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結局、シルワさんは、私がお湯から上がるまで
付き合ってくださいました
ほんのり温かいお湯に包まれていると
本当に心地よくて
ふわふわ上る湯気の香りも
それはそれは、いい匂いで
けれど、よくよく考えると
あんなに長い間、浸かっていたのに
少しもお湯が冷めたりしなかったのは
もしかしたら、シルワさんが
ときどき魔法で
温め直してくださったのかもしれません
そんなこんなですっかりほかほかになって戻ると
テーブルには、素敵なご馳走が
所狭しと並べられていました
「有難うございます、とてもよいお湯をいただきました」
それから、フィオーリさんにむかって、ごめんなさい、と
頭を下げました
「うっかり長湯をしてしまいました
フィオーリさんも、お風呂を使われますよね?」
「あ、おいら、もう水浴びしてきましたから
いや、シルワさんに魔法で綺麗にしてもらったから
もういいかな、って思ってたんっすけど
ノワゼットさんが、洗ってこい、って
うるさいもんっすから」
「当たり前だろ
水の浄化は、魔法とはまた違うから」
ノワゼットさんは器用に両腕にお皿を並べて運びながら
フィオーリさんを睨みました
「あんたの世話は、シルワ師に任せておけば
まあ、大丈夫だろうって
その間に、食事の支度をしておいた」
「なんだか、こんなによくしていただいて
申し訳ありません」
「べつに」
ノワゼットさんの、べつに、を久しぶりに聞いたなあと
思いました
ただ、ノワゼットさんはそれでおしまいではなくて
付け足しておっしゃいました
「災難に遭った仲間に手を貸すのは
当たり前のことだ
いいから、さっさと席につけ」
ノワゼットさんは、ここに座れ、とばかりに
椅子を引いてくださいます
慌ててそこへ行くと、絶妙なタイミングで
椅子を押してくださいました
「あ、あの…有難うございます」
「べつに」
今度はそれだけで、何も付け足さずに、急いで
どこかへ行ってしまいます
その後ろ姿がちらりと見えましたが
耳の辺りが、真っ赤になっていました
仲間、だなんて、言葉を使ってしまって
少し照れていらっしゃったのかもしれません
けれど、ノワゼットさんにそんなふうに言ってもらえて
なんだかとても嬉しく感じました
今日のご馳走は、ノワゼットさんが作ってくださった
とのことでした
「ここの御内儀様は、わたしの料理の師だ」
「なんのなんの
今となってはもう、ノワゼットのほうが
わたしより、腕は上ですよ」
にこにことおっしゃるおばあさんはとても優しそうで
どこか故郷の人たちを思い出させました
「せっかくお客様がこんなにたくさんいらしたのだから
これは歓迎しないとなあ」
おじいさんもにこにことおっしゃいます
さっきは余所者と呼ばれ、玉子をぶつけられましたが
ここの老夫婦は、他所から来た私たちを、それほど
嫌悪はしていないようでした
「さっきは、村の者らが、酷いことをしてしまって
すみませんでした」
おじいさんは、そう言って丁寧に頭を下げました
「皆、根からの悪人ではないのです
ただ、ここのところ、奇妙な噂が流れていて…」
「奇妙な噂?」
「他所から来た者が疫病を持ち込む、と
その疫病で、この村は滅んでしまう、と」
私は、はっとしました
それは、もしかしたら単なる噂ではないかもしれません
さっき、疫病のことを言いかけたとき
シルワさんに、その話しはしないように、と
言われたのを思い出しました
「それ、ちょっと違うよね
本当は、エルフがこの村に疫病を持ち込む、でしょ?」
ノワゼットさんは訂正するようにおっしゃいました
それを聞いて、私はますます目を丸くしました
思わず、シルワさんのほうを見てしまいましたが
シルワさんは、ええ、と小さく頷いただけで
あえて何もおっしゃろうとはなさいませんでした
「この村はもともと、エルフとの交易によって
これほどまでに栄えることができたのじゃ」
おじいさんは、そんなお話しを始められました
