第14話「花見篇。飲酒の弊害①」
呑みすぎ注意。
呑んですぐの運動もだめですな。
身を翻すと、千鳥は全力で駆け出した。スピードランナーかビーチフラッグの選手のような完璧なスタートだった。ストップウォッチで計測したら、きっと目を剥くような結果が出たに違いない。
もともと運動神経の悪いほうではない。鈍くみせているのはわざとだった。隙の多い女の子を装って、近づく獲物を捉える食虫花だった。
運動神経は、の話である。日常的にトレーニングをしているわけではないので、悲しいほどに持久力がなく、ましてアルコール含みであった。
アルコールが運動神経を向上させるというのはまやかしである。中枢神経に作用し、感情その他の抑制を外す効果はあるものの、エネルギー源としては遅きに失して非効率的であり、酸素摂取量や筋持久力等の運動能力を著しく低下させる。利尿作用により水分が失われる。血液の粘性が高まることにより循環が悪化し、最悪の場合死に至る。つまり――
限界はすぐに来た。
息が苦しくなり、連続運動が困難になった。
脳に酸素が行き渡らず、思考が鈍る。
とっさにガウンを脱ぎ投げつけた。
振り返る余裕はない。
うまいこと顔に被ったのか、「ゴッ、ガ」とうめき声が聞こえるのを幸い、角を曲がって緑の部屋に入り、行きがけの駄賃に赤の部屋のゴムバンドと入れ替えた。
後ろ手に内鍵を閉め、へたり込む。
上出来だ。
大丈夫、すぐにはばれない。
口を両手で覆って何ものも漏らさないようにし、内なる声で自分に言い聞かせた。静かに理性と体力の回復と、時期を待つ。
「……!!」
ガチャガチャと揺れるノブの音が近づいてくる。まるで処刑執行のカウントダウンのように聞こえて身の毛がよだつ。
緑と赤の仕組みは、平常時ならすぐに理解できるだろう。ゴムバンドの入れ替えだって、しょせんは稚拙なトリックだ。すぐに見破られるだろう。だがいまは闇の中だ。時間を稼ぐには充分。
――時間?
いったいなんの時間なのかと自問した。誰かが助けに来てくれることはりあえない。あのふたりは潰れている。階下の男も同じ。謙吾も学長もワンボックスで立ち去った。手元に携帯はない。今こうして潜んでいる部屋のどこにも、外部との連絡手段はない。
ガチャッ!! ガチャガチャガチャガチャガチャ!! ドガッ!!
千鳥の部屋のドアが激しく叩かれる。蹴られる。
心臓の拍動が一段階跳ね上がる。
鶴賀瀬園子がトリックに気づいた様子はない。勢いに任せ、苛立ちをそれぞれの部屋にぶつけているにすぎない。
猶予はそれほど多くない。赤と緑の違いに気がつけば――分布の割合からいっても、正解の部屋にはすぐたどり着く。
その前になんとかしなければならない。
何か手近なものを武器にして立ち向かう?
部屋を見回す。椅子――テーブル――ガラススタンド――だめだ。どれもひ弱で取り回しが悪い。なにより、自分にそんな能力はない。体を張って戦う自分の想像がつかない。消化器で消化液剤を噴出したり、ビリヤードのキューで突きを食らわせるなんていうのは、ハリウッド映画の女優に任せておけばいい。
外部との連絡手段を探り、時来たるまで逃げ回る。
シンプルな思考に落ち着いて、千鳥はなんとなく息をついた。するべきことを理解することが、こんなにも精神を安定させてくれるとは思わなかった。
窓際に近寄り、カーテンをめくって外を見下ろす。外は相変わらずの激しい雨で、車寄せに車はなく、最寄りの人家まで行くには遠すぎる。
隣の部屋の窓までは、2メートル? いや3メートルはあるのだろうか? いずれにしろ、考慮に値する距離ではない。
なら地面はどうか。
真下には植え込みがある。落差もせいぜい3メートルか4メートルか。怪我くらいはするかもしれないが、まかり間違っても死にはしない。
悩んでる暇はない。
意を決すると早かった。窓を開け、腰までの高さの桟に足を乗せる。
ビョウ、と風の勢いで窓が煽られ、外壁に叩きつけられる。
(あちゃ、気づかれたかしら?)
