史的な夜話 其の二十六
いつも通り、大した話では無いです。
本䏻寺の変を追い掛けていますと最低一回は織田信長の伝記を読むことになります。
実際、今に至るまで何度読んだかは数えても居ませんが、本䏻寺の変以外にも幾つか興味を持っていることがあります。
その中の一つに比叡山延暦寺を攻めた話が有ります。
随分と前にも気になって一度、調べてみたことも有るのですが、その時は中途半端に終わってしまいました。
大河ドラマなどでは信長に命じられた秀吉、光秀らが頭を抱えながらも命令に従って延暦寺を攻めますし、光秀が後に信長を討つ理由の一つになったりもしています。
十年以上も前ですが、信長が延暦寺を攻めた件について調べたようと思ったことがありました。
すると信長よりも前に延暦寺を焼いた人が居たことを知りました。
織田信長が延暦寺を攻めたのは元亀二(一五七一)年九月十二日ですが、それよりも七十二年ほど前、明応八(一四九九)年七月十一日に細川政元が部下の赤沢朝経、波々伯部宗量に命じて延暦寺を攻め、延暦寺にある建物も焼いています。
細川政元という人物に関しては最近、古野貢氏の「オカルト武将・細川政元」と言う書籍が朝日新書から発刊されています。興味のある方はWikipediaと合わせて読まれることをお勧めします。
この政元、当時としては随分と変わった性分だったらしいのですが、この話は本筋から離れるので今は控えておきます。
足利幕府には三管領四職と言って斯波、細川、畠山の三家が管領を務め、四職は一色、赤松、京極、山名の四家が将軍を支えていました。
特に政元は半将軍と言われるほどの権力を持っており、将軍の義材を追い出して義澄を十一代目の将軍として就任させています。
明応二(一四九三)年四月二十二日の夜から翌二十三日掛けて政元らが義材を将軍職を奪い、一旦は洛内で幽閉されます。しかし、義材は六月二十九日に脱出、越中国の守護代である神保長誠を頼っていき、ここで再起を図ります。
そして明応七(一四九八)年八月、義材は義尹と改名、九月には越前国の朝倉氏を頼って移動しています。
明応八年二月には義尹を支持する畠山尚順が河内国で政元派を負かして河内国、和泉国、大和国を支配下に収めます。
義尹は尚順と連携を取りつつ、上洛を目指すことになります。
延暦寺も義尹を支持することを決め、義尹派の武将達が比叡山延暦寺に集まったそうです。
こうして政元は延暦寺を攻撃することを決めて部下の赤沢朝経、波々伯部宗量の二人に命じて明応八年七月十一日、二人は軍を率いて延暦寺に攻め入り、義尹派の武将らを殺し、合わせて主要な建物へ火を着けて回った結果、残った建物は僅かだったそうです。
この時の焼き討ちに関しては当時の人らの日記などでも多くは語られて居らず、一行二行で記されているだけです。
一方、織田信長が延暦寺を焼き討ちした時には「信長公記」にも僧や女子供を殺した、真偽はべつにしても人数も記されています。
政元の命令で延暦寺が焼かれた後、どれだけの建物が復興したのか、この辺りも謎らしくて近年の調査では
話を細川政元へ戻しますが、政元は永正四(一五〇七)年六月二十三日に行水の最中を狙われて暗殺されてます。
政元の命を狙ったのは香西元長と言う、政元にとっては部下の一人です。この元長は自身の間諜である竹田孫七に命じて政元を襲わせています。
信長は部下の光秀に襲われましたが、原因についてはまだ謎です。
香西元長は何故、主人である政元を暗殺するに至ったのか。
政元は結婚をせずに澄之、澄元、高国と養子を三人迎えています。
香西元長は澄之を後継者として推していたようですが、澄之は細川家とは全く関係の無い公家の九条家から迎えられており、多くの人は同じ細川家から養子に迎えられた澄元を推しており、後継者を巡る派閥争いから政元は暗殺されたと言われています。
澄之は澄元、高国らと戦って八月一日には自害、澄元が政元の跡を継いだと思いきや、今度は澄元と高国が政元の跡、細川家の家督を巡って争うこととなります。他にも色んな人の思惑が入り混じりますが、面倒なので書くのを控えておきます。
足利義尹は政元、澄之が相次いで亡くなった後も義澄と争い、京都へ戻ろうと努力をします。
そして中国地方の大内義興の力を借りて永正五(一五〇八)年に上洛を開始、義澄を京都から追い出して七月一日には将軍の地位へ戻ります。
義尹は永正十(一五一三)年十一月九日に義稙へと名を変えます。
そして義稙と義澄のまだまだ争いは続くのですが、永正十八(一五二一)年三月七日に義稙は出奔してしまいます。
残された幕臣らは義澄の子である義晴を招いて将軍職を継いで貰っています。
一方、出奔した義稙は実子が居なかったので義晴の兄弟である義維を養子に迎え、争いは続いていきます。
残念ながら義維は将軍になれませんでしたが、その子の義栄は十四代目の将軍に就任します。
