10話 炭鉱夫上がりのボクサー
ワイヤーだ。
張っているが固くはなく、荷を持つとだけ締まり、降ろせば抜ける。その切り替えに無駄がない。見慣れている動きだった。場所が違うだけで、本質は変わらない。
仕事が終わると、工具を洗い、所定の場所に戻す。水を止める頃には、帰る連中と残る連中がはっきり分かれる。誰かが声をかけるわけではないが、社長が現場に残っている日は、人が引かない。
社長は何も言わない。ただ、そこにいる。それで十分だった。
石屋をやっているが、もともとは自衛隊の特殊部隊にいた人間だと聞いている。しかも後からではなく、創設に関わった最初のメンバーらしい。詳しく語ることはないが、動きと視線で分かる。
棚から軍手を取る。
新しい軍手を二重にする。指を通し直し、縫い目の位置をずらす。革のグローブは使わない。この方が触った時の情報が残る。
誰かが前に出ると、向かいにもう一人が立つ。合図はないが、間が詰まると同時に始まる。
石置き場はそのまま使われ、コンクリートの床には作業の水が残っている。踏み込めばわずかに滑る。
踏ん張りが効かない。
その条件を、全員が分かっている。
空いた場所に出ると、視線が集まる。新入りを見る目だが、敵意はない。ただ、値踏みされているだけだ。
向かいに立った石工は、体格に見合った圧を持っていた。重いが、踏み込みに迷いがない。
来る。
右足に体重が乗り、そのまま踏み込んでくる。
半歩外に出るが、距離の読みが浅い。踏み込みが深く、間合いが潰れる。
肩が当たる。押される。靴底が滑る。
一瞬、体勢を持っていかれる。
——甘い。
無理に返さず、一度受けて体勢を戻す。ここで力を使えば、次が繋がらない。
もう一度、来る。
同じ右だが、今度は半歩を浅くし、角度を変える。外すのではなく、相手が踏み込みやすい位置に入る。
踏み込む。
その瞬間、足がわずかに流れる。
そこで触る。
新しい軍手越しに、相手の前腕の圧だけを拾う。
押さず、支えのない方向に流す。
それだけで体勢が崩れる。
床の条件が効いている。
足を出す。
払わない。
外側のふくらはぎに、横から短く入れる。
支えが消える。
崩れる。
二度目は、完全に力が抜ける。
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「……今の、何だ」
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誰もすぐには答えない。
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「打ってねぇよな」
「距離がねぇ。ぶつけてる感じじゃない」
「触ってるだけだ。しかも短い」
「一瞬だな。触ったら終わってる」
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倒された石工が足をさする。
「足もだ。払われてねぇ」
「横から入れられて、支えが消えた」
「膝じゃないな……もっと下だ」
「ふくらはぎか」
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一人がこちらを見る。
「それより——」
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視線が落ちる。
腕、肩、背中。
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「……あんた、二十に見えねぇな」
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周りが軽く頷く。
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「石工の俺が言うのもなんだが——」
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少し笑う。
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「兄さん、炭鉱労働者上がりのボクサーみてぇだぜ」
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空気が少し緩む。
だが、誰も否定しない。
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社長が一歩、近づく。
足元を見る。濡れたコンクリート、靴底、踏み込みの跡。
手元を見る。
それから、顔を上げる。
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視線が外れない。
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「……どこでやった」
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少し遅れて答える。
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「日本拳法をベースにした軍隊格闘技です」
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一拍。
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「学校です」
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社長は何も言わない。
だが、目が変わらない。
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判断は終わっている。
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軽く頷き、背を向ける。
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それが、この場での評価だった。
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周囲の空気がほどけ、誰かが軍手を外し、またはそのまま、自然に散っていく。
終わりの合図はない。
だが、全員が終わりを理解している。
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ここでは、言葉は必要ない。
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残るかどうかは自分で決める。
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だが、残れるかどうかは——
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別の基準で決まっている。




