第19話「ドリームメイカー篇④。バッカスについて④。アルコールの致死量について①」
一気呑み。短時間の多量飲酒は避けましょう。
お酒は楽しく美味しく呑みましょう。
夏帆が中庭を歩くと、周囲の目が集まってきた。東洋人が珍しいのか、あからさまな好奇の目線だった。わざわざ正面まで回り込んで顔を覗きこまれ、口笛を吹かれたりしたが、夏帆は相手にしなかった。むんと気合いを入れ肩を怒らせ、粗野で野婢な反応のすべてを無視しながら、大テーブルに着くリュシオスの前に立った。
女性に囲まれていた。人種も年齢も様々な美女たちが、胸元をはだけ太股をむき出しにし、左右から後ろから密着している。胸板にしなだれかかり、首ったまにかじりつき、膝に尻を乗せている。現代の「彼」よりも大分細く小柄なので、その様は「囲まれる」というより「埋没している」といったほうが語感としては正しかった。
若き日の「彼」は、女に埋没していた。
「…………」
だからといって、別にどうということはない。誰が誰とイチャイチャしていたからといって、そんなことは夏帆に関係のないことだ。まして、相手は人間じゃない神様なのだ。女のひとりやふたり、ふたりや3人、3人が4人。……10人はいるだろうか。
「座んな」
リュシオスが指図すると、彼の太股に腰掛けていた女性がすっと離れた。周りの女性も一斉に距離を置いた。
しかし夏帆は腰に手を当てリュシオスをにらみつけたまま微動だにせず、不思議な間が空いた。
「……躾が行き届いてますこと……」
低く、地を這うように低くつぶやく。
「?」
皆、不思議そうな顔をしている。
その場にいる誰もが、夏帆の内心を理解していなかった。なぜこの娘は神の下知に従わないのか。緊張している様子でもなく羞恥に悶えるでもなく崇め奉るでもなく、まるで人間の知人にそうするように怒りにうち震えているのはなぜなのか。
もちろん理解できるはずがなかった。夏帆の来歴は奇異にすぎた。
夏帆はどしんと勢いよく対面の椅子に腰を下ろした。
リュシオスは肩をすくめ、席を空けていた女性たちは互いに顔を見合せた後、くすくすと笑いながら元の位置に、リュシオスの側に戻った。
「――ちょ、ちょっとあんた」
クラレットが焦った様子で夏帆の腕を引き、小声で囁く。
「……なんでそんなに喧嘩越しなんだい?」
「……知らない」
「聞きたいことがあるんじゃなかったのかい?」
「……知ってる」
「だったらさ……もう少し……。せっかくの機会なんだから……」
辺りをはばかるクラレット。それはつまり、「いい機会だから気に入られるように」という意味だ。夏帆の嫌いな「大人」の言い回しだ。
「――知らない」
夏帆はかぶりを振ると、女性たちがふたりのために運んできた大ジョッキを両手で掴んで持ち上げた。半ガロン(2ℓ強)、つまり現代のいわゆるピッチャー(店舗によって差はあるが、大体1.8リットルくらい入る)よりも容量が大きいど迫力のそれを、ぐいぐいと呑み始めた。エールの軽やかな炭酸が喉元を通り過ぎる。溺れそうになるほどの圧倒的な水量が、身体の中に流れ落ちてくる。そこにもはや旨さはない。
――アルコールの半致死量は、血中アルコール濃度にして約0.4%~0.5%くらいといわれている。体重約50kgの人間の場合、度数8%のアルコール飲料を2100ml呑むとちょうど0.4%に達し、半数が死亡する。60㎏なら2500ml。70㎏なら2950ml。もちろん個人差はあるし、アルコール処理能力を考えずに行った計算だが――
「ちょ、ちょっと……」
クラレットが青くなり、女性陣が盛り上がり、リュシオスは口笛を吹いた。
「そんなに一気に呑んだら……」
ドン! 夏帆は大ジョッキを置くと、口元の泡を拭った。
「――はあっ」
炭酸のこもった息を漏らす。大ジョッキの中は、見事空になっていた。
「……!?」
くらっ、夏帆の頭が揺れた。
「ナツーホ……?」
「あーはっはっ! やるじゃないか。なあクラレット、面白いのを連れて来たな」
手を叩いて面白がるリュシオス。はらはらと心配気なクラレット。
