第20話「ドリームメイカー篇⑤。ワインの呑み方①。酒の糖質①」
中性脂肪は有酸素運動で燃やすしかないんですよ……(遠い目)。
頬に感じるちくちくとした感触で目が醒めたが、具合が悪くて動けずにいた。頭がガンガンと傷み、内臓全体を重いしこりのようなものが覆っている。身体中がむくみ、痺れるような疲労感を伴い、考えることすら億劫だった。
枕元を誰かが走り回るような感触が何度もあった。甲高く大きな声で騒ぎ立て、その都度誰かが注意していた。
「うう……」
不満の声は言葉にならない。喉が渇き、乾いた舌が上顎に張り付き、ただの呻きにしかならない。
スポーツドリンクのようなものがあればいいなあと思ったが、当然期待できなかった。なにせここは……。
ぱちりと目を開けると、女の子が夏帆の顔を上から覗き込んでいた。年の頃なら10歳くらいか、金髪で碧眼で、ショーケースに入れて飾っておきたいくらいに可愛らしい人形のような子だった。
「大丈夫? ナツーホ」
「え、うん。あなたは……ここは……」
「あたしはフロールだよっ。ここはデスターの街だよ!」
にっこにっこと満面の笑みを浮かべながら、女の子――フロールは答える。
その家はテムズ川沿いにあった。土壁と藁葺きの貧しい家だ。大きな木箱に干し草と藁を詰めたのがベッドで、夏帆はそこに寝ていた。他には台所と小さなかまどがあり、長机があり、腰掛け兼衣装入れの長持ちが2つあった。外には物置があり、農工具類はすべてそこに入っていた。菜園や家畜小屋の類は無く、領主のものを手伝い、代わりにいくばくかの給金と分け前を貰って暮らしていた。日本でいうなら小作人の家である。
「よろしくフロール……やっぱりデスターの街……なんだよねえ」
「うんっ」
はは……、と夏帆は引きつり笑いをした。
目が醒めればすべて解決、なんていうのはさすがに甘い期待だったのだろうかと、ちょっと暗い気持ちになった。
(でもしょうがないよねえ……こんなの……)
中世イングランドに飛ばされて帰れないなんて、誰が想像つくだろう。答えを夢想の中に求めて何が悪い。
「フロール! だめだろ!」
「わあ、お兄ちゃん!」
水桶を抱えた男の子がひとり入って来た。年の頃も見た目もフロールにそっくりだ。いかにも天真爛漫、といったフロールに比べるとしっかりして見えるのはお兄ちゃんだからか。
「酔っ払いにはこれだろ、ほら呑みな!」
水桶から木のコップに水を注ぎ、さらに赤ワインを足した。
(う……迎え酒……)
先にも述べたことがあるが、迎え酒の効能というのはただの誤魔化しである。痛覚を鈍くすることで一時は痛みを忘れることができるが、その場しのぎであり、けっきょくはアセトアルデヒドの増加を促すだけ。
(生水とかは……だめなんだっけ……)
海外旅行にいった時に、生水だけは飲むなと誰かがいっていたのを覚えていた。この時代のイングランドにおいてどうなのかはわからないが、やめておいたほうが無難かなと夏帆は思った。これ以上苦しさの上塗りはしたくない。迎え酒の方がまだましだろう。
「いただきます。ありがとう。えっと……」
「アルだよ。おれはアル。よろしくナツーホ」
アルはにかっと笑った。隣でフロールもにこにこしている。
「よろしく、アル」
ふたりの無邪気な視線に背中を圧されて、夏帆はおそるおそるコップに口をつけた。
「……ん」
『ん?』
水で割ったワインは、適度にアルコールが薄まり、むしろワイン風味のミネラルウォーターに近い味がした。味が薄いには違いないが、なるほど常時の飲料としても、二日酔いの朝にも適しているように思えた。
――古代ギリシアでは、ワインを水か湯で割って呑むのが主流だった。むしろ生のまま呑むのが異質だった。これには当時の敵性民族であるスキタイ人の呑み方を野蛮なものだとみなす考えが根底にある。
一方で、未発達な醸造技術のせいでもある。初期のワインはドロドロとした濁り酒のようなもので、含まれる糖分が異常に多かったので割らずには呑めなかったともいわれている。
保存方法の難もあげられる。当時の保存方法はせいぜい素焼きの壺に溜めておくぐらいのもので、つまりは端から水分が蒸発して、自然に濃縮されてしまうからだ。
また、水を常用の飲料にすることができない国においては、子供の頃から酒を呑む習慣があるが、これもアルのやったような、水にワインを添加する、といったような呑み方で呑むのが普通である。
現代の日本人の考え方からすると奇妙に思われるかもしれないが、ワインの水割お湯割りりというのは世界的にはむしろ一般的な呑み物である――
「……あー、いいかも」
夏帆の良反応を引き出せたことで、ふたりは顔を見合わせ、とびきりの笑顔を浮かべた。
「やったねお兄ちゃん!」
「おう!」
わいわいきゃいきゃいとかしましいふたりのやり取りが脳に響くものの、とりあえずは飲み物を飲めて人心地ついた夏帆は、次に空腹を思い出した。
夏帆を長持ちに座らせたふたりは、
「ナツーホ、パン食べるー?」
「肉もあるぞ。香辛料を使った最高のだぞ」
「ばかばかっ、お兄ちゃん! 野菜も食べなきゃだめなんだよ!」
「えー、そんなの女の食うもんだろ?」
木皿に盛られた料理を出してくれる。どこかで見たことがあると思えば、昨夜酒場で供されていたものだ。クラレットが持って帰ったのか、なかなかしっかりしている。
