第27話「ドリームメイカー篇⑫。メチルアルコールについて①」
~~現代・千鳥~~
戸口に立っているのは千鳥と同い歳くらいの美しい、だがどこか陰気な女性だった。Tシャツにジーンズというラフな格好で、手に缶ビールの入ったビニール袋を提げている。整髪料でがちがちに固めた前髪の陰からほの暗い視線を部屋中に走らせている。床に臥す酒神、夏帆、薫を順に見て、訝しげに眉をひそめる。
「……どういうことだ? 咲耶」
詰問するような強い口調。
「あ、姉上……たすかっ……!!」
地獄に仏――とばかりに喜びを見せた咲耶は乱れた着物の裾を整え、女性に近寄り――その表情の険しさに思わず足を竦ませた。
「……一生くんの家で花見をするってだけの話じゃなかったのか? 咲耶」
「あ――あっ。ううぅ……。そ、その、最初はそのつもりだったんじゃよ。そのはずだったんじゃよっ。ただそこの短髪娘が勝手にドリームメイカーを呑みおって、一生と金髪娘が追いかけて……」
焦る咲耶はしどろもどろで状況を説明するが、女性――そういえば知流という名前だった。この人も神様だったのか――の表情は一向明るくならない。夏帆のことについて触れた時だけ眉をぴくりと震わせたが、それは本当に一瞬のことだった。
「……ハメられたな。咲耶」
「えっ? なっ! わしがハメられたじゃと……!?」
咲耶の声が上擦る。
「怪しげな神域の酒が出回っていることについておまえが相談するとすれば、まず一生くんだろ。夏帆くんが呑むかどうかまではわからないとしても、実物があるなら一生くんが味わってみるだろうことは想像に難くない」
「ま、まあメチルもエチルも関係ないような男じゃからの……」
思わずうなずく千鳥。
――メチルアルコールは、簡単に言うなら工業用アルコールだ。人が呑むように作られていないので、呑んではいけない。と言いつつも世界中にはいろんな呑兵衛がいて、メチルを飲用に供して中枢神経を冒され、死亡したり目が見えなくなったりという事例がたくさんある。日本でも、戦後の動乱期に出回った粗製アルコールの中には微量のメチルが含有されていて、多くの被害者を出した――
「呑めばいいんだろうよ。それで目的は果たせるんだ。まさか魂魄を彼方へ飛ばしてそれで終わりってわけじゃないだろう。そんなの、彼なら簡単に戻ってこられる」
そうだな……と知流は腕組みして考える。
「――探していたんじゃないか? 誰かが」
ピシャーン、咲耶の背筋に電流が走るのが見えた。
「一生くんは『追われる者』だからな。どこまで逃げようと、どれだけうまく隠れていようと、繋がりある者を特定して居所を見つけ出そうとする者がいる。おまえは目立つし、全国各地を飛び回っているし、たぐる糸としては便利だろうな。ここまでの事態に陥ったのは不可抗力だとしても――」
知流は凍てつくような視線を咲耶に向ける。
「……お尻ぺんぺんだな。咲耶」
「――ひっ!」
咲耶は顔を真っ青にして尻を押さえ、知流からじわじわと距離をとる。
「そ……それだけは勘弁なのじゃ……神がお尻ぺんぺんなど、沽券に関わる。い、威厳が損なわれるのじゃ! いろいろ台無しなのじゃ!」
「……」
額に汗して懇願する咲耶だが、知流は空中を手の平でスイングして応える。
「わ、わかった! わかったから! なんとかするから許しておくれ姉上! 犯人も必ず見つけ出すし、一生の身には危険が及ばないようにするし……ほ、ほれこの通り!」
言って、夏帆の額に手をかざす。
すると、春の陽光を思わせるような暖かな光が咲耶の手に生じ、それは吸い込まれるように夏帆の中へ消えていった。
「さ、さっきからこやつが苦しそうにしておったのが気になっておったんじゃ……!」
「……」
「な? な?」と懸命に良い神アピールをする咲耶を黙って見つめたあと、知流は夏帆の傍らに膝をついてその頬に触れた。
「……」
ほっと表情を緩める。優しく慈しむような、柔らかい触れ方で撫ぜる。ふたりがどんな関係かはわからない。でもどこか強いつながりのようなものを感じる。
「あの~」
「……?」
再び視線を険しくした知流に、両手を広げて害意のないことを示す。
「わたし~、千鳥って言います~。夏帆ちゃんの友達で~。そこにいる金髪の子の友達でもあって~。あと教授の生徒で~」
「……女信徒か? ……いや違うか。彼はもう眷属を作るのをやめたはずだ」
眉をひそめる知流。
「プラスとかマイナスとかはわからないですけど~。怪しい者ではありません~。お姉さんに質問がありまして~」
「……?」
「教授を追うとか探すとかって~。どういうことなんですか~?」
「……知ってどうする。娘」
「いや~、興味あるじゃないですか~。自分のお友達が巻き込まれている事件で~。それには神様が絡んでいて~。それが教授だっていうんならなおさら~」
「……人の身で無闇に関わろうとするな。おまえの力の及ぶ範囲の話じゃない」
吐き捨てるように言う知流。だが千鳥は退かない。作ったゆるふわ系笑顔のままで、だが断固として主張する。
「もう全身浸かっちゃってるんですよね~。いまさら戻れないんですよ~。友達が危ない目に遭って~。こうして神様とも対峙して~。及ぶとか及ばないとかの話じゃないんですよ~」
「……のか?」
知流が低い声で聞いてくる。
「え?」
「……一生くんのことが好きなのか?」
突如フラれた質問に、千鳥は思わず心臓を跳ねさせる。
(な、なんでこの人こんな質問をっ? ……で、でも、この人教授のことが好きみたいだから、ここはあなたの敵ではありませんアピールをしないと……!)
