第9話「夏帆。酒神。公園にて。チャンポンについて①」
~~夏帆~~
炊飯ジャーのタイマーセットを忘れた。
洗剤を入れずに洗濯機を回した。
割った皿は数知れず、しまいには塩と砂糖を取り間違えるなんて漫画みたいなミスもした。
(バカバカ!! あたしのバカ!! 天然バカ!! 国宝級のバカ!! 傾国のバカ!! バカすぎてバカすぎて……もうっ!! もうっ!!)
家事一切の教師である真樹子に合わせる顔がない。雇い主である酒神にはもっとない。恥ずかしすぎて、もはや寮に帰りたくない。
家出少女じゃあるまいし、職場放棄をするわけにはいかないし、遠回りしたって最終的には当然帰らなければいけない。そんなことはわかっていながらもどうしようもなく苦しくて悶えて、けっきょく走ることにした。体育会系疾走娘には、それくらいしか逃げ場がなかった。
田舎から後生大事に抱えてきたシューズと半袖短パンと上下ロングタイツのガチランナールックで寮を飛び出した。
最初は好調だった。風を切り、軽快に爽快に、アスファルトを蹴って突き進んだ。
すぐに膝が抜けた。足に力が入らず、前に進めなくなった。
ーー知ってた。
日常生活は問題なく送れても、アスリートとしては死んでいる。
鍛え上げられた心肺機能に衰えはないのに。全細胞が、血流が、前へ進めと背中を押すのに。風を切れと耳元で喚くのに。のに、のに、なのに。
「だぁめだ~……」
もろもろの葛藤で堪らなくなり、立っていられなくなって、ふらふらと公園のベンチに倒れこんだ。
風の気持ちいい日だった。5月を目前にして陽射しは暖かく、このところの寒気のせいで開花の遅れていた桜の香りがほのかに鼻先を掠めた。
家族連れが目立った。ベビーカーを押す父親や、日傘をさして機嫌よく笑う母親や、一団となって駆け抜ける子供たち。3分咲きだけれどブルーシートを敷いて花見に興じる者もいた。歓声が響き渡る中、ガチランナーがベンチに座りこんでいる姿は悪目立ちすぎて、すぐにいたたまれなくなった。
かといって行き先もないのだった。休日なので大学もないし、薫はバイト、千鳥は家族でクラシックのコンサート。寮に帰れば酒神はいるが……いや、むしろいるのが問題なのだ。二人きりになれば、嫌でもあの日のことが頭をよぎる。意識しないなんて無理だった。
「なぁんとしたもんだべ……」
その後、酒神のほうからアプローチはなかった。自分で言ったことを忘れてでもいるかのように、普段通りにしていた。いつものように酒を呑み、夏帆の手料理に舌鼓を打ち、薀蓄を繰り広げていた。
有難いことではあるけれど、何もなかったように振る舞われるのも嫌だった。
酒神にとって、あの言葉はなんだったのか。
可愛い、美しい、綺麗だ。
聞いたこともない甘酸っぱい言葉の連なりが、鼓動のように胸の中で反響している。
あれ以来、夏帆のリズムは狂いっぱなしだ。
どうしたいのかわからない。どうしてほしいのかわからない。
もしかすると本当に? だったらあたしはどうすれば?
いやいや、あり得ない。でもまさかひょっとしたら……。
「はあ~」
ため息をつく。
「はあ~」
輪唱のように、誰かがため息を合わせた。
「ん?」
いつの間にか隣に、女性がひとり座っていた。
スニーカーにダメージジーンズにパーカーという飾り気のない格好。前髪だけ長いショートカットで顔の大半を隠していた。残りの露出している部分は渋面を作っている。それでも整った造作なのがわかった。
「あ……?」
美人が目だけをこちらに向ける。
息が酒臭い。見ると、ラベルに神話生物の描かれた缶ビールを口にしている。傍らにはコンビニの袋に入った缶ビールが大量に控えていた。銘柄はすべて一番搾りで、つまみの類は一切ない。なんとも男らしい呑み方だった。そんな姿すらも絵になるから、美人は得だなと思った。
すっと目の前に差し出される缶ビール。
「キミも呑むかい?」
「あ、はいいただきます」
(……あれ?)
