義なき正義とその誤算
身勝手な人たちの話。そのに。
前作「義なき正義とその代償」を読んでいないとわかりにくいかと思います。前作直後からスタート。
「それでは、次に会える日を楽しみにしている」
「……ええ。私もですわ、カシアン様」
婚約者を乗せた馬車を最後まで見送った後で、アイリスは重く息を吐き出した。
――次期当主気取りで、自分は優秀だと思い込んでいる無能。
――表面的なものしか見ようとせず、自分が操られていることにも気付かない愚者。
――貴族の在り様を真似たつもりで、何を切り捨てたのかも理解しない道化。
一頻り婚約者への毒を胸裏に吐き捨て、アイリスは己が目をかけている侍女に声をかけた。
「部屋に戻るわ、マノン」
「かしこまりました」
本来ならカシアンをこの屋敷に、その庭先に迎えることなどしたくはなかった。それらにはあまりにも多く、濃く、かつての婚約者だったエドワードとの思い出が残り続けているのだから。
その思い出を自ら汚すような行いを、できるはずもないというのに。
けれどアイリスには、その選択も感傷も許されてはいない。
貴族の家に生まれた娘らしく、政略という駒となり他家へと売られていく。円滑に事を運び続けるために、アイリスに許されているのは婚約者を――ロンジェ侯爵家を懐柔し、ゴベール侯爵家に利のある形で併合させる楔となることだけ。
「……エドワード様」
未だ忘れることもできない婚約者の影を庭の向こうに探しながら、アイリスは重い足を自室へと向けた。
婚約者の死や重篤な傷病が理由で挿げ替えられることはよくあることだ。だからアイリスは自分が置かれた立場をよくよく理解している。貴族家……それがたとえ男爵家であろうとも、家に生まれた娘が自身の結婚に口出しできるはずがない。
アイリスにとって唯一幸いだったのは、エドワードとカシアンの容姿が似ないことか。
侯爵譲りの精悍さと優秀な頭脳を受け継いだエドワードと、侯爵夫人譲りの温和さと鈍感さを受け継いだカシアンと。
もしその容姿や性格に似通ったものがあったなら、アイリスはカシアンにエドワードの面影を探さずにいられただろうか。憎い男に最愛の男の影を探すなど、ゾッとしない話だ。
指先の震えをそっともう片方の手のひらで隠し、屋敷の廊下を歩く。アイリスの自室の扉を開いたマノンが、その場で不自然に立ち止まっていた。
訝しんだアイリスがマノンに声をかけるより先に、部屋の中から聞こえてくる声があった。
「婚約者殿との茶会はどうだった、アイリス」
「っ、お兄様っ?」
淑女らしからず声を乱して部屋に入ったアイリスを、先客が冷ややかな眼差しで見つめる。アイリスはすぐにハッとした様子で軽く頭を下げ、部屋の中央まで足を進めた。
「ああ。部屋に無断で入ったことはすまない」
「いいえ、お兄様を扉の前で待たせるなどできませんもの。構いませんわ」
「アイリスならそう言ってくれると思っていたよ」
まるで彼こそが部屋の主であるかのようにソファに座り、ゆったりと優雅に足を組んだ兄――ティエリ。
ティエリは唇の端を持ち上げ、部屋に戻ってきた妹を親しげに迎え入れる。だが、その柔和な表情とは裏腹に、アイリスは外の陽射しさえ遠のくような寒さを感じ取っていた。
今にも震え出しそうな体を貴族としての矜持で動かし、アイリスはティエリと向かい合うソファに腰を下ろす。
一度下がったマノンがティーワゴンを押して戻ってくるまでの間、ただ沈黙だけが室内を重く支配していた。
アイリスがカップに口をつけるのを見守ってから、ティエリがカップを口元へと運ぶ。
「相変わらず我が妹の侍女は茶を淹れる所作が美しいな」
「ありがとうございます」
「輿入れにも連れて行くんだろう?」
「ええ、そのつもりです。私がいなくなるからと、お兄様でもあげませんわよ」
「それは残念だ」
兄妹の会話の横で、マノンは気配を絶って頭を下げ続ける。……まるで、獲物を探す何かから身を潜め続けるように。
アイリスはゆっくりとマノンのお茶を堪能し、それから軽く手を振って彼女を退室させた。
控える者もいない部屋の中で、アイリスはティエリの最初の問いに答えるための口を開く。
「カシアン様との交流ならいつも通りですわ、お兄様」
「三年あっても成長しないとは、今頃ロンジェ侯爵は次男の教育を間違えたと嘆いているだろうな」