「そういえばクラレットは?」
「わたしはここさー」
タイミングよく、クラレットが外から戻ってきた。
「アル、フロール。うるさくしてなかったかい?」
「あったりまえだろ姉ちゃん!」
「あったりまえだよ姉ちゃん!」
クラレットの視線が夏帆に向く。
「……あー、うん。きちんと面倒みてくれたよ?」
にやーっと笑うと、クラレットはふたりの頭をがしがしかきむしるように撫でた。
「よしよし、よくぞできました我が子分どもよ」
「痛いよ親分~」
「いた~いっ」
逃げようとするふたりをむりやりかいぐりするクラレット。髪の色も瞳の色も異なる3人は、とても兄弟姉妹には見えない。
「ここはクラレットの家なの?」
「親分の家だよ~」
「山賊じゃないんだから親分はやめなっ」
「自分が親分って呼べっていったんじゃないか」
「冗談に決まってんだろ!」
「はは……」
短い間だがクラレットと接した感じからして、たしかに悪人には見えない。服を用意してくれて寝床まで用意してくれて、おそらくは人生最大の醜態をさらしたうえでなお笑顔で接してくれる、素晴らしい人だ。
「ありがとうねクラレット。あなたがいなかったらあたし今頃どうなっていたか」
面と向かって礼を言われるのが照れ臭いのか、クラレットは頭をかいてそっぽを向いた。
「よしなよ、こっぱずかしい」
「親分照れてる?」
「照れてる照れてる~」
「あーもううるさいねあんたらはっ」
クラレットが殴るふりをすると、ふたりはきゃーきゃー悲鳴を上げながら逃げて行った。
「ほんとに仲良いね」
「親無し同士の腐れ縁さ。あいつらが物心つく前から一緒にいるんだから、親代わりみたいなもんでさ。ほら、食べなナツーホ。あんたひょろひょろしてんだから、もっと食って肉つけないと」
「うう……肉はつけたくないんだけど……」
ただでさえ最近は酒を呑むようになって太り気味なのに。
「あの子らに気を使ってるんなら余計だよ? あいつら昨夜も今朝もたらふく喰ったんだから」
「気を使ってるわけじゃないんだけど……」
――アルコールは太る。
というのは間違いである。エンプティ・カロリーと言われているくらいで、アルコールそのもののカロリーはすぐにエネルギーとして消費され、肥満には直結しない。
問題は酒に含まれる糖質である。消化吸収された糖質は血糖に変化し、高まった血糖値を下げる為にインスリンが分泌される。このインスリンが、エネルギー化されずに余ったブドウ糖を中性脂肪に変えてしまうという性質を持つ。
ビールやワイン、日本酒などの醸造酒は、この糖質を大量に含んでいる。
ビール100g中には3.0g。赤ワインには1.5g。白ワインには2.0g。日本酒には5gの糖質が含まれる。一方、ご飯には茶碗1杯150g中に37.0g含まれている。ビールのロング缶500mlなら15.0gだから、カロリーは考えないにしても、2缶呑めばそれは茶碗1杯分のご飯の糖質を摂るのに匹敵するというわけで、これは太らないわけがない。
逆に焼酎、ウイスキーなどの蒸留酒は逆に糖質を含まないのでそれだけ呑んでれば太らないのだが、当然というか、酒呑みに通じる理屈ではない。
余談だが、筆者は日本酒の旨さに開眼したある年の1年間、ひと月一升瓶6本ペースを保ち続けたことがある。その時は中性脂肪が80から200へと激増して、さすがに生命の危機を感じたものだが、その道の先達はもっと酷い量を呑んでも平気な顔で生きているので、存外大丈夫なものなのかもしれない――
もちろんレンジなどないし、温めるだけのためにかまどに火を入れるのもあれなので、夏帆は冷えた食事に口をつけた。
鶏肉の香草焼き。ニシンの塩漬け。川魚の塩焼き。カブとキャベツと豆のサラダ。黒パン。昨夜と同じ顔触れで、あげく冷めきっているので旨さは半減している。当時の食事は保存の意味でも塩や香料が大量に使われているのでいちいち味付けが濃く、二日酔い明けの胃にはきつくもたれる。
(温かい味噌汁が欲しいなあ……。しじみなんか効くよねえ……)
胃袋から里心を感じている夏帆。クラレットはとりあえず食べだした夏帆の様子に安心したようで、自分自身もパンをかじり出した。
アルとフロールが戻ってきて、
「あー、自分達だけずるい!」
「ずるーい!」
と騒ぎながら共に食卓についた。
「あんたらもっと綺麗に食いな!」
手づかみ、取り合い、げっぷ、口に物を入れたまま喋る。まるっきり作法のないふたりの食事の仕方に文句をつけるクラレット。
「えー、親分だってー」
「おいフロール! 見ろ見ろ!」
指差された夏帆は、パンを可愛くちぎって食べている。他の料理も基本手づかみはなしで、器用にナイフを使って食べているので汚れというものがつかない。口の周り一杯に食べかすや汚れをつけたふたりにはそれが信じられない出来事のようで、一緒に目を丸くしている。
「あんな酔い方してるのに、夏帆はいいところのお嬢様なの!?」
「ねー、あんな酷かったのに!」
「うう……傷つくなあ……」
「あんたらぁ~……!!」
クラレットが怒鳴り散らして、ふたりが騒ぎ返す。そんな日常が垣間見えるようなやり取りが楽しくて羨ましくて、夏帆は笑いながら寂寥感を感じていた。




