第15話「花見篇。バッカスについて②。過度な飲酒のあとには①」
今回はバッカスについて、です。
ほんとうにこの神様は、下手なラノベよりもラノベの主人公っぽくて面白いです。
~~千鳥~~
鶴賀瀬園子と出会ったのは3年前のことだった。もっと前から見知ってはいたが、ただ知ってるというだけだった。担任ではない他のクラスの先生だったので関係がなく、見た目も興味を引くような女ではなかった。
当時の千鳥はクラス内外の複数の女の子に手を出していた。話術と演技と要領のよさで、人間関係もうまくやっていた。閉鎖的な女子校という箱庭の中で、綻びの無い王国を作っていた。
園子は30にして独身で、彼氏も彼女もいなかった。今までも、そしてこれからもいないのだろうと思わせるような女だった。自身、頭からそういうことを締め出そうとしているかのように、化粧もせずおしゃれもせず、謹厳に立ち居振舞い、また他人にもそれを求めた。
求めたという言い方は生ぬるいだろうか。教師という立場を利用し、強要した。明治期のカビの生えたような古い校則を引っ張り出し、それを厳守させた。一切の化粧を禁じ、1ミリの服装の乱れも許さなかった。持ち物検査は毎日行われ、何人もの女の子が携帯を没収された。その中には千鳥のものも含まれていた。
籠絡するのは容易かった。恋愛のレの字も知らない園子は、若く籠長けた千鳥の怒濤のような攻勢によって、無理やりに開花させられた。クラスの支配者は、ただの恋する乙女になった。
恋人のいうことなら、園子はなんでも聞いた。圧政を解くよう唆すと、クラスにはすぐに平和が戻った。
問題は、園子がいつまでも千鳥の心を捕まえておけるような女でなかったことだ。恋人として付き合っていくには地味で、あまりにも面白味に欠けた。
千鳥自身の移り気な性格も災いした。別れ話はこじれにこじれ、園子の暴走を呼び、結果として彼女は傷害と監禁の罪で2年間の懲役に入ることになり――今に至る。
酒神が生きていた――おそらくは眠りこけていたところにワインか何かがこぼれたのだろう――のは行幸だとして、当面の問題は依然として片付いていなかった。
もし酒神が退けられれば、千鳥の盾はなくなる。
危機はまだ、厳然としてそこにあった。
園子は酒神に対すると、両手を開いて重心を低く構えた。
柔道使い。
細身で潔癖な園子の、意外な一面である。
万事につけ古風な家に育った園子は、権力者である大伯母の指示により、幼い頃からたしなみとしての武道を身につけさせられた。それが柔道で、千鳥を監禁する際にも非常に効率的に働いた。一見か弱く見えていながら、あの手に捕まると何もできない。
(教授……っ)
背は高いがひょろりとしていて、とても荒事に慣れているようには見えない。酒神に園子の危険性を告げようと口を開くが、声が出ない。
(このままじゃ……)
「大丈夫。すぐに終わるから。それからゆっくりと相手してあげる」
焦る千鳥にイヤらしく一瞥をくれると、園子は酒神の襟に手を伸ばした。酒神は抵抗せず、あっさりと捕まった。
(――ああっ)
千鳥は絶望の吐息を漏らし、園子は勝者の笑みを浮かべ……なぜか宙を舞っていた。
「!?」
一瞬、何が行っているのか千鳥には分からなかった。園子も床に背をつけた格好で呆然としている。
あの一瞬――酒神の右手が園子の左腕の裾を掴みロックして、さらに上から肘を回して巻き込むようにした。梃子の原理で園子の体は右下方に沈み、勢いのまま宙を舞ったのだが、千鳥にはわからなかった。
園子は跳ね起きると、酒神と距離をとった。
「何なのよあんた――」
園子は酒神の武道遍歴を聞いたのだが、酒神はへらへらするだけだった。
――妾腹の子であるバッカスには、父ゼウスの正妻ヘラより命を狙われ、様々な国を渡る逃亡生活を送っていた時期がある。その間に様々なことを成し遂げ、広く巷間に神威を示した。神族・巨人族・英雄・多くの人間との戦いを経験した。戦い方の素養もその時期に身につけたものだ。敢えて言うなら酒神流であり、誰かに説明などできなかった。
「何事も経験ってことですかね。可愛い子には旅をさせよというか」
「……ふん。韜晦してなさい。すぐに化けの皮を剥がしてあげるから」
薫に敗れ千鳥を手放し懲役刑を受けながら、園子は打撃を学んだ。獄中でも本を読むことやビデオを見ることはできた。体を動かすこともできた。組手は同じ房の女名主が付き合ってくれた。
