夫の寵愛を受ける方に会ってはいけない
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「君は決して離れに近づいてはならない」
結婚式の後、侯爵様の屋敷でそう告げられた。ウエディングドレスをまとい、晴れの日で火照っていた頬は冷え強張る。
夏の盛りなのに、エントランスホールは酷く陰っている気がした。
「侯爵様、今のは」
「侯爵様、というのはやめてくれ。呼び捨てで良い」
「ウスターシュ、様」
銀髪の端正な顔をしたウスターシュに告げられ、マルゲリットは言葉に詰まった。
――というよりも、心配になった。ウスターシュは顔を蒼くし、ダラダラ汗をかいている。
「……大丈夫ですか?」
「大丈夫に決まっている! さ、さあ食事にしよう」
手を引かれた。マルゲリットは小首をかしげる。
「離れで食事をなさってはどうですか?」
「!? な、なぜだ。俺と一緒に食卓を囲むのは、嫌か? よく体も洗ったのだが……」
「いえ、離れに好いた人がいるのでしょう?」
マルゲリットからしてみれば、なぜと聞きたいのはこちらだ。結婚とは割り切るものだと母からも聞かせられた通り、心の整理はしている。
ウスターシュから持ちかけられた婚約。侯爵家がわざわざ子爵家と婚約する意味はない。もしかしたら……なんて淡い想いを寄せたのが関の山だったようだ。
『俺と、結婚してくれないだろうか?』
跪いてそう求婚された日。景色がチカチカした。今なら思う。涙で視界がぼやけていたのだと。
「違う、リーズは……あっ」
バッと口に手を当てている。リーズという女性なのか。へーほーふーん。
「可愛らしい方なのですか」
「そ、そうだな、全身真っ白でとても愛らしいと思う」
全身の色を知る仲、と。
「……すまない」
はっと顔を上げる。
彼の顔は真っ赤だ。
「君に求婚した時に、しっかりとけじめを付けておけば……。だが、マルゲリットが一番なんだ。信じてくれ」
堂々とした浮気宣言に、冷たい風がエントランスホールに吹く。
未だお辞儀をしたままの使用人たちはどういう気持ちなのか、想像するだけで頭が痛くなった。
◇◇◇
――ウスターシュは、マルゲリットとの時間はきちんと取るが、決まった時間いつも離れにいる。その後会う時は必ず石鹸のいい匂いがするのだから、ため息が多くなってしまう。
まったく。彼はいつも勝手だ。離れでリーズという女性を囲って、妻が使用人からどういう扱いを受けるのか全く分かっていない。
「奥様。今日は夏蜜柑の美味しいゼリーがありますよ!」
「紅茶のおかわりはいかがですか?」
「お体が冷えておりますわ。タオルケットをどうぞ」
「お髪が邪魔なようですので一つに編んでしまいますね」
甲斐甲斐しくお世話されながら本を読む。子爵令嬢だったマルゲリットには縁のない好待遇に、居心地が悪くなりため息がもう一度。
彼女たちは、マルゲリットを不憫に思ったのかこうして飽きもせず一日中お世話をしてくれる。最近お腹に肉がついてきて苦心するほどに。
「奥様。旦那様がもう少しでこちらにいらっしゃいます。お食事のお時間です」
「……あらそう」
立ち上がるのも億劫だ。浮気している旦那様の為にだなんて。浮気している旦那様にだなんて!