反射で手を出していた。
なぜかはわからない。
強いていうなら引力のようなものだった。初対面で真っ昼間で、花見客には見えないこんな格好で。それでもうんと言わせる不思議な雰囲気が彼女にはあった。
缶はぬるかった。クーラーボックスがあるわけでもなし、居酒屋の時のようにキンキンで冷え冷えで、というわけにはいかなかった。
プシュッ。
軽快な音とともに、飲み口から炭酸が噴く。舐めとるように口をつけた。
「おおぅ」
なるほど酒神の言ったように、瓶ビールよりも炭酸がきつい。味自体は嫌いじゃないのだが、ぬるいし、少し呑みづらいかなと感じる。
(つまみもなんにもなしにビニール袋いっぱいか……)
酒呑みも極まると、最後はつまみいらずになると酒神が言っていたが、こういうことなのだろうか。同じメーカーの同じ銘柄を飽きずに呑み続けるあたりにも、こだわりというか執念の強さを感じる。
「悪いね。同じものしか無くて。あれもこれもってのは嫌いなんだ。味が混ざるのは気持ちが悪い。チャンポンは悪酔いするから」
「……色んなお酒を呑むってことですよね。チャンポン」
「その通り。マレー語だとか中国語だとかポルトガル語だとか、語源についてはさまざま言われてるけど、とどのつまりはかき混ぜるってこと。チャンポンと悪酔いを結びつける科学的根拠はないらしいけど、そんなの食い合わせと同じさ。ウイスキーと日本酒と紹興酒をいっしょくたに呑みこんで胃の中で撹拌したら、誰だって気持ち悪くなる。ま、彼からの受け売りだけど」
「彼氏さんからですか」
「彼氏ではない」
「え」
「まだ……さ。彼はイケズでねえ」
「ははあ……」
美人ーー知流の語るところによると、彼女は九曜大学に勤めている年上の男性に絶賛片想い中らしい。なかなか報われないうえに遊び人なので、鬱憤晴らしに昼酒外呑みの最中なのだとか。
「しかし、どこにも同じような男の人っているんですねえ」
「へえ?」
小首をかしげる知流。
「いやあ、あたしの知り合いの男の人も、お酒にやたら詳しくて、事あるごとに蘊蓄を語りだすもんで」
女遊びが激しいところまでそっくりだ。
「はは、自分の知ってることを教えたがるのは、自分を知ってほしいってことなのさ。かまってほしい、愛してほしい、だからボクを見てってことなのさ。可愛いもんじゃないか」
「うわあ、大人の意見ですねえ……。あたしにはまだまだ……まあ実害はないんでいいんですけど」
ゴキュゴキュゴキュ。一缶一気に呑み干す。冷たくないのが、かえって一気には向いていた。
運動で温まり拡張した血管の中を、アルコールが代謝されたものがスムーズに流れ、体の隅々まで行き渡っていく。
くらりと視界が廻る。酩酊のとば口だ。世界と自分の境界が曖昧になるような、最近お気に入りの感覚だ。
「お、いいじゃないか。いける口だね。ボクの目に狂いはなかった」
知流が嬉しそうにお代わりを手渡してくる。
「ありがとうございます。でも、なんであたしが呑めるってわかったんです?」
「そうだな。まずは真っ昼間からこんなとこで一人で酔っぱらってるボクを見ても嫌な顔しなかったこと。花見客の集団のひとりとは思えないだろうし、普通の女子なら一歩引くぐらいはするものさ。酒呑みが日常的に傍にいて抵抗がないか、自分自身がそうであるかのどっちかだ。ビニール袋の中を興味深げに見てたのも材料のひとつかな。何を呑んでいるのか興味津々って顔してた。つまみの有無を確かめたようにも感じたな。実際に実践的に酒に接する機会がある人間じゃなきゃ、そんなこと気にしやしない。その格好で呑むかどうかは賭けだったけどね」
「ご明察です。正直あたしもどうかと思います」
場違いな格好を恥じらう。
「ごく最近までは呑んだことすらなかったんですけど、門前の小娘と言いますか、いろいろ教えこまれまして、かなり好きになってきてるんです」
「ーーその男の人のことも?」
ぶばっ、とビールを吹き出す。慌てて横を向いたおかげで、知流には浴びせずに済んだが、
「す、好きなんかじゃないですよ……その……」
「まだ?」
いたずらっぽい眼差しで図星を抉られて、夏帆は「ぐ」と言葉に詰まった。
「いまも違いますし、べ、別にこれから先にそうなる予定があるわけでもありません」
返すのがやっと。
「わかるよ。ボクにもそんな時期があった。あの夜。恋破れてうちひしがれていたボクの肩を抱いて、彼は慰めてくれたんだ。同情してくれたんだ。ボクはそれが嬉しくて嬉しすぎて混乱してて酔いも回ってぐるぐるしてて……すぐには気づかなかった。認めるのにも時間がかかった。だって、失恋してすぐだったから」
「……よっぽど好きなんですねえ」
知流は酔眼をこちらに向け、照れるように伏せた。
「うん……」
(なにこれ可愛い)
同性なのにドキッとさせられた。断じてそっちの気はないが、愛しくて抱きしめそうになってしまった。
