第一章 誰もいない朝
目覚まし時計が鳴るより先に、田島明は目を覚ます。
まだ夜の底に残る冷たい空気が、布団の隙間から忍び込んでくる。
天井を見上げると、小さなシミが目に入った。
昨日も、もっと前も、そのさらに前も、同じ場所にある。
まるで自分の時間だけが、そこに張りついて動かなくなっているようだった。
隣に人の気配はない。
もう何年もそうだ。
妻が出て行った日から、誰かと目を合わせて朝を迎えたことはない。
それでも、目覚める。
そして、走る。
膝の奥がじくりと疼く。
左足の付け根に、もう限界だと告げる声がわずかに響く。
田島はそれを無視するのが上手くなった。
無視しないと、立ち上がれないからだ。
玄関の脇に置かれたランニングシューズは、かかとが潰れ、靴紐がほつれている。
それでも田島はそれを捨てない。
新しい靴を買うほどの金を惜しんでいるわけじゃない。
ただ、替える理由が見当たらないだけだった。
靴紐を結び終えると、田島は小さく息を吐く。
暗い部屋に残していくのは、昨晩の吐き出せなかった独り言と、空っぽの寝床だけだ。
ドアを開けると、朝というにはまだ生ぬるい夜の名残が、頬を撫でていった。
遠くで新聞配達のバイクが道を駆け抜ける音がする。
街はまだ眠っている。
田島の足だけが、静かに目を覚ます。
走り始めれば、心臓が思い出したように鼓動を速める。
それは、誰にも言わない誇りだった。
止まらない。止まれない。
それが、田島明が今も生きている唯一の証だった。
走り出してしまえば、あとはいつも通りだ。
歩道のひび割れを避け、街路樹の根元にたまった水たまりを飛び越える。
すれ違う人はほとんどいない。
時折、犬を散歩させる老人と出会い、互いに無言で軽く頭を下げる。
それだけのやりとりが、田島にとっては十分だった。
自販機の灯りだけが、夜と朝の境目を照らしている。
息を吐くたび、白い湯気が肩越しに流れ、すぐに冷たい空に溶けていく。
それを見ると、心のどこかが少し安らぐ。
ああ、自分はまだ息をしている。
誰も覚えていなくても、ここに一つの体温がある。
胸の奥に詰まった空気を吐き出すように、リズムを刻む。
膝が軋み、左足の付け根が悲鳴をあげる。
それでも速度を落とさない。
止まってしまえば、次にまた走り出せる保証などないのだ。
昔、まだ結婚していた頃、妻が一度だけ朝のランニングに付き合ってくれたことがある。
冬の息が白くて、彼女は寒がりながらも笑っていた。
「どうして走るの?」
あのとき、何と答えただろう。
答えられなかった気がする。
言葉にしたら、何もかもが壊れそうだった。
その笑顔は、もう何年も記憶の奥で凍りついている。
思い出すたび、胸の奥が痛む。
それを振り払うように、田島は足を速めた。
川沿いの道に入ると、東の空が白み始めている。
遠くのビル群の向こうに、今日の太陽がゆっくりと顔を出そうとしていた。
風が頬を打つ。
指先がかじかみ、息は切れているのに、不思議と心は静かだった。
誰もいない朝。
それは孤独でもあり、自由でもあった。
ここだけが、誰からも何も言われない場所。
田島明だけが、田島明を許せる時間。
いつも通りの道を、いつも通りに走る。
誰かのためじゃない。
自分だけを裏切らないために。
それだけが、今日も彼を走らせる理由だった。