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第18話「ドリームメイカー篇③。バッカスについて③。中世のアルコールについて①」

中世のグルートビールはさすがに呑んだことがないので、キリンが再現したものを参考にさせていただきました。

 ……認めざるを得ない。

 夏帆はどうしようもなくそう思った。

 目の前の光景である。

 八王子ではなかった。現代でもなかった。

 15世紀イングランド。ロンドンとレディングの中間の、テムズ川河畔の街に「オールドドラゴン・イン」はあった。

 3階建ての酒場兼宿屋で、広い中庭を囲むように宿屋が建てられていた。中庭は馬車の通り道であり、そのまま奥の馬屋に通じていた。中庭には他にもいくつものテーブルが並べられており、すべての席に酔客がいた。傍らでは大道芸人が芸をし、歌唄いが歌を唄っていた。大人たちの足元を犬がうろつき回って、おこぼれにあずかったりしていた。中庭を見下ろすように2階席、3階席があった。それらは宿の個室のベランダでもあった。

 空は暗かった。おそらく夜だろう。

 明かりはもちろん電灯ではなかった。イグサの茎を芯にした獣脂ろうそくに火が灯されていた。

 寒さは感じなかった。春めいた暖かい空気で、Tシャツにホットパンツに素足、という格好の夏帆にはありがたかった。

 うわああぁああぁん。

 乱痴気騒ぎが反響して、場全体を覆っていた。誰もが酔い、喰らい、唄い、笑っていた。貧しい身なりの者もいれば、高貴な出で立ちの者もいた。鎖帷子を着た兵士風や、修道士もいた。位も境もなく、皆一様に宴を満喫していた。

 言葉は英語だった。何故か夏帆にもすべて理解できた。すべて聞き取り、また話すことが出来た。テーブルに刻まれた文字も読解することが出来た。英語が大の苦手で、中・高と教師が目を剥くような成績を上げてきた夏帆をして、である。


 ……認めざるを得ない。

 苦々しくもそう思った。

 酔客の服装は様々だった。男性は麻のズボンにウールのチュニックという者が多かった。女性はチュニックのワンピースを着ていた。異臭を放つボロ布を纏っているのは貧民だろうか。鎖帷子を着けているのは兵士のようだった。上流階級の者はビロード生地の服を着ていた。マント着用の者もいた。

 当然、現代人丸出しの夏帆のような服装の者はいなかった。2階席で目立ないのが幸いだった。

 床は木製だった。とても掃除が行き届いているようには見えず、食べかすや得体の知れない液体があったりして、素足の身には厳しかった。丸テーブルの脚に載せたが、どこかへ行くには降ろさねばならず、それを考えると憂鬱になった。

 丸テーブルの上には所狭しと料理が並べられていた。席がもうひとつあり、そこには誰も居なかった。

 呑み物は錫の酒杯ゴブレットに入っていた。300~400mlくらい入るだろうか、人によっては半ガロンほども入る木製の大ジョッキ(タンカード)を持っている者もいたので、この大きさで良かったと胸を撫で下ろした。

 中身はエールだった。要はビールの一種だが、日本人の想像するような黄金色のピルスナーではない。泡が少なく、色も明るい琥珀色だった。

 15世紀ヨーロッパにおいては、すでにホップを使ったビールが流通していた。だがイングランドにおいては、後の時代まで、ホップビールではなく、薬草や香料を混ぜたグルートビール=エールの愛好者が多かった。

 他に呑まれていたのは、蜂蜜酒ミード林檎酒シードル、輸入物の葡萄酒ワインである。イギリスといえばウイスキーのイメージが強いが、この当時、ウイスキーは主流ではなく、未だスコットランドやアイルランドの地酒にすぎなかった。

「おおう……これは……」

 エールは保存の意味もかねて、アルコール度数が高かった。8度くらいあり、現代のビールの感覚で呑んだ夏帆は衝撃を受けた。味は炭酸が薄くまろやかで、ハーブの香りが強烈だった。ビールというよりは、ビールベースのカクテル、というほうがぴんとくる呑み物だった。

「んー……すごい」

 そのままだと酔いの回るのが早いかなと思い、テーブルの食事に目を向けた。

 西洋ナシに林檎などの果物類。長方形に切り分けられたチーズ。鶏肉の香草焼き。ニシンの塩漬け。川魚の塩焼き。カブとキャベツと豆のサラダ。黒パン。

「豪勢……なのかな? 基準がわからない……」

 つぶやきながら、フォークが見当たらないのでナイフでチーズを突き刺した(フォークを食事に使う、という習慣がイギリスに根付くのはもっとずっとあとのことだ)。

 見渡せば、他の卓の客は料理を手づかみしてかぶりついていたが、真似する勇気は無かった。夢の中であっても夏帆は文明人であり、女の子の端くれだった。


 ――そう、ここは夢の中なのだ。

 つねれば痛いし、食べれば旨いし、酒を呑めば酔いもする。でも夢なのだ。きっと。たぶん。


「おーう! ナツーホ! やっと目が覚めたみたいねー! 心配したよー!」

 部屋の中から、女がひとり顔を出した。20代半ばくらいの西洋人だった。薄い赤葡萄酒のような色の髪を背中まで伸ばしていた。吊り上がった緑色の目から生気が溢れてくるような、元気な女性だった。名をクラレットという。夏帆が「こちら」で初めて知り合った人間だった。


