話せない役立たずだと婚約破棄されましたが、私の言葉を待つ年下王子に愛されています
私は、人前で話すことがほとんどできません。
伝えたい言葉は、頭の中にあります。けれど、それを声にしようとすると、喉が固く閉じてしまうのです。
ですから、大切なことはいつも文字で伝えてきました。
婚約者から別れを告げられた、このときも。
「リリア・ブルーメ。君との婚約を破棄する」
ローレル様は、晴れやかな顔でそうおっしゃいました。
その周囲には、濁った色が漂っています。
人の感情は、私の目に色のようなものとして映ります。
嬉しいときや誰かに好意を抱いているときは、明るく温かな色。悲しみや不安を感じているときは、暗く冷たい色。そして、悪意や後ろめたいことがあるときは、泥を混ぜたように濁ります。
ただし、それだけです。
心の中で何を考えているかも、なぜその感情を抱いたのかも分かりません。色が見えるからといって、何もかもお見通しというわけではないのです。
もっとも、今回は考える必要もなさそうでした。
ローレル様の隣には、私の双子の姉であるダリアが立っていたからです。
「私は、ダリア嬢と結婚する」
やはり、そういうことでしたか。
ここはブルーメ公爵家の応接室です。
お父様とお母様、ローレル様、ダリア。そして私。
家族だけで話を済ませようという、せめてもの配慮なのでしょう。大勢の貴族が集まる夜会で宣言されるよりは、ありがたいことです。
そう思うことにします。
「何か言ったらどうだ」
お父様に促され、全員の視線が私へ集まりました。
喉がきゅっと狭くなります。
息はできるのに、声だけが出ません。
「まったく。こういうときですら、何も話せないのね」
お母様の周囲が暗く濁りました。
これまで何度も見てきた、失望の色です。
「気持ちの問題だと、何度言えば分かる。話そうとする努力すらできんのか」
「お父様」
ダリアが小さな声で止めました。
姉の周囲では、明るさと暗さが入り混じっています。心配と後ろめたさでしょうか。
優しい色です。
けれど、ダリアは私の隣には来ませんでした。
ローレル様の隣に立ったまま、ドレスの裾を握っています。
「リリア。君は妻として私を支えられない」
ローレル様は、私に言い聞かせるように続けます。
「人前で挨拶もできない。客人をもてなすことも、領民へ言葉をかけることもできない。これから領地を治めていく私には、ダリアのように皆を導ける女性が必要なのだ」
机の上には、領地の収穫量をまとめた報告書が置かれていました。
昨夜まで私が書いていたものです。
長雨で三割減った小麦。冬までに足りなくなる備蓄。値上がりを見越して買い占めを始めた商家の名前。援助を優先すべき七つの村。
どれも、机の上だけで分かることではありません。
私は三月かけて、村を回りました。
顔を合わせても、私は挨拶ができません。ですから、はじめに手帳を見せます。
声が出ないこと。話は書いて伝えること。ゆっくりでよければ聞かせてほしいこと。
最初の村では、五人に断られました。
六人目の老婆が、しばらく私の手帳を眺めたあと、椅子を出してくれました。
それからは、少しずつです。
畑の隅で、井戸端で、納屋の前で。私は書いて尋ね、相手が話し終えるまで待ち、また書きました。
言葉と色がずれている方には、時間をかけました。大丈夫だと笑う方の周囲が暗く沈んでいれば、その日はもう一度訪ねました。
夜は屋敷に戻り、聞いた話を整理します。
数字を並べ、人の名前を並べ、書き損じた紙を燃やして、また書きます。蝋燭が短くなるころに、ようやく一枚が仕上がる日もありました。
そうして出来上がったのが、今、机に置かれている報告書です。
けれど、会議で説明したのはダリアでした。
私が人前で話せないからです。
それを、誰も不思議には思わなかったのでしょう。
「先日の水路を巡る争いも、ダリアが見事に収めてくれた。彼女ならば安心して領地を任せられる」
その解決策を書いたのも私です。
両方の村の言い分を並べ、どこで基準がずれているかを見つけるのに、半月かかりました。
どうやらローレル様は、ご存じなかったようです。
