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上から覗いたときには、井戸の底は
すぐそこにあるように見えました
けれども、暗闇のなかは、落ちても落ちても
なかなか底に辿り着きませんでした
「聖女様!」
突然、呼びかけられて、驚きました
聞き覚えのある声でした
「フィオーリさん?」
その名を呼んだ瞬間
すぐ上に、フィオーリさんの姿が見えました
フィオーリさんは、そこからこちらを見下ろしていました
もっとも、ふたりとも、今、落ちている真っ最中です
「おいらの手に、つかまってください!」
フィオーリさんはこっちに手を伸ばしてこられます
私も必死にそちらへ手を伸ばしました
あと、少し…
もう、少し…
私の手はどうしてこんなに短いのでしょう
どうにか触れあった指先が、互いをかすめて
あともうちょっとのところで、届きません
と、そのときでした
びよ~ん
としか形容しようのない、奇妙な音と共に
ずっと下から飛んできたのは、バネタロウさんでした
「バネタロウさん?!」
バネタロウさんは、暗闇を蹴って、私の膝の下に入ると
そのまま、もう一度、びよ~ん、と飛び上がりました
バネタロウさんに持ち上げてもらいながら
頑張ってもっと手を伸ばします
すると、ようやくフィオーリさんの手に
私の手が届きました
フィオーリさんは
とても小柄な姿からは想像できないほどの力で
私の手をつかみました
そして、ぎゅっと繋いでくれました
手を繋いだまま、私たちは暗闇の中を落ちて行きました
バネタロウさんは、そんな私たちの周りを
びよ~ん、びよ~ん、と飛び跳ねながらついてきます
バネタロウさんのように闇に足をかけて飛べたら
どんなによかったでしょう
けれど、流石のフィオーリさんにも
それは難しい技のようでした
もちろん、私にも、到底、そんなことはできません
それでもこうやって手を繋いでもらうと
ひとりぼっちで暗闇のなかを落ち続けていたときとは
くらべものにならないくらい安心でした
今の状況が怖くないとは言えません
けれど、繋いだ手のぬくもりを感じていると
なんとかなるだろうという気持ちに
不思議となっていくのでした
まるで、お月様から落ちてきたのかと思うくらい
長い長い間、落ちていきました
ようやく、穴の底に着く直前に
バネタロウさんはまた私の膝の下に入って
軽く、持ち上げてくれました
バネタロウさんに支えられたまま底に着き
尻もちはつきましたけれど
落ちたダメージはまったくありませんでした
私は、急いで明かりを灯しました
明かりを灯すのは、初歩の初歩の魔法なので
一応、私もやったことはあります
ただ、いつもみなさんといると
シルワさんが、さっさと魔法の明かりをつけるか
お師匠様が、さっさとランタンを灯すか
ミールムさんが、さっさとご自身を光らせるか
なさいますので
あんまり、出番はなかったのでした
ちょっと、不安はありましたけれど
なんとか、明かりは無事についてくれました
こんなところで、妙なものを召喚したり
岩だの、水だの、まったく違うものが出てきたりしなくて
本当によかったです
もっとも、明かりを灯すには、ほんの少し魔力を集中
させればよいわけで、呪文も紋章も必要ありませんから
失敗するほうが難しい、とよく言われます
フィオーリさんのほうは、難なく、ご自分で
穴の底に降り立ったようでした
「やれやれ
聖女様、大丈夫っすか?」
フィオーリさんはそう言って私のほうへ
手を差し出してくださいました
私は、遠慮なく、フィオーリさんの手を借りて
立ち上がりました
「はい、どこも怪我はないようです」
「そいつは、よかった」
フィオーリさんは、にこっと笑いました
この笑顔を久しぶりに見たと思いました
「フィオーリさん!
