不要扱いされた男、若い女として人生をやり直す
※この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません
第一章:歯車が外れた日
勤続三十年という数字は、会社にとって功績ではなかった。それは、処理対象としての重量に過ぎない。長い年月を費やした結果が、ただの負担として扱われるなんて、皮肉なものだ。
九月の湿った風が、千代田区のビル群を撫でていく。空気は重く、雨の予感を孕んでいた。須崎が管轄する人事部の会議室は、設定温度が低すぎるのか、それとも別の理由からか、肌寒かった。壁に掛かった安物の掛け時計が、カチ、カチと無慈悲に秒針を刻んでいる。その音が、まるで俺の人生のカウントダウンのように響く。
そこに、かつての部下であり、今は出世街道を突き進む須崎の姿はなかった。代わりに座っていたのは、名前も知らない二十代半ばの男だ。シワ一つないスーツに、表情を殺した無機質な目。まるでロボットのように、感情を排した視線が俺を貫く。
「こちらに署名と捺印をお願いします。」
差し出されたのは、一枚のA4用紙だった。タイトルには『雇用契約終了に関する合意書』とある。理由は空欄だ。だが、俺にはわかっていた。昨今の経営再建という名の大掃除において、俺のような「高給取りの窓際族」は、真っ先に捨てられる粗大ゴミなのだ。三十年間、会社に尽くしてきたはずなのに、数字の上ではただのコストカット対象。心の中で、苦い笑いが漏れた。
「……須崎君は、来ないのか。」
俺の声は、自分でも驚くほど掠れていた。喉が乾き、言葉がうまく出ない。若手人事は、一瞬だけ眉をピクリと動かし、すぐにまた無表情に戻った。まるで、俺の存在など最初から計算外だったかのように。
「須崎部長は、現在、重要案件の会議中です。この件に関しては、私がすべて一任されておりますので。ご質問は?」
質問をさせる気など、毛頭ない。そんな冷気が、机越しに伝わってくる。空気が凍りつくようだ。俺は、震える手で万年筆を握った。三十年前、入社祝いに父から贈られたものだ。そのインクが、俺の人生の終わりを告げる署名をなぞっていく。線が少し歪む。手が震えているせいだ。
ハンコを押し終えた瞬間、俺という人間は、この組織の一部から「部外者」というただの肉塊へと変質した。三十年間の忠誠が、一瞬で無に帰す。胸が締め付けられるような痛みを感じた。
会社を出た瞬間、身体が急に軽くなった。それは自由を得た軽やかさではなく、足元から重力が消え、暗い宇宙へ放り出されたような、恐ろしい浮遊感だった。周囲の喧騒が遠く聞こえる。ビル街の人々が、俺を素通りしていく。誰も気づかない。俺はもう、ここにいない。
帰る場所はある。ローンを払い終えたばかりの、静かすぎるマンション。だが、そこへ戻れば、自分が本当に「終わった」ことを認めざるを得なくなる。妻は数年前に去り、娘は遠くで暮らしている。独り身の部屋は、ただの空洞だ。
俺は、気づけば夜の繁華街へ足を向けていた。ネオンライトが眩しく、普段の俺には縁のない世界。だが今は、そこでしか息ができそうになかった。
第二章:悪夢の境界線
ネオンの光が、網膜を刺す。赤、青、紫の色が混じり合い、街を幻想的に染める。普段なら決して足を踏み入れない、煌びやかすぎるナイトクラブ。ふと目に止まった店は『エデン』。その扉を潜ったのは、自暴自棄というよりも、誰かに「存在」を確認してほしかったからだろう。解雇された俺は、ただの影。誰かに触れられなければ、消えてしまいそうだった。
「いらっしゃいませ。お一人様ですか?」
カウンターの女性が、甘い声で迎える。店内は煙草の煙と香水の匂いが混ざり、頭がクラクラする。案内されたソファの沈み込みが、妙に深い。体が飲み込まれそう。隣に座ったのは、リナという名の二十一歳の女だった。彼女のドレスは、若さという暴力をこれでもかと誇示するように、胸元が大きく開いている。肌が白く、輝くように見える。
「初めまして。今日、何かいいことあった?」
リナが、営業スマイルの中にほんの一匙の同情を混ぜて聞いてくる。彼女の目は、俺の疲れた顔を優しく映す。俺は、人生で初めて、見ず知らずの他人に自分の惨めさを吐き出した。会社のこと、須崎という男の卑劣さ、そして自分に残された時間の空虚さ。言葉が止まらなかった。三十年間の苦労が、堰を切ったように溢れ出す。