けたたましい音に眉をしかめるが、もうどうしようもない。桟に尻を乗せ、一気に飛び降りる。
植え込みの、比較的土の露出している面積の多いところに着地できた。
が、落下の勢いでスリッパが脱げ、折り悪く着地点にあった小石が足の裏に刺さる。
「――!!」
悲鳴が音になる前に、喉の奥で殺した。穴が開いたような激痛が走ったが、構わず走り出した。
庭のほとんどの部分は砂利だった。裸足で走るには痛いし走りづらい。
「!!!!!!!!!」
連続してくる衝撃に、そのたびに泣きそうになりながら、1階の玄関まで走りきる。
一瞬だけ振り返ると、先ほど飛び降りてきた窓から園子の凶相が見えた。
玄関扉を閉め、少しの間でも足止めになればと考え内鍵を閉める。
1階ロビーにはソファセットとカウンターテーブルがあった。カウンターテーブルの外線兼内線電話はコードがジャック部分からちぎれていた。
側には今時珍しいピンクの公衆電話。2階にはふたりと自分の携帯電話。1階食堂には教授がいる。携帯電話は持っているかどうかわからない。
ピンクの電話の受話器をとり上げた。硬貨が必要なことに気が付いて絶望しかけて――110番ボタンに気が付いて即座に押した。どこかに繋がったが、確かめる余裕はなかった。
「助けて!! 殺される!!」とだけかろうじて叫ぶことができた。
聞こえていれば。拾ってくれていれば。
少ない希望の輪を広げていくしかなかった。
バン、と玄関扉に園子の姿。
無防備なふたりを危険に晒したくないとの考えから、食堂に向かって駆けた。通路誘導灯のほのかな明かりを頼りに、寮の東の突き当たりを目指す。
食堂の扉は大きく開け放たれていた。
教授の姿は、探すまでもなくすぐに見つかった。床に敷いたブルーシートの上に、酒瓶に囲まれるようにして大の字になっている。
「ちょっと、ちょっと教授っ。起きてよ!!」
すがりつくように体を揺り動かすが、反応がない。体が冷たく、水に濡れているように腹部がひやりとしている。
「え……?」
千鳥は自分の手を見た。濡れていた。暗いので判然とはしないが、水より粘性のある液体だった。赤黒いように見えた。それはぐっしょりと重く暗く、千鳥の手を伝い落ちた。
「あっ……あああぁあああああぁあああ!!」
叫ぶとすぐに、足音が耳に入った。園子がこちらに向かっている。
確かに迫る重量感のある足音が、逆に千鳥に冷静さを取り戻させる。
「……ごめんなさい。教授」
まったく関係のない被害者に、千鳥は心の底から懺悔した。自分がここに来なければ、彼はこんな目には遭わなかった。あんなに嫌っていたのに、いなくなればいいと思っていたのに、いざとなると苦しかった。自分のせいで死んだ人がいるということが悲しかった。
「ほんと。心の底から謝るわ」
再び酒神の目の前に顔を近づけると、千鳥は軽く、その頬に口づけをした。
生と死の狭間を泳ぐようなわずかの時間、それくらいしか謝罪の方法が思いつかなかった。なぜか夏帆の泣き顔が一瞬脳裏に浮かんだが、どうしようもないので無視した。
逃げ場はひとつしかなかった。宴の間中、夏帆が調理や配膳のために出入りしていた厨房だ。厨房ならば勝手口があるだろう。そこから出て、110番が通じるまで逃げ切ろう……。
手近にあった瓶を後ろ手に投擲する。食堂の入口に当たった。傷をつけるには至らなかったが、園子の気勢を削ぐことはできた。わずかにでも距離を稼ぐことができた。
勝手口を出ると、すぐ近くにゴミ箱が並んでいた。可燃物、不燃物ときれいに分別されている。その上に非常階段があった。金属の踏板は、たぶん足音をかき消さない。行く手をくらますことはできない。
「知らないっ!!」
それでも、手段を選んでいる暇はなかった。警察が来るまで何分あるのか。5分か10分か。辺鄙な場所なのでそれ以上か。いずれにしろ、その間は捕まるわけにはいかない。