「エルフ族の作る工芸品や魔法のかかった道具を
人間の街に持って行って売るのです
エルフ族の作る物は、たいそう珍しく素晴らしい品ばかり
それはそれは、いい値がつくのですよ」
おじいさんは、傍らのコップを取って見せました
「これも、エルフ族の作った物です
一見、ただのグラスですが
これには魔法がかかっていて
冷たいものは冷たいまま
熱いものは熱いまま保たれるようになっている
このような物は、とても珍重されるのです」
確かに、そんな物は見たこともありません
もしかしたら、よほどのお金持ちのお家にしかないような
高価な道具なのかもしれません
「わしらにとって、エルフは大切な恩人
そのエルフ族をあしざまに言うなど
なんと恩知らずな…」
おじいさんは嘆くようにおっしゃいました
「わたしは、あまり森から出たことはなくて
世間知らずな質問のようで申し訳ありませんが
この村には、エルフ族はよく来るのですか?」
シルワ師は用心深く、おじいさんに尋ねました
おじいさんは、はい、と頷きました
「森の商人をしておられるご夫婦がいて
定期的に、エルフ族の品をたくさん
持ってきてくださるのです」
商人のご夫婦?
それはまた、どこかで伺ったような…
「あのご夫婦は、そもそも、わしの命の恩人で
この村の始まりも、そのご夫婦のお力あってこそ
なのですよ」
おじいさんは、どこか懐かしそうにおっしゃいました
「昔昔の大昔、まだわしが怖い物知らずの若者だったころ
遠く、神秘的なエルフの森に憧れましてな?
森を目指して旅を始めたのです
街道の最果ての村をあとにしてからこっち
荒地を延々、歩いて歩いて…
けれど、歩けど歩けど、森には辿り着きませんでした」
あの広い広い荒地は、私たちもたいそう苦労しました
ミールムさんに補助魔法をかけていただいていても
大変だったのです
魔法なしで踏破するとなると
それは、並大抵の苦労ではなかったはずです
「遠くには、くっきりと
エルフの森の黒い影が見えているのに
どれだけ歩いても、その影は少しも近づいてこない
それでも、一目この目で、エルフの森を見たいと願って
歩きに歩きました
けれども、歩いても歩いても、やっぱり
森は少しも近くはならなかったのです」
「…それは、おそらく、森の結界が発動していた
のでしょうね」
シルワさんは少し気の毒そうにおっしゃいました
エルフの森は、そこに不用意に人が近づかないように
魔法をかけてあるのです
「とうとう、持ってきた食料も底をつき
なにより、水がなくなってしまいました
しかし、もう、水場を探す気力も
食べられるものを探す気力も尽き果てていて
わしはそのまま道に倒れました
エルフの森は、まるで永遠に手の届かない楽園のようだ
そんなことを思いながら、そのまま目を閉じました」
なんとまあ
そのとき、どれほど悲しい思いを抱えておられたのでしょう
悲しいことに、道半ばで旅人が倒れてしまうことは
この世界には、本当にたくさんあるのですけれども
そのひとつひとつの胸にあったお志を思うと
本当に、胸が痛みます
「けれども、ふと、目を覚ますと
大きな焚火があって、そこに、ふたりのエルフがいました
ふたりは、わしに水と食料を与えてくれました」
ぎりぎりのところで、助けてもらえてよかった
おじいさんのお話しにはらはらしていた私は
ほっとして息を吐きました
「ふたりは、人間の力で、よくこんなところまで
来られたものだと、感心していました
わしは、エルフの森に辿り着きたい一心で
ここまで来たのだと説明しました
すると、ふたりは、ここから先はエルフでなければ
進めないのだと言いました
そういう魔法がかかっているのだ、と」
森の結界
それはエルフにとっては、森を守る大切なものです
けれど、それはエルフ以外の者は、すべて
善悪を問わずに、はじいてしまうものでもあるのです
「ただ、自分たちと一緒なら、この先に進むこともできる
このまま一緒に行くかと尋ねられました
けれども、わしは、少し考えて、それは断りました」
「なんでまた?