私はダリアを見ました。
姉の色が、さらに暗くなります。
「……リリア、ごめんなさい」
ダリアは謝りました。
ですが、真実を話してはくれませんでした。
ダリアは私を嫌っているわけではありません。私が困っていれば手を握ってくれますし、言葉に詰まれば、代わりに話してくれました。
ただ、私が考え、ダリアが話す。
その関係を、私たちはあまりにも長く続けてきました。
姉にとっても、それが当たり前になっていたのでしょう。
「ローレル殿の判断は正しい」
お父様が言いました。
「ダリアが次期公爵夫人となる。リリア、お前は修道院へ行け」
修道院。
なるほど。
婚約を破棄したうえで、私のこれからまで決めるおつもりなのですね。
胸が痛くないと言えば、嘘になります。
十年以上、婚約者として支えてきた方に、何一つ見てもらえていなかったのです。
両親にも、私は話せない役立たずとしか思われていませんでした。
ダリアも、私のためにすべてを捨ててくれるわけではありません。
悲しいです。
とても、悲しいです。
けれど、その悲しみの底から、別の感情が浮かび上がってきました。
不思議なほど、軽やかなものでした。
ああ。
もう、我慢しなくてもよいのですね。
お姉様の代わりに、夜遅くまで書類を作ることも。
お父様の機嫌を読み、叱責される前に問題を片づけることも。
ローレル様の望む答えを察して、必死に文章を考えることも。
もう、すべてやめてよいのです。
私は机の上の紙を一枚取り、ペンを持ちました。
五人分の視線が手元に集まります。
急かされても、筆は止まりません。
声よりも、文字の方がずっと素直です。
『婚約破棄を承知いたしました。また、公爵家から出ていくことにも異存はありません』
そこまで書くと、ローレル様が満足そうに頷きました。
まだ続きがあります。
『ですが、修道院へ行くつもりはありません。どこで、どのように生きるのかは、私が決めます』
「お前に行く場所などあるものか!」
お父様の怒声が響きます。
ありません。
今のところは。
けれど、行き先がないことと、行き先を選べないことは、別の話です。
『今後、私が領地の書類を作成することもありません。管理していた記録は、担当者へお返しいたします』
「待ちなさい」
お母様が慌てた声を上げました。
「あなたが書類を作らなければ、ダリアが困るでしょう」
私は首を傾げました。
おかしな話です。
役に立たない娘がいなくなるだけなのに、どうしてダリアが困るのでしょう。
『お姉様なら、私よりも立派に務められると、皆様がおっしゃいました』
書いた紙を、お父様の前へ差し出します。
「お前なぞ、この家には必要ない!」
以前の私なら、きっと震えていたでしょう。
声を出そうとして、出せなくて、苦しくなっていたはずです。
けれど、今は違います。
必要ないのなら、仕方ありません。
私にも、この家を必要とし続ける理由はないのですから。
私は立ち上がり、ゆっくりと頭を下げました。
扉のそばでは、私付きのメイドであるミモザが待っています。
目が合うと、彼女は何も尋ねずに微笑みました。
その周囲に浮かぶ明るい色を見て、胸の奥が少しだけ温かくなります。
私は生まれて初めて、自分のために扉を開けました。
※
「星の国へ、いらっしゃいませんか」
部屋に戻るなり、ミモザはそう言いました。
私は旅行鞄へ入れようとしていた本を落としかけました。
星の国――セレスティア王国は、フローレア王国の東にある隣国です。銀色や金色の髪を持つ王族が治める、夜空の美しい国だと聞いています。
『どうして、星の国なのですか』
小さな手帳に書いて見せると、ミモザは胸に手を当てました。
「実は、わたしの生まれ故郷なのです。叔母が王宮の文書室で働いております」
初耳です。
「お話ししていませんでしたから」
顔に出ていたようです。
「叔母から、書記官が足りないと何度も手紙が届いております。身分よりも、試験の結果を重んじる国です。リリア様なら、きっと」
ミモザはそこで口を閉じました。
私が答えるまで、静かに待ってくれます。
彼女はいつもそうでした。
