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第11話「花見篇。ビールについて③」

ビールの注ぎ方は難しいです。

こだわればこだわるほど。

 ~~酒神~~


 寮の食堂は吐き出し窓になっていて、外の様子がよく見えた。夏帆の頑張りで広く見渡せる庭には、長く糸を引くような雨が降り注いでいた。空は薄暗くどこまでも雨雲が詰まっていて、晴れ間は期待できそうになかった。

 ゴールデンウィークを利用して高尾山への花見を企画していた一行は、やむなく計画を縮小し、寮の庭に咲くわずか3本きりのソメイヨシノを眺めることにした。雨に打たれ微かにうなだれ、窓ガラスについた水滴でぼんやりと形を崩した桜色の花弁は、ひとつの風流の形といえなくもないが。

 宴席は食堂に拵えた。テーブルと椅子を隅に寄せ、大きなブルーシートを2つ折りにして床に敷き、そのままでは硬くて座れたもんじゃないので座布団を人数分並べた。

 中央には酒類と陶器の皿類とガラスのコップ。ここだけは出先でないことが巧く作用した。紙皿でなく、紙コップでなく、より扱いやすく味わいやすい食器類に載せると、夏帆手作りのお弁当が彩りと香しさを増して見えた。


「じゃ、ま。適当にやってくれ」

 学長(おおやま)の適当な音頭で始まった。

 学長・千鳥・薫を連れてきた運転手の謙吾は(もともと下戸だが)烏龍茶で、他はみな、ラベルに神話生物の描かれた瓶ビールから始めた。栓抜きの小気味よい音や、泡をたてて注がれる黄金色が気分を高めた。


「かーっ!!」

 親父くさい声を上げたのは薫だ。酒神たちと最初に行った呑み会でビールにハマって以来、ずっとビール一辺倒な彼女はすっかり呑み慣れたもので、ぐいぐいと喉の奥に流し込み、喉越しの爽快さを楽しんでいた。

「もう~薫ちゃんたら」

 千鳥が薫の腕を叩く。「パシッ」でも「ビシッ」でもなく「そっ……」と軽く優しく押すような、いわくありげな手つきなのを見て、謙吾が「うえ~」と顔をしかめている。


 微妙なやり取りに気づかない夏帆は、隣の学長のコップが空きそうなのを見てとると、自然な動作でビール瓶を手にとった。

「どうですか? 学長」

 ビールの継ぎ足しは厳禁である。泡が消え炭酸が飛び、ぬるくなったビールが足を引っ張り、充分に美味しくならないからだ。多少残っている場合は声をかけるのが基本。夏帆が訊ねたのにはそういう意味がある。  

「お、悪いねえ」

 学長が残りを呑み干して差し出すと、夏帆は熟練の動きを見せた。

 右手で瓶を持ち、左手で支える。手の温度を移してしまわないように、あくまで添えるだけ。瓶ビールや缶ビールは炭酸味が強いので、泡立ちを確認しながら最初は緩やかに、徐々に上から叩きつけるように注ぐ。二度注ぎ、三度注ぎなどの技もあるが、泡が収まるのに時間がかかりすぎる。呑み会の場では一度注ぎで手早く、上下動を意識してクリーミーな泡が立つように、比率は7対3。

「……」

 最後のひとしずくをこぼさないように注ぎ口をくるりと回すところまで確認した学長は、隣の酒神にうろんな目を向けてくる。

「……どこまで仕込んでんだてめえは」

「門前の小娘ですかねえ」

「中身が真樹子だっていっても信じるよ。俺ぁ」

 荒れ果てていた寮をたったひとりでここまで復旧させた手並みは、家事魔神だった真樹子を思わせる。学長も真樹子とは親交があり、3人で呑みにいくこともあった。こうして寮で歓待することもあった。彼女ら2人はあまりに似ていた。姿形も、動きまで。