夏帆は真っ正面からリュシオスの目をにらみつけた……つもりだったが、目の焦点が合わなかった。力を入れているつもりが、力が入らない。背筋を伸ばしていることができない。なんとかテーブルに腕を置いて支えにした。
こめかみが脈打つ。体が熱い。視界が回る。脈動する血管の中を、粘性を帯びた液体が這い進んでいるような感覚がある。
――酔いには、いくつかの段階がある。一気呑みの怖さは、間をすっ飛ばしてバイタルサインも無視していきなり高度の含アルコール状態になることだ。
夏帆は爽快期・ほろ酔い期・酩酊初期・酩酊期・泥酔期・昏睡期の6段階の、酩酊期と泥酔期の間にいた。理性をつかさどる大脳新皮質の活動が鈍ることで、抑えられていた大脳辺縁系の活動が活発になり、本能や感情が先行している。小脳まで麻痺が広がり、運動失調、いわゆる千鳥足状態になっていてまともな身動きがとれない。海馬が麻痺し、今やっていることや起きていることを記憶できない記憶喪失状態になっている。
録画映像で例えるなら、不鮮明な画質で過去のイメージが延々と流され、それは時折中断したり巻き戻したりし、挙句の果てにはその挙動を覚えていないという状態だ――
「ちょぅっとぉ、くぅっつきすぎじゃないれすかあぁ……!?」
呂律が回らない。思考が回らない。口をついて出るのはただひたすらに不満ばかりだ。
「さぁっきから見てればよう、美人さんらとべったべたべたべたぁ!! 生徒を前にして何してんですか恥ずかしくないれすかぁ!? いつもいつもいつもいつもいつもいつもあたしの前でぇ、同じことを繰り返してぇ、まぁったぐ人の気持ちも知らないでぇ……!!」
「ん……、お、おう……?」
「じょーそー教育ってもんをどう考えてんですかぁー!! いんやしくも聖職者たる者ぉ、常にぃ、生徒の目を意識すべきでしょうがぁー!! いやそうでなくて!! そうではないんだども!! ああもう!! なんだでば!!」
論点がどこかへ行ってしまって、しかもそれは容易には戻ってこないほどの遠くで、夏帆はイライラして頭をかきむしった。
「リュシオス様、ナツーホはさ」
クラレットが夏帆の肩を抱き、フォローに入る。
「何か、あんたに頼み事があるらしいんだ。だけどうまいこと言えなくて、死ぬほど不器用なもんだから、こんなになっちまったんだ。悪気はないんだよ」
だいたい合っているのが、見透かされているようで悔しい。
「ほら、ナツーホもさ。落ち着いて、ゆっくりと、お願いしてみな」
動物にするようにドードーとなだめられ、話をするように促され、夏帆は一語一語ゆっくりと、つっかえながらも言葉を紡いだ。
遥か先の未来から夏帆は来た。その未来にはリュシオスもいて、他にもいろんな女性が彼の周りにはいた。その生活態度をひとしきり責めて机を叩いて――脱線した話を戻すまでにまたひとしきり時間がかかった。ドリームメイカーとその効果を話終わるまでに、リュシオスは大ジョッキを一杯呑み干していた。
「な、長い……」
「やっと終わった……!!」
「よくわからんけど面白かった!!」
「いいぞ姉ちゃーん!!」
聴衆の間から悲喜こもごもの声が漏れる。
夏帆を何かの語り部と勘違いして、拍手をおくる者もいたりする。
「へえ、未来の俺は東の果てに住んでるのか」
リュシオスは興味深気にうなずいた。ひとりだけ微動だにしていない。
「しかし俺もまた何が悲しくてそんな僻地に……。遊蕩生活に飽きがきたってところか? さもありなんだが。んで、夢見の魔酒を呑んじまったお前は帰るに帰れないと。たしかに、酒のことなら俺の出番だ」
「……信じるんれすか。こんた話……」
意外にあっさりと受け入れられたことに、夏帆は驚く。
「怪力乱神で荒唐無稽。神に供する酒の肴にゃそれぐらい壮大な話の方がふさわしいだろうよ」
「……バカにされでる気がする……」
「バカにしてんのは、それが何かもわからずに呑んだこと自体だな」
「くっ……」
夏帆が詰まると、リュシオスは愉快そうに笑った。