私が声を出せずにいても、「早く」と言いません。代わりに答えることもありません。
「……わ、たしが?」
どうにか、それだけ尋ねました。
「はい。ダリア様の妹ではなく、リリア様ご自身のお仕事です」
私自身の仕事。
その言葉を胸の中で繰り返します。
ミモザに連れていってもらうのではありません。
お父様から逃げるためだけでもありません。
私が選んで、私が試験を受け、私が働くのです。
『行きたいです』
書いてから、首を横に振りました。
これは、声で言いたいと思いました。
「……い、行き、たい、です」
やっぱり、言い終えるまでに随分と時間がかかります。
でも、ミモザは待ってくれました。
そして、嬉しそうに笑いました。
「はい。一緒に参りましょう」
翌朝、私たちは公爵家を出ました。
持っていったのは、衣服と本。それから、自分で書いた報告書の写しだけです。領地の機密や、家の財産に当たる記録はすべて置いてきました。
私の仕事だったという証明を、何も持たずに出ていくのは悔しかったからです。
馬車の窓から屋敷を振り返ると、二階の窓にダリアの姿が見えました。
姉の周囲には、暗い色が広がっています。
私は小さく手を振りました。
ダリアも手を上げましたが、追いかけてはきませんでした。
それでよいのだと思います。
私の人生を私が選ぶように、ダリアも自分の人生を選ばなくてはなりません。
※
セレスティア王国の王宮で行われた書記官採用試験は、私が考えていたよりも難しいものでした。
山積みの記録から不自然な数字を探し、請願書を要約し、立場の異なる三人へ送る返書をそれぞれ書きます。
声を出す試験がなかったことだけは幸いでした。
結果は、三十七人中、二番。
一番でなかったのは少し残念です。
「そこ、残念がるところですか?」
ミモザには笑われました。
ともかく、私は王宮文書室の下級書記官として採用されました。
住み込みの小さな部屋と、お給金もいただけます。
初めて受け取った銀貨を机に並べ、何度も数えました。
自分で働いて得たお金というものは、眺めているだけで嬉しくなるようです。
私の最初の仕事は、外国使節を迎える挨拶文を清書し、第二王子へ届けることでした。
第二王子アステル殿下は十五歳。
本来なら、使節の歓迎は十八歳の王太子殿下が務めるはずでした。しかし、王太子殿下が急な熱を出し、弟君が代役を任されたのです。
私は文書室長から預かった原稿を抱え、控えの間へ向かいました。
「入れ」
扉の内側から聞こえた声は、少年らしさを残しながらも、よく通るものでした。
部屋にいた方を見て、私は一瞬、息をのみました。
黒い髪。
夜よりも深い、艶のある黒です。少し長い前髪が目元へ流れています。その下から、夜明け前の空を思わせる青灰色の瞳が、警戒するように私を見つめていました。
まだ少年らしい細い肩を、王族の色である青と金の上着が包んでいます。華やかな衣装にも負けない整った顔立ちは、どこか中性的で繊細でした。
星の国の王族は、銀色や金色の髪で知られています。廊下に飾られた歴代国王の肖像画も、皆、星明かりのような髪をしていました。
その中で、アステル殿下だけが黒髪なのだそうです。
ですが、私が驚いたのは髪ではありません。
殿下の周囲に、金色が見えたからです。
人の感情には、明るい色も、暗い色も、濁った色もあります。
けれど、金色など一度も見たことがありません。
今、その金色は光を失い、細く震えていました。
不安なのでしょうか。
「何を見てる」
鋭い声を向けられ、私は慌てて頭を下げました。
原稿を差し出します。
「……文書室の者か。そこに置いて、もう下がれ」
私は原稿を机へ置きました。
ですが、足が動きません。
使節が到着するまで、あと半刻もありません。殿下の前には手つかずのお茶が置かれ、指先は小さく震えています。
「下がれって言っただろ」
金色が、さらに細くなりました。
怒っているように見えて、実は違うのかもしれません。
私は手帳を取り出しました。
『怖いのですか』
「な……」
殿下の顔が赤くなりました。
「失礼なやつだな。僕が、たかが挨拶を怖がってるとでも思ったのか?」