「須崎は、俺の部下だったのに……今じゃ部長だよ。あいつはいつも、俺のアイデアを盗んで出世した。俺はただ、黙って働いてきたのに。」
リナは、相槌を打ちながら高い酒を煽り、時折、俺の膝に手を置いた。その手の温もりが、逆に俺の孤独を際立たせた。柔らかい感触が、胸に刺さる。彼女はただの仕事かもしれないが、俺にとっては救いだった。
「……もう、どうでもいいんだ。俺なんて、最初からいなかったのと同じなんだから。」
最後に何を飲んだのか、記憶が定かではない。ただ、リナが別れ際に「おじさん、また明日から頑張りなよ」と、どこか寂しそうに笑ったことだけを覚えている。あの笑顔が、頭に焼き付く。
次に意識が戻ったのは、自宅のベッドだった。カーテンから漏れる朝の光が、目を痛くする。
強烈な頭痛。二日酔いの典型的な症状だ。俺は這うようにして、洗面所へ向かった。顔を洗い、冷たい水で現実を呼び覚まそうとした。蛇口の水音が、耳に響く。
だが、鏡を見た瞬間、心臓が止まるかと思った。
「……え?」
鏡の中にいたのは、俺ではなかった。五十歳の、疲れた中年男性の顔はどこにもない。そこにいたのは、艶やかな黒髪、大きな瞳、大きな胸、そして瑞々しい肌を持った、二十歳前後の「女」だった。頰がピンクに染まり、唇が柔らかく曲がる。
驚愕に目を見開く。鏡の中の女も、全く同じタイミングで目を見開く。息が詰まる。
右手を頬に当てる。鏡の中の女の、白く細い指が、同じように頬を触れる。感触が現実的すぎる。
「う、うわああああっ!」
叫び声が、洗面所に響いた。それは、聞き慣れた自分の野太い声ではなく、鈴を転がすような、高く澄んだ音色だった。喉が震える。声が変わっている。
俺はパニックになり、自分の体をくまなく調べた。シャツの下に手を入れる。胸がある。膨らみが、手のひらに伝わる。柔らかく、温かい。腰のラインはなだらかに括れ、股の間からは、かつて自分を男たらしめていた象徴が消えていた。代わりに、未知の感覚が広がる。
夢だ。これは、リナに見せられているタチの悪い夢だ。きっとそうだ。
俺は何度も頬を叩き、冷水を浴び、挙句の果てには自分の腕を噛んだ。痛みはある。鮮烈な痛みが。血の味が口に広がる。これは夢じゃない。
一時間後、俺はリビングの床に座り込んでいた。体が軽く、視界が低い。今まで見上げていた天井が、さらに遠くなった。足が細く、膝が華奢だ。
ふと、壁のカレンダーが目に入る。今日の日付が赤く囲まれている。今日から、俺はもう会社へ行く必要がない。
「そうだ……昨日クビになったんだ。」
その事実を思い出した瞬間、絶望に混じって、奇妙な解放感が胸に広がった。もし俺が俺のままなら、今日は「無職の一日目」を噛み締めて死にたくなっていたはずだ。だが、この身体はどうだ。美しく、若く、可能性に満ちている。
戸籍も、経歴も、名前すらも、この外見とは一致しない。俺は、社会から抹消されたのと同時に、物理的にも「俺」という牢獄から解き放たれたのだ。新しい人生が、始まるのかもしれない。
第三章:新しい武器
俺は、昨日まで自分が着ていたスーツを引っ張り出した。鏡の前で着てみる。ブカブカだ。ズボンは腰で止まらず、シャツはワンピースのようになる。肩が落ち、袖が長すぎる。笑えるほど不格好だ。仕方なく、クローゼットの奥に眠っていた、数年前の娘の忘れ物――大学の卒業旅行で置いていった服を引っ張り出し、何とか身を包んだ。Tシャツとジーンズが、ぴったり合う。娘の服が、俺の体にフィットするなんて、信じられない。
街へ出ると、世界は一変していた。これまで俺は、街の背景の一部だった。誰の目にも留まらず、ただ通り過ぎるだけの灰色の存在。スーツ姿のサラリーマンとして、溶け込んでいた。
だが今は違う。すれ違う男たちの視線が、物理的な圧力を持って刺さってくる。それは欲望であったり、品定めであったり、あるいは単純な興味であったりした。若い女性の体が、こんなに注目を集めるなんて。
(なんて、不快で、刺激的なんだろう)
女として生きることは、常に誰かの「対象」であり続けることなのだと、五十歳にして初めて知った。視線が肌を這う感覚に、吐き気がした。でも、同時に、力を感じた。この体は、武器になる。
