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第24話「ドリームメイカー篇⑨。日本酒作りの工程について①。魔女の軟膏について①」

 ~~ケイン~~


 領主の館の前に集まった大勢の兵を目にして、ケインは気が遠くなった。

 総勢200人に及ぶ兵。というと大したことないと思われるかもしれないが、こと中世後期という時代においてはけっこうなものである。なにせイングランド王の集められる兵力が傭兵含めても一万そこそこといった時代だ。地方領主の小競り合い程度なら100人でも多い。それを着任したてでまだ人望も追いつかない若者のカリエスが、一晩で200人だ。騎兵は少ないが、歩兵、弓兵は充実、意気も軒昂。目を疑いたくなるのは無理もない。

 これにはいくつかの理由がある。

 まずは兵站へいたんを整える必要がなかったこと。兵站とは武器糧食など戦争の根幹を支える部分のことだが、想定される戦場が近所のため、ほとんどの兵が手弁当で参加することが出来た。

 次に報酬。敵領地の切り取りや生活部の略奪というプラスがないにも関わらず、カリエスが多額の報酬を約束した。特に敵兵を捕らえることで獲られる個人報酬が大きく、貧しい農民や町民がこぞって参加した。

 参加者の中にはリュシオスの宴で好き勝手に呑み食いしていた者もいたが、彼らはカリエスがどの程度までリュシオスを追い込むかをわかっていない。供回りの美女たちを捕らえ、あわよくばおこぼれに預かりたいという助平根性から参加している。


 うまい話は風のように広まり、行軍中にも増殖を続ける。いつの間にか300にまで膨れ上がった軍を振り返ったケインは、ただただ困惑を深める。

(これがあの領主の力なのか………)

 悪魔のような佇まいを思い出し、怖じ気づきそうになる。

 その気配は一兵卒にも伝わり、

「あの大将大丈夫かよ。真っ青だぞ……」

「騎士隊長さんはどうしたんだ?」

 などと余計な心配を煽る。

(いかんいかん。こんなことでは……騎士たる者、常に兵卒の模範たらねば……)

 顎を引き背筋を伸ばし、気を引き締める。

「――ケイン殿は、軍の指揮は初めてですかな」

「――!!」

 背中から冷水を浴びせられたような気分になった。もしくは刃を突きつけられたような。

 振り返るとコロスがいた。騎乗し、ケインの横に並んでくる。黒いマントにフードを目深に被った異様な風体は相変わらずで、周りの注目を浴びている。

「コロス殿……でしたかな。なぜこちらへ?」

「軍監ですよ」

「軍監……?」

「心配症なカリエス様から、ケイン殿の補助をするように仰せつかりまして。いえ、私は不要だと申し上げたのですがね」

 暗に、お前の指揮では不安だと言われている。

「ほう……そうでしたか。コロス殿もこう平和では退屈しのぎが必要でしょうから、せめてもの無聊ぶりょうになれば幸いですな」

 この暇人が、と言っている。

「そうなんですよ。カリエス様のお側付きはもちろん名誉あるお役目ですが、安定しすぎておりましてね。ケイン殿のような初々しい若者の指揮下で戦場を駆け回り、生死を賭けた戦いに挑めるならば、それは願ってもない無聊となりましょう」

「はっはっは。神を僭称する男と美女が数人では、いかに平和に飽いたコロス殿といえども楽しむ暇もないのではありませんかな。それとも旅芸人のように見事引き回し、好勝負を演出するおつもりか。さすがは旅慣れてらっしゃる。私には到底真似できません」

「……」

「……」

 ふたりはしばし黙り合い、同時に顔を背けた。

 

 やがて、眼下に妖魔の森を望む高台に到着すると、ケインは剣を抜いて振り向いた。皆はケインの動きに注目している。

(今は亡き仲間のために、悪漢の手に落ちんとしているナツーホ殿のために、騎士として、男として勝たねばならぬ!!)

 勢いよく剣を掲げた。

「行くぞ者ども!! 敵は恐れ多くも神を僭称する不届き者!! 生死は問わんが供回りの女共々なるべく傷つけずに捕えよとのご命令だ!! 戦果を上げた者には多額の褒賞が与えられる!! 勇ある者よ、名誉も金も、己の力で掴みとれ!!」

 コロスの冷笑は目に入らない。魔女たちの脅威も束の間忘れた。皆のあげるときの声の中に、ケインは身を浸していた。


 ~~夏帆~~

 

 まず米から麹を作る。麹と米と水を、時間をかけてかき回したりそっと休めたり温めたり冷やしたりして糖化から発酵を促す。そうして出来上がるのがモト、酒の元である。「一麹二モト三つくり」などという格言があるように、日本酒を作る上で最重要な工程である。