私は頷くべきか迷いました。
正直に頷けば、不敬でしょうか。
迷っているうちに、殿下は力なく椅子へ腰を下ろしました。
「兄上なら、こんなことで怯えたりしない」
先ほどとは違う、小さな声でした。
「外国の者が期待しているのは、銀髪の王太子だ。なのに、現れるのは僕だぞ。星の祝福も持たない、黒髪の第二王子だ。がっかりするに決まっている」
殿下は、自分の前髪を乱暴につかみました。
「肖像画では、髪を少し明るく描かせている。宮廷の者は何も言わないが、知っているんだ。せめて兄上のような色ならと、皆が思っている」
濁りのない金色の光が、弱まりました。
少なくとも、この方は嘘をついていません。
私は椅子の前へ膝をつき、手帳へ書きました。
『私には、人の気持ちが色のように見えます』
「……色?」
『殿下には、今まで誰にも見たことのない色があります』
「どんな色だ」
『金色です』
アステル殿下は目を見開きました。
それから、自嘲するように口元を曲げます。
「僕を慰めるために、髪とは反対の色を選んだのか?」
違います。
私は強く首を横に振り、新しい頁を開きました。
『黒は、星のない色ではありません』
一行空けて、続きを書きました。
『星をいちばん美しく見せる、夜空の色です』
銀色や金色は、それだけでも美しく輝きます。
けれど、星々が最も美しく見えるのは、深い夜の中です。光を持たないのではありません。どんな光も受け止め、輝かせることのできる色なのです。
私は、殿下の黒髪が劣っているとは思いませんでした。
夜空を切り取ったようで、とても綺麗だと思ったのです。
アステル殿下の指が、黒い前髪から離れました。
「そんなふうに言われたのは、初めてだ」
強がりの消えた、幼い声でした。
しばらく文字を見つめたあと、殿下は小さく息を吐きました。
「お前、花の国の者なのか」
私は頷きました。
「声が出ないのか?」
また、頷きます。
「それで、僕に挨拶の仕方を教えるつもりか」
意地悪な質問です。
ですが、その金色は先ほどよりもわずかに明るくなっていました。
私は原稿の長い文章へ線を引き、余白に短い一文を書きました。
『すべてを立派に話す必要はありません。一番伝えたいことを、一つだけ話せばよいと思います』
私自身には難しいことを、随分と偉そうに書いてしまいました。
殿下は私と原稿を交互に見たあと、突然笑いました。
「そうだな。君に言われると、妙に説得力がある」
失礼な方です。
それでも、金色が初めて温かな光を放ったので、私も少し嬉しくなりました。
※
その日のアステル殿下は、用意された美辞麗句をほとんど口にしなかったそうです。
「兄の代わりにはなれませんが、この国を好きになっていただきたい気持ちは、兄にも負けません。心から歓迎します」
そう短く述べ、自ら使節を庭園へ案内しました。
使節たちは失望するどころか、若い王子の率直な歓迎を大いに喜んだと聞きました。
私は文書室へ戻る途中、背後から呼び止められました。
「待ってくれ」
振り返ると、アステル殿下が駆けてきます。
王子殿下が廊下を走ってよいのでしょうか。
「挨拶は、うまくいった。君のおかげだ」
うまくいったことは、知っています。
文書室には、すでに知らせが届いていました。
「それで……君の名を聞いていなかった」
手帳を開こうとすると、殿下が私の手をそっと押さえました。
「できれば、君の声で聞きたい。急がなくていいから」
金色が、穏やかに輝きます。
待つと言った言葉に、濁りはありません。
私は息を吸いました。
「……リ、リ……リリア」
短い名前を言うだけで、顔が熱くなりました。ひどく不格好な名乗りです。
殿下は笑いませんでした。
私が最後まで言い終えてから、宝物を確かめるように繰り返しました。
「リリア。うん、リリア」
その瞬間、金色が眩しいほどに輝きました。
「リリア。明日も僕のところへ来い」
それから殿下は、何かにつけて私を呼ぶようになりました。
挨拶文の相談。本の感想。庭園に咲いた花の名前。
最後のものは、どう考えても書記官の仕事ではありません。
