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おじいさんのお家は広場のすぐ近くでした
「ばあさん、ばあさん、可愛らしいお客さんをふたり
連れてきたよ
早速だが、風呂を沸かしておくれ」
おじいさんは、玄関の戸を開けるなり
中にむかってそう呼びかけました
あらあら、まあまあとエプロンで手を拭きながら
小柄なおばあさんが家の中から出てきました
そのすぐ後ろから、聖女様?と、言う声が聞こえました
そのたった一声で、声の持ち主は、すぐに分かりました
シルワさんの声でした
「…失礼、御内儀様…」
シルワさんは、おばあさんにそう声をかけながら
すっと横をすり抜けると、こちらに駆けてこられました
そして、いきなり私を抱き寄せました
「あ!いえ、あの、しばしお待ちを!」
私は慌ててシルワさんを留めようと手を伸ばしましたが
その手をすり抜けて、シルワさんは
がっちりと、私を引き寄せてしまいました
あ
…あー…
これはもう、手遅れかもしれません
腐った食材や泥水にまみれた私に、そんなにすりすりしては
シルワさんの白い衣は、さぞかし悲惨なことに…
けれど、シルワさんは、気づかないのか
なんだか泣きながらおっしゃいました
「聖女様!
どれだけあなたにお会いしたかったことか
これは、夢ではありませんよね?
いいえ、夢でもいい
夢ならいっそ、永遠に醒めないでもらいたい」
ぐずっ、と鼻をすすり…すすり…
ぁぁぁ、そんなに思い切り息を吸ったら
この臭気をもろともに…
「ぅっ…」
シルワさんは突然、口元を抑えて息を止めました
ええ、まあ、そうでしょうとも
私ももうずっと、息が鼻を通らないように気をつけながら
浅い息をしているのです
私はもう、シルワさんがお気の毒でお気の毒で
何も言えませんでした
ただ、ゆっくりと、そのからだを押しやって
少しでも、離れようとしました
けれど、それでも、シルワさんは、私を離そうとは
しませんでした
ぃゃ、あの、それは、やめておいた方が…
「いったい、誰が聖女様にこんなことを…」
シルワさんは聞いたことのないような低い声で言うと
何か小さく唱えました
すると、あれ?
あんなにものすごかった臭気が一瞬で消え去り
べたべたした手触りも、なくなっていました
「四元素に分解しました
どうかもう、ご安心を
けれど、一度、湯浴みをなさいませ
聖女様のお心についた染みまでは
魔法では消せませんから」
シルワさんは、私の顔を見て
にっこりと微笑んでくれました
やっぱり、シルワさんです
間違いなく、シルワさんです
本物の、シルワさんです
「シルワさんにお会いできて、心についた汚れも
きれいさっぱり、消えてなくなりました」
久しぶりにシルワさんの笑顔をこの目で見られた嬉しさに
思わずそんなことを言ってしまいました
すると、シルワさんは、目を丸くして
それから、ほう、とため息を吐きました
「やっぱり、これは夢じゃない
夢なものですか
これほどの愛らしさも愛しさも
すべて、わたしの妄想などであるわけがない
本物の聖女様だからこそ、でしょう」
「やっほー、シルワさん!
おいらもいますよ?」
そこへフィオーリさんが割り込んでこられました
シルワさんは、フィオーリさんには
たった今、気づいたようなお顔をなさいました
「おや、フィオーリもいたんですね?
お元気そうでなにより
というより、ものすごい臭気ですね?」
「酷いっす、聖女様には、臭いなんて言わなかったくせに
おいらも、その、魔法、ちょちょい、っと
やってくださいっすよ」
フィオーリさんはちょっと拗ねたようにおっしゃいます
「ああ、はい、ちょっと待ってください
えっと…」
シルワさんは、また呪文を唱えます
すると、フィオーリさんについていた汚れも
さらさらと消えてしまいました
「シルワさん?
大丈夫ですか?
そんな、立て続けに魔法を使ったりして…」
いつもなら、この辺りで、くらりと倒れてしまうころだと
思い出して、私は急いでシルワさんを支えようとしました
けれど、シルワさんは、いつものようにふらつきもしないで
にっこりと微笑まれました
「ええ、それが、大丈夫なのですよ
不思議とね
ここのところ調子がよくて
魔法を使っても、倒れたりしないのです」
シルワさんは、ふふ、と笑って、私を御覧になりました
「体調も、とってもよくって
そうだ、聖女様
そのリュックを、そこへ下ろしていただけませんか?」
「え?あ、はい」
お家の中でリュックを背負ったままというのも失礼です
私は急いで荷物を下ろしました
お家の床を汚してしまわないか
少し、気になりましたけれど
さっきのシルワさんの魔法のおかげか
リュックは以前よりむしろ、綺麗になっていました
すると、何を思ったのか、いきなりシルワさんは
ひょいと私を抱え上げてしまいました
「ひぃぇっ
あの、ちょっ…」
「ふふふ、聖女様って、軽いですねえ」
シルワさんはあはは、と笑いながら、私を抱えて
歩き出しました
「え?あの?
いえ、私、取り立てて、怪我等しておりませんが…」
「いいえ
あのような恥辱を受けては
いかに聖女様といえども
さぞかし、お辛い思いをなさったことでしょう
せめて、そのお心が癒えるまで
こうさせてくださいませ」
「あ、いえ、ご心配には及びません
私、こう見えて、なかなか頑丈なので」
「もちろん、聖女様の清らかなお心は
あの程度のことで、汚れたりはしませんとも
それでも、柔らかなその魂に
いらぬ傷など受けてしまったのではないかと
心配で心配で、たまらないのです」
「あの、ご心配をおかけして申し訳ありませんが
本当に、大丈夫ですから…」
「その気丈さも気高い聖女様
どうか、この哀れな従者を安心させるためと思って
こうすることをお許しください」
「…シルワ師に口で勝とうなんて
あんたには百年、早いと思うよ」
シルワさんと私の終わりのない問答に
口を挟んでこられたのは、ノワゼットさんでした
「ノワゼットさん!
ご無事だったのですね?」
私は身を乗り出すようにしてノワゼットさんを
振り返りました
おっとっと、とシルワさんは少しバランスを
崩しかけましたけれど、下ろしてはくれませんでした
「その言いようだと、わたしがシルワ師と一緒だったって
知ってたみたいだね?」
「お家の畑の精霊さんに、教えていただきました!」
「精霊?
あそこ、そんなの、いたんだ」
ノワゼットさんは、ご自分の畑だというのに
感心したようにおっしゃいました
「おやおや、嬢ちゃんは、ノワゼットと
お知り合いだったのかい?」
おじいさんが後ろからそうおっしゃいました
あ、はい、と私は今度はそちらを振り向きました
また、シルワさんは、おっとっと、と
バランスを崩しかけました
「そちらのノワゼットの先生とも親しいようだし
これは、うちへ連れてきて、よかったねえ」
「本当に、助かりました」
私は、丁寧に頭を下げました
もっとも、シルワさんに抱えられたままなので
どうにも無作法なお辞儀になってしまいました
だっこされて、じたばた暴れる私に
そろそろシルワさんも、諦めてくださらないかなと
思っていたのですけれど
残念ながら、堪えてしまわれました
「失礼、御内儀様、湯殿をしばし、お借りしますよ?」
シルワさんはおばあさんにそう声をかけると
もう有無を言わせず、私を連れて行きました




