第29話「ドリームメイカー篇⑭。バッカスについて⑦。酒と薬と戦争と①」
古来、酒や薬は戦に勝つための手段だった。ある種の物質のもたらす作用が、人の筋力を増大し、反射神経を研ぎ澄ました。彼らは痛みも恐れも知らない、不眠不休をものともしない、万夫不当の勇者と化した。
馬乳酒を呑んで戦ったモンゴル騎馬民族。ベニテングダケを食べて戦ったヴァイキングの戦士。ウォッカにベニテングダケを混ぜた北方の部族戦士。コカの葉を噛んで戦う密林の戦士。覚醒剤を服用して戦う現代兵士は言わずもがな。軍馬や競走馬にアンフェタミンやカフェインなどを投与する例も少なくない。
そういった物質の中でも、ベニテングダケなどはその特徴的な外見とわかりやすい効果から、よほど扱いやすかったと見え、世界中の童話や伝説に登場する。かのリグ・ヴェーダに登場する神酒ソーマの材料としてベニテングダケが使われていたという説すらある。
最初は、ただ旨かったのだと思う。酒はもちろん、ベニテングダケなどは、この世のものとは思えぬほど旨いという。
旨さと薬理効果に乖離が起こるようになってから、悲劇は加速した。効率や益のみを求めれば、その先には悲しみしか待っていない。
~~ケイン~~
「バカな!! どういうことだこれは!!」
ケインは悲鳴のような声を上げた。
「止まれ!! 戻れ!! 命令だ!!」
長剣を振るい大声を上げるが、誰一人として言うことを聞かない。騎士も歩兵も弓兵も、何かに憑りつかれたように前だけを見て戦を始めている。
騎士は突撃し、歩兵は後に続き、弓兵の一斉射で攪乱した女信徒達に突っ込んでいく。
指揮系統は壊滅しているのに、戦自体はうまくいっている。どころか、予想よりも遥かに戦果を上げている。マイナデスの何人かを討ち、兵士達の損害は極めて少ない。
(なのになんだ……!? なんだこの違和感は……!?)
数の力。錬度。武装。指揮力。地の利。
そういったものが一切なかった。ただ人馬が猛っているだけだ。荒ぶり、口角泡を飛ばし、充血した目を見開いているだけだ。剥き出しの殺意の嵐が戦場を支配している。それだけだ。
「戻れ!! くそ!!」
ケインの叱責は空しい。わかってしまった。誰も自分の言うことを聞いていない。兵士達は何か大きな力の干渉を受けていて、伝説の狂戦士のように、我を忘れている。
「おやおや、どうなされた。ケイン殿」
ひとりだけ残っていたコロスが、横からケインに声をかけてくる。目深に被ったフードの下から、今にも歌い出しそうなほどに楽しげな声を出している。
「貴様か!!」
ケインは長剣をコロスの喉元に擬する。
「何をした!! 兵士達に何をした!!」
若き領主に仕える怪しげな軍監。魔の力を操ると噂される人物。
「混ぜました」
「……なんだと?」
「彼らの食糧に、飲み水に、酒に、飼い葉に。一滴たらり。二滴ちろり。恐れも知らず、痛みも知らず、不眠不休で戦える究極の兵士を産み出す魔女の霊薬にございます」
「貴様……魔女か……!!」
「左様で」
片手を胸に当て、恭しく一礼するコロス。
「古来より我々は、薬の取り扱いに秀でておりました。呪い事にも通じ、民草の生活の、陰に日向に支える存在でありました。その働きは妖しく未知数で、理解者は極めて少ない。時の権力者の邪魔とされ、あるいは民衆の不満の吐け口にされ、妬み嫉みに晒されて、次第に数を減じていきました」
「だからどうした。そんなもの……」
「為政者としてはそうでありましょうよ。どうあれ、認めるわけにはいきますまい。しかし我々にも意地があります。誇りがあります。踏みにじられてはいそうですかと泣き寝入りするわけにはいかない」
「だから薬を盛ったのか……!?」
ころころと、まるで少女のように笑うコロス。
「偉大なる魔女王キルケーの頃より、人心を惑わし操るは、我ら魔女宗の得意とするところでございます」
「――貴様!!」
こいつは敵だ。そう判断したケインは長剣を振りかぶり、横殴りの一閃を加えようとしたが、コロスは首を竦めてこれを躱し、即座に馬の腹を蹴ってケインから距離をとった。
「おやおや、ずいぶんと躊躇がなくなったねえ。仲間を殺されたって放心して泣きべそかいてたあんたとはえらい違いだ。死闘があんたを成長させたのかねえ。……それとも女、かい?」
コロスの口調が蓮っ葉なものに変わる。もはや女声を隠そうともしない。
一連の攻防でめくれあがったフードの下から、赤葡萄酒色の髪の毛がこぼれている。挑発的で好戦的な緑色の吊り目がケインを見ている。
「貴様……あの時の!?」
「あーはっは!! そうだよ。気づかなかったかい? だったらあたしの演技も大したもんだ!!」
「……何者だ」
呆然と憤怒の狭間で、ケインは剣の柄を強く握りしめる。
「ああー?」
聞こえているくせに聞こえていないかのように、耳に手を当てる合唱隊――クラレット。
「男のくせに蚊の泣くようなか細い声出してんじゃねえよ!! つくモノついてんだろうが!! もっと腹から声出しやがれ!!」
クラレットの煽りに反応し、ケインは負けじと大声を張り上げる。
「貴様は何者だ!! 何が目的でこんなことをする!!」
