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エルフの森の聖なる泉には、休むことなく滾々と
綺麗な水が湧き出ています
今は広大な森の、最初の木が生えたときから
その泉はあって、ずっと森を護ってきました
泉の精霊は、太古の昔、大精霊様と共にこの世界に降臨した
古い故い精霊でした
しかし、長い間、精霊は、形を取らず、誰にも
その姿を見せたことはありませんでした
やがて、森にはエルフが棲みつき、聖なる泉として
泉を大切に護るようになりました
泉の番人は、泉を穢れから護り
森に行き渡る清浄な水は
森とエルフたちを健やかに保ちました
長い長い時を経て、番人も何度か代替わりしましたが
代々の番人たちによって、聖なる泉の清浄さは
護り続けられてきました
シルワさんもまた、お父様からその職務を引き継いで
番人を務めていらっしゃいました
しかし、とても急な事情で引き継いだため、すべての技を
きちんと伝授されたわけではないのだそうです
それでも、幼い頃から、お父様のなさることを
ごく近くで御覧になっていたシルワさんならば
見様見真似、などとはおっしゃりつつも
それなりに手順を踏んで儀式を執り行うことも
ご承知でした
水脈の浄化は、元々、季節毎に定期的に
執り行われるものだったそうです
春は雪解けの水が流れ込む頃に
夏は雨期が明け、暑くなる頃に
秋は、一年の水の恵を感謝して
冬は雪や氷となって、水がゆっくりと休めるように
本来は年に四度だったその儀式を
ネムスさんによって泉が穢されたと誤解したシルワさんは
疫病の流行が起こるまで、何度も繰り返していたそうです
その間、一度も、シルワさんは
ネムスさんと話す機会を持たれませんでした
そのことを、後々、ずいぶん、後悔したのだ、と
少し悲しそうにおっしゃっていました
あのとき、もっとちゃんと話しを聞いていたら
そうすれば、ネムスさんは、あんなことには
ならなかったかもしれない
シルワさんは、その後悔を、ずっと
胸に抱き続けていました
ネムスさんと同じように、シルワさんもオークに
なりかけたとき、シルワさんは、ようやくご自分も
罰を受けたのだと思いました
そして、そのことに、少し、ほっとしたのだ、とも
ネムスさんの棺を維持するために
シルワさんはその魔力のほとんどを
費やしておられます
だから、普段はいつも魔力切れで
ふらふらの状態で、あまり魔法も使われません
泉の番人としての職務も、シルワさんはもう
果たせなくなりました
果たすための魔力もなくなってしまったし
何より、オークになりかけている自分には
聖なる泉を護る資格などもう、ないと
思っていたのだそうです
けれど、魔力の戻った今
オークになりかけているのは、変わりませんが
泉の精霊の許しを得られるのであれば
もう一度、番人としての勤めを果たしたい、と
潔斎に入る前日、そのようなことを、シルワさんは私に
話してくださいました
そうしてから
浄化の儀式のために、シルワさんは
七日間の潔斎に入りました
七日の間は、水だけを飲み、食物は摂らずに
身を清め、誰とも話さずに過ごさなければなりません
その間、シルワさんは、泉の畔にある瞑想室で
じっと、おひとりで祈っておられます
そのお姿は、遠くからなら拝見できますけれど
近くへ行くことは許されません
ただ、毎日、祈り続けるお姿を
遠目で見ることができるだけなのです
また、朝夕は森のなかにある滝へ行き
滝に打たれながら祈りを捧げなければなりません
滝行というものは、話しに聞いたことはありましたが
実際になさるのを見たことはありませんでした
とても激しい滝の流れに、細身のシルワさんは
耐えきれるのかと心配でしたけれど
たとえ、滝に押し流されそうになっても
周りは決して手出しをしてはいけないのだそうです
儀式自体は、少し、神殿の祭礼にも
似ていると思いましたけれど
神殿の祭礼では、禊は
直前に綺麗な水を浴びるくらいで
ここまで厳格なものではありません
もっとも、王都にある大聖堂と、村の神殿とでは
祭礼の規模も厳格さも違っています
大聖堂にお勉めしておられる神官様方は
日頃の立ち居振る舞いからして
厳しい規律がおありだということですから
ただ単に私がのんびりしているだけかもしれません
そう申し上げると、シルワさんはくすくす笑って
聖女様は、存在そのものが清浄なので
今さら清める必要などないのですよ、などと
のたまいました
ときどき思うのですけれど
シルワさんの目に映る私は、なんというか
実物の五十割増しほどに美化されているに違いありません
ともあれ、シルワさんは、七日間の潔斎に
入ってしまわれました
その間、私も、毎日ぼんやりとシルワさんを
眺めて過ごすわけにもいかないと思いました
いえ、もちろん、祈りを捧げるシルワさんのお姿は
それはそれはお美しくて、眺めていられるものならば
毎日眺め続けていたいという気持ちもありました
それに本当に、シルワさんという方は
ちょっと目を離すと、何をしでかすか、危なっかしくて
いえ、どなたかに、危なっかしいだなんて
どの口が申すかとも思いますけれども
やっぱり、シルワさんという方は
なんだか放っておけないと申しますか
とはいえ、潔斎の間は、いる場所も限られておりますし
遠目でなら、いつでもその存在を確かめられますし
流石に、よっぽどのことが無い限りは、大丈夫なはずです
それに、今は、そんな甘いことを申していられる状況でも
ないのです
たくさんの方々が、今も苦しんでおられるのですから
この時代のシルワさんや、ノワゼットさんたちは
休みなく、患者さんたちを治療しておられました
それはとても大切な尊いお仕事でした
しかし
フィオーリさんは治癒魔法は使えませんでした
私も、聖水をかけることしかできませんでした
はっきり言って、エルフの森では
何もお役には立てることはありませんでした
ところが
フィオーリさんは、ヒノデさんと協力して
日の出村に、森の水を届けることになさいました
おふたりは、まだ会ったばっかりだと思うのですが
こんなふうに、すぐに仲良くなってしまうのが
フィオーリさんのすごいところです
本当、いつもながら、感心いたします
水脈の浄化が叶えば、日の出村の井戸水も安全に
使えるはずです
それまでは、シルワさんの儀式が済むまでは
安全な水を森から届けて
凌いでもらおうというわけです
とてもよい考えだと思いました
そして、是非とも、私にも
手伝わせていただきたいと申し出ました
お水を届けるのならば
力持ちはお役に立ちますよね?
