオスの顔に余裕はないが。

「腐っても神だ。魔女の使い魔ごときに負けられるかよ」

 吐き捨てる彼の両脇を、慌ててコロラゼとオデッサが固める。

「……へっ、遅えよ。おまえら」

「申し訳ございません!! 主上!!」

「この失態は、命であがないます!!」

 けっ、リュシオスは吐き捨てると、ふたりに支えられながら立ち上がった。

 アルとフロールは地面に倒れ伏したまま、いつの間にか眠りに落ちている。アルがガーゴーといびきをかき、フロールはそれに寄りそうにすやすやと寝息を立てている。

 ふたりとも、顔が赤い。

「……酔ってる?」

 夏帆なつほはしゃがみこみ、ふたりの顔を覗き込む。


 ――バッカスには、人心を狂わす能力がある。

 心を操り狂わせ、時に子に、親殺しの大罪を担わせることがある。それはもちろんエディプスコンプレックスの一形態でもあるのだろうが、中にはこういった説もある。

 ――それは酒のなさせたものではないか。

 というものだ。世界保健機関WHOの発表によれば、世界のアルコール関連の死亡者数――肝機能障害や交通事故、自殺、溺死、他殺等含む――は年間250万人にも及ぶと言われる。人にとって一番身近なドラッグであるところの酒がなした殺人は、実は一般的にドラッグと呼ばれるものより圧倒的に多いのが現実だ。

 中世の昔において、あるいはバッカスの活躍したギリシャ神話の時代において、酒というのは粗悪なものだった。単純に度数でいうならもちろん現代の酒のほうが高いのだが、不純物やおりがもたらす健康や精神への害というのは、想像するよりずっと重く深刻だ。

 だからバッカスの能力というのは狂わせる能力ではなく、酔わせる能力だったのではないか。殺人も、酔わせた結果の事故だったのではないか、そういった説だ。


「うぃ~ひっく」

「もうらめらぁ~」

 世にも平和なふたりの寝言を聞いて、夏帆は状況も忘れて笑ってしまった。

「は、ははは……」

 力が抜けてぺたりと座り込んだ夏帆の傍に、クラレットがどうと倒れ込む。

「クラレット……!?」

 クラレットはひどい状態だった。酒神の雷霆を受け、肉が焼け爛れ骨が露出している。呼吸はあるが、意識はない。ぶすぶすと焦げ付く毛皮に触れようとして、その異様な臭気と熱気に、夏帆は思いとどまった。

「殺してはいませんよ。手加減は難しかったですが……この人の力を考えれば、じきに回復することでしょう」


 夏帆の傍らに立った酒神を、リュシオスはバカにしたように笑う。

「……お優しいこって。ほんとにおまえ、未来の俺か?」

「未来の俺だから、ですよ」

 酒神が微かに微笑むと、リュシオスはつまらなそうにそっぽを向いた。


「教授……このあとどうするの……?」

 恐る恐る、お伺いを立ててる。

「殺しゃあしませんよ。そんな鬼を見るような目で見ないでください」

「あ、あたしは別に……っ」

「連れて帰ることってできんのか?」

 かおるが素朴な疑問を口にするが、

「それは厳しいですねえ。過去の人間を未来に持ち帰るわけにはいかない。クラレットだって、じっとしてはいないでしょうし……」


「おい、あいつ殺せ」

 リュシオスが首を振るのに合わせて動き出すオデッサの前に、薫が立ちはだかる。

「……オレともう一戦、やってみるか? ああ?」

 一瞬ふたりの間に火花が散るが、それはすぐに霧散した。なにせ互いに死力を尽くしたあとだ。出すものなどもはや何も残っていない。泥試合にしかならないことがわかっている。


 酒神が顎に手を当て黙考していると、ケインが提案をした。

「……僕に任せてくれませんか?」

「……ケインさん?」

「こう見えても貴族の家の長男です。子供のひとりやふたり面倒見れますし。クラレットさんは……修道院にでも入れて時間をかけて説得すれば……」

「洗脳じゃねえかそりゃ」

 リュシオスがつっこむ。

「……しかたないでしょうそれは……。彼女はほっておくには危険すぎる……」

「神の身元に置くのが一番だって? はっ」

 くっだらねえ、とリュシオスは頭の後ろで手を組んだ。

「なるほど……それも一理ありますね」と酒神。

「はああっ!? おまえまでそんな眠たいこと言ってんのかよ!! 揃いも揃ってバカじゃねえの!?」

「いやそっちじゃないです」

「じゃあどっちだよ!!」

 声を張り上げるリュシオスに、酒神がいたずらっぽい目を向けた。

 向けられたリュシオスは、ぱちくりと瞬き――凍り付いた。

「ば……バカかてめえ!! こっちはねえ!! こっちはねえよ!! そんなやつ危なっかしくて傍に置いておけるか!!」

「神の身元に置いておくのが一番だって自分で言ってたじゃないですか」

「そりゃバカにして言ったんだよ!! それぐらいわかれバカ!!」

 ぎゃあぎゃあと騒ぎ立てるリュシオス。


「……なるほど」

 夏帆は唸った。

 たしかに考えてみれば、クラレットを大人しくさせるにはそれしかない。殺すのも幽閉するのも嫌だ。洗脳もしたくない。ほうっておくのはますます危ない。なら、抑えられる人間が近くにいればいいという理屈だ。

「――ねえ、教授せんせい

 見上げると、酒神は「ん?」と夏帆に目を向けた。静かで優しい目だった。

「もしかしたら教授、こうなることを知ってました? クラレットと顔見知りみたいだったのは、過去だけじゃなくてこのあとも……」

 ずっと未来まで、一緒にいたからだろうか。

「……さて、どうでしょうね」

 肩を竦めて韜晦とうかいする酒神。けれど夏帆は確信を強めた。

 この優しい神様が、そして女たらしな神様が、クラレットにむごい仕打ちをするわけがない。きっとずっと一緒にいたから、だから……。

「……もうそろそろ、帰りましょうか」

 一瞬懐かしむような目をクラレットに向けて、酒神がつぶやく。

 夏帆は手を引かれて立ち上がり、ふらついたのを酒神に支えられた。

「……ありがと、教授」

 脇腹のあたりに向かってしゃべった。面と向かって言うのははばかられた。なんとなく意識してしまって、それが頭に上って真っ赤になった。

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