初めのうちは用件が済めばすぐに下がっていましたが、いつしかお茶を一杯飲み終えるまで、殿下の話を聞くようになりました。
殿下の金色が明るく輝くたび、次に呼ばれる日を楽しみにしている自分がいました。
※
それから三年が過ぎました。
私は二十歳になり、王族付きの書記官兼相談役を務めています。
人前で話すことは、今も得意ではありません。
大勢に見つめられると声が出ませんし、ミモザと二人きりでも、お喋りになるわけではありません。
ですが、話せないことと、伝えられないことは同じではありませんでした。
王宮には、話すのが上手な方が大勢います。
その一方で、話を聞くのが上手な方は、意外と少なかったのです。
私は請願人を一人ずつ別の部屋へ案内し、言葉と感情のずれを記録しました。怒って見える方が、本当は何かを恐れていることがあります。笑って同意する方の色が、ひどく濁っていることもあります。
もちろん、色だけで答えは決めません。
質問を書き、返事を待ち、記録を照らし合わせます。
そうしてまとめた文書は、「自分でも説明できなかった気持ちが書かれている」と、少しずつ信頼されるようになりました。
ちなみに、私が仕事で顔を合わせるのは、文官や請願人の方々ばかりです。
王族の方々と間近で言葉を交わす機会は、アステル様以外にほとんどありません。国王陛下も王太子殿下も、私にとっては謁見の間の遠い席から見上げるお姿でしかないのです。
ですから、あの金色が王族の方に共通するものなのか、それともアステル様だけのものなのか。
私には、確かめようがありませんでした。
今日も私は、若い文官のデネブ様と机を挟んで座っていました。
「この二つの村は、どちらも水路を広げたいと言っています。しかし予算は一方にしか出せません」
デネブ様が地図を指します。
私は双方の陳情書を読み、数字の違いに印をつけました。
『北の村は収穫量を、南の村は世帯数を基準に必要性を訴えています。同じ基準で比べていないため、互いに不公平だと感じているようです』
「なるほど。では、両方の数字を揃えて――」
「随分と楽しそうですね」
背後から、よく知る声がしました。
振り返ると、十八歳になったアステル殿下が立っています。
三年前より頭一つ分ほど背が高くなり、細かった肩も逞しくなりました。長めの黒髪を流した髪型は、あのころと変わりません。けれど、両目をまっすぐ見せる青灰色の眼差しも、輪郭の引き締まった顔も、もう少年のものではありません。
今では夜空の王子と呼ばれ、民からも慕われています。
もう少年ではないのです。
分かっています。よく、分かってしまうのです。
ですから、昔と同じ無防備な笑顔でこちらを覗き込まないでいただきたいものです。
私の心臓はもう、少年だったころの殿下と同じようには扱えません。
「殿下。この件は、殿下の管轄ではないはずですが」
デネブ様が立ち上がりました。
「地方行政も学んでいます。勉強のために同席しましょう」
確かに、王族として地方の実情を知ることは必要でしょう。
ですが、その金色を見る限り、勉強だけが目的ではなさそうです。
アステル殿下は私の隣へ椅子を運びました。
椅子の脚が床を滑り、私のすぐ隣で止まりました。
書類を覗き込む黒髪が肩へ触れそうで、文字に集中できません。
金色が、ぱちぱちと小さな火花を散らしています。
初めて見たころには分かりませんでしたが、これは殿下が機嫌を損ねたときの光り方です。
「デネブ。あとは僕が聞きます。君は戻っていい」
「しかし――」
『デネブ様にも必要な相談です』
私が手帳を見せると、アステル殿下の金色が激しく弾けました。
「……そうですか」
声は穏やかです。
まったく穏やかではない色をしていますが。
結局、三人で審議を終えました。
デネブ様が退室すると、アステル殿下は扉が閉まるのを待ってから尋ねました。
「あいつの色、何色だった?」
『明るい色です』
仕事がまとまったのですから、当然です。
「僕より明るかったのか?」
何の比較なのでしょう。
私が首を傾げると、アステル殿下は不満そうに唇を結びました。
「別に。何でもないさ」
金色の火花が増えました。