俺は、自分の新しい「価値」をテストしてみたくなった。向かったのは、昨日、俺が立ち寄ったあの繁華街だ。昼間の日光の下で見るキャバクラの求人看板。
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■時給5000円以上
■経験不問
■体験入店アリ
■即日勤務可
■寮完備
■ドレス貸与アリ
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派手な色使いが、目を引く。
俺は、その一つに電話をかけた。スマホを耳に当てる。自分の声に、まだ慣れない。高く、甘い響き。
「あー、今日これから面接行けますか?」
受話器の向こうの男は、俺の声だけで「ぜひ来てください」と快諾した。声だけで判断される世界。面白い。
面接は、五分で終わった。履歴書の名前は、適当に「サキ」と書いた。年齢は二十歳。過去の経歴は空白。店長らしき、金のネックレスをした男は、俺の顔をじろじろと眺めた後、満足げに頷いた。目が欲に満ちている。
「君、素材がいいね。化粧を覚えれば、看板になれるよ。経験は?」
「ないですけど、頑張ります。」
かつて、資格をいくつ取り、どれだけ深夜まで残業しても、これほど素直に賞賛されたことはなかった。三十年の努力が、容姿一つで上回るなんて。
夜の仕事は、思ったよりも簡単だった。男たちが何を求めているか。それは、かつて「男側」にいた俺には、痛いほど理解できた。彼らは話を聞いてほしいのではない。自分の有能さを肯定してほしいのだ。孤独を埋めてほしい。
俺は「サキ」として、完璧な聞き役を演じた。男が自慢話を始めれば、適切なタイミングで「すごーい」「それで、どうなったんですか?」と相槌を打つ。それだけで、彼らは面白いように金を落としていった。指名が増え、ボトルが次々に入る。金が積み上がる感覚が、心地いい。
だが、俺の目的は金だけではなかった。この店で働き始めて気づいたのは、夜の女たちの多くが、社会の理不尽によって隅へ追いやられた者たちだということだ。虐待、貧困、失恋。彼女たちは、笑顔の裏で傷を抱えている。
リナもその一人だった。彼女は、別の店から移ってきた俺に、すぐに懐いた。休憩室で、タバコを分け合う。
「サキちゃんって、なんか落ち着く。お姉さんっていうか、おじさんっぽいっていうか。話聞いてると、安心するよ。」
リナは笑いながら言った。俺は内心冷や汗をかいたが、彼女との信頼関係は、俺の計画に不可欠だった。リナは純粋で、情に厚い。利用するのは心苦しいが、仕方ない。
「ねえ、リナ。協力してほしいことがあるんだ。」
俺は、ある「標的」の話を始めた。人事部の須崎。彼がどれほど汚い手段でライバルを蹴落とし、部下を使い潰し、そして何より、会社の金や地位を利用して女性を食い物にしているか。詳細を語る。過去のエピソードを、架空の「身内」の話として。
「そいつ、最低。サキちゃん、私に何ができる?」
リナの目は、正義感と少しの復讐心に燃えていた。彼女の過去にも、似た男がいたのだろう。彼女のような若くて魅力的な女性が、欲望の塊である須崎に近づくのは、赤子の手をひねるより容易い。計画が、動き出す。
第四章:チェックメイト
作戦は数週間にわたって遂行された。まず、リナに須崎の情報を渡す。SNSのプロフィール、よく行くバー。俺は裏で、小型カメラとICレコーダーを手配。高性能のものを、闇ルートで入手。
須崎がよく利用する、接待用の会員制バー。そこにリナを送り込んだ。彼女はドレスアップし、完璧に演じる。
須崎は、予想通りすぐに食いついた。彼は「自分には女を扱う才能がある」と信じ込んでいるタイプだ。若くて素直そうなリナを、言葉巧みに誘い出す。「君みたいな子、珍しいね。もっと話聞かせてよ。」と、甘い声で。
だが、リナのバッグの中には、俺が渡した高性能の小型カメラとICレコーダーが仕込まれていた。すべてが記録される。
ホテル街へ向かうタクシーの中での不適切な接触。須崎の手が、リナの太ももに伸びる。「妻とはもう終わっている」という使い古された嘘。そして、会社の経費を私的に流用していることを自慢げに話す、決定的な証拠音声。