「呑んだことのない酒を前に我慢できないのは酒呑みの本能だ。その気持ちは大いにわかるさ。バカには違いねえが。未来の俺は面白えのを連れてるじゃねえか。気が強くてバカでよ」
「バカバカいうなこの……!!」
夏帆はクラレットの制止を振り払い、苦労して大テーブルの上に這い上がると、酒杯や料理をなぎ倒しながら四つん這いの恰好でリュシオスの胸ぐらをつかんだ。酔客たちが盛り上がる。囃し立てる。
リュシオスは余裕を崩さず、逆に夏帆の顎を指で摘んだ。
「な、なにすんだ……!?」
「ふーん……垢抜けねえ田舎くせえ小娘だがまあ、好みのタイプのじゃじゃ馬だ」
「こ、この……!?」
「――いいだろう。おまえ、俺の一行に加われ」
「……は?」
どっと周囲が沸く。クラレットが口元を手で押さえ、「ナツーホ!!」と歓喜の声を上げる。
「……何だそえ。どういうごどだ?」
「……あ? ああそうか……おまえ未通女か」
「おぼこ……?」
本気でわからない夏帆。
「ナツーホ。リュシオス様の一行に加わるってことはさ」
クラレットが助け舟を出す。胸に手を当て、目をキラキラさせている。
「リュシオス様の伽をして聖婚の儀式を行い、妻となるってことだよ」
「…………………………………は?」
「ナツーホといったな。おまえを俺の女にしてや」
「――はあぁああぁああああぁああ!?」
夏帆は酒場中に轟くような大声を上げ、酔客の注目が集まる中、思い切り、音高く、リュシオスの頬をぶった。
「――バカこぐでねえ!!」
~~リュシオス~~
クラレットに引きずられるようにして酒場を後にした夏帆を見送るリュシオス。ぶたれた頬が赤くなっているのを、お付きの女が気遣わしげに撫で擦る。
「……大丈夫ですかリュシオス様?」
「はっ。小娘にぶたれたくらいで騒ぐなよおまえら」
「しかし……」
女は不満気に口を尖らせた。
――女と言ってもただの女ではない。女信徒だ(複数形はマイナデス)。バッカス付きの女信徒は美しいが奔放で凶暴で、空を飛ぶように地を駆け、野生の獣を素手で引き裂くほどの腕力を持つ。
時のマイナデス筆頭はコロラゼであった。チョコレート色の肌に黒髪黒目。奴隷商に手酷い扱いを受けていたところをリュシオスに拾われた。忠誠心が高く、攻撃的な女である――
「リュシオス様のご指示あらば、すぐにも引き裂き、生きたまま喰らってくれましょうぞ」
リュシオスの首に息を吹きかけ、妖艶に囁く。
「コロラゼ。俺に意見するか?」
「……!!」
リュシオスの様子に特段変化は見られない。だがコロラゼの反応は劇的なものだった。
「――出過ぎた真似を致しました。何とぞご容赦を……!!」
リュシオスから離れ、地に平伏して詫びる。
瘧のように体を震わせ、冷たい汗を流している。
マイナデスは笑顔のまま、コロラゼの無様を眺めている。誰かの失態は自らの序列に繋がる。そこに同朋意識は無い。
「よい。気にするな」
あくまでリュシオスは鷹揚だ。
彼は機嫌が良かった。
夏帆のような女にはひさしぶりに出会った。神を神として扱わない、媚びへつらいを感じない、気持ちのいい女だった。マイナデスは美しいが、忠実すぎて物足りない。
「いーいじゃねえか。酒の神を差し置いてまで魔酒を醸したのが何者なのか、この目で確かめてやる。その正体は果たして神か魔か? 巨人に妖精、英雄に魔女? 誰だっていい。気の強いバカ女ごと、まとめて面倒見てやらあ」
からからと笑うリュシオス。その表情には余裕と精気が満ちている。
バッカスは、庶民に親しまれる酒の神であると同時に戦いの神でもある。古き書によれば、彼は神と戦い、巨人族と戦い、海賊と戦った。かの有名なアレキサンドロス大王は、自らをバッカスに比した。彼の偉業がバッカスの神話に加えられることすらあった。故に、バッカスは征服者、戦乱の平定者という相を持つ。父神ゼウスいわく、世界の王でもあるという。
彼は滾った。猛り吼えた。
永遠の宴? どこまでも続くハレの日? そんなものには飽き飽きだ。
我に血を!! 勝利の栄光を!!
未来から送り込まれた騒動の種など、何ほどのものがあろうか!!




