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村を出て、私たちは広い荒野をとぼとぼと歩いておりました
遠く、遠くに、青々と横たわるエルフの森
今は、シルワさんやノワゼットさんと一緒ですから
その森も、少しずつ、近づいていました
若い頃のおじいさんは、あの森に憧れたのだなあと
思いました
行ってみたい、と思ったとき、偶々、私はエルフ族の
シルワさんと一緒でした
だから、難なく、あの森まで辿り着けました
けれど、それって、本当は、ものすごく幸運なこと
だったのです
人間の村で、エルフ族を見かけることはほとんどありません
エルフは、森から出ることをあまりしませんし
もしも、どこかで出会ったとしても、進んで人間と
交流することもありません
多分、話しかけたとしても、礼儀正しい人たちですから
いきなり敵意を向けられることはないと思いますが
おそらくは、淡々と、踏み込んだお話しなどはなさらずに
風のように去って行かれるのだと思います
美しくて、神々しくて、神秘のベールに包まれた
不思議な存在
そんなエルフ族に憧れる人間はとても多いのですけれど
実際に会って、話せる人は、とてもとても、稀なのです
だけど、今、少し前にはノワゼットさんが
それから、隣にはシルワさんがいます
思わず、まじまじと見つめてしまいました
「聖女様、どうかなさいましたか?」
視線に気づいたシルワさんが尋ねてくださいます
それから、少し心配そうになって、付け足しました
「お疲れですか?
少し、休みましょうか?」
「こんなところで休んでるより、早く森に着いた方が
いいんだけど」
前を歩いていたノワゼットさんは、振り向いて
おっしゃいました
もちろんです、と私は急いで答えました
「みなさんが休息を必要としておられないなら
私は、問題ありません
どうか、このまま進みましょう」
シルワさんは、何かを伺うように、こちらを
じっと見つめましたけれど、それ以上は何も
おっしゃいませんでした
「こうして歩いていると、ミールムさんの有難みを
つくづく感じますねえ」
フィオーリさんはにこにことおっしゃいました
シルワさんは深々と頷きました
「妖精の補助魔法は、派手さはなくとも
かなり有効ですからね
わたしも、もし機会があれば、習ってみたいものです」
「エルフであっても、妖精魔法って使えるんですか?」
「ものによります
日常使いの補助魔法であれば、体系さえ理解できれば
使えるようになるかもしれません
けれども、秘奥義クラスになると、おそらく
使用者のからだの組成を変える必要があるでしょうから
かなり難しいとは思います
妖精の奇跡、と呼ばれる、最高級の秘奥義となると
妖精自身も、自らの存在と引き換えだそうですから
習うことすら、できないでしょう」
「さすが、シルワ師
よその種族の魔法体系について、そんなにお詳しいとは」
「学校で習っただけですよ
実際に体感したことはありませんから
分かっているとも言い難い程度です」
シルワさんは苦笑して首を振りました
「両親は、わたしに森の外の世界を見てきなさいと言って
魔法学校へ送り出してくれました
けれども、わたしは、行きたくなくて
行ったら行ったで、早く帰りたい一心で
今から思えば、もう少しあのころに
きちんと勉強しておけばよかったです」
シルワさんは遠くに見える青い森を眺めて
小さく笑いました
「あのころは、よもやまさか、自分が森を出て
外の世界をこれほどにさ迷うことになるとは
思いもしませんでしたねえ」
「…シルワ師がそんなことになったのも
もとはと言えば、わたしの…」
ノワゼットさんの言葉を、シルワさんは珍しく遮りました
「そのことは、もう、いいと、言ったはずですよ?」
「いいえ
わたしは、どんな目にあったとしても、仕方ないと
思っています
けれど、シルワ師や、まったく関係ない、マリエたちまで
どんどん、巻き込んでしまって…」
???
ノワゼットさんは、いったい、なんのお話しをなさって
いるのでしょうか?
「…ノワゼット、もう、それ以上は」
シルワさんは、少し、叱るようにおっしゃいました
滅多にそんな話し方はなさらないので、私は少し
驚いてしまいました
けれど、すぐに、シルワさんは、少し微笑んで
困ったように付け加えました
「お願いします、ノワゼット
あれは、ふたりだけの秘密にしてくださるはず
だったでしょう?」
「そんな秘密なんて!
もう、とっくに、無効になってますよね?