どうやら、嘘をついているようです。
『私が誰と話すかは、私が決めます』
そう書いて見せると、火花が消えました。
「……そうだな。分かった」
アステル殿下は、叱られた犬のような顔になりました。
少しかわいそうです。
けれど、ここで顔色を読んで譲ってはいけません。
私はもう、誰かの機嫌に合わせて生きるつもりはないのです。
「仕事の邪魔して、悪かった」
殿下は素直に謝り、席を立ちました。
金色が暗く沈んでいきます。
それは、それで困ります。
「……アステル様」
声が出るまで、背中へ何度も息を送りました。
ようやく呼び止めると、殿下が勢いよく振り返ります。
「何だ?」
「……いちばん、です」
言ってしまいました。
告白ではありません。
誰と話す時間が一番なのか。それだけは、きっと伝わったはずです。
それなのに、アステル殿下の金色は、窓から射す朝日のように部屋いっぱいに広がりました。
「僕も」
殿下は私の前へ戻ってきます。
「君といる時間が一番好きだ。できることなら、朝も昼も夜も、ずっと僕のそばにいてほしい」
言い方が大げさです。
殿下にとっての私はきっと、姉のような存在なのでしょうから。
三年前、不安に震えていた少年を励ましたせいで、随分と懐かれてしまいました。
「リリア」
殿下が私の手を取ります。
顔が近づきました。
これは本当に困るんです。
小さかった少年を今さら男性として意識するなんて、何かいけないことをしているような気持ちになります。
「僕はもう、子供じゃない」
心の中まで読まれたのでしょうか。
「次の舞踏会、僕の相手をしてほしい」
それは弟が姉へ頼むようなものではないじゃないですか。
期待してしまいそうになります。
けれど、私は公爵家から捨てられた、異国の書記官です。人前ではまともに挨拶もできません。
王子妃になれるはずがありません。
それでも、断りたくありません。
私は小さく頷きました。
アステル殿下の金色が、また眩しく輝きます。
……うぅ。本当に殿下は、ずるいです。
※
その日の夜、扉が叩かれました。
「リリア様。フローレア王国から、お手紙が届いております」
ミモザが差し出した封筒には、懐かしい花の紋章が押されていました。
差出人はダリアです。
胸の奥が、かすかに痛みます。
三年ぶりの姉の文字は、記憶よりも少しだけ乱れていました。
『リリアへ。
この手紙を、何度も書き直しています。
あなたがいなくなってから、領地では問題が続いています。
水路を巡る村同士の争いが再び起こり、小麦の買い占めを止められず、冬には多くの領民を不安にさせてしまいました。
はじめのころ、私は毎日あなたの部屋の前に立っていました。
あなたが置いていった机を見て、どうして何も教えずに行ってしまったのだろうと思いました。ひとこと相談してくれれば、私が父上を説得したのに、と。
そんなことを考えている自分に気づいたとき、ようやく分かったのです。
私はまだ、あなたに答えを持ってきてもらうつもりでいたのだと。
あなたを失って困っているのではありません。あなたに考えてもらえなくなって、困っていたのです。
私は皆の前で上手に話すことはできます。けれど、何を話せばよいのかを、何一つ自分で考えていませんでした。
ローレル様も、お父様も、ようやくあなたが書類を作っていたことを知りました。ローレル様は、婚約破棄を取り消すと言っています。お父様は、あなたをすぐに呼び戻せとおっしゃっています。
正直に申しますと、私も一度は、その方がよいと思ってしまいました』
そこで一度、文字が滲んでいました。
姉が泣いた跡かもしれません。
『けれど、戻らなくてよいのです。
私はあなたを大切に思っていました。それなのに、あなたが助けてくれることを当然だと思い、何も返していませんでした。
あの日も、あなたの隣に立つことができませんでした。
本当に、ごめんなさい。
お父様には、私から戻らないと伝えます。領地のことも、これからは私が考えます。失敗しても、誰かに答えをもらうのではなく、自分で責任を取ります。
ですから、リリアも自分の望む場所で生きてください。