 走るための筋肉骨格を形成することもそれと似ていると、かつて真樹子が言っていた。粘り強く柔らかい足腰を作るためには、ひたすら練習するだけでなく身体のケアが大事なのだと。

 だが夏帆はそれを無視した。部の期待を一身に担っていた彼女は自分を追い込み、過度な走り込みを続け、膝を壊した。再建手術にはリスクがあり、下手をすると日常生活に影響が出ることもあり得る。メスを入れない保存療法を選択した夏帆は今も問題なく日常生活を送っているが、もう、あの時のように走ることはできない。


(でも今は……)

 やるしかないのだ。ケインが増援を率いて戻る前に、この事実をリュシオスに伝えるために走るのだ。

 夏帆は走った。この時代のイングランドの道は、当然のように舗装されていない。土がむき出しで、石も転がっており、走るのに適していない。水はけも悪く、「道で溺れて死人が出た」という記録があるのも冗談ではない。

 やがて広大な森が見えてきた。妖魔の森だ。そこまでは道も続いていない。

 夏帆は道を外れ、丈の短い草の上を、足をとられないように気を付けて走る。地面は柔らかく、踏み込んだ足裏を包んでくるようだ。

 クロスカントリー、あるいはトレイルランニングのようだった。いずれも陸上競技の言葉で、道なき野山を陸上のトラックに見立てて走ることを指す。シューズからして専用のものが必要だし、使う筋肉も異なってくるので練習したことは無いのだが、目線が変わって意外と楽しいかもしれない。

 雲ひとつない晴天だった。小鳥が囀り、野生動物の鳴き声が聞こえてくる。髪の毛先を風が弄り、頬を伝う汗を乾かす。万年杉のてっぺんが徐々に近づいて見える。

(ランナーズハイ……とか感じてる暇じゃないんだけど……)

 申し訳なくも、夏帆は走れることの感慨に浸っていた。クラレットの家から5キロは走ったか。まだこれぐらいなら大丈夫。風を切る幸せや、湧き上がる万能感に浸っていられる。

(夢の中だからかな。いつもより気持ちいい……)

 

『ドクムギ0.648g』


 妖魔の森に分け入ると、張り巡らされた根やこんもりと茂った藪のせいで走りにくくなったが、むしろ夏帆の心は高揚していた。軽やかに藪を避け、根を飛び越え、木の幹に手をついて方向転換していると、野山を駆け回っていた子供の頃に戻ったような気持ちになる。

(あん頃は若かったなー……)

 駆けっこで負けたのことのなかった夏帆にとって、走ることは喜びだった。手足を草で切り、シャツを破いて親に怒られても、それ以上の満足感があった。

 ぎゃあぎゃあと聞いたことのないような不気味な鳥の鳴き声がする。フーフーと野生の動物の鼻息が聞こえる。

 不思議と恐怖感はなかった。現代の日本ではない、人に害なす動物が生息している森だとわかっているのに、怖いという感じがない。


『ヒヨス0.648g』


 木の幹に矢が突き刺さっていた。傍らに血まみれの騎士の首なし死体が転がっていた。

 主のいない馬が所在無げに突っ立っている。

 そこかしこに死体があった。頭のない者も手足のない者もいた。鎧を引き裂かれ引き剥がされ、内臓まで綺麗に食われた死体もあった。そこへ蛆が湧き、カラスがついばみ、無残な亡骸を晒している。 

 夏帆は構わず飛び越えた。死体を踏まないように、血で滑らないように。


『ドクニンジン0.648g』


(これがケインさんの言ってたお仲間かなあ。可哀想に……)

 死への畏怖も、嫌悪感もなかった。初めて見た惨劇であるはずなのに、夏帆には恐れがなかった。

 いつの間に切ったのか、腕から出血していた。細い5センチくらいの切り傷。痛みはなかった。

 心の中の繊細な部分が何か別のもに支配されていた。それはランナーズハイとはまた違ったものだった。


『スベリヒユ0.648g』

 

 魔女の軟膏、といわれるものがある。怪しげな調合で作ったり悪魔から貰ったりした軟膏を体に塗り込み、箒に跨って空を飛ぶ魔女の目撃談が世界中に無数に存在する。魔女裁判の記録には、詳細なレシピすら載っている。

 冗談のレシピと侮ってはいけない。20世紀初頭、ドイツの薬理学者がレシピ通りに軟膏を作って被験者の女性に塗ったところ、その女性はいきなり昏倒し、長いこと意識を失った。起きた後は空を飛んでサバトへ行ったと語り、頑として曲げなかった。