「今は昔のことですねえ」

「……ぶん殴りてえ顔しやがって」

 韜晦する酒神をにらみつけてくる学長。


 薫のところへ注ぎにいっていた夏帆が、酒神のグラスが空いているのを見つけて戻って来た。

「教授もどうですか?」

 目の前で膝をつき、瓶を掲げたところで、隣から謙吾が割って入った。

「待て。教授の酌は俺がする」

 ラガーマンの謙吾がぬっと顔を出した圧迫感で、夏帆がのけぞった。

「夏帆だったか。おまえにはさせん」

「な……」

 いきなり人の仕事を奪うような発言に、夏帆は顔色を変える。

「なんですか藪から棒にっ」

「言った通りだ。教授のゼミ生にして一番弟子を自認するこの俺が、教授の世話は全部見る。おまえは他の奴らの酌婦でもしていればいい」

「なんですかそれはっ。あたしはこの寮の寮娘(りょうこ)なんです。接待はあたしの役目。お客さんは引っ込んでてくださいっ」


「……」

 いきなり目の前で起こった酌の権利の奪い合いのせいで自分のグラスにビールが回ってこない。酒神は悲しそうな目でグラスを見下ろしていた。


「客に対してなんて不遜な態度だ。教授っ。ここはこの娘を廃して、俺を寮娘にっ」

「そこは娘じゃなく夫じゃないのかな~。お兄様~」

 騒ぎを聞きつけた千鳥が遠くからつっ込んでくる。


「夏帆くんは充分すぎるほどによくやってくれてるよ。寮娘は彼女以外に考えられない」

「ほら!」

 酒神の正直な感想に夏帆が勢いづく。 

「これでわかったでしょ! 黙っててくださいお客さん!」

 お客さん、をことさら大きく扱い謙吾が外様であることを強調する夏帆。


「ぬぬぬ。言わせておけば……」

 ぐっと拳を固める謙吾に、軽蔑の目を向ける夏帆。

「あら、暴力ですか~。怖いですね~」

 しゅたっと夏帆が酒神の背中に張り付いてくる。

「乱暴な男って最低~。教授はそんなことしませんもんね~。教授最高~」

 健吾の嫌がることを察した夏帆の攻撃。

 突然の展開に、酒神は震えた。

「おお……初めてじゃないか? 僕が夏帆くんに褒められたのは……」

「だしに使われてるだけじゃねえか」

 呆れた調子の学長。

「お、おおおおまえ、教授から離れろ!」

 すごい勢いで謙吾が迫るが、夏帆は酒神を中心に身軽に動き回り、逆に翻弄する。謙吾も図体の割に動きは俊敏なほうだが、夏帆の身の軽さにはかなわない。


「やれやれ、謙吾兄ぃも夏帆も大人げねえなぁ。ほれよ、おっさん」

 間隙をついた薫が、さっと空いたグラスにビールを注ぐと、

『ああああああっ!!』

 ふたりは大声を上げた。


 やいのやいのと騒ぎ立てる3人を尻目に、酒神はひさしぶりのビールを味わった。

 ほふう、とため息。

 ひと息ついて、料理にも手を伸ばす。 

 だし巻卵や鳥から揚げといった定番に加え、ふきのとうの天ぷら、塩茹での空豆、菜の花の春巻き、アスパラガスとサワークリームのパイ、新じゃがの手作りポテトチップスなどの春物を中心にした品ぞろえは、見てるだけでも気分の春めいてくる逸品ばかりだった。

 まずはだし巻卵。美しく形成された層の中から、とろりとだしの味があふれる。ついで唐揚げ。サクサクの衣の中にジューシーな肉汁を蓄えた鶏肉が佇む様は、まさに王者。ビールでそれらを流し込むと、得も言われぬ幸福感が訪れ、酒神は束の間現実を忘れた。 

「……」

 外を見やる。

 雨は止みそうにないが、この一瞬、この場には春が溢れている。若者の生気と、青臭い感情が混じり合い、昂っている。

 こんな気分はひさしぶりだ。最後に味わったのは、きっと、もっとずっと昔のことだ。寮に人が満ちていた頃。喧噪の中心にはいつも彼女がいた。朗らかに軽やかに笑いながら、寮という小宇宙の調和を保っていた。

 壊れたのは、彼女がいなくなったからだ。三々五々と人が去り、寮は寂れ、酒神はひとり取り残された。何年。何十年? それは彼が過ごしてきた長い時間とまったく比べものにはならないけれど。


「おい戻ってこい」

「え」

 学長に襟首をぐいと掴まれ、酒神は一瞬で逃避から連れ戻された。 

『教授っ、誰のを受けるんですか!!』

 夏帆と謙吾と薫が、鬼気迫る形相で瓶ビールを携えている。注ぎ口がまるで銃口のように、酒神を捉えて離さない。

『さあっ』

「えっと……」

 酒神は両手を上げ、順番に3つの注ぎ口を見つめた。

 やがてがっくりとうなだれ、

「すべて、受けさせていただきます」

 と宣言した。


 ~~千鳥~~


「……」

 それを面白くない顔で見ているのは千鳥である。薫もとられ、夏帆もとられ、ひとりビールを手酌している。

「なんであんな奴が……」

 あまりにもやさぐれすぎて、もはやあぐらをかいている。丈の短いワンピースの裾が、ぎりぎりのラインまでずり上がっている。

 ビールを一気に呑み干し、お代わりを注ぐ。口元についた泡をぐいっと手で拭う。

 あけすけな、本来の彼女自身。その彼女を見ているもうひとつの視線があることに、まだ誰も気付いていない。

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