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聖女様!
引き留める声がしたような気もいたしましたが
気が付くと、森の中を駆けておりました
そして
即座に
迷っておりました
さっき、確か、ここは泉のすぐ裏手だとか
聞いたような気もしたのですけれど…
とりあえず、明るい方へ行けば見晴らしもよくなるかと
明るい方へ明るい方へ歩いてみましたが
行けども行けども、森、でした
う
しまった
です
そうなのです
ここは、エルフの森なのです
あの独特の歩き方をしなければ
真っ直ぐに進めないところだったのです
けれど、もうどっちから来たのかも分からなくて
隠れ家に戻ろうにも、どうしていいか分かりません
早々に途方に暮れた私は
そのまま歩みを止めてしまいました
今日もエルフの森は明るくて、きらきらしているのに
こんなに心細いのはどうしてでしょう
右を見ても、左を見ても
前を見ても、後ろを見ても
そこには誰もいません
思えばいつも、一緒にいてくださる方がありました
ひとりぼっちになったのは、いったいいつ以来でしょうか
シルワさんは、弟さんを迷宮に残して
長い間ずっとおひとりで、世界をさ迷っていたと
おっしゃいました
それがどれだけ孤独で心細くて辛い旅だったのか
たったこれくらい、ほんのわずかの間
ひとりになったくらいで、こんなに不安になるのに
まして、シルワさんは、ずっと、自分がもうすぐ
オークになってしまうのではないかという心配も
抱えながら、旅を続けていたのです
それは、どれほど辛い旅だったでしょう
いつもにこやかで穏やかなシルワさんを見ていると
そんな辛い思いをしてきた過去は想像もできませんけれど
今の自分になるために、それも必要なことだった、と
シルワさんはおっしゃいました
だとしても、やっぱり、辛い思いをしてほしいとは
思えません
思えないから、こんなふうに飛び出してしまったの
ですけれど…
どうやらこれは、シルワさんを助けるどころか
どなたかに自分が助けていただかないといけない羽目に
なってしまったようでした
情けなくて、しょんぼり、です
思えば、私、以前から、こんなおっちょこちょいな
ところがありました
聖女になる!と言い出して、旅に出たのも
なんというか、今から思えば、いろんな方々に
大迷惑をおかけする結果を招いておりました
う
いつもみなさんに優しくされ過ぎなのです
けれども、これではいけません
もっと、私、強くならなければ
と、ふと、ポケットのなかに固いものがあるのに
気づきました
手を入れて取り出してみると、泉の精霊からもらった
手鏡でした
そうだ!これがありました!
蓋を開けると、シルワさんに直していただいた鏡は
ぴかぴかになっていて、そこに私の情けない顔が
映っていました
「精霊様!精霊様!」
私は鏡にむかって呼びかけました
すると、鏡はゆらゆらと水面のように揺れ始めました
「は~い、やっほ~」
ところが、そこに現れたのは、予想したのとは
まったく違う姿でした
「え?
どちら様?」
「そっちこそ
誰?」
鏡に映ったのは、幼い子どもの姿をした精霊でした
真っ赤な髪が、はっとするほど鮮やかで綺麗でした
「あの、私、泉の精霊様とお話ししたいと
思いまして…」
「呼び出しといて、それはないでしょ?」
精霊はむっとした表情になりました
きつい感じのする瞳が、じりっと私を睨みました
「この間だって、助けてあげたのに」
「この間?
助けて、もらった…?」
「たくさんの人間に囲まれて、石、投げられてたでしょ?
もっとも、おかげで、あのとき、力もらったんだけどさ
だから、こんな姿にもなれるように…」
力を、もらった?
精霊は途中まで言いかけてから
じっと、こちらの様子を眺めるように
鏡を覗き込みました
「ふぅん、そっち、森ん中か
だったら、水の気も多いし
いけるかな」
精霊の言ったことの意味を考えている隙に
精霊は、すぅっ、と
本当に、すぅっ、と
鏡から出てきました
そして、その鏡から出るついでに
精霊の姿は、真っ赤な蛇になっていました
「う、わっ!」
びっくりして取り落とした鏡を
鏡から出てきたばっかりの赤い蛇は
ひょい、と器用に尻尾で受けてくれました
「ほら、落としたら、割れるぞ?」
蛇はそう喋ると、尻尾に乗せた鏡を差し出します
人の言葉を話せる蛇でした
「あ、これは、どうも…」
思わずお礼を言って受け取ってから、また
うわっ、と飛び退きました
「あ、の…え、っと…精霊様?ですよね?」
この姿には確かに見覚えがありました
くるくるとしたあの目をよく覚えていました
日の出村の井戸の前で遭った、あの赤い蛇です
すると、精霊はまた、するすると人の姿に
変わりました
「ヒノデでいいよ
日の出村の井戸の精霊、じゃ長いだろ?」
ヒノデさんはそうおっしゃいました
「あ、っとヒノデさん?
ええ、っと…」
「ここは水源様に近いんだな」
ヒノデさんは、くんくんと風の匂いを嗅いで
そう言いました
「ええ、確か、泉の近くだ、とは…」
ヒノデさんは、あっちこっち、姿勢を傾けながら
森を観察していました
「エルフの森ってのは、どうしてこう
七面倒くさいんだろ
まあ、いいや、鏡使って移動するか」
「え?鏡?」
「うん
ほら、おいで」
ヒノデは私が持っていた鏡を取ると
地面に開いたまま置きました
それから
いきなり私の腕を掴むと
ひょい、と鏡のなかへと飛び込みました




