第三章 小さな接点
川沿いの道を走るとき、田島は必ず土手の端にあるベンチを一度だけ通り過ぎる。
錆びた鉄の背もたれには、昔誰かが刻んだ名前がかすれて残っている。
昼間は学生や老人が腰を下ろすその場所も、朝夕には誰もいないことが多い。
その日、いつものようにベンチを横目に走り過ぎようとしたとき、
小さな影がふいに視界に入った。
ランドセルを背負った女の子が、膝を抱えて座っている。
周りに大人の姿はない。
地面には転んだらしい擦り傷が赤く滲んでいて、
少女は声を殺して泣いていた。
田島は一歩だけ走り去ろうとした。
知らない子どもに関わるのは、無用な厄介を招くかもしれない。
頭のどこかでそう思いながら、足が止まった。
走っているときに、誰かを助ける理由なんて、これまで一度もなかった。
だが少女の肩が小さく震えるのを見ていると、
心臓の奥が、かすかに自分を呼び戻すのを感じた。
「……大丈夫か?」
低い声で問いかけると、少女は顔を上げた。
涙で頬が濡れ、目尻が真っ赤だった。
見知らぬおじさんを警戒する目と、助けを求める目が、
彼の中で静かに胸を刺した。
「……いたい……」
少女は小さな声で呟いた。
よく見ると、左の膝がすりむけて泥がついている。
制服の袖も土で汚れていた。
田島はしゃがみ込み、ポケットからハンカチを取り出した。
水も薬もないが、泥をぬぐうだけでも違う。
「ちょっとしみるかもしれないけど、我慢できるな?」
少女はこくんと頷く。
田島の指先は、思ったよりもずっと不器用だった。
老眼でよく見えないのを隠すように、そっと泥を拭った。
「……どこから来たんだ?」
「……学校……途中で、こけた……」
「そうか。家は近いのか?」
少女はまた小さく頷くと、鼻をすすった。
田島はかすかに笑った。
こんなふうに誰かと向き合って話すのは、どれくらいぶりだろう。
「これで大丈夫だ。もう立てるな?」
手を差し出すと、少女は戸惑いながらも小さな手を伸ばしてきた。
指先が自分の荒れた手のひらに触れたとき、
どこか懐かしいぬくもりが、胸の奥にぽつりと灯った。
少女は立ち上がると、ランドセルを背負い直した。
赤い擦り傷を気にしながらも、必死に泣くのをこらえている。
「……ありがとう、おじさん……」
田島は小さく頷くだけだった。
走る途中の、ほんの一瞬のことだ。
言葉をかけすぎると、この温度が壊れてしまいそうで、何も言えなかった。
けれど少女は、去り際に振り返り、こう言った。
「……おじさん、すごいね。
いっぱい走ってて、すごい……!」
その一言が、思いがけず胸の奥を強く叩いた。
誰にも届かないと思っていた足音が、
この小さな誰かの目には届いていた。
少女が小さく手を振って遠ざかるのを、
田島はしばらく土手の端で見送った。
風が頬を撫でる。
涙ではないものが、目尻にじんわりと滲んだ。
少女の後ろ姿が遠ざかり、土手の向こうへ消えていく。
小さな赤いランドセルだけが、春の冷たい風の中でひときわ目立っていた。
田島はその場に立ったまま、ゆっくりと呼吸を整えた。
膝の奥がまた鈍く痛み始めているのを感じたが、
その痛みさえも、さっきまでとは少し違っていた。
「……すごい、か……」
誰にも必要とされない五十代の男が、
誰に頼まれたわけでもなく走っているだけのこと。
誰にも気づかれないと信じていたのに、
たった一人の小さな声が、その存在を認めてくれた。
それだけのことが、胸の奥をじんわりと温めていく。
誰にも話さない。
誰にも見せない。
それでも、これからも走るだろう。
走る先に何もなくても、今日のように何かが落ちているかもしれない。
土手の向こうに、雲の切れ間から日が差し込む。
冷えた空気の中で、その光がやけに眩しかった。
田島はゆっくりと息を吐いた。
心臓がまだ動いている。
膝がまだ支えてくれる。
それが、今の自分にはすべてだった。
もう一度、ゆっくりと歩き出す。
足の奥に残る痛みを確かめながら、
土手の坂を下りて、また走る自分を思い描いた。
小さな接点が残した余熱が、
その背を、そっと押していた。