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ところが、そのネムスさんのからだは
ゆっくりと傾いて、そのまま横に倒れてしまいました
「あ…、あれ?
目が、まわ、る…」
天井を見上げて、ネムスさんが呟きます
私は、慌てて駆け寄りました
「…う…
なんで…?」
ネムスさんは天井にむかって手を伸ばします
その指先が、かくかくと震えだしました
「あ…?あ、れ…?
…さ、さむい…」
それから、さっき落とした布を
急いでまた、からだに巻きつけました
「う、う、う…さ、さむい…」
かたかたと震える歯の根が合っていません
「ネムスさん?」
驚いた私は、ネムスさんの手を取ろうとして
その熱さにぎょっとしました
ネムスさんは、寒い寒いと繰り返しながら
布をますますぎゅっとからだに巻きつけます
私は大急ぎで部屋中から布を集めてきました
「…さむい…
おかしいな、なつなのに
こんなに、さむい…」
ネムスさんはかたかたと震えながら
それでも、こちらをむいて微笑もうとしました
けれど、その笑顔ですら、かたかたと震えていました
「…熱、が、ありそうです…」
私は、なんとかそれだけ答えました
すると、ネムスさんは、ああ、と言いました
「…もしかして、えきびょう、って、やつ、かな
さっきも、いっかい、こう、なった…」
そうでした
ネムスさんがオーク化する直前にも
一度、疫病の兆候はあったのです
ネムスさんは、ふふ、と小さく笑いました
「…ひにく、な、ものだね
おーくに、なったら、えきびょうは、にげる
エルフに、もどったら、えきびょうが、もどる…」
そのようでした
「大丈夫です
疫病なら、治癒術が効きます
それに、綺麗なお水をたくさん飲めば
治るそうです」
私は、必死に思い出してそう説明しました
すると、ネムスさんは、また、ふふ、と笑いました
「ぼく、は、ちゆじゅつ、は、にがて…
にい、さま、が、かえってきて、くれると、いいけど…」
そうでした
シルワさんはまだ、潔斎の真っ最中です
ノワゼットさんと、この時代のシルワさんは
森のみなさんの治療に行ったきり
もう何日も戻っていません
「お水を汲んできます!」
となると、今、私にできるのはそれだけでした
私は小屋の中にあった少し大きめの桶を取ると
水汲みに行こうとしました
戸口の所でちょっと振り返ると
ネムスさんは、私を見て、にこっとしました
「有難う
転ばないように、気を付けてね」
さっきほど、声も震えていません
ありったけの布でくるまれたネムスさんは
ちょっと時期外れの雪だるまのようにも見えました
けれど、そのおかげか、少しだけ、寒気は
おさまったようでした
「すぐに戻ります」
私はそれだけ言って、泉へと急ぎました
泉はシルワさんのお家からも見えていて
本当に、すぐ近くにあるのです
流石に、泉には私ひとりでも、行くことができました
シルワさんは滝に行っておいでなのか
お姿は見えませんでした
もっとも、話しかけるわけにもいきませんし
むしろ、お会いできなくてよかったと思いました
桶にいっぱいお水を汲むと、私は大急ぎで小屋に戻りました
それほど、長い時間ではなかったと思います
それでも、小屋にひとり残してきたネムスさんが
心配で仕方ありませんでした
小屋に戻ると、ネムスさんは、横になっていました
慎重に、布を踏まないように避けながら近づくと
汲んできたお水をコップに入れて差し出しました
ネムスさんは、布のなかから手を出すと
コップを受け取って、水を飲もうとしました
けれど、ネムスさんの手は震えていて
コップに入った水はほとんど零れてしまいました
私は、慌ててコップを取り返すと
自分の手に持って、ネムスさんの口元に持っていきました
ネムスさんは、申し訳なさそうにこっちを見ました
「…ごめん…世話をかけて…」
「いいんです、こんなことくらい
それより、もう、謝らないでください」
さっきから、ネムスさんは、何度も、ごめん、と
おっしゃっています
疫病も、オークになりかけているのも
ネムスさんのせいではないというのに
そんなに謝らないでいいと思いました
すると、ネムスさんは、また、ふふ、と笑いました
「僕、ちょっと、謝り癖?ついてるのかも」
う、それは私も、なんというか、ご同類ですから
お気持ちはよく分かってしまいますけれども
「あんまりしょっちゅう、ごめん、を言っていると
ごめん、が軽くなる、ってお師匠様はおっしゃいます」
「お師匠様?」
「ご一緒に旅をしている方です」
「君は、旅をしているの?」
はい、と頷くと、ネムスさんはちょっと
目を輝かせました
「すごいね
そんなに小さくて弱そうなのに
怖くないの?」
「一緒に旅をしてくださるみなさんがいらっしゃいますから
怖くありません」
「あの、ホビットさん、とか?
