プロローグ「酒神。大衆酒場の片隅で」
酒神さまと女子大生との、複雑な過去も絡めた恋愛ストーリーです。
酒にまつわる薀蓄を混ぜ込みながら語っていけたらいいなと思います。
プロローグ「酒神。大衆酒場の片隅で」
大衆酒場「丸安」には、コの字型の長いカウンター席が中央に2つ、テーブル席が左右の外周に4つずつある。横浜線八王子駅までほど近い九曜駅の駅近で、雑誌にも載るほどの人気店ということもあり、平日の午後3時という時間の割には客も多く、70人のキャパシティの8割ほどが、赤ら顔の酔客で埋まっていた。焼けた魚の匂い、乾杯の掛け声、賑やかで楽しげな空気が、煙のように店内に充満していた。
カウンターの片隅で、ひとりの男が眠っていた。40がらみの、背の高い男である。髪はぼさぼさ、髭もぼうぼう。服装も、どてらにスウェットに健康サンダルときては、お世辞にも見栄えがいいとはいえない。
外国人であった。肌は白、髪は白に近い金髪。閉じられてはいるが目は青。顔の造作も彫が深く、きちんとしていれば女性にモテそうな、様々な条件を整えていた。残念なことに、きちんとしていなかった。
男の前には半分ほど中身の残った二合徳利とお猪口があった。烏賊の一夜干しとモツ煮が食いかけのままだった。会計を示す100円の黄色チップは、33枚積み上げられていた。安さが売りの丸安においては(前述の3品合わせて600円)、それはけっこうな量だった。
「おう、なんだよ教授、また寝てんのか」
常連と思しき作業着姿の中年男が、楽しげに声をかけてきた。
「その人はしょうがないよ。ほっときな」
奥から出てきた給仕のおばさんが、小鉢の乗った丸盆を抱えたまま朗らかに返す。
「酒の神様だってんだから、酒の海に溺れる夢でも見てるんでしょ」
「違いねえ」
中年男とおばさんのやり取りに、周囲がどっと笑う。店のカウンターにうつぶせて眠りこける男に、誰もが好意的な目を向けていた。
それはいつもの光景だった。ずっと昔から繰り返されてきたことだった。中年男が常連になるより、おばさんが給仕になるよりずっと昔から。
同じ年齢で、同じ姿形で、家や街中や、時にこうして酒場の片隅で、酒を呑み続けてきた。
そのことに疑問を持つ者はいない。誰もが無条件に存在を許してしまうような、そんな不思議な雰囲気が男にはあった。
酒神一生。遥か古の頃より世界中の数多の宴を渡り歩き、この地日本に流れ着き居着いた、酒と酩酊の神である。
☆ ☆ ☆
酒神は夢を見ていた。
最近、繰り返し見ている夢だ。
夢の中でも、彼の恰好は変わらない。いつものようにだらしなく、どてらの裾に手をつっこんでいた。
「真樹子……」
酒神が呼びかけると、紺地に朝顔柄の和服を着た少女が振り返った。
目に涙が光っている。
いつも強気で、いつも元気で、明るく彼に接してくれた少女が泣いている。
その事実は想像よりも強く、酒神の胸をついた。
「教授。あたし決めたことがあるの」
「う、うん」
少女の睨みつけるような眼差しに圧されて、酒神は一歩後ずさった。
「呪ってやるって」
「……うん?」
少女の外見からは想像もつかないような単語が飛び出し、酒神は虚をつかれた。
「教授を呪ってやる。いつまでも、この世に存在し続けるかぎり絶対に忘れられないように呪ってやる」
「か、神を呪うっていうのかい?」
少女は頬を流れる涙を拭おうともしなかった。
「いずれわかるわ。そんな遠くない未来よ。楽しみに覚えていて。だからそれまで……あたしのことを覚えていて」
「真樹子……君は……」
止めようとした手は届かない。言葉も、気持ちも、急速に遠ざかる少女の姿に追いつかず、そして再び……。
☆ ☆ ☆
「……おうい、教授、教授よぅ」
誰かが肩を叩いていた。
「ん……? あ、ああご隠居か」
目を擦りながら上体を起こすと、90はとうに超えたような老人が、ふがふがと、聞いてるほうが心配になりそうな口調で話しかけてきた。
「お前さんはよぅ、まぁだここにいていいのかい? 今日はあん人が来るといっとったろう。あれ、あー、あの。真樹ちゃん」
「……あのねご隠居。真樹子じゃないから。真樹子の孫だよ」
「なぁんだ孫かい。わしゃひっさしぶりに真樹ちゃんに会えると思って楽しみにしとったんに。ばあさんが家で大人しくしてろいうの、聞こえねぇふりしてきたんによぅ」
ふがふがと笑うご隠居に、給仕のおばさんが、
「ねえなにそれ。真樹ちゃんってご隠居と教授が時々話に出すあの人の話?」
「そおうよぅ。九曜小町なんていわれてよぅ、美人さんだったんだからぁ」
「……お愛想」
盛り上がり出すおばさんとご隠居を横目で見ながら会計を済ますと、酒神はふらふらと丸安の暖簾をくぐった。背におばさんの声が飛ぶ。
