第二話「夏帆。講堂にて。スキットルについて」
スキットルが似合う大人になりたいです。
九曜大学は、戦前の旧制専門校である九曜学院に端を発する歴史のある学び舎だ。文学部、外国語学部、人文学部、経済学部、法学部等、文系中心の教育を行っている。東京の八王子と埼玉の川越に校舎があり、夏帆の属する人文学部は4年の修学期間をずっと八王子でおくることになる。
人文学部棟である3号棟の大講堂にて入学式後の説明会に参加していた夏帆は、ぴかぴかの1年生たちの緊張した眼差しを眺めながら、なんとなく引け目のようなものを感じていた。
(しっかし、みんな若ぇどな~……)
新入生同士だからといって、皆が皆、同じ年齢とは限らない。大学というところはそれが顕著だ。受験で苦労した夏帆自身も、この4月ですでに20歳になっていた。
このくらいの年齢同士の2歳差なんて傍から見れば全然変わらないものだが、当事者にとっては大問題であった。ちゃんと友達ができるだろうかとか、さん付けで呼ばれたりしてからかわれないだろうかとか、就活時には何歳なんだとか、考えれば考えるほど暗い材料ばかりが増えていく。
(あの娘なんか、がちがちになってはあ……)
教壇をすり鉢状に見下ろすような形の大講堂は、3人掛けの机と机の間を階段で行き来するようになっている。今しがた入室してきた紺のスーツ姿の女の子は、見慣れない光景に戸惑いながら、硬い表情で階段を降りている。緊張の度が過ぎて若干足が震えており、なんとも危なっかしい。
「わ! きゃっ……」
「!」
女の子の上げた声に、夏帆は上手く反応できた。空いていた夏帆の隣に座ろうとしたところで階段を踏み外し、転げるようになっ女の子を、なんとか体で受け止めることに成功したのだ。
「わ、ご、ごめんなさいっ。わたしったらドジで……」
少女漫画のテンプレみたいな台詞を吐きながら、女の子は涙目になっていた。
「あはは、気にしない気にしない。それよりどこか怪我はなかった?」
どこも体を打ってはいないようだった。足もひねったりしたわけでなく、痛めているようなところはなさそうだった。
たれ目で、泣きぼくろがひとつあった。色白で、髪の毛がふわふわと柔らかそうだ。身体全体が女子らしい丸みを帯びていた。とくに胸が大きく柔らかそうだ。さきほどのドジっ娘ぶりといい、守ってあげたくなるような可愛らしさがあった。
「ねえ君、大丈夫?」
「どこか打ってない? 保健室行こうか?」
など、周囲の男子からは、さっそく熱い視線を浴びている。
「……おい千鳥。てめえまたなんかやらかしたのか」
女の子……千鳥? の後ろから声をかける男子……いや女子がいた。170半ばはあるだろう長身で、パンツスーツ姿だった。ショートカットを整髪料でがちがちに固めていて、目は切れ長で険があり、千鳥を見下ろす迫力に、周囲の男子が引いていた。
「あ……か、薫ちゃん……」
千鳥が青い顔で振り返る。
「ちょっと目ぇ離したらよう。ったく、いくつになっても人様に迷惑ばかりかけやがって」
苛立たしげに舌打ちし、薫は千鳥を押しやって席に座った。薫・千鳥・夏帆の配列になる。
手島千鳥。後藤薫。2人が、夏帆の大学初めての友達となった。
「まさか、3人とも20歳だったとは……」
オープンカフェ風の学食で3人揃って食事をとりながら、夏帆はしみじみと驚きを噛み締めた。
家が近所で幼馴染の2人は、千鳥が入院、薫が留年したせいで、奇しくも2人同時の入学となったらしかった。
「そういうことだ。まったく、なんの因果で大学でまでこいつの面倒見なきゃいけねえんだか」
「薫ちゃ~ん。そんなこと言わないで~」
本気で面倒くさそうな薫に泣きつく千鳥。
「ほんと、2人とも仲良さそうだねぇ」
「は? 誰が!?」
「そうなの~。わたし、薫ちゃんがいないと生きていけない~」
「てめえ離れろっ」
胸を押し付けるようにくっつく千鳥を押しのけながら薫。
「で、夏帆はどうして浪人したんだ?」
「ぐ……あたしの番か……」
3人それぞれに浪人の理由を語り始めて、次は夏帆の番だった。
「一言でいうなら、学力不足というか……」
「頭悪いのか」
「ちょっと薫ちゃんっ。言葉っ」
ばっさりと切って捨てた薫に、千鳥があわててつっこむ。
「あたし、小っちゃい頃から陸上一筋で……。大学も推薦でほぼ決まってたんだけど、膝を怪我してダメになっちゃったんだ。それまで勉強なんか一切してこなかったから。学校でも授業中は寝てたし、家でもお前はとにかく陸上に打ち込めみたいな雰囲気だったんだけど……」
「陸上バカにいきなり方向転換しろったってどだい無理な話だと」
「薫ちゃんっ!」
「なんだよ言葉選んだぞ」
「選んで切ってるだけだからそれっ。切らないでっていってるのっ」
ぎゃあぎゃあ騒ぐ2人を余所に、夏帆はすっきりした気持ちになっていた。大好きだった陸上を捨てたことは彼女にとって大きな傷で、どう向き合っていくかはまだ決まっていなかった。他人に対しては隠さないでいようとだけは決めていたが、果たせるかどうかは自信がなかった。
「薫ちゃんだって暴力女だっていわれて嬉しい?」
「嬉しくはねえけど事実だしどうでもいいことだな」