シルワ師だって、分かっていらっしゃるはずです!」
ノワゼットさんは怒ったようにシルワさんを見つめました
シルワさんは、ちょっと目を逸らせて、あはは、と
声だけで笑いました
「そんな、みっともないことを、知られては
わたし、これから、どうして聖女様の前に
いられましょうや?」
「みっともなくなど、ありません
少なくとも、マリエは、それを、みっともないと
思うような人じゃありません」
断言するノワゼットさんに、シルワさんは、思い切り
困った顔になりました
「どうしましょうか
流石、聖女様の純真さは、誰の目にも明らかと
喜ぶべきなのか
わたしよりも、ノワゼットのほうが
聖女様のことをよくご存知だと
嫉妬してしまう自分を責めるべきか
そうですよね、聖女様って、そういう方なんです、と
ノワゼットと一緒に褒め称えるべきか
ここは、どうするべきでしょうか?」
「わたしに聞かれても困ります」
ノワゼットさんにきっぱり言われて、シルワさんは
あはは、ともう一度笑いました
と思ったら、いきなりその場に膝をついて
地面に拳をつきました
「申し訳ありません、聖女様
わたしは、嘘をつきました」
いきなりそんなふうに謝られて、私はびっくりしました
「ええっ?
いったい、どんな嘘を…?」
「オークになったフリをいたしました
そこの、ノワゼットにも協力してもらって」
「あ、それ、ミールムさんとグランさんは
最初から、気づいてましたよ?
おいらも、お二人に聞いて、多分あれは
フリだろう、って思ってました
けど、シルワさんがそんなにまでするには
なにか理由があるに違いない、って
とりあえず、聖女様には黙っておこう、って
みんなで言ってたんっす」
フィオーリさんはけろっとおっしゃいました
「シルワ師は、あなたの命をこれ以上、喰らうわけには
いかない、とそうおっしゃって…」
ノワゼットさんは、シルワさんのために
説明しようとなさいました
「聖女様のお命を喰らって正気を保っているなんて
もうそれ自体、魔物になっているも同然だと
思いました」
シルワさんは深々とため息を吐きました
「けど、奇声を発して走って行ったからオークだ、ってのは
ちょっと、弱いと言えば、弱いっすよね
ノワゼットさんは、必死に言い張ってましたけど」
「ノワゼットは悪くありません
元々、嘘などつけない人なのです
そんなノワゼットに、わたしが無理やり
協力してほしいとお願いしたのです」
この辺りまで聞いたところで
ようやく混乱していた頭のなかが整理されてきました
「まあ!
それでは、シルワさんは、オークになっては
いらっしゃらなかったのですね?」
「って、今ごろ?」
ノワゼットさんは、ちょっと信じられない、という
顔をなさいましたけれど、私は嬉しくて、それも
気になりませんでした
「よかった」
「ってか、聖女様、シルワさんがオークになった、って
あんまり気にしてなかったこと、ないっすか?」
フィオーリさんは不思議そうにおっしゃいました
「それは、ええ…確かに…」
気にしてなかった、ことはないのですけれど
言われてみれば、確かに、そうかもしれません
「再会したシルワさんは、いたっていつも通りでしたし
一緒にいてくださるシルワさんは、シルワさんのままで
いえ、もしかして、オークになっていたとしても
それがシルワさんなら、やっぱり
いつもの大事なシルワさんですから」
あれ?でも、そういえば…
「私、あれから、涙を流しておりません
シルワさん、あの、問題はありませんか?」
シルワさんは、ふふふ、と小さく微笑まれました
「問題ありません
霊体だったときからずっと、一度も
自分がオークになりかける発作のようなものは
起こしていないのです
いただいたお守りも、ほら、まだ一度も使わずに
こうして持っております」
シルワさんはあの小瓶を懐から取り出して見せました
中にはきらきらした透明な玉が、いっぱいつまっていました
「今は、自分がオークになるかもしれない、という
恐怖すら、感じません
どうして、こんなふうになれたのかは
はっきりとは、分からないのですけれど…」
「それって、もしかして、病が治った、という
ことっすか?」
フィオーリさんはちょっと驚いたように
でも、嬉しそうにおっしゃいました
シルワさんは、少し首を傾げて答えました
「…もしも、あれが病なのだとしたら
確かに、治ったのかもしれません
そして、思うに、それは多分、聖女様のおかげです」
「ええっ?私?
何もしておりませんよ?」
びっくりしてそう返したら、シルワさんは
優しい優しい目をして、微笑まれました
けれど、その話しを、ノワゼットさんの固い声が遮りました
「シルワ師
そうやって、話しを逸らせようとしてくださっているのは
分かります
けれど、もう、これは、ちゃんとお話ししたほうがよいと
思うのです」
ノワゼットさんは、声を震わせて続けました
「あのときの、森に流行った疫病
その原因はわたしなのです」