政元関連はこの辺りで話を終えて似たような事例を紹介していきます。
足利幕府の六代目将軍である義教、この人は義満の四男か五男と伝わっています。兄である義持が将軍の継承者としていたこともあり、他の兄弟と同じ出家して義円と名乗り、天台座主に就任します。
天台座主という役職ですが、Wikipediaによりますと延暦寺の住職であり、末寺の管理を行う役職でもあるようです。
但し、この天台座主に就いたのは皇族や公家、武家の子が多く、一種の名誉職なのか、その様にも思ってしまいます。
兄で将軍の義持は応永三十(一四二三)年三月十八日に息子の義量へ将軍職を譲ります。
義量は応永十四(一四〇七)年の生まれですから早い内から経験を積ませようとか、そう言う気持ちだったのかもしれません。しかし、応永三十二(一四二五)年二月二十七日に義量が先に亡くなるという不幸が起きます。
その後、義持は次の将軍を決めることは無く、将軍の職務を代行することとなる。
結局、次の将軍を決めることが無いまま応永三十五(一四二八)年一月十八日に義持も亡くなる。
義持が亡くなる前に家臣らは次の将軍を決めることとなる。
後継者には義円を含めて義持の弟四人がいて籤引きで選ばれることとなり、その結果として義円が六代目の将軍と決まった。
ちなみに義教は天台座主の地位を弟である義承に譲っています。
永享五(一四三三)年七月に延暦寺が幕臣を訴えます。この時は義教が折れたのですが、延暦寺は足並みを揃えなかったと言って園城寺を焼き討ちにします。これに怒った義教は園城寺の僧兵と一緒に比叡山を包囲し、延暦寺から和睦を引き出します
翌年七月、また延暦寺と義教はもめることとなり、また義教は軍で比叡山を包囲することとなる。
永享七年二月、延暦寺から三名の僧が義教を訪ねてくるのですが、義教は三名を捕らえて首をはねます。これに対して延暦寺では二十四名の僧が根本中堂という、延暦寺で派重要な建物へ入って抗議の意味を込めて焼身自殺を遂げます。
その後、義教が中心となって根本中堂は再建されますが、嘉吉元(一四四一)年六月二十四日、赤松満祐の屋敷へ招かれて猿楽を鑑賞中に殺されるという最期を迎えます。
最後に織田信長ですが、元亀元(一五七〇)年四月に越前国へ朝倉義景と討伐に出かけるが、妹婿である浅井長政の裏切りによって信長は逃げ帰ることとなる。
同じ年の八月、朝倉と浅井の連合軍三万は近江国の坂本まで進出してきます。
各地で戦っていた信長は九月になって軍を率いて近江国へと入ります。浅井、朝倉の連合軍は延暦寺へと立て籠もり、睨み合いとなる。四方八方に敵を抱えていた信長は困ってしまい、正親町天皇に頼んで連合軍と和睦、浅井と朝倉の連合軍は延暦寺から帰国した。
そして翌年、信長は延暦寺に対して味方になるか、中立を維持するかを求めますが、両方共断られたので信長は延暦寺を攻めることとなった。
その後、信長は部下である明智光秀に襲われて亡くなり、延暦寺は天正十二(一五八四)年五月に羽柴秀吉が許すまで再建は出来無かった。
諺に「二度あることは三度ある」と申しますが義教、政元、信長と三人揃って部下に殺されています。
延暦寺自体は王城鎮護、京都の鬼門を守る役目も負っており、延暦寺に害をなした三人には仏罰が下ったのでしょうか。
延暦寺が僧兵を抱えるように至った経緯ですが、最澄が延暦寺を建てた後は義真、円澄、円仁、安慧、円珍と続きます。しかし、延暦寺では円仁派と円珍派で分かれてしまい、円珍派は延暦寺を離れ、三井寺の名でも知られる園城寺へ移って延暦寺と抗争を繰り返すことになる。そのために延暦寺、園城寺双方は僧兵を抱えることになります。
しかも園城寺は延暦寺から大小合わせて五十回も焼き討ちに遭っているそうです。
信長にしてみれば政元、義教という前例があるから延暦寺への焼き討ちに抵抗が少なかったかもしれません。
政元にしても義教の時に自分らで焼いているから、そう思ったかもしれません。
義教にしても自分から「延暦寺に火を着けろ」と部下へ命じたわけで無く、抗議の焼身自殺だったわけです。
義教は「延暦寺で根本中堂が焼けた、僧が焼身自殺を図った」と報告を受けた時、どの様な気持ちになったのか、ここは気になるところです。
ここまで長々と書いてきましたが、相変わらずまとまりも無く、答えも無いままに筆をおくことになります。
私は本能寺の変を追い掛けていますから延暦寺を攻めると決めた時、信長は前例を意識したのか、その点は気になっています。
いつか、信長の物語を描く機会があれば延暦寺を焼き討ちする時、「細川政元も焼いたんや、気にするな!焼いちゃえ!」と光秀や秀吉に命じる、そう言う信長になるかもしれませんし、逆に「仏罰が恐い……」とか、こっそり怯えている信長になるかもしれません。
参考図書:「オカルト武将・細川政元」
Wikipedia:
延暦寺
比叡山焼き討ち
園城寺
細川政元
織田信長
足利義教
他




