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第五章 最後の走り

桜が満開になった朝、田島は目覚めた瞬間から、

膝の痛みがいつもと違うことを悟った。

鈍い痛みではなく、刃物のように膝裏をえぐるような鋭さ。

階段を降りるのも、靴紐を結ぶのも、ひとつひとつが

今までとは違う試練のように重く感じられた。


それでも田島は、シューズを履いた。

走らなければならない理由は、もうどこにもないはずだった。

誰も田島が走るのを待ってはいない。

誰かを喜ばせるわけでもない。

走ったからといって、若い頃の何かを取り戻せるわけでもない。


それでも――

走らずにはいられなかった。


玄関のドアを開けると、朝の空気に花の香りが混じっていた。

川沿いの土手までの道のりが、いつもより遠く思えた。

左足を庇うように右足に重心をかけると、

それだけで膝の奥に電気が走った。


土手に着くと、桜が見事に咲いていた。

枝先でこぼれ落ちそうなほどの花びらが、

風に乗って川面に散っていく。


ベンチには、もうあの少女の姿はなかった。

どこかで元気に暮らしているのだろう。

自分のことなど、もう忘れているかもしれない。

それでいい。

それで十分だった。


田島は深く息を吸い、ゆっくりと走り出した。

右足、左足。

痛みが波のように膝を洗い、

心臓の鼓動がそれを押し返す。


この桜の下を走るのは、きっとこれが――

最後になるかもしれない。


そう思いながらも、田島は足を止めなかった。

川沿いの道を、田島はゆっくりと進んだ。

膝の奥から、ついに悲鳴のような痛みが走る。

それでも足は止まらなかった。

止まれば二度とこの景色を見られない気がして、

あのベンチの少女の声が、まだどこかで聞こえる気がして――。


頭の中で遠い記憶が浮かんでは消えた。

若かった頃、妻と桜並木を歩いた春の日。

息子がまだ小さかった頃、肩車して見上げた花の天井。

一つひとつが今は遠く、誰のものでもない夢のようだった。


花びらが、風に乗って頬をかすめる。

ひとひらが唇に触れて溶けた。

その儚さを、胸の奥が覚えていた。


右足に重心をかけ続けると、今度は腰が痛んだ。

呼吸も乱れて、心臓が自分の意思より先に抗議を始める。

それでも止まらなかった。

誰かに見せたいわけじゃない。

走り続ける自分を、自分だけが知っていればいい。


土手の一番高い場所に来ると、川面が朝の光を跳ね返してきらきらと輝いていた。

遠くにはビル群が見える。

昨日までの自分がいた場所。

誰にも覚えられない机と椅子と、書類の山。


なのに、今ここに立つ自分だけは確かだ。

誰がいなくても、自分がここにいる。


田島はふと立ち止まった。

息がもう、うまく吸えない。

胸が締めつけられるように苦しい。

膝の奥から、じんわりと熱が滲んで足先まで痺れていた。


土手の下にベンチが見えた。

あの少女の声がふいに蘇る。


――おじさん、すごいね。


それだけの言葉が、どれほど救いだったか。

誰にも言わずに終わるだろう。

言えなくていい。

でも、確かに自分だけは知っている。


田島は膝に手を当てて深く息を吐くと、

ゆっくりと歩き始めた。

もう走れない。

けれど歩ける。

それでいい。


空を見上げると、桜が真っ白に咲き誇り、

無数の花びらが春の川に流れていく。


誰もいない桜の道を、田島はひとりきりで戻っていった。

その背を、柔らかな風がそっと押していた。



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