『赤と黒のケシ0.648g』


 多くの実験例があり、また体験談がある。それらはひとつの事実を形作る。

 魔女の軟膏の原料のほとんどは、麻薬またはアルカロイド種の神経毒であり、厳然とした薬理効果が存在する。それは浮遊感や幻覚作用であり、時に人を死に至らしめると――。


『ことごとく油と一緒に混ぜ合わせ、最後に処女の血を加える。

 さすれば其は、神殺しの秘薬とならん――』


「――はあっ!!」

 息を吐き出す。

 一気に森を駆け抜けた。400mトラック程度に開けた万年杉の足元の空間に、十数人の人がいる。

 ひとりを除いて女性だった。どれも酒場で見た顔だ。彼女らはリュシオスを囲み、笑ったり歌ったり踊ったりと楽しそうだ。

「着いたー!!」

 夏帆は快哉を上げた。

 気持ちの良い汗が額を濡らしている。体が温まり、足も痛くない。このままどこまでも風を切っていけそうな感覚がある。轟々と、何か強烈な感覚が、身体の内側からこみあげる。

「なんだい、あんた。本当に来たのかい」

 足を緩めてリュシオスに近づくと、褐色の肌の女が立ち上がった。腰に手をあて、長身から夏帆を見下ろしている。

「あんなのはリュシオス様の冗談に決まってるだろうが。誰があんたみたいなちんちくりんを……」

「コロラゼ。通せ」

「しかし――はい」

 この前リュシオスに怒られたのが効いているのか、コロラゼは大人しくどいた。他の女性もそれに従う。モーゼのように夏帆の前に道が開く。


 しかし、夏帆は動かない。

 ――どくん。

 急に、心臓が強く拍動した。

(なんだ……?)

「よう。まさか走って来たのか? 風のように速い足の女だ。本当にアウラの生まれ変わりだな」

 しかし、夏帆は動けない。

 ――ずきん。

 胸が痛む。

「……どうした?」

 こめかみが脈打つ。視界が収斂しゅうれんする。手足がいうことを聞かない。もう……立っていられない。

「おい――」

 誰かが遠くで騒いでいる。横倒しに倒れた夏帆のもとに、リュシオスがやって来る。夏帆の体をひょいと持ち上げ、顔を覗きこみ――倒れた。


『リュシオス様!!』

 女性たちが駆け寄ってくる。

 口々にリュシオスの名を呼び、心配そうに介抱する。

 リュシオスは地に仰向けになり、苦しげに目を閉じている。呼吸は浅く、意識もない。


 打ち捨てられた夏帆に、すさまじい剣幕のコロラゼが迫ってくる。

「てめえ……!! リュシオス様に何をした!!」

(知らない……あたしは知らない……!!)

 首を掴んで持ち上げられる。息が詰まる。呼吸ができない。抗おうにも体に力が入らない。このままでは死んでしまう――。

「た――」

「あ?」

「助けて……教授せんせい……!!」


 ――パキィィィィィイイン。

  

 音叉を強く引っ叩いたような音とともに、空気がひずみ、引き裂け、広がり、閉じた。

 脳髄に響く音だった。誰もが耳を押さえしゃがみこんだ。

 コロラゼは手を離し、夏帆は重力に従って地面に落ちた。


 夏帆の狭い視界の中に、ふたりの人物が立っていた。

「教授……!!」

 夏帆の頬を涙が伝う。ずっと会いたかった人がそこにいた。

「待たせましたね。夏帆くん」

 酒神が頭をかいている。

 その後ろから、ひょこりと薫が顔を覗かせた。

「よう。夏帆。ご機嫌な状況みたいだな」

 気軽に挨拶をしてくる。

「薫ぅ……」

 痺れた感覚の中で、ただ喜びと安堵感だけが存在を主張している。

「なんだおまえら……」

 コロラゼが警戒感も露わに夏帆と酒神の間に立ちはだかる。

「……これはこれは。いやあ、おひさしぶりですね。コロラゼくん」

 照れたような顔をする酒神。

「あ? なんだてめえ、なんであたしの名前を……」

「まあまあ、おっさん。ここはあたしの出番だろ」

 ずずい、と薫が進み出る。白い薄手の空手着。黒帯には六道会りくどうかいの刺繍。

「……なんだい、あんた」

「そこの娘の友達さ。あんた、オレの友達を可愛がってくれたみたいだねえ」

「はあん?」

 コロラゼが目を細める。

 薫は手をすっと伸ばし、くいくいと動かし「かかって来い」のジェスチャーをする。

「拳サポ無しで本気でぶん殴っていい喧嘩なんて久しぶりなんだ。楽しませてもらうぜ――」

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