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第25話「ドリームメイカー篇⑩。酒器あれこれ①。日本酒②。空手について」

 ~~現代・咲耶さくや~~


 寮の多目的用和室にて、小卓を挟んで千鳥ちどりと向き合っていた。傍らには、酒神さけがみ夏帆なつほかおるの3人が枕を並べている。魂のみを過去に送り、肉体はこうして眠っている。

 小卓に置いた徳利とっくりからお猪口ちょこに、冷めた燗酒を注いだ。徳利は食堂にあったものだが、お猪口は家から持って来たものだ。黄土色をベースに、不規則な臙脂えんじ色の横縞が入ったデザインのそれは、咲耶のお気に入りだ。どこの何焼きというわけでもないなんでもない既製品だが、不思議と手に馴染んだ。何十年も使っているうちに縁が欠けたりしているが、それはそれで味があっていいと思う。本人は忘れているが、まだ酒を酌み交わす仲だった頃に真樹子から貰ったものだ。

 酒のあては、台所で見つけた丸干しにした。だまこ餅が残っていたが、真樹子の孫娘の料理を全面的に受け入れるのには抵抗があった。

 ばりぼりと丸干しをかじり、時折酒を口に含む。ほのかな塩味が、辛口の酒によく合った。

 

 ――飲み屋に行った時に、「お銚子何本つけて」などという言い方を耳にしたことがあるだろう。これは実は間違いである。お銚子というのは長い柄のある金属製もしくは木製の酒器のこと。三々九度の時に巫女さんが酒を注ぐあれだ。一般に我々が目にするのは徳利。もちろんお銚子でも通じはするし、そのほうが風情があっていいと筆者も思うのだけど。

 ――お猪口とぐい吞みの違いもあまり知られていないが、これは単純に分量の問題である。ぐいっと呑めるかそうでないかの違いだ。「ちょこちょこ呑む」からお猪口ではない。大陸由来の語源による。

 ――日本酒の甘口辛口も、初心者には難しいかと思う。砂糖の甘さや辛子の辛さという意味での甘口辛口ではない。日本酒度の問題で、アルコールの比重が多ければ水のようにさらさらとした吞み口になり、これを辛口という。米の養分が多ければ甘口となる。ラベルにプラスやマイナスで表記されているのが参考になるだろう。酸値が書いてあるとなお良い。これはコハク酸、リンゴ酸、乳酸等の酸の量を表すもので、数値がプラスならば辛口濃厚。マイナスならばその逆となる――


 対面する千鳥に目をやる。たれ目で、泣きぼくろがひとつある。色白で、髪の毛がふわふわと柔らかそうだ。程よく肉のついた男好きしそうな女で、酒でほんのりと赤くなった顔には、歳に似合わぬ艶やかさがある。ことに胸のふくよかさは、見ているうちに腹立たしい気分になってくるほどだ。

「……んで、なぜおぬしは行かんかったのじゃ? わしはてっきりおぬしも一生いっせいと金髪娘と共に行くもんだと思っておったのじゃが」

 死んだように静かに眠る3人。勝手にドリームメイカーを呑んで勝手に過去の世界に囚われたバカな娘と、その娘を「起こしに行った」酒神と、酒神の露払いに手を挙げた金髪娘。あちらでの傷も、こちらでの傷も、等しく存在を傷つける――胡乱うろんな話だとは言え、昨今の女学生がこんな状況にひとり孤立するのを容認したのは意外だった。

 じっと、並みの男なら震え上がるような鋭い視線を送る。しかし千鳥はころころと笑って受け流した。

「ええ~? そういうのは薫ちゃんの役目だし~。荒っぽいのはわたしには向かないから~」

(……ほう、微動だにせぬかよ)