千鳥はゴミ箱をまき散らすと、非常階段を駆け上がって2階へ移動した。
廊下は暗い。ふたりの部屋がどこだったか、正確には覚えていない。
たしか左手で、もちろんのこと緑のバンドがかかっていた。
部屋に寄らず走りきる。それが一番正しい選択肢なのは間違いなかった。彼我の走力に差がないのであれば、たかが数十分の間だ。捕まるはずがない。
誰にも迷惑はかけないし、かけたくもない。これ以上は。
「ぐっ……!!」
突然の揺らめきに、千鳥は思わず膝をついた。それは内からくるものだった。息が詰まり、血管が膨張し、身体全体を倦怠感が襲う。
支えきれなくなって、壁に肩を打った。絨毯に頬をくっつけた。
ぶわりと燃えるような感覚が毛細血管をことごとく灼く。その感覚は喉を越え、脳までせり上がった。
見上げると、緑のゴムバンドがあった。ノブに手をかけ、なんとか内側に倒れこんだ。
内鍵をかけるゆとりもない。かろうじてドアを背にした。後ろから立て続けに衝撃を加えられた。
「逃がさない!! 絶対に!!」
呪詛のような園子の声。
一縷の望みをかけて、室内に目をやる。薫はいないか。夏帆はどこか。あのふたりが一緒の部屋なら、あるいは時間を稼ぐことができれば……!!
だが、現実は無常であった。室内に人の気配はなく、ひんやりとした空気が漂っていた。赤と緑が隣接していたような記憶はない。近くにあったような記憶すらない。なら、この騒ぎが聞こえて助けにきてくれる可能性は少なかった。
(このまま無為に……?)
狂った園子の欲望に身を任す最悪な未来を想像した。
(やだ……っ!!)
全力で否定する。それだけは嫌だった。もう自分は脱却したのだ。あの女の威圧に、暴力に屈するのはやめにしたのだ。
「ううううううっ!!」
両足を突っ張る。背中に力を込めてドアの傾きを押し返す。
どこかへ行け。
諦めろ。
(わたしはもう、自由なんだ!!)
――飲酒状態の運動はよくない。飲酒状態のサウナや入浴もよくない。血中アルコール濃度の問題である。血中アルコール濃度が増大することにより、大脳辺縁部から呼吸や心臓の働きを抑制する脳幹部まで麻痺しそれが拡大し、酷い場合には生命を維持する脳の中枢にまで麻痺させてしまい、呼吸機能や心肺機能まで停止させてしまう。死んでしまう。
それが、急性アルコール中毒だ。
「……っ」
急速に気分が悪くなってきた。体温が下がるような気配があり、呼吸がつらくなり、意識が遠のいていく。
無理をしすぎた。それはわかっている。でもそうするしかなかったのだ。与えられた条件の中で、彼女は精一杯動いた。生きるために。
支えのなくなったドアを、千鳥ごと押しのけるように園子が入ってきた。汗か雨垂れかわからないが、顔全体をしずくが覆い、床に伝い落ちていた。
んうっ……。
もう声は出なかった。狭まった視界の中で、園子の手元だけが見える。刃物の類はなかった。
おかしいと思った。教授の腹部の濡れていたのは、ではなんだったのか。黒く染み込むような汚れはなんだったのか……。
「きひひひひひひぃ、つぅかまえたあああぁぁああああっ!!」
トーンの高い園子の声が、あたりにこだまする。いつの間にか、雨音は聞こえなくなっていた。
濡れ鼠の彼女の後ろに、頭一つ高い教授の姿があった。
「……僕の生徒になにしてんですか」
目が座っているのはなぜだろう。酔いのせいだろうか。眠りを邪魔されたからだろうか。それとも本当に、生徒の身を気遣ってのことだろうか。
いずれにしても、千鳥はあんな酒神の顔を見たことがない。真剣で、半眼で、あんなに切羽詰まった色の瞳をする人だとは思わなかった。
「教授……助けて……」
言葉は自然に口をついた。
「なによあなた――!!」
動揺する園子をよそに、酒神は千鳥に目を向け、そこだけにっこりとほほ笑んだ。
「安心なさい。僕は神様ですよ」