「キミは綺麗だよ。世界一可愛いよってさ。耳元で囁いてくれた。魔法みたいだった。鳥肌が立った。電流が走った。嘘でも良かったんだ。ボクのために言ってくれたってだけで、すべてが報われた気がした」
「嘘じゃないですよ。その人は、きっと本心から言ってます。だって、あの……。知流さんすごく可愛いから」
「ボクが? はは、ありがとう。でもいいんだ。今に至るも彼が応えてくれないことがすべてじゃないか」
「それはでも……。ひどいですね……」
「ひどい?」
知流はきょとんとする。まるで知らない外国の言葉を耳にしたように。
「そうじゃないですか。人をその気にさせるだけさせておいて、でも好きではありませんなんて。好意を口にするなら、相手のことも考えないと。相手の女の子がそんなこと言われたらどう思うか考えてあげないと……」
「そうかな、ボクはそう思わないけど……だって、ボクはその言葉で救われたんだから」
「……」
「キミだったらどうなんだい?もしキミがこの先その人のことを好きになったとして、でも付き合うことはできませんって木っ端微塵にフラれたとして、そのことでその人を恨めるかい? なんであたしをその気にさせたんですかって、責められるかい?」
「それは……ないですね……。ごめんなさい。むちゃくちゃでした……」
勝手に惚れたほうが悪い。決まってる。
でもなんというか。
言うんだったら本気で言って欲しいなと思う。お世辞でも同情でもなく本心から。純粋な好意の発露であって欲しいなと思うのだ。ただの我が儘だし、知流にはとても言えないことだけれど。
「いいさ。ボクのために怒ってくれたんだろ? それだけで十分さ。ありがとう」
「知流さん……」
「はは、そんな顔しないでくれよ。ボクが言うことじゃないけど、お酒は楽しく呑むものさ」
知流の気遣いが身に染みる。なんていい人だろう。
「はいっ、今日はとことん呑みましょうっ」
気がつけば、ビニール袋は空き缶でいっぱいになっていた。日も暮れ辺りは茜色に染まっている。誰もいない公園でふたり、いい感じに廻っていた。
「あぁ~気持ちいぃ~」
夏帆は全身真っ赤のへべれけで、
「んお……? なんだぁもうこんなじ、時間か。ずいぶん話しこんじゃったな。ビールも、も、なぁくなったし、ちょうどいいか、お開きにしよう」
知流にはまだ余裕がありそうだが、呂律が若干回っていなかった。
「んですねぇ。あらしも帰らないと、晩御飯作らないと」
同時に腰を上げ、同時によろめいて肩を組むように支えあって、そのことに笑い合うふたり。すっかり仲良しだ。
「んんっふっふぅ、件の同棲中の彼氏のためにかい? そうなんだろうこぉいつめぇ」
「んだからぁ、そういうんじゃないですってばぁ。寮母みていなことしてるだけですからぁ。仕事ですからぁ。JDですからぁ」
女子大生アピールの意味がわからない。
「ふふふぅ、そう、そういうことにしとこうか」
「良かったらぁ、また今度呑みましょうよぅ。そん時はぁ、あらしが酒代もちますからぁ」
「いいねぇ。キミと呑むお酒は旨い。やく、約束だ。また今度会おう」
「あぁい、知流さん、せばなぁ」
別れの挨拶である。
「夏帆くん。じゃ、ええっと、せばな?」
「せばせば~」
ひらひら手を振って、夏帆は帰途についた。全身を包む心地よい酔いと、新たな友人を得た嬉しさが、つかの間鬱屈を吹き飛ばしてくれた。走れなかったけど、走って良かった。そう思う。
~~酒神~~
寮の門柱に背をもたせて、夏帆の帰りを待っていた。昼を少し過ぎてから出かけて、もう夕飯時になるというのに、まだ戻ってこない。膝が悪いはずなのにランナー姿で、しかも最近は様子がおかしかったからなおさら心配だった。友人のところにでも行っていればいいが。
迷子か事故か。不安ばかりが押し迫り、酒を呑む気になれなかった。
「たんだいまぁ~」
「夏帆くん!!」
頭を振りながら覚束ない足取りで、夏帆が姿を現した。
転びそうになったところを駆け寄って抱き留める。アルコールの匂いがすることに驚いた。
「きみ、呑んでるのか……?」
「あはは、なしたんですかぁ、教授ぇ。そったら顔してぇ」
何がおかしいのか、ケタケタと笑う夏帆。
「ちょっと夏帆くん。きみ、どうしたんだいこんなになって。友人のとこに行ってたのかい? それにしたってこんな……」
「あははぁ、そうですよぅ。友人、出来たですよぅ」
「出来た?」
「んだ」
「いったいどういう……」
「あっはっはあ~。いいがらいいがらぁ~。さ、さっさと風呂入ってご飯作るですよぅ~」
酒神の肩をバシバシ叩くと、夏帆は「すい~」と擬音を口にしながら、泳ぐように寮の中に入って行く。
「こりゃまたご機嫌で……」
酒神は一人取り残され、ともあれ夏帆の中の問題が少しでも解決したのなら結果オーライなのかなと考えることにした。酒が抜けたらお説教しようとは思ったが。
あまり人の事が言えた立場じゃないけれど、なんといったって夏帆はまだ20歳の娘なのだから。