「揺すっても起きないし、寝言で『センセーのバカー!』て繰り返してばかりでさー!」

「そ……あたしそんなことを? ごめん……」

「あはははーっ。いいってことよ! 気にすんな!」

 クラレットはひたすら陽気に笑って、夏帆の肩をばんばん叩いた。 

 力が強い上に加減も遠慮もないので、夏帆は涙目になりながら「痛い痛い」と繰り返した。


「ね、ねえクラレット……ところで『ここは』いったいどこなの……?」

 夏帆の根源的な問いに、しかしクラレットはきょとんとした顔になった。

「やだなー。起きてる時に言ったろー? それとも呑み過ぎで覚えてないのかー? ここはロンドン! の外れの外れの外れ! 大テムズ川のほとりに咲いた一輪の可憐な花! デスターの街さー!」

「どこだそこは……」

 夏帆はテーブルに突っ伏してうめく。

「と・に・か・く! もうすぐ解放する者(リュシオス)様がいらっしゃるってことで、みんな大盛り上がりなのさのさ! ナツーホも難しいことは忘れて昔の男のこともなんもかんも忘れて楽しみなー!」


「や、ちょ……む、昔の男とかいないし……」

 目を逸らして赤くなった夏帆のリアクションにぴんときたらしいクラレット。

「おっ、いい反応。じゃあ愛しいひとかい? 愛しい男がいるんだろ? センセーってのがそいつなんだ。図星だろう?」

 クラレットが椅子を夏帆の隣に引きずり寄って、肩を組んでくる。体が密着し、大きな胸がぐいぐいと押し付けられる。

「や、その……」

「白状しちゃいなよ」

 耳に当たる微かな湿気を帯びた艶めかしい囁き声に大人の女の色気を感じて、夏帆は気恥ずかしくなってうつむいた。


「うー……その……えー……」

 なんとも返せず黙っていると、中庭のほうから一際大きい歓声があがった。

 クラレットがベランダの手すりに手を突いて下の様子をうかがう。その頬がぱっとバラ色に染まる。

「ほら来たよ! ごらん。リュシオス様だ。あの人に比べりゃ、この世の他の男なんてゴミみたいなもんさ。ナツーホも、あの人を見たらセンセーのことなんて忘れちまうさ!」

 クラレットの隣に並び立って階下を窺うと、周囲に美女たちを従えた少年が、中庭に入って来たところだった。

「ああ……」

 立ちくらみがして、へなへなと尻餅をつきそうになった。

 ……薄々感づいてはいた。そうであればすべての辻褄が合うことも。彼の周りのごたごたが示唆することも。だけど認めたくなかったのだ。

 なぜかといわれれば答えは無い。夏帆自身にもわからない。

 

「あの方がリュシオス様さ」

 光放つ王冠を被っているような、金髪の少年だった。年の頃なら14、5くらいか。彫りが深く整った顔立ちをしている。若く自信に満ち、傲岸不遜な雰囲気がある。現代の「彼」とは違う。

(でもたぶん……)

「…………またの名をバッカスとか言ったり?」

「そうだよ。なんだ知ってるじゃないか」

「いやというほど……」

 と応えたが、実はそれほど知らなかったことを思い出す。遠い遠い過去の話。酒神がどうやって生きてきたのか。その来し方を、夏帆は知りたかったのだ。

 ドリームメイカー。夢見の魔酒。

 見たいものを見せる酒。

 本当にそんなものがあるならと一気にあおった結果がこれだ。


「なんとしたら戻れるんだべ……」

「?」

 首をかしげるクラレットは、何を勘違いしたのか、「はは~ん。ナツーホもリュシオス様の一行に加わりたいんだな?」と見当外れのことを言う。

「え? 一行?」

「そうさあ。酒場から酒場へ。アイヴィーから蔦へ。リュシオス様は世界中のあらゆる酒場を巡り歩いてらっしゃるんだ」

 夏帆は知らないことだが、蔦はバッカスの頭を飾る花環であり、同時に酒場の看板のモチーフとしても有名なのだ。

「眠ることのない終わりの来ない、永遠の宴さ。その一行に加わることは、酒呑みにとって至上の名誉と言われてるんだ」

「永遠の……宴? お金は?」

 現実的な夏帆の指摘を、しかしクラレットは笑い飛ばす。

「誰が神様からお代をいただけるもんかね。リュシオス様の一行をお迎えした名誉がいただけりゃ、お釣りがくるってもんさ」


 宗教の主神になったり、国の主神として祀られたり、バッカスは人々にとって近く親しい神であった。リュシオスという名は、人々の心の枷から解放するという意味でつけられた。