薫への復讐。千鳥の奪還。それが園子の2年間だった。
「しっ」
園子は左ジャブのフェイントを挟み、思い切り左下段への回し蹴りを放った。寸止め空手である薫の四東流にはない下段への回し蹴り――つまり受け手のない――それは薫を相手にしてならば、効果的な一撃であるはずだった。
「ほいっと」
酒神は軽く受けた。前へワンステップして回し蹴りのミートポイントを外し、そのまま無造作に園子の胸を平手で押した。
拳でも掌底でもなかった。平手で押した。それだけで、園子は容易く後ろへ転げた。床に尻もちをつき、呆然とした表情で酒神を見上げた。
「何なのよあんた――」
さきほどと同じ問いだったが、より切羽詰っていた。柔道も空手も通じない。今まで培ってきたものが通じない。
園子の手が、傍らにいた千鳥に伸びる。避けようにも逃げようにも、急性アルコール中毒の症状のまま、身動きできない。
肩に腕が回される。両目のすぐ下に爪が刺さる。
「いいわ。あんたがどうだろうと関係ないのよ。この娘さえ抑えられればわたしの勝ち。一度しか言わないわよ。この娘の両目を抉られたくなければ退きなさい」
「……あなたは愛のために来たんじゃなかったでしたっけ」
「どんな姿に成り果てても愛せるのよ。むしろ逃げたり騒いだりできなくなる分可愛いかもしれないわ。ふたりきりでどこか遠い異国の片隅で、濃密な暮らしをおくるの。ねえ素晴らしいと思うでしょう」
ぐ、と押し込んでくる爪の感覚に、眼球がせり上がる感覚に、千鳥は身を震わせる。
思い込みが激しく有言実行という、最悪な女だった。社会的立場などとうになく、躊躇う理由もない。やると言ったら必ずやる。
(やだ……やだ……!!)
光を失う怖さを想像する。暗闇の中から響く園子の声を想像する。幾本もの手が伸び身体中をまさぐってくる様まで想像したところで――不意に、千鳥は後ろ頭の支えが無くなり、自らの身体が床に寝かされていることに気づいた。
「――!?」
園子がいなかった。肩に手を回され、眼球を抉られかけていたはずだったのに、姿が見えない。
きぃきぃと、何かの鳴き声がした。大きなネズミが一匹、パニックを起こしたように走り回っている。
実際のネズミを見たのは初めてだったので、千鳥は少し驚いた。こんなになんでもなく出現するものなのか。天井裏とか床下とか、もっと暗がりに潜んでいるものじゃないのか。しかもこのタイミングで。
「お待たせしましたねえ」
酒神は気にする風でもなく千鳥の横に回り込むと、さっと額に手を当ててきた。ひと撫でふた撫で、そのたびに千鳥の身体から、アルコールが抜けていく。アセドアルデヒドが酢酸へ、さらに水と二酸化炭素へと分解されていく。
「応急処置としてはこんなもんですか。水分が失われてるので水分の補給。アルコール分解の為に糖分の補給と」
「なにこれ……痛っ」
人心地つくと、次に襲ってきたのは痛みだった。身体中に打撲、脛に無数の切り傷、足の裏から流れた血が、床に跡を残していた。
「こっちのほうは本業じゃないんで申し訳ないんですがね」
酒神が触れたところは血が止まり、痛みが引いていく。見ると、ご丁寧に薄皮まで張っている。
「歩くのはまだ無理でしょうが、少なくとも傷跡は残らないんじゃないですかね」
「あんた……ほんとに……?」
千鳥はそれらを驚きの目で見ていた。今酒神がしたことは、それはすべて奇跡といえるものだった。世の多くの者が僭称し、トリック以外の方法で果たせる者のいない業だった。
「だから言ったでしょう。神様だって」
酒神が、ネズミをヒョイとつまみ上げた。首筋を後ろから、ネコにそうするように無造作に。
ネズミは激しく暴れたが、逃れられないことに気がつくと大人しくなった。
「さっきから気になってたんだけど、そのネズミって」
「あの女性ですよ」
「――!!」
千鳥は初めて酒神に会った日のことを思い出していた。キャンパスで騒いでいた男どもに、こいつはなんと言ってたっけ。
「人の言葉を介さないようだから、動物に変えてやったんです。頭の中身は人のままですけどね。やたら知能の高いネズミということで、まあ、この場合は知性があるほうがかえって辛いと思いますけど」
「……どういう意味?」
ニコニコと笑顔の酒神が逆に怖い。
「だって、知性があるのにネズミの暮らしをしなきゃいけないんですよ? 暗がりに巣を構え、草を食み、虫を食らい、繁殖のためにはつがいにならなければならない。理性があればこそ辛いでしょう」