 恐いも寂しいも感じていないのか。虚勢を張っているだけなのか、判断がつかない。本音を隠すのに慣れているようだ。

 それにね~、軽い調子で千鳥は続ける。

「ルーリングハウスの新法。魔酒及び神域の酒に関する特別法。っていうのが気になって~」

「……聞いておったか。だがそれがどうした? 脆弱ぜいじゃくなる人の身のおぬしには関係あるまい?」

「ん~……」

 千鳥は指をおとがいにあて、ことさら陽気ぶって顔を揺らす。

「違反者には罰が与えられるんでしょ~? それって~。お酒を醸した人だけなのかなと思って~?」

「……」

「ドラッグだってそうでしょ~? 製造・流通はもちろん、使用者にも罰則が与えられるじゃない? なら~、間違えたとはいえ~、呑んだ人にも与えられるんじゃないの~? この場合は夏帆ちゃんに~」

「――ふん。察したか。意外に油断のならぬ女子おなごじゃの。なるほどひとりここに残ったのはわしの動きを見張るためか」

「んふふ~。教授せんせいがいたら全力で止めるだろうけど~。いなかったら誰も夏帆ちゃんを守れないからね~」

さかしらな。じゃが見通しが甘いのではないか? おぬしひとりがどれほど足掻いたところで、神なるわしを止めることなどできんぞ。その献身は無意味じゃ」

 咲耶は小馬鹿にしたように笑う。身の程をわきまえない人間の思い上がりほど滑稽なものはない。

「その息の根、いますぐ止めることもできるんじゃぞ?」

「んふふ~。それなら大丈夫よ~」

「ぬ?」

 あくまで余裕の態度を崩さない千鳥を不審に思っていると、

「――わたしね~。女の子に負けたことないから~」

「――!?」

 ぞくり、背筋を悪寒が走り抜け、咲耶は思わず飛び退いていた。取り落としたお猪口が小卓を転がり落ちて、カーペットを濡らす。

「な、なんじゃおぬし……!?」

 身構えるが、追い打ちはない。ただ千鳥は笑いながら座っているだけなのに、とてつもないプレッシャーを発している。

 咲耶の額を冷や汗が伝う。全身を震えが走る。

「お、おぬし、本当に人間か!?」

 千鳥はパタパタと手を振る。

「や~だ~。人間よ~。ただ好物が可愛い女の子ってだけで~」

「――!!」

 今度こそ本当に、咲耶は理解した。この場において、捕食者は自分ではない。神であろうとなんであろうと、自分は千鳥に食われる側の存在だと。

 千鳥が立ち上がり、ゆっくりと小卓を回り込んでくる。

「ま。待て待て待て!! 話せばわかる!!」

「あらら~? どうしたの咲耶ちゃ~ん」

 わきわきと手を動かしている。なんのジェスチャーかはわからないが、あれはよくないものだと本能が告げている。

「ひっ……!!」

 咲耶は着物の裾を踏み、足をもつれさせ尻餅をついた。逃げ出したいが、腰が抜けていて立ち上がることができない。

 ばっと、制するように手を出すのが精一杯。

「やめろ!! それ以上近づくでない!! わしは思い切り年増じゃぞ!? 何百年も何千年も生きておる大年増じゃ!! 断じて可愛い女の子などではない!! 若ぶっているだけなのじゃ!!」

「あらあら~? 急に卑下しちゃってどうしたの~? 大丈夫よ~。わたし守備範囲広いから~」

「た、頼むから寄るな!! な!? やめてくれ!!」

「んふふ~。怯えちゃって~。かわいいんだから~」

 千鳥は頬に手を当て目を細め、ほうと愉悦のため息を漏らした。

「大丈夫よ~。まだまだ夜は長いんだから~」


 ~~中世・薫~~


 六道会りくどうかいは、空手の四大流派の流れを組む伝統派の団体である。全空連に所属していて、直接打撃主体の叩き合い殴り合いのフルコンタクト空手とはまったく異なる寸止めルールを採用している。

 寸止め空手とは、手には拳サポーター、頭には面頬、胴や股間にプロテクターをつけて競技を行うものだ。強く当てすぎると減点されるので、「当てっこ空手」などと馬鹿にされることもある。