だけど笑顔を保ってはいるけど困った様子のメイドたちをこれ以上困らせたい訳ではない。
しぶしぶ重い腰をあげた。……本当に重い。ダイエットをする必要がありそうだ。
「マルゲリット!」
「ウスターシュ様」
食堂に行くと、すでに待っていた彼が顔を華やかせた。金色の毛並みの大型犬を彷彿とさせる。ウスターシュは銀髪だが。
猫派だけど、犬もいいな……考え事をしながら席につけば、ウスターシュはせっせと自らの椅子をマルゲリットの側に寄せた。
「……ウスターシュ様。近いと、その、食べづらくはありませんか?」
「全く問題ない」
愛されている、と実感する瞬間は多々ある。毎日のように千紫万紅の花々を貰うし、少し着飾れば多分なくらいの褒め言葉を降らせる。
とある伯爵家夫人を思い出した。夫はよく贈り物をしてくれるし、子どもも可愛がってくれる。非の打ち所がない良い夫だと思っていたのに、浮気をしていたと嘆いていた。
夜会でのため息を耳年増なマルゲリットは見事キャッチしてしまったのだ。
当時は、そんなことがあり得るのか! 耳を疑ったものだが自分の夫があり得ると証明してしまうなんて。
「……ウスターシュ様はなぜ、私に婚約を申し込んだのですか?」
リーズはよほど身分の低い女性なのだろうか? 隠れ蓑が必要なくらいに。
「マルゲリット。学園で、君が花を育てているのをずっと見てた」
「え」
「嵐が来た日、自分が雨に打たれ風にさらされるのにも顧みず、花を守っている姿を見ていた。……俺も花が心配で、来ていたんだ」
「あ、あれですか!?」
確かに、誰もいないはずの学園で毛布とタオルが『お好きにお使いください』と置いてあった。
震える声で聞いてみれば、恥ずかしそうに首を縦に振られる。
「…………」
「すまない。声をかけた方が良いのかもと思ったが、勇気が出ず……」
「わ、私、もうお腹いっぱいなので失礼しますね」
あ、あぁ。戸惑ってフォークを落としかける彼に後ろ髪引かれながら、マルゲリットは自室に戻った。
メイドもおらず一人きりの自室で、ベッドに倒れ込む。
「では、どうして……浮気なんてなさいますの」
喉が震える。
気づきたくなかった。芽生えていた恋心に。
気づきたく、なかった。
――人よりずっと身長が大きかった。可愛らしい令嬢と並ぶと、その差はより浮き彫りになる。
加えて茶髪で、秀でた所は何もないむしろ貧乏寄りの子爵家。嫁にもらいたいと思ってくれる方は現れなかった。
そんな彼女に求婚したのが、ウスターシュ。彼とは初顔合わせから実に数カ月で結婚した。侯爵家の当主とは思えない速さだ。
流行り病で両親を亡くした彼は、学園を中退している。領地経営に精を出し、落ち着いた所でパートナーが必要だったらしい。
選ばれたのがマルゲリットだった。だから、特別な感情が芽生える度に蓋をした。自分には過ぎた人だと。きっとなにかあるのだと。
けれど、揺れる心までは抑えきれなかった。
いつかの日。ウスターシュが彼女の手を握った。薄くて、他の令嬢より大きな手。恥ずかしくて堪らなくて引っ込めようとした時、彼は惜しみのない笑顔をマルゲリットに贈った。
「マルゲリット嬢はピアノが好きだと聞いた。確かに、手のひらが大きくて、指が長い。ピアノをするために生まれてきたような手だな」
顔を上げ、目に光が入ったことまでは覚えている。どんな言葉を返したかまでは覚えていない。
きっとその瞬間にマルゲリットは――
「……ん」
カーテンの隙間から差し込む光に揺り起こされた。
服がネグリジェに替わっている。メイドたちがしてくれたのだろう。申し訳なくて唇を噛み締めれば、メイドたちが入ってきた。
「おはようございます。奥様、ガーベラが綺麗に咲いていますので本日はお庭で過ごされますか?」
「でしたらレモンイエローのドレスはどうでしょう?」
いつも以上に自分に気を使ってくれているのが分かる。
苦笑して、目を見開いた。
「あら、フィーはどこにいるの?」
「彼女は、本日休んだメイドの仕事を代わりに行っています。もう少しで参りますよ」
「そうなのね」
いつも優しくお世話をしてくれる、マルゲリットと年近いメイド。
早く来ないかとソワソワしていると、ノックの後扉が開いた。