大仰な仕草で嘆きを表現しながら、ティエリは楽しげに喉を鳴らす。上辺だけの同情と、誰もが気付く身振りだった。
ティエリにとっては、カシアンは無能で愚鈍で操りやすい人物であった方が都合がいいのだ。
優秀で確固たる信念があり、ロンジェ侯爵領の未来が感じ取れていたエドワードと、愚鈍で都合のいい現実しか見ず、周囲のお膳立てにも気付けないカシアンと。
どちらが御しやすい相手かなど、考えるまでもない。
だからこそティエリは、アイリスがエドワードと婚約していた当時、事あるごとに言い聞かせ続けてきた。彼を篭絡し、手中に収めるようにと。
しかし、それも――。
「……エドワード殿が亡くなってからも三年、か」
まるでアイリスの心の内を読んだようなタイミングで発せられた呟きに、カップを持つ手が僅かに揺れる。死者を悼むように口にしながらも、その瞳には何の感慨も浮かんではいない。そんなティエリを一瞥し、アイリスはそっとカップを戻した。
膝の上で緩く重ね合わせた手が、込み上げてくる感情を必死に抑えるように指先に力を入れていた。
「あのような事故さえ起きなければ、今頃エドワード殿はお前と共にロンジェ侯爵家を盛り立てていただろうに……。そうは思わないか? アイリス」
射竦めるように向けられた視線に、アイリスは軽く瞼を伏せることでそれを避けた。
表面だけを見れば、それはおかしな反応ではない。
アイリスはエドワードの婚約者だった。
両家を繋ぐ婚約は、ロンジェ侯爵家の延命のためにゴベール侯爵家から手を差し伸べたもの。アイリスがロンジェ侯爵家に名を連ねるのだとしても、彼の立場は低い。
両者の立場がはじめから対等でないのだから、政略と分かりきっているのだから、そこに愛や情を期待するほうが間違っている。
だが、それでも。
アイリスはエドワードを愛していた。
「過ぎたことです、お兄様。もしもの話など、お兄様が一番嫌うことでしょう?」
「そうだな。さすがは我が妹。僕の良き理解者だ」
「まぁ。お兄様がそのように褒めてくださるなんて、いつぶりかしら」
少女のように弾んだ声を上げたアイリスに、ティエリも穏やかに微笑む。
それはきっと、微笑ましい兄妹の交流と見えていただろう。
ティエリがそれを口にするまでは。
「そうだな。――お前がカシアン殿の馬の鞍に細工を施そうなどという、愛らしいいたずらを企んだ時以来か。……いや、当時は結局褒めるどころの騒ぎではなくなったから、口にするのはこれが初めてか。だが残念だったな、アイリス。お前が殺したいほど憎んでいたのはカシアン殿だったというのに、まさかカシアン殿ではなく、お前が愛するエドワード殿が命を落とすことになるとは」
だからお前は詰めが甘いというんだ、と。
にこやかな表情で滔々と語られた会話の内容を、言葉の意味を、アイリスは理解することができなかった。いや、理解することを頭が拒否していた。
舌が乾いたように口内に張り付き、瞳は動揺に大きく泳いでいた。
すぐに否定しなければ、言葉を発しなければならないことはわかっているのに、頭の中が真っ白となったように何も考えられない。背筋を伝う汗が、じっとりとした不快さをもたらしていた。
「どうした、アイリス。顔色が悪いようだが」
気遣う言葉とは裏腹に、ティエリの瞳の奥に宿る光はどこまでも硬く、鋭い。
アイリスが常に傍に置くマノンを呼び戻そうとティエリが動き出そうとする前に、アイリスはようやく我に返った。慌てて「なんでもありませんわ」と言い繕い、ティエリも納得した様子で足を組み替える。
「急に生気を失ったような顔をするから驚いたぞ」
「……申し訳ありません、お兄様」
「許そうではないか。お前もまさか自分の策が僕に知られていたとは、思いもよらなかっただろうしな。……ああ。父上と母上はご存じではないから安心するといい。鞍に細工を施した者も、馬を管理していた馬丁もすでに死んでいる。お前の罪を暴く者はどこにもいない」
慈しむような声が心地よく耳に響くのに、そこにはどこまでも硬質な冷たさが孕んでいる。笑んだ瞳に窺い見えるのは暗い愉悦だ。
自分が追い詰めた獲物の足掻きを娯楽として愉しみながら消化する、絶対者の笑み。
アイリスは深く息を吐き出して気持ちを整えると、落ち着きのある仕草でカップを持ち上げた。
「お兄様がいったい何の話をなされているのか、私には理解しかねますわ」