「神を殺すためだよ!! それ以外に何がある!? バッカじゃねえのかおまえは!!」
「神を……殺すだと……!?」
まさか、と戦場に目をやる。では14人の魔女を引き連れていたあの男は本物の神だというのか。自分たちはそうとは知らず、本物の神に弓を引いていたというのか。
「いまさらびびってんのか!? そうだよ、あいつは本物の神だ!! 大神ゼウスの息子しにてオリュンポス十二神の一柱。酒と酩酊と戦の神・リュシオスそのものだ!!」
「ばかな……ばかな……」
ケインには理解できない。神を騙っている男だと思っていたから、自分達は派遣されたのだ。なのにこの女は、相手が本物だからこそ殺すという。
「殺してどうする……」
「知れたことよ!! 肉を喰らい血を啜り髄液を呑み下し、その力を我が物とするのよ!! 不敬だって!? 知らねえよ!! 神なんてのは、人に禍しかもたらさない害虫だ!! 穂についた虫を殺すたびに、おまえはいちいち心を痛めるのか!?」
「畏れはないのか……」
クラレットは鼻で笑った。
「――そんなものは、とっくの昔に墓の下だよ」
騎馬を駆り急速に遠ざかるその背中を追う気力が、ケインにはもうない。
~~酒神~~
「……やれやれ、久しぶりですねえ、こういう雰囲気は」
酒神が戦場に立つと、兵士達はますます猛った。薫やオデッサに向かっていた矛先を、一斉に酒神に向けてくる。
まずは矢群。空を埋め尽くすほどの大量の矢が、まとまって降りかかる。
メリメリッ。
地表を突き破り、無数の蔓が突き出てきた。何万本もの蔓が塊を成し何メートルも持ち上がり、降り注ぐ矢を弾き返す。
―― バッカスが幼少時、テュルセーニアの海賊達に身代金目的に誘拐された際、海賊船の動きを止めたほどの蔓だ。生半可な矢では傷つけることすらかなわない。
「殴り合いは好きじゃないんですがねえ……」
吶喊してきた歩兵達に対し、酒神は両腕をだらりと垂らした自然体で応じた。次々と繰り出される剣や斧や槌の一撃を、ひらりひらりと軽いステップワークで躱していく。ひとりやふたりという数ではない、何十人もの兵士達の連続攻撃。しかも霊薬によって無敵の膂力と体力を兼ね備えている連中だ。ひとつのミスで大怪我を負う。
だが、酒神の表情に焦りはなかった。回避行動の合間に打撃を打ち込み、逆関節を極め、少しずつ動ける歩兵の数を減らしていく。
――多くの求婚者を返り討ちにしたトラキアの格闘姫パレーネーを、格闘という同じ土俵で倒したバッカスの戦い方は、長い年月を経てさらに円熟味を増したものになっている。この辺は「成長する神」という珍しい相を持つ神としての面目躍如だろうか。
――古代ギリシアで素手格闘といえば、パンクラチオンやボクシング、レスリングなどになる。武術やスポーツを奨励し、自身卓越した武術を身につけていたアレクサンダー大王と比されることもあるバッカスの使う技は、やはり同種のものになろう。
「しかしこの数ではキリがないですねえ……」
矢群を受け止めたまま硬直していた蔓が再活性し、今度は歩兵達の体に巻き付き動きを封じていく。頑丈な蔓は、当然力では振りほどけないし刃も通さない。蔓に絡みつかれた歩兵という奇妙なオブジェが、戦場のあちこちに出来上がる。
ドドド、馬蹄が地面を揺らす。歩兵のオブジェの合間を縫う騎士達の動きは速く、蔓の動きでは追いつかない。
「あらあら……」
困ったなというように肩を竦めると、酒神は宙を飛び、戦闘を切っていた騎士の馬首にふわり降り立った。
騎士が猛って槍をぶん回すが、酒神は頭を竦めてこれを躱した。
「よっしゃおっさん!! そこで蹴りだ!!」
外野から薫が声援を送る。
酒神は一瞬眩しげに眼を細め、ひらひらと手を振った。
「まあそれでもいいんですけどね。面倒なんで、この際一気にいっちゃいましょう」
言うなり、両手を胸の前でぱんと合わせた。開くとそこにはソフトボール大の雷球が生まれており、バチバチと紫電を弾いていた。
――天空神ゼウスの雷霆はオリュンポス最強の武器であり、その気になれば世界を一撃で溶解させ、宇宙を焼き尽くすことが出来るという。酒神は胎児の頃に雷霆の影響で瀕死状態に陥ったことがあり、本家ほどではないが雷霆の力を持つ。
『――!?』
その威力を知るコロラゼとオデッサが、声にならない悲鳴を上げる。
酒神は蔓を足場にして天高くするすると舞い上がった。雷球を持ち上げ、衆愚に叩きつける準備を整える。
「――教授!! やめて!! 殺さないで!!」
誰かが叫んだ。
酒神ははっと我に返り、ちらと声の主に目を向けると、安心させるように小さく笑った。
「……だーいじょうぶ。加減はしますよ……」
雷球から、無数の枝葉のように雷光が迸った。凄まじい速さで生き物のように空を飛び地を這い、蔓のように人馬に巻き付き、電流を走らせ、神経系をショートさせ、次々に無力化していく。悲鳴や焼け焦げた臭いが辺りを覆うが、ぎりぎりのところで死には至らない。
雷球が消えた後には、不思議な静寂が漂っていた。誰も言葉を発しなかった。倒れ伏した人馬とこともなげにしている酒神の対比に、誰もが圧倒されていた。