「あのプロジェクトの予算、半分は俺のポケットさ。誰も気づかないよ。」
資料が揃った夜、俺は一人でワインを飲みながら、パソコンの画面に並んだ須崎の醜態を眺めた。動画が再生される。かつて俺を「不要な重量」と呼んだ男が、そこでは一匹の飢えた獣のように、若い女の肌を求めて喘いでいた。吐き気がするが、満足感が勝る。
(さあ、プレイを終わらせようか)
俺は須崎に連絡を入れた。かつての俺のアドレスではなく、リナを通じて手に入れた彼のプライベート用LINEに。匿名で。
『須崎部長。面白い写真があります。明日の昼、駅前のカフェで。』
翌日、現れた須崎は、落ち着かない様子で周囲を見渡していた。汗が額に浮かぶ。カフェの隅席で、指を組む。
そこへ、俺は歩み寄った。最新のトレンドを取り入れたワンピースに、丁寧に施したメイク。鏡の中の女は、もう完全に俺の一部となっていた。自信を持って、座る。
「……君が、リナさんの友達?」
須崎の声が震えている。俺の顔を見ても、彼は一ミリも「かつての同僚」だとは気づかない。当然だ。彼の記憶の中にある俺は、灰色をした、価値のない老人なのだから。
「ええ。サキです。はじめまして、須崎さん。」
俺は、リナが撮った写真をテーブルに並べた。高解像度のプリント。須崎の顔から、急速に血の気が引いていく。青ざめる。
「これは……嫌がらせか? 目的は何だ。金か?」
声が上ずる。俺は冷静に微笑む。
「金、ですか。まあ、それもありますけど。まずは、これを奥様と、あなたの会社のコンプライアンス委員会に送信する準備ができていることをお伝えしておきます。動画もありますよ。」
「待て! 話せばわかる。これは、その、彼女が勝手に……誘ってきたんだ!」
見苦しい言い訳。三十年、彼と一緒に働いてきて、彼がこれほどまでに小さく見えたことはなかった。かつての威勢はどこへやら。俺は、彼が提示した解決金の三倍の額を、無機質な声で告げた。数字をメモに書いて渡す。
それは、俺が会社を辞める際に受け取った、雀の涙ほどの退職金の補填であり、失われた三十年間の「慰謝料」だった。須崎は震える手で頷く。
「……払う。払えば、消してくれるんだな?」
「ええ。あなたの目の前から、私は消えますよ。」
数日後、須崎は不倫と経費流用の疑いで、事実上の更迭処分となった。地方の閑職へ飛ばされたという噂を聞いたが、俺にはもう関係のないことだった。復讐は、完遂した。
第五章:ニューゲームの地平
手元には、須崎から毟り取った大金と、夜の仕事で稼いだ蓄えがある。銀行口座の数字が、俺を笑わせる。俺は、かつて住んでいたマンションを売り払い、新しい戸籍を手に入れるための準備を始めた。この世界には、金さえあれば「過去」を書き換えてくれる人間がいくらでもいる。闇の弁護士に連絡。すべてがスムーズに進む。
新しい名前は、まだ決めていない。だが、鏡を見る回数は確実に増えた。そこにいるのは、もう戸惑っている女ではない。自分の価値を理解し、世界をどう攻略するかを冷徹に見極める、一人のプレイヤーだ。目が鋭く、唇が弧を描く。
ふと、以前から疑問に思っていたことを反芻する。この世界では、前世の記憶を持って生まれてくる者が稀にいるという。だが、五十歳の俺には、そんな記憶は微塵もなかった。
なぜか。
答えは、きっと単純だ。
「……俺は、初回プレイだったんだ。」
一回目の人生は、ルールを覚えるためのチュートリアル。理不尽な上司、報われない努力、突然の解雇、そして性別という壁。すべてを一度「おじさん」として経験し、その苦味を骨の髄まで染み込ませる必要があったのだ。痛みを知らなければ、勝てない。
そして今、俺の目の前には、若く圧倒的な美貌と、三十年の社会経験という、チートじみたステータスを持った「二周目」の身体がある。ビジネス、投資、さらなる復讐。選択肢は無限だ。
窓の外を見れば、夜の街が宝石を撒いたように輝いている。かつては俺を飲み込もうとしていた暗闇が、今は、無限の可能性を秘めたフィールドに見えた。風がカーテンを揺らす。
「さて、次はどう遊ぼうか。」
俺は、鮮やかな紅を唇に引き、不敵に微笑んだ。ニューゲームは、まだ始まったばかりだ。世界は、俺のものになる。
──了──