「がさつだ陰険だ鬼畜匹婦だ。あいつの側に口の空いたペットボトルを置いとくとなに入れられるかわかんねえぞっていわれてもっ?」
「……なるほど不快だな」
「痛い! 痛いからそのぐりぐりするのやめてっ! ただの例えだからっ!」
千鳥のこめかみに拳をあててぐりぐりと抉る薫。
(この2人だから言えたのかな……)
独特の雰囲気を持った2人のやり取りを眺めながら、夏帆はほっと密やかに息をついた。
と。
オープンカフェの一部が騒がしくなった。男子学生たちが机の上に立って飛んだり跳ねたりしてはしゃいでいる。
「なんだあいつら。酒呑んでんのか」
薫の指摘したように、男子学生たちの手には缶ビールが握られている。学内は原則飲酒厳禁だから、どこか他所で買ったのを持ち込んだのだろう。
周囲の客が迷惑がって、三々五々席を立つ。店員が止めようとするが、男子学生たちはバカにするばかりで取り合おうとしない。
「薫ちゃん……」
千鳥が不安そうに薫のスーツの袖を握る。
「……しょうがねえな。追い払ってやるか」
剣呑な表情で薫が立ち上がる。
唐突に、薫の背後に酒神が現れた。
「……!? な、なんだてめえ!?」
「教授!?」
薫が慌てて振り返る。夏帆も息を呑む。まったく気配がしなかった。
「やあ夏帆くん。さっそく友達が出来たのか。よかったね」
酒神は夏帆に向かって薄く微笑むと、そのまま男子学生たちの方に向かっていく。
「おいおっさんっ。どうする気だよ」
薫が酒神の肩に手をかける。酒神は立ち止まると、薫の手を優しく触った。
「酒の呑み方を教えるのも仕事なんだよね」
「……はあ?」
わけのわからないといった表情になる薫には構わず、酒神は歩を進めた。無精髭は変わらずだが、古びた縦縞のスーツ姿で、それは朝方夏帆が整えたものだった。
手には何も持っていない。ズボンの後ろポケットに膨らみがあった。それは銀色のスキットルだった。
スキットル。もしくはヒップフラスコ。携帯用の酒器である。多くは100~200CCくらいの容量で、キャップが付いていて、出先で酒が呑める。材料としては、銀、ブリタニアメタル(錫の合金)、ステンレス、チタン製がある。硬くて潰れにくい、軽くて持ち運び易い、金属臭がしない、酒に味が移らないなどの理由で酒神がチタン製のものを使っているのを、夏帆は台所で見た。専用の口の細い漏斗で、ウイスキーを流し込んでいた。
「教授って、ケンカとか大丈夫なのかな……」
別に力ずくでいこうというわけではないだろうが、火の粉とは向こうから降りかかってくるものでもある。いざとなったら、人を呼びにいかなければ。夏帆がそんな決意を固めていると、男子学生たちが酒神に気づいた。
「えー? なんですかー?」
「僕たち楽しくおしゃべりしてただけですけどー」
「これ? ジュースですよジュースぅー。ぼくたち真面目な学生なんでー」
適当なことを口にしては、仲間内で盛り上がる。スマホで撮影する。またビールを呑む。
「あいつら……」
薫の殺気が膨れ上がる。
「教授なら大丈夫」
「……なんでわかんだよ」
薫が夏帆のことを見た。
思い出していた。真樹子が酒神のことについて教えてくれた様々なことの中に、こんな説明があった。
『例え火の粉が降りかかろうと、ケンカにはならない』
あれはどういう意味なのだろうか。でも、強く確信に満ちた口調だった。それはもちろん、先代の酒神教授の事なのだろうけど……。
ぼそり。
酒神が何かをいった。
夏帆たちのところまでは、その言葉は届かなかった。
男子学生たちの表情が変わった。真っ青になって、酒神から離れていく。ビールを回収することも忘れ、椅子に蹴躓きながら、慌てて逃げ出していった。
「すご~い……」
「なにしたんだ……? あのおっさん……」
2人はもとより、他の周囲にいた者も、店の店員も、驚きの眼差しでそれを見ていた。
力を使わず、ただの一言で、野放図な若者たちを退けた。
夏帆たちのところに戻って来た酒神は、やれやれというように肩を竦めた。
「やだねえ。酒呑みのマナーがわかってない連中は」
「教授。何を言ったんですか? 今」
「そうだ。おっさん。何やったんだよ」
「うん? ああ、一言言っただけだよ『動物に変えてやろうか』って」
「はあ?」
「動物ですか~……?」
突拍子もない言葉に、顔を見合わせる3人。
「ほら、僕、神様だからさ」
酒神の補足は、混迷の度を深める役にしかたたない。
変なおっさん、という以上の理解は得られなかった。
「ところで教授。学内での飲酒厳禁、でしたよね?」
「え? ああうん」
夏帆に絶妙に痛いところをつかれ、酒神は狼狽えた。酒神は、飲酒がダメとは一言もいっていない。呑み方とかマナーとか、自分自身に跳ね返ってこないことを繰り返していただけだ。後ろめたさの裏返しなのだ。
「今日の所は見逃しましょう。でも……」
「で、でも?」
「次見つけたら、没収ですからね」
そう言って、爽やかな笑顔で酒神の尻を叩いた。手のひらには、硬い金属の感触がした。
薫と千鳥は、ますますわけがわからんという顔になった。
次はバッカスという神様について触れる予定。