「そうだな。カシアン殿が使用するはずだった鞍が壊れたのも、カシアン殿が自らエドワード殿に馬を譲ったのも、そもそもの発端であるエドワード殿が乗る予定の馬が不調を起こしたのも。すべては不運な事故が重なったために起きたことだ。視察に付き添えなかったお前には何の関係もない事故だった」
ティエリが発端について触れた途端、アイリスの胸が大きくざわついた。
視察は急に決まるものではない。あらかじめ日程が組まれ、そのため使用する馬も万全に整えられていたはず。だが、当日朝になって急にエドワードの馬が体調を崩した。……それは本当に偶然起きたことなのか。
あの朝何が起きていたのか確かめたくても、当時世話を任されていた馬丁は職務怠慢で処刑され、厩舎の人員も入れ替わった。
当時を語れる者は一人として残されていない。
兄が浮かべる笑みを前に、アイリスは自分が思い違いをしていたことを知る。
見て見ぬ振りをし続けていた現実がひどく残酷につきつけられる。
カシアンを無能で愚者で道化だと蔑み、憎んでいながらも、アイリスも所詮は同類に過ぎなかったということだ。
アイリスもまた、ティエリにとって愚かな道化でしかない。
忘れていた冷や汗がたまらなく体の熱を奪っていく。
ティエリの前で無様な醜態を晒せないという意地だけが、アイリスに姿勢を崩させない。けれど膝の上の手は、痛みを覚えるほどその指先を皮膚に食い込ませていた。
「えぇ。それに、たとえ私の同行が叶っていたとしても、私にできたことは何も……」
「そうだな」
抑揚なく話しながらも、アイリスの脳裏にはまさかという考えがこびりついて剥がれそうになかった。
油断をしたつもりはなく、万全を期したはずだった。だが、アイリスが突いたと思ったその隙が、アイリスを誘い込むためのティエリの罠だったとしたら。
普通なら気付けたかもしれないその罠に、曇った目で自ら嵌りにいっていたとしたら。
その後も続くティエリとの会話は上滑りして、まるで夢うつつで話しているような気分だった。
きちんと受け答えができていたのか、アイリスにはその自信はなかった。
「ふむ。どうやらすっかり長居してしまったようだな。婚礼前の妹に無理をさせることもあるまい。これで失礼しよう」
席を立つティエリに、アイリスも見送りのために腰を上げる。その時にふと見下ろしたテーブルの上、ティエリの前に置かれたカップは量を減らすこともなく手つかずのまま残されていた。
思えばティエリは会話の最中、カップに手を付ける素振りさえ見せなかった。最初にカップを口元に運んだ時も、飲んだふりをしていたのか。
ティエリは狡猾に策を巡らせ相手を絡め取ることを得意とするがゆえに、血の繋がる実妹といえ信用しない。
それにアイリスが何かを思うことはない。唯々諾々と恭順の姿勢を見せていれば、ティエリもその間は利用価値を見出してくれる。
「ああ、そうだ。アイリス」
部屋を出る直前、振り返ったティエリが浮かべた表情にアイリスはゾッとする。
アイリスにとって良くないことを言われるとわかっていても、ティエリの口を塞ぐことはできなかった。
「カシアン殿はあれで情熱的な男だ。すでに子をなした実績もある。二番目に寝所に入るお前でも、その甲斐性を惜しみなく注いでくれるだろう。だが元恋人と比べられ、ゴベール侯爵家の格を落とすような醜態は晒さないでくれよ。……楽しみだな、アイリス?」
「ッ!」
恥辱に顔を染め上げるアイリスに、ティエリが愉悦のこもった瞳を眇めて唇の端を吊り上げる。楽しげに喉を鳴らす笑い声が、少しずつ遠ざかっていく。
アイリスは耐えがたい辱めに震える体を抑えながらただ頭を下げて兄を見送り、その気配が感じられなくなるなり部屋の中に取って返した。
マノンが紅茶を入れるために使ったカップは、アイリスが持つお気に入りのティーセットのひとつだった。いくら実兄に憎悪を向けようと、付け入る隙を見せることなどできるはずもないからこそ、マノンは主人の意を汲んでこれを使ってくれた。
指先が紅茶に濡れることも気にせず、アイリスはカップを掴み上げるとそのまま床に叩きつけた。食器の割れる甲高い音が部屋に響く。
アイリスは絨毯に染みを作り破片をちりばめる残骸にも目もくれずに、ベッドに駆け寄ると震える体で倒れ込んだ。振り上げた拳を何度ベッドに打ち付けようとも、少しの手ごたえもそこにはなかった。
「──アイリスお嬢様ッ!」