「名誉……?」

 夏帆は卓上の食べ物や呑み物を眺める。

「そうさ。これらは全部、店主の取っ払いだ。でなきゃ、こんなに誰しもが豪遊できるもんか」

「うむむ……」

 言われてみれば、客層と供された料理が釣り合わないような気もする。明らかな貧民も富貴なる者も、ここでは等しく平等だった。

(どこまでも続く平等な宴……そこでは飢えに悩むこともなく、苦役を課されることもない。いつまでも笑って、語って、むつみ合っていられる……)

「いつまで……?」

 ふと恐ろしい疑問にかられて、夏帆はクラレットの横顔を見る。クラレットはリュシオスから目を離さず、薄く笑った。

「死ぬまで、さ」

 ぞくりと、背筋が震える。

「……時が経って、河岸かしを変えて、遥か異境の地までおもむいて、もし一行から投げ出されたとしたら?」

「その時ゃそこで朽ちるだけだろうさ」

「そんなのが……」

 幸せなの? と聞こうとしたところで、後ろからクラレットが抱きついて来た。豊満な肉体が薄い背に密着する。重かったが、人の生の重さだった。心に衝撃を受けていた夏帆は、おかげでほっと一息つけた。

「……幸せだろうさ。浮き世のしがらみすべてから解き放たれて、好きな人と旅できるんだもの」

 好きな人のことを語る喜びと、ままならぬ浮き世のことわりの苦しみと、相反する2つの感情が入り混じった声だった。背後にいるので、どんな顔をしているかはわからなかった。

「クラレット……」


 絶句した夏帆の肩を「はいおしまい!」とばかりに勢いよく叩いて身を離すと、クラレットは景気づけにとエールを呷った。

「っはー! たまらんね!」

 すると階下から声が飛んだ。

「おう! クラレット! 相変わらずいい呑みっぶりだな!」

 リュシオスだった。中央の大テーブルに着いて、大ジョッキ片手にこちらを見ている。

「リュシオス様! あんたのおかげでアタシたちは今夜も気持ち良く酒が呑めてるよ!」

 クラレットが酒杯を掲げると、リュシオスも同じく大ジョッキを掲げた。ふと気づいて、傍らの夏帆に目をやった。

「そいつはなんだ! 見慣れない顔だな!?」

「ナツーホっていうんだよ! てんでドジでさ。酔っぱらって家への帰り道を忘れちまったんだってさ!」

「そいつはひでえ酔っぱらいだな!」

「あんたが言うな!」と方々からチャチャが入る。

 リュシオスは「違いねえ」と豪快に笑い飛ばした。


「降りて来な! 一緒に呑もうぜ!」

 リュシオスが招くと、クラレットが顔色を変えた。凄い勢いで夏帆に振り返る。

「ちょ、ちょっとあんた! いきなりお呼びがかかったよ! チャンスだ、行っておいで!」


「え、え?」

 状況が飲みこめない夏帆。

 クラレットはどこから取り出したのか、衣服と靴を差し出した。

「ああもうまどろっこしいね! そんな裸同然の格好じゃリュシオス様も興ざめだ。ほら、これを着なっ」

「え? は? ウソッ。これそんなに恥ずかしい!?」

 夏帆は顔を真っ赤にし、慌ててクラレットの差し出した服に袖を通す。

 ややくすんだ、臙脂のチュニックワンピースだった。全体的にドレープは少なく簡素で、手首のところがきゅっとすぼまっている。腰は帯やベルトで絞らず、裾は引き摺るように長くしている。それが女らしい優美な曲線を生み、夏帆を別人のように見せている。靴は鹿の革で出来ていた。肌触りが柔らかく軽く、動きやすそうだ。


「なんか学祭みたい……」

 夏帆は高校の学園祭でロビンフッドの扮装をしたことを思い出した。弓を放ち舞台上を飛び回った、あれは楽しい思い出だった。

 男装に目覚めることもなく服装に凝ることもなく、それで何かが変わったわけではないが、楽しい記憶としてずっと残っている。

「おおお……」

「似合う似合う」と手を叩いて喜ぶクラレットの見立てが正しいとは限らない。限らないが。

(やばい……っ。楽しい……!)

 それどころではないのに心浮き立つのは、夏帆も女の子だということか。

(こんなとこ見たら、みんな笑うかな……)

 元の世界のみんなのことを思い出し、夏帆は自嘲気味に笑った。

(……あんなでも教授せんせいは教授だし、きっと大丈夫……)

 肌も露わな女性たちにキスされ頬ずりされご満悦、といった体のリュシオスを見下ろし、きゅっと唇を引き結ぶ。

「やる気! 強気! 元気!」

 魔法の言葉を唱え、夏帆は戦場へと降り立った。

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