 それが薫には不満だった。防具をつけての殴り合いも、安全性を揶揄されることも。

 フルコンの打撃は、薫に言わせれば「雑で力任せ」だ。寸止め空手の「コントロールされた」一撃のほうが、実戦では通用する。それは信念であり、彼女の寄る辺だ。だが実際には使う場面はほとんどなく、使えば社会的な罰を受ける。それが彼女の留年の理由でもある。


 無尽蔵の体力と目にも止まらぬ敏捷性、圧倒的な膂力を兼ね備えた化け物。それが14人。用意された戦場は、薫が望んでやまなかったパーフェクトなものだ。

「今日はいいんだ……全力で……全開で!!」

 真正面から女がひとり突っ込んでくる。歯を剥き出し、大きく腕を振り回してくる。

 腕をかいくぐった。がら空きの胴に、思い切り腰を入れて逆突きを打ち込んだ。

 じぃん、骨と筋肉が軋む。肉を打った手ごたえ。内臓にまで及んだダメージの跳ね返りが体内に響く。

 ぶるり、背筋が震える。

「拳を引かなくていいんだぜ……おまえら……わかるかよ。オレの喜びが!!」

 うずくまった女は声も上げない。

「オオオ」、薫は会心の雄たけびを上げた。


「シャアアア!!」

 横合いからまたひとり突っかけて来た。

 爪で引っかけるような、やはり大ぶりの一撃。

「動きが雑なんだよ!!」

 上段外受けでかち上げる。空いた胴に逆突き。

 相手の状態を確かめる暇はない。体を回すように振り返ると、すぐ後ろからもうひとり来ていた。大柄な黒人。突進して来る。受けも払いも出来ない。

「そうそう!! そういうんだよ!!」

 実戦において一番厄介なのが、体格に勝る者にアドバンテージを生かされることだ。薫は女性にしては体格の良いほうだが、男と喧嘩するときは相当に気を使う。タックルのような突進系の攻撃は、意外と始末に困る。

 だが薫は慌てなかった。経験が違う。錬度が違う。力任せに敵を払うことしか知らない女信徒達マイナデスとは戦いの次元が異なる。

 幸いにも、動くスペースは十分にあった。薫は自然な動きで体を躱す。半歩ずらすようなイメージで、タックルを後ろに流すベクトルを作った。 

 ついでに女の足を払った。つんのめり、前のめりに転ぶのを素早く追いかけ、踵で頭部に追い撃ちをかけた。


『――!?』

 瞬く間に3人倒され、女たちの間に動揺が拡がる。

「なんでえびびりやがって……」

 薫は嘲笑い、手近のひとりに歩み寄った。運足も歩法も何もない、無造作な接近。女は虚をつかれ、一瞬棒立ちになった。

 薫は構えなかった。自然な姿勢で下していた腕を、女の顔面に向かって一直線に突き上げた。斜め下からの、溜めの一切ない、見えない一撃。女は見切れずそのまま顔面に受け、真後ろに倒れた。

「へへ、こういうのけっこう当たるんだよな」 

 日本拳法の縦拳に近いが、より実戦向きに昇華されている秘伝だ。六道会では、より速くという思想から、拳の当てどころが人差し指の根本とされている。


「オデッサ!! 通すな!!」

 コロラゼの呼ぶのに応え、オデッサが立ちはだかる。すぐ後ろにはリュシオスが倒れており、傍らにコロラゼが付き添っている。

「……ちっとは骨のあるやつが出て来たかな」

「お舐めじゃないよ!! 小娘が!!」

 オデッサは小柄で、他の女信徒達マイナデスよりも素早い。古参であり、時の為政者に迫害されることの多いリュシオスにずっと付き従って来たため、実戦経験も豊富にある。

 内実はともかく身のこなしや立ち居振る舞いから、オデッサが難敵であることを嗅ぎ取った薫。ちょっと離れたところで構える。


「――!?」

 間合いが遠いと思って油断していた様子のオデッサの眼前に、瞬間移動でもしたかのような速度で飛び込む薫。フットワークの軽い伝統派ならではの動きだ。

 薫は左前右後ろの構えだが、そこから前足である左足でオデッサの側頭部を蹴った。腰を入れることは出来ないが、柔軟性を生かしてスナップを利かせた。前足での蹴りは高度な技術であり、格闘技に精通していないオデッサの虚をついた。