少しと間を置かず、マノンが普段の冷静さもなく扉を乱暴に叩き、部屋に飛び込んでくる。
遅れて数人の侍女がやってくる気配を感じながら、アイリスは傍に駆け寄ってきて自分の拳を受け止めるマノンの手をきつく握り返した。力仕事などしたことのない令嬢であるはずなのに、そこには痛みを覚えるほどの力があった。
アイリスはマノンが浮かべ続ける穏やかな笑みに徐々に錯乱から返り、やがて自失に陥ったように呆然としていた。
その間にマノンが他の侍女や使用人たちを動かして、割れたカップと絨毯の片付けを言いつける。教育の行き届いた侍女たちは主人の異変にも口を挟まず、黙々と己の役目を果たしていく。
時間もかけず、アイリスの部屋には新しい絨毯が敷かれ、マノンが淹れたハーブティーの香りが漂っていた。
「さぁ、お嬢様。気分が和らぎますよ。他の侍女たちももう下げております」
ここにはマノンしかいないと囁かれて、アイリスの顔に少しずつ血の気が戻る。マノンに支えられながらゆっくりとハーブティーを飲み、ほぅっと息を吐く。
「ありがとう、マノン」
「いいえ。お怪我はございませんか、アイリスお嬢様」
「問題ないわ。……ねぇ、マノン。私は間違ってないわ」
体を支えられながらソファへと移動し、離れようとするマノンの腕を掴む。気丈な言葉とは裏腹に、引き留める手は震えている。マノンは主人を安心させるように微笑むと、そっと手を重ね合わせた。
「もちろんです、お嬢様。お嬢様がなされることで間違っていたことなど、ひとつもありません」
「そう……、そうよね。えぇ、私は当然のことをしたまでよ。私が嫁ぐ家に、私とエドワード様が築く家門に平民の血を招き入れようだなんて、そんなこといくらエドワード様の弟といえ、許せることじゃないわ」
「その通りです。お嬢様と平民が肩を並べるなど、考えるだけで悍ましい。お嬢様は家門をお守りするため、正しいことをなさったのです」
マノンがこの屋敷に仕えるようになって、だいぶ経つ。幼少の頃から話し相手として傍にいてくれたマノンは、アイリスにとって唯一胸の内を打ち明けられる人物でもあった。
何人の侍女が入れ替わり見慣れない顔が増えようとも、マノンだけは変わらずにアイリスの侍女として仕え続けている。
だからこそ、三年前にアイリスが立てた計画を、マノンも知っている。
マノンは自由に動くことのできないアイリスの手足となり、計画を実行に移した。
その協力者であるマノンに力強く肯定され、アイリスは安堵の息をこぼす。指先はまだ冷えを残していたが、室内に漂うハーブティーの香りのお陰か、あれほど荒れ狂っていた感情も今は静かに凪いでいた。
だがそれは、嵐の前の静けさだ。
「そうよ。なのにあの男はそれすら理解しようとしない愚か者だわ。一代限りの男爵だろうと、生まれる子には紛れもなくロンジェ侯爵家の血が継がれる。平民混じりに私とエドワード様の御子が煩わされるなど、あってはならないこと」
王都内で噂されるロマンスの主人公気取りとなって、少しの現実を見ようともしなかった夢想家だ。二人を持て囃すのが平民や下級貴族だけであったことにも気付かない。高位貴族が笑みを浮かべて語りかけるおべっかを真に受けて、その実、伯爵位の子女にさえ嘲笑われていたことに思い至らない。
一代限りの男爵がカシアンに与えられることになったこともそうだ。カシアンは自身の功績が認められたように思っていただろうが、実際はロンジェ侯爵家が持つ鉱山の所有権を市井に散らさないための、王家の配慮にすぎない。
爵位も持たない平民と恋仲でなければ、それが周知の事実とならなければ、彼には相応の家との縁談が用意されていたはずだった。
侯爵家に生まれながら、恥という概念すら持たずに義務を放棄し恋に現を抜かし続けた道化。
だからアイリスは、カシアンを亡き者にすると決めたのだ。
自分の人生にあってはならないシミ。
いずれアイリスの足を引っ張りかけない危険人物。
「あなたには助けられたわ、マノン」
「私はアイリス様のご指示の通りに行ったまでです。……ですが」
「それだけじゃないっ! お兄様も動いていたのよ……! お兄様は王都を離れられないのではなかったのっ!? だから私はこの機会を利用するしかないと思ったのに! お兄様に邪魔されず、アレを処理するためにっ……! ……でも実際は、すべてお兄様の手の内だったっ……っ。どうしてっ、マノン! どうして……っ!?」