あなたの幸せを祈っています』
読み終えた手紙の上へ、涙が一粒落ちました。
ダリアのことを嫌いになったわけではありません。
むしろ、好きだからこそ、もう姉の代わりに考えてはいけないのだと思います。
私は返事を書きました。
『お姉様へ。
私は戻りません。
ローレル様との婚約を結び直すつもりもありません。
ですが、お姉様を恨んでもいません。
お姉様なら、きっと大丈夫です。
私も、こちらで自分の幸せを選びます』
水路の解決策も、小麦を安く仕入れる方法も書きませんでした。
それは冷たいことではないのでしょう。
ダリアが自分で立つためにも、必要なことなのです。
返事を封筒へ入れると、胸の中に残っていた重いものが、ようやく消えました。
※
その夜、私は眠れませんでした。
私も、こちらで自分の幸せを選びます。
自分で書いた一行が、何度も浮かんできます。
お姉様には偉そうなことを書いたのに、私は自分の幸せを、まだ一つも選んでいませんでした。
何度寝返りを打っても、アステル様の顔が浮かびます。
昼間に握られた手が、まだ熱を覚えているような気がします。
あの距離を拒まなければならないと思う一方で、二度と触れられなくなることを想像すると、胸の方が先に嫌だと訴えました。
私はずっと、あの方の金色を見るのが好きでした。
いいえ。
もう、自分に嘘をつくのはやめます。
私は、アステル様が好きです。
初めは、傷ついた少年を放っておけないだけだと思っていました。やがて、真っすぐ成長していく姿を見るのが嬉しくなりました。
誰かの前で話すときは今でも怖いのに、アステル様がそばにいると、もう少しだけ頑張ってみようと思えます。
好きです。
身分が違っても、年下でも、伝える前から諦める必要はないはずです。
私は、もう我慢しないと決めました。
恋だけを我慢するのは、おかしな話です。
明日、伝えましょう。
声が出なかったときのために手紙も書きます。けれど、できるなら最後の一言だけは、自分の口で言いたいです。
便箋を取り出したところで、扉の外に足音が止まりました。
「リリア様。まだ起きていらっしゃいますか」
ミモザです。
姉からの手紙が気にかかっていたのでしょう。
私は扉を開け、手帳へゆっくり書きました。
『明日、アステル様へ気持ちを伝えます』
ミモザは驚いたあと、ゆっくりと笑いました。
「赤いドレスをご用意いたしますね」
「……どう、して?」
「勝負の日なのでしょう?」
何もかも分かっているような顔でした。
※
翌日の夕暮れ、私は王宮の星見の塔へ向かいました。
赤いドレスは派手すぎるので断りました。代わりに、淡い青色のドレスを選びました。
アステル様の黒髪に、一番似合う色だと思ったからです。
塔の上では、呼び出したアステル様が先に待っていました。
「リリア」
私を見るなり、金色が明るく輝きます。
「そのドレス、すごく似合ってる」
私は胸元を押さえ、小さく頭を下げました。
お礼の一言さえ、今は喉の奥で固まっています。
これから告白しなければならないのです。
先が思いやられます。
「話があるって聞いたんだが」
私は頷きました。
私は胸元に隠した手紙へ触れました。
渡してしまえば簡単です。
でも、私は自分の望みを、自分の声で伝えたいのです。
「わ、私は……ア、アステル様の……」
喉が固まりました。
息を吸っても、次の音が出てきません。
金色が少しだけ曇りました。
「僕の?」
急かす声ではありません。
ただ、ひどく不安そうです。
私はもう一度、息を吸いました。
「お、おそばに……いたい、です。これからも……ずっと」
言えました。
アステル様が目を見開きます。
「それ、期待していいのか?」
金色が落ち着きなく散っています。
答えは一つしかないのに、声が続きません。
焦れば焦るほど、喉が締まります。
いつの間にか、私は両手を強く握りしめていました。
その手を、アステル様が包みました。
「全部話そうとしなくていい」
青灰色の瞳が、真っすぐ私を見つめています。
「僕はずっと、ここにいる」
続きを言われることも、代わりに答えを決められることもありません。