彼って、あんなに小さいのに、強いよね?」
ネムスさんは興味深そうになさいました
それで、ついつい、調子に乗って、話してしまいました
「他にも、ドワーフ族のお師匠様とか
妖精族のミールムさんとか
エルフ族のシルワさんとか…」
それを言ってしまってから、はっとしました
この時代のシルワさんは、まだ、旅には出ていません
これは、もしかしたら、言ってはいけないことを
言ってしまったのではないでしょうか
けれど、ネムスさんはおっしゃいました
「へえ、シルワ、って名前のエルフがいるんだ
うちの兄様と同じ名前だよ」
う
それは、同じ人ですから
「エルフにはよくある名前なのかなあ」
「さ、さあ、どうでしょう…?」
曖昧に誤魔化してしまいました
「君は、どうして旅に出たの?」
ネムスさんは次にそう尋ねました
「…それは、話すと、とっても長くなるのですけれど…」
「いいよ
聞いてみたい
って、君に迷惑じゃなければ、だけど」
もちろん、迷惑だなんてことはありません
むしろ、フィオーリさんを待つ間
ネムスさんの気を紛らわせられるのならば
是非とも、お話ししたいと思いました
「実は私、故郷にいたころは…」
そうして、旅に出たところから
当たり障りのなさそうなあたりを
順を追ってお話ししました
ネムスさんは、ときどき、へえ、とか
うわぁ、とか、すごいね、とか言いながら
お話しを聞いてくださいました
「そっか
だから、君のこと、ホビットさんは
聖女様、って呼ぶんだ」
「この私が聖女を名乗るなどおこがましいと
つねづね思っているのですけれども
…すみません」
「あ!
そう簡単に、謝ったらいけないんじゃなかったっけ?」
ネムスさんは先生の失敗を見つけた子どものように
嬉しそうに笑いました
それから、そのきらきらの目を私にむけました
「でも、君のこと、僕も、聖女様、って呼んでもいい?」
「いえいえいえ
どうぞ、普通に、マリエ、でお願いします」
「やだ
だって、君は、僕の聖女様、だもの
あの、さっきくれた透明の石は、君の魔法なのでしょう?