「……!?」

 側頭部を蹴られ、よろめくオデッサ。 

 だが慌てて腕を振り回すようなことはしない。彼女にとっては焦るほどのダメージではないのだ。防御重視で受けに回り、回復を待っている。

 薫の追撃は、右の中段回し、左の順突き、右の逆突き――対角線を意識した連続攻撃を、しかしすべて防がれ、やむなく中段前蹴りを放って距離をとった。


「ちっ」 

 舌打ちする。不意を突いたのに倒せなかった。想像以上に手ごわい。

「――今度はこっちの番だよ!!」

 回復したオデッサが、左右に首を振ってから突っ込んできた――と思いきや、急停止し、ぐるりと薫の周囲を回るようにしながら後方から爪で足を払いにきた。

 薫は足をあげてそれを躱すが、バランスの崩れたところに追撃が来る。

 すべて足元。

「ぐっ……!!」

 跳んで逃れたが、オデッサはさらに食らいついてくる。

「めんどくせえやつ……!!」

「は!! デカいやつらはこれだからさ!! 下から攻撃が来ると思ってないんだから!!」

 オデッサは笑う。下段中心の攻撃は、慣れている人間でもかなり捌くのが難しい。下段への攻撃のない六道会においては、そもそも防御手段が存在せず、なおさら厳しい。


「くそ!!」

 苦戦を強いられる薫は苦しまぎれに下段蹴りを放つが、明らかに錬度が足りない。振り抜いたところを逆にオデッサの爪に引っかけられ、倒される。

「しまった……!!」

「――もらった!!」

 仰向けに倒れた薫の上に、オデッサが乗ってくる。爪で引き裂こうと力を籠めてくるのを、なんとか両腕で押し返す。腕力がぶつかり合い、互いの額に玉の汗が浮かぶ。

「――ちくしょう!!」

「ばあーっか!! 力比べであたしらに勝てるもんかよ!!」

 余裕のオデッサの表情が、しかし徐々に曇っていく。どれだけ力をこめて押し込んでも、薫の腕は抵抗を続ける。均衡を保ち続ける。ただの人間が、リュシオスの眷属たる自分に力で勝てるわけがないのに。

「なんだおまえ……!! なんで――」

「……ははっ。さすがはおっさんの力……かな」

 薫はぽつりとつぶやく。

「……なんだと!?」

「おまえらもあの金髪の加護を得てるのかもしんないけどさ。実はオレもなんだ」

「リュシオス様の加護だと……!?」

 オデッサの目が驚愕に見開かれる。

「あー。そいつじゃねえよ。未来のほうのおっさんだ」

 そしてなぜか、ごにょごにょと言いよどむ。

「……仮契約だからさ。別に最後までってわけじゃないんだけど……」

 気まずそうに顔を赤らめ、だがここが戦場であることを改めて思い出したように、慌てて表情筋を引き締める。

「と、とにかく!! 力比べでもオレは負けねえってことだ!!」

 オデッサの体を蹴り上げ、突き放すと、薫は勢いよく立ち上がった。

 オデッサはとんぼを切って着地すると、すぐに身構え、犬歯を剥き出しにした。

「わけわかんないこと言うんじゃないよ!! どうあれおまえは殺してやる!!」

「ふん。やれるもんならやってみな!!」

 瞬間、向き合う両者の眼前に、一本の矢が突き刺さる。

『――!?』

 同時に振り向くふたり。その視界を埋め尽くすような数の、膨大な矢が飛来した――。

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