心配していたのです
いったい、どこにいらしたのですか?」
思わず私は、フィオーリさんに詰め寄っていました
フィオーリさんは、あは、と頭をかいて
すいませんっす、と軽くお辞儀をしました
「なんか、黒い手?みたいなもんに
足、つかまれそうになって
必死に逃げたら、あの穴に落ちて…」
「もしかして、あの後、ずっと
落ち続けていたのですか?」
そんな何日も落ち続けるなんて
どれだけ深い穴なのでしょう
「ずっと?
ああ、まあ、はい
それは、そっすけど…
聖女様こそ、あの青い手に捕まったんっすか?」
「いいえ、私たちは、捕まったのではなく…」
私はミールムさんの開けた扉を通って
泉の精霊に会ったことを話しました
すると、フィオーリさんは、とても驚いた顔を
なさいました
「ええっ?
おいら、落ちたのは、ついさっき、で
聖女様も、すぐに落ちてきた、っすよ?」
「ええっ?
あれからもう、何日も経っていますよ?」
私たちはお互いに驚いた顔を見合わせました
そこに、びよ~ん、と
バネタロウさんの飛び上がる音がしました
「もしかして、ここは、精霊界でしょうか?」
「そうかもしれません
バネタロウさんも、いることだし」
精霊界では、距離も方角も、現実の世界とは
違ってしまっている、といいます
もしかしたら、時の流れも違ってしまっているのかも
しれません
私は、あれからあったことを、フィオーリさんに
お話ししました
泉の精霊の力を借りて、エルフの森に着いてから
アイフィロスさんに会いに行ったり
シルワさんを探して、日の出村へ行ったことまで
フィオーリさんは、ほぇ~、とか、ひょえ~、とか
奇妙な相槌を打ちながら、私の要領を得ない話を
じっと聞いてくださいました
「って、ことは、聖女様はその、井戸に
引き込まれたんっすね?」
「…多分、そうだと、思います
泉の精霊から、気を付けるように、と
言われていたのに…」
はっと思い出した私は、ポケットからあの手鏡を
取り出しました
けれど、蓋を開けてみると、手鏡は
びっしりとヒビが入ってしまっていました
「…これも、私の不注意の招いたことなのですね…」
しょんぼりと手鏡を見ていると
フィオーリさんは、にこっとしておっしゃいました
「けど、おいらもちょうど同じとこに
迷い込んでたわけですし
おいら、聖女様に会えて、よかったっすよ」
びよ~ん、とバネタロウさんも飛び上がりました
なんだか、そんなお二人を見ていると
落ち込んでいきそうだった気持ちも
不思議に軽くなってきました
「そうですね
私も、井戸に引き込まれたときには
どうなってしまうのだろうと、不安でしたけれど
フィオーリさんやバネタロウさんと会えて
とても、安心いたしました」
そう言っておふたりを見ると
フィオーリさんは、ますますにっこりし
バネタロウさんは、びよ~んびよ~んと
何度も飛び跳ねました
「さてと
ここから、どうやって出ましょうかねえ?」
そこは、井戸の底のように丸くて狭い場所でした
出口はやっぱり、上にしかなさそうです
しかし、あれだけ落ちてきたのですから
この壁をよじ登るとなると
大変な苦労だと、思われました
「っと、その前に、まずは、腹ごしらえ、しますか」
フィオーリさんはにこっと笑うと
先に、地面に直に座りました
バネタロウさんと三人だと、足をのばして座る
わけにもいかないくらい狭い場所でした
私たちは、足を抱えて、みんなで座りました
フィオーリさんはポケットから次々と
焼き菓子や果物、木の実等を取り出しました
本当に、こんなにたくさんどこに入っていたのでしょう
もしかしたら、魔法のポケットかもしれません
それは本当に、びっくりするくらい、たっぷりありました
甘いお菓子を食べると、元気がわいてきました
手を触れた地面は、湿ってはいなくて
乾いた、さらさらの砂のようでした
それは、ちょっとあの、井戸の底にたまっていた
砂を思い出させました
「ここは、枯れた井戸なのでしょうか?」
「もしここが井戸だったなら
