赤い海が青くなる先で人魚は
海と言えば、ルビーが溶けたような赤だと、私はずっと思っていた。そして、それはずっと世界を巡って戻ってくるまで続いているものだと思っていた。だから、私の鱗は世界樹の花のように淡いピンク色をしていて、水かきも尾ヒレも炎のような色なのだと自分でそう信じていた。あの人に逢うまでは。
そうして、海を越える使命を負った彼は、まだ帰って来ない。
彼に初めて会ったのは、百をちょっと過ぎたばかりの小魚のような娘の頃だった。
親のいいつけを破って、海面まで顔を出した時だった。剣を溶かしたような、銀色のスライムの男性がじっと海原を見つめていた。ただ、きれいだと眺める顔でもなく、また何か他に辛いことがあって、慰めに見ている顔でもなかった。ただただ、海の向こうを真剣な顔で見ていた。
思えば一目惚れだったのだと思う。あんなに深い銀色を見たことも、滑らかな体を見たこともなかったから。
とっさに隠れた水音に、彼は気付いて微笑んだ。
「人魚姫がルビー色だとは思わなかったな」
赤い頬がもっと赤くなるのを感じた。私の目立たない赤色を、彼は褒めてくれた。
彼の方から声をかけてくれたから、私は近寄ることが出来たのだと思う。
そうして、私は初めて陸の上の人と話をした。
かけがえのない時間だった。初めて話したことは、もう殆ど覚えていないけれど。
また来るよ、という言葉を信じて、私は何度も海面へ通った。上に出るたび、私と彼は話をするようになった。彼は当時の私の幼稚な悩み事も静かに頷いて聞いてくれたし、少しずつだけれど自分のことも話してくれた。
大陸の北の方の、高い山で生まれたこと。貧しい家で、幼い兄弟を養うのにずっと苦労してきたこと。やっと身につけた能力で、家族に楽をさせてやれると思ったこと。そして、彼と同じように銀色だという家族が、ユウシャという者に遊び半分に殺されてしまったこと。そこまで話すと、彼は銀色の涙をぽろぽろと海に落とした。
まだ若いとはいえ大人の男の人が泣くのを、そのとき私は初めて見た気がする。やっぱり上手く慰められなくて、彼はみっともない姿を見せたね、と滲んだ眼を拭って笑った。
でも、それ以降私と彼は前よりずっと親密になれた気がしたのだった。
海面に出ていることが親にばれてしまった日、それでも私は逃げるように彼に会いにきた。もしかするともうここには来られないかもしれない。会えないかもしれない。悲しみが妙な勇気になっていた。いつものように海辺にいた彼に、私は意を決して告げた。貴方が好きだと。
そういうと、彼は銀色を光らせて驚いた。そして、ありがとう、と微笑んでくれた。自分もそうだ、という言葉に私は陸の上でさえ生きていけるような気がしていたのだった。
でも、と彼は言葉をつづけた。ごめん、と。
君が僕のせいで親に咎められることも申し訳ないと思うけれど、それよりも。
僕はもうすぐ、ここには来られなくなるだろう、と。
そうして、彼は初めて、自分の使命について語ってくれた。
彼は世界の裏側へ行かなければいけないのだという。そこは、私たちのような者を迫害している世界で、彼はその世界の人間という者に姿を変えて、旅をしなければいけないのだと。彼の家族を殺したユウシャというものを倒すために。
そして、その先できっと死ぬだろうということを。
彼は、きっと私のような娘に教えてはいけないようなことまで教えてくれたのだ。なのに、私はもう彼に会えないことだけが海鳴りのように鳴りやまなくて、ただただ涙を流して聞くしかなかった。いや、いや、と繰り返して。
彼が海へ飛び込んで、私を抱きしめてくれた。思ったよりずっと冷たくて、暖かい抱擁だった。私は声をあげて泣いた。それだけしか出来なかった。
私がようやく落ち着いた頃、彼は話してくれた。当たり障りのない、彼が見てきた世界の事を。夢を見させるつらさも、現実を与える悲しさも彼は全部知っていたから。
この美しい魔界が、海の向こうでは地獄と呼ばれること。私が生きている海は、ずっとずっと先で、青い色に変わること。赤と青とが入れ換わる境界線上で、世界を支えるように立つ大きな樹のこと。
そして、その花が私の鱗と同じ色をしていること。そこから得られる不死の雫は、彼のような銀色をしていること。
一緒に見に行けたら。私が呟くと、彼はただ優しく微笑んで、また抱きしめてくれた。それこそが別れの言葉になるだろう、それは幼い私にもわかって、私は今度こそ静かに、海の色と同じ涙を流したのだった。
その後、彼の姿が波打ち際に現れることはなかった。
風の噂に、魔王様がユウシャに倒された、と聞いた。それでも、世界は平和になった。きっと彼が、平和にしてくれたのだ。誰も彼の行方を知らなくても、それだけが私の確信だった。
そして、何年もたった今、私は世界の果てを目指している。
私のような花と、彼のような雫を、見に行くために。
そこにはきっと、彼と私が作った今があるはずだから。そして、得られなかった未来が眠っているはずだから。
私は海面に出て、波打ち際を見た。
誰もいない浜辺に、地獄の海風はいつものように優しい歌を歌った。