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第二章 必要とされない場所

朝のランニングを終えて戻った部屋には、まだ冷たい空気が残っていた。

外から連れて帰った春の匂いは、誰もいない部屋にしんと沈んでいく。

汗を拭き取り、冷えたコーヒーを一口飲む。

体を動かしたあとの熱だけが、膝の痛みを少しだけ忘れさせてくれる。


スーツを着る。

くたびれた生地の肩口が、少し前からほつれている。

新しく買うべきだと思うたび、いやまだ大丈夫だと自分に言い聞かせる。

この程度のほころびを誰が気にするだろう。

――そもそも、誰も自分を見ていない。


電車に揺られ、同じ駅で降りる人の波に紛れる。

満員の改札を抜けても、誰とも目が合わない。

誰も知らない誰かの背中に紛れて、田島は会社へと足を運ぶ。


執務室のドアを押すと、室内はもう朝の喧騒に満ちていた。

コピー機の音、電話のベル、上司の叱声。

それらすべてが田島を素通りする。

誰も自分に気づかない。

けれど、いなくなれば「どこに行った」と小さく囁かれる。

そういう存在だ。


机に座り、パソコンの電源を入れる。

メールを開いても、新しい指示はない。

昨日と同じ報告書を見直すふりをしながら、ディスプレイに映る自分の顔を一瞬だけ見る。

ひどく疲れている。

けれど誰も、その疲れを覗き込もうとはしない。


田島はふと、朝の土手を思い出した。

誰もいない道を走っていたときより、ここにいるほうが孤独だ。

心臓の奥で、微かに膝の痛みが疼く。

その痛みだけが、確かに自分と共にある。

「田島さん、お疲れさまです!」


昼下がり。

書類の山を抱えた若い声が、自分を呼んだのだと気づくまでに、ほんの一拍かかった。

顔を上げると、新入社員の山下が立っていた。

つやのある髪と真新しいスーツの襟元が、田島には眩しかった。


「……ああ、山下君。どうかしたか?」


少し乾いた声が自分の喉から漏れる。

山下は慌てて書類を抱え直し、田島の机に数枚の紙を置いた。


「この数字、ちょっとだけ確認してもらえませんか。

小林課長に出す前に、一応……」


田島は、机の上の紙に視線を落とす。

スプレッドシートの列がいくつも並び、どこかで見覚えのある数字が小さく印刷されていた。

経理課に回す前のチェックだった。


「ここ、桁が一つずれてるな。

あとは……ここの内訳、去年のを参考にした?」


「……去年の、ですか?」


山下の目がわずかに見開かれる。

田島は無言でパソコンを操作し、去年のデータを一瞬で引き出す。

自分だけが覚えている帳簿の片隅。

それを指先で示すと、山下は小さく唸った。


「すごい……助かります、田島さん。

前にもちょっと思ったんですけど、田島さんって、記憶力すごいですよね」


不意に「すごい」という言葉が、胸の奥で跳ねた。

昨日の土手で、少女がくれたあの小さな声と重なる。

たったそれだけのことなのに、胸の奥がわずかに温かくなる。


「大したことじゃないよ。

困ったら、また声かけてくれ」


自分でも驚くほど、自然に言葉が出た。

山下は嬉しそうに頭を下げ、書類を抱えて小走りに離れていく。

若い背中が視界から消えたとき、田島は小さく息を吐いた。


必要とされない場所にも、時々こうして、

ほんの一瞬だけ必要とされる瞬間が落ちている。

それだけでいい、と自分に言い聞かせた。

もう十分だ。

そう思いながらも、胸の奥の小さな灯だけは、しばらく消えなかった。

山下が去った後の机の上には、使い古したマグカップと、冷め切ったコーヒーが残っていた。

自分の声が誰かに届いたのは、いったいどれくらいぶりだろうか。

それを思うと、胸の奥がほんの少しだけ熱くなり、すぐに冷めた。


周りの席では、新人たちが上司に詰められ、

先輩社員たちは黙々とキーボードを叩き続ける。

田島の存在に気づく者はいない。

さっきまでの山下の声も、もう空気に溶けてしまった。


モニターに映る数字をぼんやりと眺める。

若い頃は、ここで成果を出せば認められると信じていた。

誰より早く、正確に仕事をこなせば、

誰かが必要としてくれると、そう思っていた。


気づけば、いつの間にか誰でもできる仕事しか残らなかった。

自分で自分の席を薄くしてしまったのだ。

だから、誰も責められない。


けれど、不思議と後悔はなかった。

この机に縛りつけられているうちは、まだ居場所があるのだから。

一度でも誰かに「助かります」と言われたのなら、

今日の自分はもう十分だ。


時計の針が午後五時を指したころ、

同僚たちがぞろぞろと帰る準備を始める。

田島も静かに椅子を引き、背広の襟を正した。

空気のように立ち上がり、空気のようにドアを抜ける。


エレベーターの中に、山下の姿はなかった。

外に出ると、夜の気配が街を包みはじめていた。

昼間の喧騒がすべてどこかへ吸い込まれ、

残ったビルの灯りだけが、人々の疲れを照らしている。


田島は小さく伸びをした。

脇腹の奥に、走り足りない感覚が残っている。

一日を埋めるのに、あの土手をもう一度走ればいい。

必要とされない場所を離れ、誰もいない夜道を一人の足音で満たす。


そうすれば――

明日もまた、この机に座れる。


田島は背広のポケットに手を突っ込み、

人波に紛れて駅へ向かう。

足の奥に、微かな膝の痛みを確かめながら。

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