「ちょ……ちょっとっ」
窓を空け、庭にネズミを投擲する体勢になった酒神を、千鳥は慌てて制止する。立てないので床を這う。
「そこまでしなくていいわよ」
酒神はきょとんとして手を離す。ネズミはぼとりと床に落ち、慌てて酒神から距離をとる。
「なぜです?」
「なぜって……」
「あれだけのことをされて、止める理由がありますかね」
「それはだって……さすがに」
「寝覚めが悪いですか? でも、こうでもしないとこの手の輩はまた来ますよ?」
「……いや、さすがにネズミにされると分かったら来ないと思う。それに、わたしも悪かったのよ。園子を弄んで捨てたから。人としての大事な部分を踏みにじったから。怒るのは当然」
「ふうむ」
「――だから、ごめんなさい園子。あなたを追い込んでしまった」
千鳥は深く頭を下げる。あまりにいろんなことがありすぎて、混乱していて、逆に素直な気持ちになることができた。今は純粋に、園子に謝りたいと思う。懲役を受け、社会的な制裁を受けた園子がそうなるように仕向けたのはけっきょく自分なのだから。
頭を上げると、園子が人間の姿に戻っていた。床に足を放り投げるような格好で、虚脱状態で千鳥を見ている。ネズミにさせられるなんていう奇想天外な経験をさせられたあとだ。パニックを通り越してゲシュタルト崩壊を起こしているのだろう。
「園子……」
痛みの残る足で、床を這いずるように園子のもとへ。
ぎゅっと、優しく抱きしめる。ほつれた髪から汗の臭いがする。
「……相変わらず、化粧はしてないのね」
すっと、千鳥の頬を涙がつたう。
今後、園子と関係を戻すことはできるだろうか。それは分からない。分からないにしても、どこか変化するものはあるのではないか。
そう思う。
そう願う。
近づくサイレンの音が、長く続いた事件の終わりを告げていた。
~~酒神~~
「ほんとにあれでよかったんですかねえ……」
遠ざかるパトカーの赤色灯を眺め、酒神は首を傾げる。千鳥は酒神の背に負ぶさり、園子が去っていった闇の中に目をやっている。玄関の軒下にふたり、たたずんでいた。
園子のことは告げず事件のことも言わず、110番は酔った上での悪ふざけが過ぎたのだということにした。怒られたのは千鳥と、保護者としての酒神。
あとには割れたビンと、散らかった可燃ゴミと不燃ゴミと、蹴破られたドアだけが残った。
「いいの。言ったでしょ。わたしが納得してるんだから」
「ううん……」
「うるさい!! この話は終わり!!」
ピシャリと酒神の背を叩く手。
「しっかし、なんであんたはそんなに怒ってんのよ」
代わりに素朴な疑問をぶつけてくる。
「え? 僕怒ってました?」
「怒ってたわよ。大激怒だったじゃない」
「気づかなかったなあ」
「……あんた、気づかないで人ひとりネズミにする?」
「あはは」
「いや笑えないから」
バッカスには、大事に想う人を事あるごとに理不尽な暴力で殺されるという救いのない過去がある。その都度復讐はしたが、それで気が晴れたことは一度もない。
あえて原因を挙げるとしたらそこなのだろうが、酒神は語らず、ただ肩を竦めるだけに留めた。語って語りきれるものでもない。
「ふん、まあいいわ。もう中に戻りましょ。ふたりにも説明しなきゃいけないし」
「そしたらキャラも元に戻した方がいいですよ。さっきからずっと素のままですよ」
「いいじゃん別に。あんたの前でぶりっこしてもしょうがないし」
千鳥は悪びれもしない。
「まあそっちのほうが魅力的だとは思いますが」
「はあ? あんたにそんなこと思って貰ってもしょうがないし」
ごんごんと後頭部を小突いてくる千鳥。
「――そうだあんた」
ふと思い出したように。
「なんです?」
「あのことは秘密だからね」
「はて。あのことと言いますと?」
「……覚えてないならいいのよ。そっか……そうよね。あんた寝てたもんね」
拍子抜けしたような声音。
「……」
酒神は何も言わず踵を返した。酒神を目覚めさせたあの素晴らしい感触のことについては、きっと触れないほうがいいのだろう。
ロビーに入ると、螺旋階段を降りる足音がふたつ聞こえてきた。背中で千鳥が「んしょ」と位置取りを直している。
「教授ー……?」
「おーいおっさん、何があったんだ?」
さてどこから説明しようか。いろいろと頭の痛い日になりそうだ。