相談のまとまった私たちは、早速
その夜から行動を開始いたしました
ヒノデさんは、聖なる泉から、日の出村の井戸に
通路を開いてくれました
泉に飛び込んだ私たちは、気が付くと
日の出村の井戸の底におりました
あら、お外ではないのですね?と
何気なく、申しましたら
泉の精霊ほどの力はないからね、と
ヒノデさんはちょっと怒ったように
おっしゃいました
いえいえそんな、ここでも十二分に
有難いのです
お気を悪くさせてしまって、申し訳なかったです
日の出村の井戸は、そう深くはありません
百年後の日の出村で覗き込んだときにも
底が見えていたくらいですから
フィオーリさんは、釣瓶の綱を伝って
するすると上に上りました
それから、私たちに手を貸して
引っ張り上げてくださいました
疫病の流行のせいか、村の中はしんと静まり返り
夜中に外を出歩いている人はいませんでした
私たちは、真夜中の村を回って、一軒一軒の家から
水汲みのバケツを盗んでまいりました
もちろん、盗みはいけないことだとは
存知ております
けれども、今は非常事態です
それに、こんなにたくさんのバケツを
他にどんな方法で集めたらいいというのでしょう
盗んだバケツは、すべて、私のリュックに
詰めていきます
ええ、このために、私、久しぶりに
リュックを空にしてまいりました
それにしても、まあ、出るわ出るわ
我ながら、感心、いたしました
お鍋におたま、たわしにせっけん
着替えに、靴に、傘に、予備の傘に
移動式祭壇に、聖水の空き瓶に
それからそれから…
書物を、ジョヴェさんに全部差し上げてきたのは
幸いでした
あれで、少しは荷物も減らすことができました
しばらく、お師匠様から離れていたせいか
生の食材の類がなかったのも、幸いでした
日持ちのする乾燥した食材は、その辺りに
放置しておいても、悪くはならないでしょう
それにしても、鞄というものは
ときどきは、このように、中身を全部出して
整理しないといけないものだなと
つくづく、実感いたしました
しかし、おかげさまで、日の出村の全部のお家から
バケツをひとつずつ、拝借、することができました
あ、そう、拝借、でした
盗むんじゃなくて、拝借
フィオーリさんはそうおっしゃったのでした
それから、夜のうちに、私たちは
バケツに森の水を満たして
また日の出村へと運びました
バケツには蓋はありませんでしたけれど
ヒノデさんが、ちょちょい、と呪文を唱えると
バケツにいっぱいに入った水は、氷のように固まって
バケツから零れたりはしませんでした
それから、私たちは、またバケツを
元のお家に返して回りました
そこで、フィオーリさんの驚異的な能力を
発見いたしました
なんと、全部のお家のバケツを、フィオーリさんは
きちんと覚えておられたのです
なんて素晴らしい記憶力なのでしょう
バケツのわずかなへこみや傷
ちょっとした色合いの違い等で
どのバケツがどこのお家の物なのか
完璧に、覚えていらっしゃったのでした
感動する私に、フィオーリさんは
こんなのは、ホビットの郷にいれば
普通のことだから、なあんて
おっしゃっていましたけれど
確かに、ホビットの郷では
みなさん、いろいろな容器に
いろいろな物を入れて
持ってきてくださいます
それをまたお返ししなければ
なりませんから
これは、ホビットの郷で生きていくには
必要な能力なのかもしれません
朝になると、日の出村のみなさんは
お家の前に水のいっぱい入ったバケツを
見つけられると思います
きっと
ああ、親切な人が
水を汲んできてくれたんだろうな
と思ってくださるでしょう
元々は、辺境の村で、みなさん支え合って
助け合って、暮らしてこられたのです
しかし、これが、余所者の仕業だと知られては
また騒ぎになります
折角、お届けした水を、使っていただけなくなっては
なんにもなりません
夜が明ける前に、私たちは、大急ぎで
日の出村を後にしました
といっても、井戸に飛び降りただけですから
そう大変でもありません
こうして、都合、七日間、私たちは
毎夜毎夜、お水を届け続けたのでした