「そんなことないですよ~。わたしは男の人より女の人が好きですし~。そういう意味でも教授はちょっと好みではないかな~」
「……そうか」
「まだ両親にはバレてないんですけど~。将来的に婿をとることも難しいですし~。そうなると悲しませることになるかなとは思ってて~。どうしてもなんとしてでも婿をとりなさいって言われたら~。その時の候補に加えてあげるくらいにはす――」
(……あれ?)
無意識のうちに口走りかけたことに驚いて、千鳥は思わず口を押えた。知流の視線が突き刺さる。咲耶はあんぐりと口を開けている。
「っきではないです――」
慌てて言葉を繋いだ時にはもう遅かった。知流は察したように目を閉じ、やれやれと頭をかいている。
(こ、殺される――!?)
青くなり身を強張らせる千鳥。
知流は目を開き、同じ病気に罹った者を見るような、同情に満ち満ちた目をした。
「……わかった。教えてやろう」
「……え?」
持参した缶ビールを取り出した知流は、胡坐をかいて座りプルタブを開けて、噴き出した泡をなめ取った。
千鳥は知流の真正面に座り、付き合いで缶ビールに口をつけた。
咲耶は遠くからふたりを眺めている。どちらにもあまり近づきたくないようだ。
「――それは『神禍』。もしくは『禍』と呼ばれる」
「しんか~? からみてぃ~?」
千鳥は頬に指をあて首を傾げる。聞いたことのない言葉だ。
「神と人の違いを表す言葉だ。神は決して優しいだけの存在ではない。時に人に禍をもたらす。洪水を起こし、大火事を起こし、火山を爆発させる。巷間に病を流行らせ、美しき娘を我がものとし、刃向かう者どころか悪口を言った程度の者すら一方的に虐殺する」
それは罪か? 知流は問いかける。
「そりゃ~そうでしょ~? 殺人も騒乱も罪ですよ~。狙って天変地異を起こせるならなおさらでしょ~?」
「罪ではない。神は無慈悲なものだ。そもそも秤にかけるべき存在ですらない」
知流はあっさりと決めつける。
「神の成すことは誰にも止められない。善も悪もない。裁くことはできない」
「……む~」
「それだ」
知流は頬を膨らませた千鳥を指さす。
「人の中に、不満を持つ者が現れた。人に仇なすだけなら、神も悪魔も変わらぬではないか。願っても祈っても現世では叶えてくれないのなら。死後か、あるいは永劫の未来の彼方にある救済を待つなんていう胡乱な餌を見せつけられるだけなら……。いっそ、殺してしまえ――」
~~中世・夏帆~~
「……ふん、ようやく毒が抜けてきたみたいだね」
チョコレート色の肌の女――コロラゼが、夏帆をつまらなそうに見下ろしている。
「あ……はい」
気が付くと、夏帆は草原に横たわっていた。全身を覆っていた疲労も苦痛も倦怠感も、今はすっかり薄れている。眠っている間に治ったのだろうか。
「人にしてはあっさりと、と言うべきかね。正直あのまま死ぬと思っていたし、死んでもいいと思っていたけど」
「ひ、ひどいなあ。ははっ……」
「だがまあ、未来の主上の望みとあっちゃあ仕方ない。妹みたいなもんでもあるしね。助けてやるさ」
「あなたが助けてくれたの?」
訊ねると、コロラゼは急に気まずそうな顔になった。
「……さあどうかね」
照れているのだろうか。そっぽを向いているので表情はよくわからない。ぶっきらぼうで好戦的だが、悪い人には見えない。
「しかしバカな妹だよ。全身に毒の軟膏を塗られやがって」
「毒の軟膏……? だ、だってあれは……!」
「まああんたトロそうだからね。適当なことを言って誤魔化されたんだろうけど。初めて見たよ。男殺しの毒の軟膏を気づかずに全身に塗られてる間抜け」
「……あれはアルとフロールが……クラレットの手製だって。獣避けに効くからって……」
「そりゃあ男と書いて獣ってことなんだろうよ。魔女と魔女の手下か。胸くそ悪い」
コロラゼは腹立たしげに舌打ちする。
「教えてやるよ。この世にはね。白き魔女と黒き魔女がいるんだ。白が善。黒が悪。白は民間にあって、失せ物探しを手伝ったり、病を癒やす薬を調合したり、人に善き技を振るう。黒は悪魔と通じ、人に呪い災いをもたらす」
「白と黒……」
「中には神を殺そうなんて大それたことを考えるやつもいる。最近じゃ魔女宗なんて連中もいてさ。……なんだ、どうしたい?」
「神を殺す……!?」
夏帆はまだ完全には言うことをきかない体に鞭打って上体を起こすと、慌てて周囲を窺った。万年杉の根元にリュシオス。
「教授は――!?」
酒神は戦場にいた。