そんなにまでして、行こうとしたのに?」
じっとお話しに聞き入っていたフィオーリさんも
意外そうに尋ねました
それにおじいさんは、ふぉふぉふぉ、と少し楽しそうに
笑いました
「そんなにまで、したからですかのう
倒れたとき、わしはもう、自分はここまでじゃと
思いました
力を尽くしてやり尽くしたから、もう十分だと
あの聖域は、人間は、決して近づいてはいけないのだ
それほどまでに、尊い場所なのだ、と
だから、行ける、となっても、もう、行きたい、とは
思えませんでした」
「ううう、なんかおいら、納得いかないっす」
フィオーリさんはまだなにか言いたそうになさいました
けれど、ノワゼットさんに、しっ、と叱られて
お口を閉じてしまいました
おじいさんは、そのままお話しを続けました
「すると、ふたりは
ならば、この場所にこのまま住むのはどうか、と
尋ねました
ここには、ぎりぎり、森の水脈が届いているから
その水を分けてやろう、と
なんのことかよく分かりませんでしたけれど
それにはわしはうなずきました
エルフの森がいつも見えるこの場所で
ずっと暮らしていられるのなら、どんなにいいかと
すると、いきなりエルフは、地面に杖を突き立てました
そうして呪文を唱えると、杖の下から水が沸きだしました
それが、あの井戸の始まりなのです」
「そうして、それがこの村の始まりでもあるのですね?」
はい、とおじいさんは、頷きました
「エルフたちは、それからもここをよく訪れてくれました
そうしていろいろと、生きていけるように
手を貸してくれました
その後も、エルフの森に憧れた人間が
ここまでやってきては、ここに棲みつくようになりました
ここは、エルフの森に一番近い村として
それなりに知られるようになりました」
「まあ!
私、そのような村のことは、今初めて伺いました
そんなに有名な村だったのですね?」
自らの浅聞を恥じて、思わずそんなことを言ってしまったら
ノワゼットさんは思い切り咳払いをなさいました
シルワさんは、ちょっと苦笑して
まあ、ほら、百年経ってますから、ね?
と小さな声でおっしゃいました
あ、そう、でした
私の生きていた時代は、ここが滅びてから百年
経っていたのです
おじいさんは、私たちの様子に軽く首を傾げました
けれど、気にせずに、お話しを続けられました
「エルフたちは、ここへ寄っては、惜し気もなく
いろいろな物を与えてくれました
やがて、何かの折に街へ帰った者が
そのエルフからもらった品が高値で売れることに
気づきました
それからというもの、村は、エルフからもらったものを
遠くへ持って行って売ることで、大きな財を成しました
人はどんどん、この村へとやってきて
家も増え、暮らしも豊かになりました」
「確かに
ここって、そんな、田舎とは思えないくらい
金持ちそうっすもんね?」
「こら、失礼だろ!」
フィオーリさんはノワゼットさんに叱られています
おじいさんは、そんなフィオーリさんにも
ふぉふぉふぉと笑いました
「これほどまでに豊かになったのも
すべては、エルフ族が惜しげもなく与えてくれた恵のお蔭
なのに、どうして、最近、皆、あのように…」
「…その、疫病の噂のことですけれど…」
シルワさんは慎重に尋ねました
「いつごろから、どのような経緯で噂が始まったのです?」
はて、とおじいさんは首を傾げました
「いつごろからだったか
気が付いたときには、もう、村中が知っておりました
そして、エルフ族を目の敵にして
村へと近づけないようし始めたのです」
「一年前?ひと月前?それとも、もっと最近?」
具体的に尋ねたノワゼットさんに
おじいさんは、そうさのう、とちょっと考えました
「ひと月ほど前でしょうか」
そう答えたのは、おばあさんでした