君は、僕がオークにならないように守ってくれた
そういう人を、聖女、って呼ぶんでしょう?」
「…あれは、どうしてそんな効果があるのかは
はっきりとは分からないのですけれど
ただ、とりあえず、効果はあるようなので…」
シルワさんのことはお話ししたくなかったので
少し曖昧な感じになってしまいました
すると、ネムスさんは、もう一度、きっぱりと
やだ、とおっしゃいました
「聖女様
ねえ、また、もし、いつか、僕がオークになりそうに
なったら、君の力で、救ってくれる?」
「それは、もちろん!」
答えてから、え?でも、そんなこと約束して大丈夫なのかな
と、不安になりました
大精霊様の謎の思し召しで、私は今ここにおりますけれども
いつまた、違う時間へと飛ばされてしまうのか
それは、私にも分かりません
その私に、ネムスさんは、おっしゃいました
「ねえ、旅って、楽しい?」
「ええ、それは、楽しい、ですよ
見たこともない景色や、優しい人たちとも
出会えましたし」
お師匠様やミールムさん
フィオーリさん、そして、シルワさん
みなさんとも、旅に出てなければ
お会いできませんでした
ネムスさんは、ふぅ、と息を吐きました
「僕は、狩人なんてやってるけど
実は、この森の外には、一度も
行ったことがないんだ
森の端へ行って、この先には
何があるんだろう、って思っても
そのむこうへ、踏み出す勇気は
なかったんだ
だけど、君は、その、向こう側から
来たんだよね?」
「…はあ、まあ…」
「君は、勇気のある人だね
うん
君となら、僕も一緒に旅をしてみたいな」
そう言って、こっちをむくと、にこっ、としました
ネムスさんのその透明な笑顔に
あの棺のなかで眠っていた姿が重なりました
この後、ネムスさんは、シルワさんとふたり
旅に出ることになります
けれども、それは、決して、楽しい旅ではありません
オーク化に怯えながら、同族の追及から逃げ回る
長い逃亡の旅なのです
そして、その果てにあるのは…
透明な棺で永遠に時間を止められる未来でした
思わず、ほろり、と涙が零れてきました
一度、零れだした涙は、簡単には止まらずに
ほろほろ、ほろほろ、と零れて落ちます
それは、何もしないのに、透明な玉になって
ころころと床に転がりました
「どうして泣くの?」
ネムスさんは不思議そうにします
「ネムスさんの笑ったお顔が、とても綺麗だからです」
正直に答えると、ネムスさんは、へえ、と呟きましたが
それ以上は追及しませんでした
「これは…
さっき、君がくれたお薬だね?」
ネムスさんは転がった涙の玉を拾い上げて
しげしげと見つめました
「そっか
これって、君の涙だったんだ
君は、宝石の涙を流す、本物の聖女様なんだね?」
いえいえいえ
そんな御大層な者では、ありません
とりあえず、涙が固まるようになってくれたのは
助かりましたけれども
これも、何か、特別なことをしたわけでもありませんし
やっぱり私は、ただ、悲しいことに泣いているだけの
普通の落ちこぼれ神官です
それでも、これもいつか役に立つかもしれないと思って
せっせと床に落ちた玉は拾い集めました
「これ、また、苦しくなったら、飲んでください」
涙の玉をハンカチにくるんで渡したら
ネムスさんは、大事そうに、それを
懐にしまいました
それから、ちょっとシルワさんみたいに
丁寧にお辞儀をしました
「有難うございます、聖女様」
「や、やめて、ください、そんな…」
「君は僕の命の恩人だもの
お礼を言うのは当然のことだよ?」
ネムスさんは、もう一度、とびっきりの笑顔になって
言いました
「ね?聖女様?」
シルワさんが、ネムスさんのために
魔力のほとんどを費やして、あの棺を作った理由が
分かったような気がしました
この笑顔だけは、世界から失わせてはいけないと
思いました
けれど、ネムスさんは、また、かたかたと
震え始めました
私は、急いで水を飲ませようとしましたが
ネムスさんのお口に、なかなかうまく入りませんでした
さむい、さむい、と繰り返すネムスさんに
私は、大丈夫、大丈夫、と繰り返して
水を飲ませることしかできません
ネムスさんは、さっきよりもっと
苦しそうでした
どうしてもっとちゃんと
治癒術を練習しておかなかったのかと
激しく後悔しました
「…ごめんなさい、ネムスさん…
…ごめんなさい…」
無力な自分が悔しくて、謝る私の口に、ネムスさんは
指を一本、立てました
「…あやまったら、だめ…」
う
けれど、今、私に、謝る以外にできることなんか
ないのですから
疫病の症状については詳しくは知りませんでした
それがこんなに辛いものだったなんて
何もできないのが、苦しくてたまりませんでした
誰か
本当に、誰か
お願いですから
ネムスさんを助けてください
あとはただ、祈るように
心の中で繰り返しました