水汲みはさぞかし苦労するでしょうねえ
釣瓶を回しても、回しても、桶が上ってきませんからね」
確かに、ごもっともです
「精霊界には、ときどき、こんな穴があるのかしら」
ミールムさんやお師匠様と落ちたときも
こんな穴だったことを思い出しました
私は、周囲の壁を確かめました
あのときは、壁に横穴がありました
けれども、この穴は、きれいに石が積み上げてあって
それもまた、あの日の出村の井戸に似ていました
「とりあえず、上に行く他に
ここを抜ける方法は、なさそうっすねえ」
フィオーリさんはまた穴のずっと上を眺めました
つられて私も上を見上げました
けれど、そこには、やっぱり何も、見えませんでした
「あ、聖女様、どうぞ」
フィオーリさんにそう呼びかけられて
私は目を戻しました
見ると、水の入った小さなコップを
フィオーリさんが差し出してくれていました
「お菓子食べると、喉、渇きませんか?」
フィオーリさんは、ご自分の首にかけた水筒を
指さします
どうやら、このお水はその水筒のお水のようでした
「おいら、コップのこっちっかわ、使ってますから
反対側から飲んでください」
フィオーリさんは、わざわざコップをくるっと
回してみせました
それを見て、はっと思い出しました
「いえ、お水なら、私、持っております
いえ、でも、あの、そのお水は別のことに
使いたいですから、このお水はいただきます」
大急ぎでコップのお水をいただくと
リュックから、瓶を取り出しました
この瓶のお水は聖なる泉のお水です
これがあれば、もしかしたら、泉の精霊さんを
喚び出せるかもしれません
ふと、また思い付いた私は
ポケットから手鏡も、取り出しました
瓶のお水を、地面に零すのではなく
開いた鏡の上に、少しずつ、かけてみました
すると、どうでしょう
ほんの一口分くらい、お水をかけただけなのに
鏡は、きらきらと青い光を宿し始めました
フィオーリさんが目を丸くします
その隣でバネタロウさんは、喜びが抑えきれないように
びょんびょんと飛び跳ねました
ジジ…ジジジ…
青く光る鏡は、そんな音を立てました
びっしりと入ったヒビの、そのひとつひとつに
小さな小さな泉の精霊の姿が、映りました
「精霊様!精霊様!」
私は必死に呼びかけました
フィオーリさんも、一緒に呼びかけてくださいました
忠告を聞かずに、このような危機に陥ったことを
まずは一言、謝らなければ、と思いました
「精霊様!申し訳ありません!精霊様!」
ジジ…ジジジ…
…マリエ…ブジ…
「はい!無事です!
それにここには、フィオーリさんもおられます!
ごめんなさい、精霊様!
折角、気を付けるように、おっしゃってくださったのに
このようなことに…」
私はなんとか状況を伝えようとしました
けれど、その間も、泉の精霊は何か話し続けています
まずは、そのお話しを伺わなくては、と私は口を閉じました
泉の精霊は、何か、伝えようとしていました
けれども、ジジジ、という雑音で、なかなか
泉の精霊の声は聞き取れませんでした
ジジジ…ジジ…
…ヒノデムラ…
え?今、日の出村、とおっしゃいましたか?
そう思ったときでした
周りの石壁の、石の隙間から
滔々と、青い水が噴き出してきました
うわっ、と叫んで、フィオーリさんは
片方の手にバネタロウさんを
もう片方の手に私を、しっかりとつかまえました
私はなんとか、鏡を拾って、ポケットにしまいました
泉の精霊はまだ何か伝えたそうでしたけれど
このまま、穴の底に忘れていくわけにはまいりません
噴き出した水はみるみるうちに井戸の底に溜まって
私たちのからだを押し上げていきます
あっという間に足がつかなくなりました
「おいらにしっかりつかまって!」
フィオーリさんがそう叫びます
私も、遠慮している場合ではないと
フィオーリさんにしがみつきました
フィオーリさんは、両腕に私たちを抱えたまま
なんとか水の上に浮かび続けてくれました
そのまま私たちは、穴のなかを
水に持ち上げられていきました




