第四章 痛む膝と桜の蕾
翌朝、いつものように目覚ましが鳴るより前に目を覚ますと、
膝の奥が重たく熱を帯びていた。
昨日の土手で小さく屈んだときの無理が響いたのだろう。
湿布を貼ろうかと一瞬思ったが、
それをする時間すら惜しかった。
田島はゆっくりと体を起こし、
まだ暗い部屋の空気を胸いっぱいに吸い込む。
わずかに湿った匂いの中に、
どこか春の気配が混じっている気がした。
外に出ると、冷えた空が少しずつ明るんでいく。
足を前に出すたび、膝の奥が鈍く軋んだ。
それでも止まらない。
止まれば、もう二度と走り出せない気がするからだ。
川沿いの道まで来ると、土手の斜面に
膨らみ始めた桜の蕾がちらほらと見えた。
まだ固く、寒さに耐えるように枝先に揺れている。
田島は立ち止まり、息を整えた。
少女が座っていたあのベンチは空っぽだ。
誰もいない。
けれど、確かに昨日ここで
「すごいね」と言われた自分がいた。
手袋の上から膝をそっと押さえる。
痛みがあるのは生きている証拠だと、
何度も自分に言い聞かせてきた。
だが、この先どこまでこの足は持つのだろう。
考えないようにしても、頭の隅にその不安が居座って離れない。
それでも、走るしかない。
この膝が止まるとき、
きっと自分も終わるのだ。
川面に映る朝日が少しずつ水面を照らす。
遠くでカモメが羽を打つ音がして、
田島はまた足を前に出した。
その足音が、まだ誰かに届くと信じて。
会社の机に着いても、田島の膝の奥の疼きは消えなかった。
朝のミーティングで立ち上がっただけで、
軸がぐらつくような鈍い痛みが脈打つ。
それでも誰にも言わない。
誰も気づかない。
昼休み、デスクで冷めたおにぎりを口に運んでいると、
山下がまた声をかけてきた。
「田島さん、こないだの件、ありがとうございます。
あの後、課長にも褒められました。」
田島は、乾いた喉を潤すように水を一口飲んだ。
「そうか、それは良かったな。」
山下は嬉しそうに笑うと、
「また何かあったら頼ってもいいですか?」と言った。
田島はほんの少し口元をほころばせて、小さく頷いた。
若い背中が去った後、田島は自分の左膝を机の下でそっと撫でた。
もう無理が利かないのは分かっている。
それでも、若い誰かが自分を必要としてくれるうちは、
机に座り、朝に走り、夜には疲れ果てて眠るだけの毎日を続けるつもりだった。
だが、春の気配は痛みを連れてくる。
帰り道、階段を降りるとき、膝の奥が鋭くきしんだ。
思わず手すりを掴み、誰にも見られていないかと周囲を見回す自分がいた。
自宅までの道の途中、通い慣れた川沿いを遠目に見た。
土手の桜が、ぽつりぽつりと咲き始めていた。
柔らかな花びらが、まだ冷たい風に震えている。
桜が咲くと、必ず人が増える。
花見の家族連れ、酔った若者たちの声。
その賑わいの中に、田島の居場所はない。
満開の桜の下で、笑い合う誰かの横を、
自分はまた走るのだろうか。
誰の目にも留まらずに。
膝がいつまで持つのか、それを数えるように。
家に着く頃には、痛みがじわじわと骨の奥にこびりついていた。
風呂で温めても、布団に入っても、
膝だけは眠らせてくれない。
それでも、田島は目を閉じた。
眠りに落ちるまでのわずかな時間だけ、
土手のあの少女と、膨らんでいく桜の蕾を思い浮かべた。
痛む膝と、ほころぶ花の隙間に、
自分の孤独をそっと隠すように。