三年前と同じように、アステル様はただ待ってくれました。
私はゆっくり息を吐きました。
伝えたいことは、たった一つです。
「……す、好き、です」
夜の始まりを告げる鐘が鳴りました。
アステル様の金色が、一瞬で辺りを満たします。
「僕もだ」
強く抱きしめられました。
「君に出会った、あの日からずっと」
「……わ、私は、ア、アステル様みたいに……若く、ありません」
「二十歳で何を言ってるんだ。僕と二つしか違わない」
私はアステル様の胸元にある王家の紋章へ目を向け、それから自分のドレスをつまみました。
王子と、祖国から捨てられた令嬢。
その違いに気づいたアステル様が、私の手を握り直します。
「僕は三年かけて、父上と兄上を説得した」
三年。
「王族付きの相談役として実績を積んだ君なら、もう誰も反対できない。あとは、君の気持ちだけだった」
随分と用意周到です。
「それなのに、いつまでたっても弟扱いするし、デネブとは楽しそうに仕事するし……」
金色の中に、また小さな火花が散りました。
「今日の話が『本当の弟のように思っています』だったら、どうしようかと思ったよ」
私は先ほどまで曇っていた金色へ目を向けました。
「ん? もしかして、僕が君を好きだったこと、見えてたのか? 金色って……」
首を横に振ります。
私は手帳を開きました。
『金色はアステル様にしか見えませんでした。王族の魔力なのだと思っていました』
「……魔力?」
『陛下も王太子殿下も、遠くからしか拝見したことがありません。確かめる機会がなかったのです』
アステル様はしばらく黙ったあと、額を押さえました。
「僕の三年間は、王族の魔力に負けたのか」
申し訳ありません。
けれど、求婚めいた言葉を冗談のようにおっしゃるアステル様にも、少しは責任があると思います。
「じゃあ、改めて言う」
アステル様は私の前へ片膝をつきました。
「リリア・ブルーメ。僕と結婚してほしい。たった一人の愛する女性として、ずっとそばにいてくれ」
今度は冗談だと思いませんでした。
金色が、どこまでも澄んでいたからです。
私は答えようとしました。
けれど、嬉しさで胸がいっぱいになり、また声が出なくなりました。
アステル様は笑って待っています。
「花が咲くまでには、時間がかかるんだろう? だったら僕は待つ。君の答えが咲くまで、いくらでも」
私が殿下を好きな理由が、この言葉に詰まっていました。
「……よ、よ……喜んで」
ようやく答えると、夜空の下で金色が弾けました。
この色の名前を、私はようやく知ったのです。
※
それからも、私は上手に話せるようにはなりませんでした。
人前では声が出なくなることがあります。一つの言葉を伝えるだけで、随分と時間がかかる日もあります。
ですが、もう焦る必要はありません。
文書室の人々も、相談に来る方々も、私が手帳を開くのを待ってくれます。
ダリアからは、ときどき手紙が届きます。
以前のように答えを尋ねるものではありません。
『私はこうすると決めました』
そう、自分の決意を知らせてくれる手紙です。
ローレル様との婚約は白紙に戻し、公爵家の仕事を一人で学び直しているそうです。両親とは衝突が絶えないようですが、姉はもう私へ助けを求めません。
きっと、ダリアも自分の人生を歩き始めたのでしょう。
そして私の隣には、言葉を待ってくれる人がいます。
「リリア。さっき話してた新人書記官、誰?」
ただし、少々嫉妬深いのが困りものです。
私は手帳へ『仕事仲間です』と書きました。
「本当に?」
金色の火花が散っています。
『……好きなのは』
「ア、アステル様、です」
アステル様の金色が、星空よりも眩しく輝きます。
私はもう、誰かの望む言葉を探して生きてはいません。
自分の行き先も、仕事も、幸せも、自分で選びます。
そして、伝えたい言葉は、どれほど時間がかかっても、自分の声で伝えていくのです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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