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ぱしゃり…
清浄な水が降りかかったような感覚があって
気が付くと、泉の傍に立っていました
本当に、一瞬のことで、びっくりしたのは
自分が泉の傍にいるのに気づいた後でした
全身、ずぶ濡れになっていましたけれど
心地よい風が吹いて、すぐに乾かしてしまいました
「やあ、水源様!」
明るい声が聞こえて、そっちを見たら
ヒノデさんと泉の精霊が立っていました
「まあ、ようこそ
可愛らしいお客様
この森に人間のお客様とは、珍しいですね」
泉の精霊は私を見てそう言いました
え?あれ?
「…あの、精霊様、私、マリエです」
「マリエさんとおっしゃるの?
わたしは、この泉の精霊です」
泉の精霊は丁寧にお辞儀をしました
それはまるで、初めて会った人にするかのようでした
「あ、はい、存知ております…」
「水源様?
この子は、水源様と知り合いじゃないの?」
ヒノデさんは不思議そうに尋ねました
いいえ、と泉の精霊はあっさり首を振りました
「この森に人間が迷い込んだことは一度もありません
森の一番最初の木が生えたときから、ここはずっと
エルフたちの住処でしたよ」
「えっ?
だけど、この人間の持っていた鏡には
水源様の気を感じたんだけどなあ」
ヒノデさんはそう言って首を傾げました
「あなたは、わたしの眷属かしら?」
泉の精霊はヒノデさんを見て尋ねました
「日の出村に作られた井戸の精霊だよ
水源様から一番遠いところにいる眷属
以後お見知りおきを」
ヒノデさんはぴょこんとお辞儀をしてみせました
「それにしても、その赤い髪…
水の眷属にしては、珍しい色ですね?」
泉の精霊はヒノデさんの髪を不思議そうに見ました
「ああ、これね?
具現化するときに、マリエの血を使ったからだよ」
ヒノデさんは得意気に
くりくりと自分の髪を指に巻きました
「まあ、では、そこの人は、この世界に
精霊を具現化するお力をお持ちだというの?」
泉の精霊は驚いたようにこちらを見つめました
「え?
あ、はぁ…」
具現化する力?かどうかは分かりませんけれど
何回か、目の前に突然、精霊が現れたことはありました
もっとも、それが私の力なのかどうかは分かりません
取り立てて、何かをした覚えもありませんでした
泉の精霊は、しきりに、まあ、まあと繰り返してから
あっ、と何かに気づいたようにしました
「もしかして、シルワが探している聖女というのは
あなたのことかしら?」
「え?
シルワさんが?」
ようやくお互いに通じる話が見つかった気がして
私は泉の精霊をじっと見つめました
「ええ、シルワは、大事な方を見失ったと言って
もう何日も探しているのです
もしかして、その大事な方というのは
あなたのことかしら?」
「え?何日も?」
「ええ、月が一巡りするほどの間、かしら」
月が一巡り?
そんなに長い時間は経ってはいないはずです
隠れ家を飛び出して、道に迷い、しばらく歩き回って
それから、ヒノデさんに出会って…
何日も、どころか、まだ、日が暮れてさえいない
はずでした
「かわいそうに
シルワはひどく思いつめて、すっかりやつれてしまって」
「思いつめて?
やつれてしまって?」
シルワさんは、普段からそう頑丈な性質ではありません
そのうえやつれてしまっているなんて、とても心配です
「少し、待ってくださいね?」
泉の精霊はそう言うと、すっと宙を見つめました
ぽちゃん、とどこからともなく水滴が現れ
細かく砕けて飛び散っていきました
「シルワに報せを送りました
すぐに、ここへとやってくることでしょう」
泉の精霊の言った通りでした
それほど待つこともなく、シルワさんはそこに
姿を見せました
木のむこうに、すっと姿を現したシルワさんは
思ったほど、やつれて、は見えませんでした
ただ、その碧い髪が、前にも増して深く碧い色に
染まったように見えました
シルワさんは無言でこちらに歩み寄ると
いきなり、何も言わずに、私を引き寄せました
その時初めて、衣のなかの腕の細さに、びっくりしました
シルワさんの腕は、少し、震えているようでした
からだも、小さく、震えていました
ただ、引き寄せた力は、シルワさんとは思えないくらい
とても強い力でした
けれども、それはやっぱり、シルワさんでした
ふわり、と衣のなかに抱きすくめられて、ほっとしました
それほど時間は経っていないはずなのに、とても長い間
離れていたように感じました
「マリエ!」
シルワさんの後ろから現れたノワゼットさんが
私の名前を呼びました
フィオーリさんも、聖女様!と呼びながら
駆け寄ってきました
「ご心配をおかけいたしました」
私はみなさんに謝りました
「ご無事でなにより、っす」
フィオーリさんはにこにこと言ってくれました
けれど、ノワゼットさんは、怒ったようにおっしゃいました
「いったいどれだけ心配したか…
シルワ師なんて、何回も発作を起こして…」
「発作?」
私は驚いてシルワさんの顔を見上げました
シルワさんは、困ったように視線を逸らせて、ええ、と
呟きました
「…申し訳ありません
聖女様からいただいたお薬も、もう使い果たして
しまいました…」
「そんなものは、べつにいいんです
それで?今は?大丈夫なのですか?
なんなら、今、私、ここで泣きましょうか?」
私は自分のほっぺたを思い切りつねりました
ぽっちり、と涙が浮かびました
ちょっと、情けなくなりました
「う
これっぽっち…」
「なんてことを!
おやめください!」
シルワさんは驚いて私の手を掴みました
その手が、前にも増して、細く、薄くなっていて
指は、もう本当に骨ばかりのようで
なんだか、ほっぺたをつねるより、涙が出てきそうでした
「ご心配をおかけして、すみません…」
私はシルワさんの手を取って、両方の手で包み込みました
細くて冷たい手を、少しでも温めたいと思いました
「…わたしが、あまりにも不甲斐ないから
とうとう、聖女様に見捨てられたのかと…」
シルワさんは悲し気に微笑みました
「そんなわけ、ありません!」
そもそも私、シルワさんの苦しみをなんとかしようと思って
飛び出したのです
それなのに、シルワさんをこんな目に合わせてしまうなんて
本末転倒、というのはこういうのを言うのでしょう
「軽々しい真似をしてしまったことを反省しております
ここが、エルフの森だということをすっかり忘れて
いたのです
なんとかして、みなさんのところへ戻ろうとして
日の出村の井戸の精霊に助けていただいて…」
「戻ろうとしてくださったのですね?
有難うございます、聖女様、有難うございます」
シルワさんは私の手を大切そうに握ると
頬を寄せて、ほろほろと涙を零しました
「こうして、戻ってきてくださって、本当に嬉しいです
何を失っても、あなただけは失いたくないのだと
思い知りました
あなたを危険な目に合わせてしまったのは
わたしの責任です
これからは、もう、絶対に、あなたから離れません」
シルワさんは泣きながらそう言いました
ほんのしばらくの間、迷子になっただけ
そんなふうに感じていた自分を、私は
ひどく申し訳なく思いました
もしかしたら、私はまた、時間を超えてしまった
のかもしれない、と思い当たりました
多分、あの、鏡をぬけたときに
そうして、私は、あれから、ひと月後の森に
戻ってきてしまったようでした