計画の立案も実行も、すべてティエリが屋敷を離れ、王都に滞在中に行った。少しの不確定要素も排除するために、計画は誰にも──マノン以外に話さなかった。
マノンが鞍に細工する人物を用立て、実行に移すまで、どこからも情報は漏れていないはずだったのに。
ティエリの不在さえ、思惑のうちだった。ティエリもアイリスの動きを予測して、あらかじめ準備をしていたのだ。目先の幸運に囚われ、それさえ気付けずにアイリスは運命を決定する一手を放ってしまった。
部屋に落ちる悔悟は、何を思ってのものか。
マノンは一瞬痛ましげに顔を歪めると、胸に縋りついてくる主の肩を優しく撫でた。
「私たちの計画は完璧でした。……ですが、もしかしたらカシアン様は何かに気付いていらっしゃったのかもしれません」
「どういう、こと……?」
アイリスは落ち着きなく瞳を揺らしながら、聞き返した。それは普段の姿からは想像もつかないほど、幼げな口調だった。
マノンは姉のように母のように笑みを浮かべて、静かにその唇を開いた。
「当日の朝になって馬が不調になるなど、普通に考えればあり得ない話です。それくらいのことならカシアン様もお気づきになられるでしょう。ですが、だからといってカシアン様が馬を譲る必要がどこにあるのでしょうか。……きっと鞍に跨った際に些細な違和感を抱かれ、エドワード様の馬の変調もあり、お疑いになられたのでは? 馬を変えるということは、当然馬具も変えるということです」
「――!」
ハッとしてアイリスは口元を押さえ、思考を巡らせ始めた。
考えてみればカシアンが馬を譲る必要はどこにもない。事故当時に行われた聴き取りでは、カシアンは自らそれを申し出ている。誰にも強要も強制もされていないにもかかわらず、だ。
馬が一頭使えなくなったことに変わりはないのだ。たとえカシアンが譲ろうとも、どちらにせよ新たにもう一頭を用意する時間は必要となる。事実、カシアンの新しい馬の準備が整うまで、出発が遅れていた。
ではなぜ、カシアンは馬を譲るなどという無駄な提案をしたのか。
それは実の兄に、エドワードに、自分が抱いた違和感の正体を押しつけるためだったのではないか。
何の理由もなく馬を変えるというわがままを、エドワードや彼の側近たちの前で見せることはできなかった。だがそこに善意という皮を被せてしまえば、それはわがままではなくなる。
「け、ど……。あれにエドワード様を殺める気概など……いえ、いいえ! 気概がなくとも用意された罠を利用するくらいならできたはず。臆病な人間ほど慎重になるというもの。あの無能が、自分の身を守るためだけにエドワード様を盾にしたのよ!」
まるで天啓を受けたかのように、三年前の真相がアイリスの脳裏に閃く。
あの男は、アイリスの可愛いいたずらを無視しただけでなく、エドワードを危険に晒すことを良しとしたのだ。
身の程知らずなことに、欲に駆られて簒奪を目論んだ。
視界を覆っていた絶望の霧が晴れ、代わりに湧き立つ歪な憎悪にアイリスの瞳が爛々と輝く。
上気した頬が、高揚に包まれていた。
「……ああ、なんて男なのかしら! 結局あの男は自分が一番可愛いのよ!」
わが身可愛さにかつての恋人も、自身の子すらも平然と切り捨てる男だ。
あんな矮小な男に出し抜かれていたなんて、その小賢しさが憎らしくてたまらない。
「困った兄を手助けする善良な弟という演出もできます。あの方は普段王都にいらして、領内の者たちとの関わりも少なかったようですから」
「本当、自身をよりよく見せるための頭だけは回るようね」
忌々しく吐き捨て、アイリスは普段の調子を取り戻した様子でマノンにお茶の淹れ直しを伝える。
婚礼まであと僅かしか猶予が残されていない。この結婚を避けることはアイリスにも不可能だ。
ならばロンジェ侯爵家へ嫁いだ後、邪魔な者たちをどう排除していくべきか。振る舞いを考えなければならない。
狡猾であるからこそ隙のないティエリと、無能のくせに無駄に慎重なカシアン。
自らの思考に耽り始めたアイリスには、背を向けたマノンがどんな表情で紅茶を淹れていたのかなど、知る由もないことだった。
新たに注がれた紅茶をゆっくりと味わいながら、アイリスは自分を追い詰める男たちの悔しがる姿を夢想し、唇の端を持ち上げた。
アイリスもまた道化にすぎないという現実を、カシアンへの憎悪で黒く塗り潰したままに。