「教授。しばらくいるなら、その娘もうちに連れてきなよ。たっぷりサービスしてあげるからさあ」
「連れてこないよ。こんなとこ。たちの悪い酔っ払いばっかりだ」
「あんたが一番だろうがー!」
誰かが野太い声で叫び、笑い声が重なる。
ふん、と鼻を鳴らし、酒神は店を出た。夕暮れ時だった。空が茜色に染まりつつあった。
☆ ☆ ☆
駅から徒歩40分ほどの、小高い山の中腹の、雑木林に同化するように埋もれて、その建物は建っている。
もとは旧華族のお嬢様の療養にと用意されたお屋敷を、勿体なくも九曜大学に通う学生のための学生寮に作り替えはしたものの、便利なもののみ持て囃される時代の流れにさらされて、バスの便も悪く、近くに商店のひとつもないような場所にある41部屋は、一室を除いて他すべてが空き部屋になっている。
管理監督者たる酒神教授は、酒浸りの道楽者で、寮のことなどまったく顧みずに飲み歩いてばかりいるものだから、庭も建物も長い間手入れがされず、廃屋と見紛うばかりの惨たらしい有り様となっていた。
「はっはあ~、こりゃひどいわ~。婆っちゃが早めに行かんと入学式までに間に合わねぇつってたのはこれかい」
少女がひとり、立っていた。
サバンナを駆ける草食動物を思わせるほっそりとしなやかな体を、紺色の、おそらくは入学式用の礼服に包んでいる。
足元にボストンバッグを置いて、両手を腰に当てている。呆れを通り越していっそ感心したような声をあげている。
牧歌的な訛りに聞き覚えがあった。藍色に近い色合いのショートボブから、遠く初夏を思わせる懐かしい香りが漂った。
こちらに気が付くと、少女は「にかっ」と男の子のような笑顔になった。
「酒神教授ですね?はじめまして、結城夏帆といいます。婆っちゃ……じゃなかった。祖母から話がいってると思うんですが」
訛を殺そうと背伸びする姿が微笑ましい。
見たばかりの夢の痛みが引く思いだった。
「うん、酒神一生だ。真樹子のお孫さんだね。話は聞いてるよ。家政婦をする代わりに家賃とガス光熱費水道代食費一切の免除。プラスでバイト代もくれっていうけっこうな話だ」
「はは……」
夏帆は軽く引きつり笑いをした。
「祖母が無理を申しましてどうも……」
「いや、いいんだ」
ぺこりと頭を下げる夏帆を、酒神は手で制する。
「真樹子には世話になった。そもそも昔の真樹子も同じようなことしてたしね。気にしないでくれ。君たちの一族には、僕はたぶん勝てないようにできてるんだろう」
「あはは。本当に教授はユニークな人ですね」
「……うん?」
何がおかしかったのかわからない。
「だって、祖母がこっちにいたのはもう50年以上昔の話ですよ? 教授がどれだけ若作りでも50以上には見えないです。外国の人は年齢わかりにくいけど……。教授のお父さんかお爺ちゃんの話を聞いたんですよね? まるで自分が世話になったみたいな」
「あ……ああ、えーっと……真樹子からそのへんの事情は聞いてない?」
「酒の神とか名乗ってる変な人だから楽しみに行ってきなさいっていわれました」
「あ、そう……」
朗らかな夏帆の表情に、酒神はそれ以上何も言えなくなった。
秋田平野の真ん中でにやにやと意地悪く笑っているであろう真樹子のことを、胸中で罵った。
(あーあ、こういうことね。さぞや楽しいんだろうよ。真樹子)
「はあ……」
なんとなくため息をつくと、夏帆が「ん?」と不思議そうな表情で下から覗き込んできた。
ぶわり、全身に懐かしさが広がった。
真樹子との関係も、初めの頃はこうだった。
健康的で快活な彼女。
時に意地悪で、酒神をからかっては遊んでいた彼女。
(後半は喧嘩ばかりだったけどな……)
蘇り始めた胸の疼痛を手で押さえながら、酒神は首を振った。
「なんでもないさ。さあ、行こう。君にやってもらうことはご覧のとおり。いくらでもあるんだ」
促すと、夏帆は「はい!」と間髪入れずに答えた。
「……まあでも、今日はゆっくりするといい。長旅で疲れてるだろうし、もうじき日も暮れる」
「いえ、やります。祖母もいってました。若い女の子が住めるような状態になっていないだろうから、初日から頑張りなって」
後ろめたい気持ちになって、ぽりぽりと頬をかく。
「あー……はい。まったくその通りでございます。じゃあ、やってくれるかい?」
「はい!」
元気よく返事をすると、夏帆は自分の頬を叩いて気合を入れた。
「やる気! 強気! 元気!」
呪文のように唱えて、ボストンバッグを持ちあげる。
(あちゃあ……)
酒神は内心で頭を抱えた。
(何それ、伝染するのその掛け声……?)
これからの生活を思って、散見されるだろう真樹子との相似点を思って、小さくため息をついた。