ふわりと石鹸が香る。
「おはようございます、奥様」
「ええおはよう、フィー」
ふと、彼女のメイド服が目についた。黒い生地に、白くて細いものがついている。
「あら、なにかついているわよ」
「え? ……あっ。す、すみません!」
一気にフィーの顔が青褪める。
「あれほど言ったのに……!」
「ごめんなさい、体を洗った後着たばっかりの方を選んでしまったみたいです!」
「奥様、ご無事ですか!?」
「――……無事よ?」
フィーが部屋の隅まで移動する。目に涙をためペコペコ頭を下げている。……がそんなことをされる理由がとんと見当つかない。
慌てた様子だったメイドたちも、次第に落ち着きを取り戻していく。
「本当、ですね? くしゃみもされていませんし……」
「奥様、猫アレルギーなんですよね?」
ん? 首を傾げた。
なにか、重大なすれ違いをしている気がする。
「――猫アレルギーなのは、お父様だけよ?」
一際大きな驚きの声が、屋敷中に響き渡った。
◇◇◇
父は重度の猫アレルギー保持者。猫にスリスリされたその日には失神し、しばらくくしゃみが止まらなくなる。
しょんぼりしたのは母だ。猫を愛する母は、しかし飼うことは叶わないと知って崩れ落ちた。父のことは愛しているからこそ、猫は飼わないと心の中で割り切ったのだと昔聞いた。
申し訳なく思った父が猫耳を付け、母が絶句するというカオスはまだ覚えている。幼心ながらに、あれは強烈だった。
「――というわけで、私はいたって健康です」
メイドたちによって慌てて執務室から引きずり出されたウスターシュは、話を聞いて目をまん丸くさせている。
「だ、だがマルゲリットのお義母様に尋ねた際確かに猫は好きだけど猫アレルギーだから飼えない、と」
「私と母は好きだけど父は猫アレルギーだから飼えない、ですね。お母様は言葉を端折るクセがあるので……」
「なんと、言うことだ……」
茫然自失のウスターシュに眉尻を下げる。
「皆さんどうして私が猫アレルギーじゃないことをそんなに気にかけるのですか?」
「……リーズが」
泣きそうな彼が、唇を震わせる。
「リーズが、猫で……婚約を申し込んだ後で君が猫アレルギーだと知ったんだ……」
「……!? リーズ様が、猫!?」
本日のお世話担当がお休みで急遽代わりとなった、実家で猫を九匹飼っているフィーがリーズを持ってきた。
そこには確かに、全身真っ白の猫がいた。呑気ににゃあんと鳴いている。
「……リーズの受け入れ先は見つからないし、俺自身が手放し難くて……」
「それで、離れで飼っていたと。私から隠していた理由は……」
「だって、好きなのに触れないのは悲しいと思って……。いつ切り出そうかとずっと悩んでいたんだ」
リーズに会いに行った後、体を洗っている理由。離れに近づくなと言われた理由。全てが繋がって線となる。
リーズがヒョイと私の膝に乗った。喉をゴロゴロと鳴らす温かい重みをそっと撫でれば、スリスリされる。
顔が赤くなり、肩が震える。
「ウ、ウスターシュ様は酷いですっ」
「すまない!」
謝り両手で顔を覆ってしまう。
「これからは、大事なことはちゃんと言ってください!」
「分かった!」
「隠し事はもう絶対なしでお願いします! 素直が一番!」
「勿論だ!」
真剣に話しているのに、リーズを撫でていると気が緩んでしまう。
「……もうっ」
呆れながらリーズの額にきすすれば、ウスターシュに俺もと強請られる。
幸せで、大きな笑い声を上げてしまった。
その日から、リーズも本館で暮らすようになった。というよりも元々の暮らし場所が本館であり、我が物顔で今日もパトロールしている。
そんなリーズのお気に入りはマルゲリットの膝で、独占してはウスターシュに恨みがましい目で見られている。だがそんな視線もどこ吹く風の流石は猫様。
今日もピアノを弾く自分の膝で眠るリーズに嫉妬する夫に、マルゲリットはきすをするのだった。
――猫の気配を察知し、マルゲリットの母が玩具を携えて襲来するまで、あと七日。
父は家でお留守番。
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