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その日も朝からいいお天気で、ぎらぎらと
太陽は眩しく照りつけておりました
街道沿いにある休憩所までは、まだ少し歩かなければ
なりませんでした
さっきの休憩所では水場が枯れていて
水が手に入らなかったので、ひとつ、見送ったのでした
しかし、朝から予想以上に暑くなっていて
歩いていても、はあはあと、息が苦しくなります
そのまた、自分の吐いた息の熱さに
ぎょっとするくらいの暑さでした
暑さに弱いミールムさんは
もう口をきく元気もなくて
ただ、苦しそうに息をしながら
炎天下を飛び続けていました
けれど、どうかすると
その羽の動きも緩慢になって
何度か、地面に下りてしまっていました
「せめて、水があったらなあ」
お師匠様はため息を吐いて、小さく呟きました
持ち歩いていた水袋の水は、もう全部
使い切ってしまいました
水袋を買い足したいと、ずっと思っているのですが
この暑さで、立ち寄る村でも水袋は品薄になっていて
なかなか、手に入らないのです
「郷で、もらってくりゃ、よかったっすねえ」
フィオーリさんもため息を吐きました
「いや、あのときは、ここまで水がないとは
思えへんかったから」
お師匠様もまたため息を吐きました
ふと、顔をあげると、前方に、大きな隊商の列が見えました
大きな荷車がいくつもあって、馬に乗る人も見えます
「あの人らに、ちょっと頼んで、水を分けて
もらえへんかな」
お師匠様は遠くの隊商を見ながら呟きました
「おいら、ちょっと行って、頼んでみますよ」
フィオーリさんは即座にそう言うと、空の水袋を持って
走りだしました
と、そのときでした
隊商のすぐ後ろの道に、突然
大きな水たまりが現れたのです
水たまりには、先に行く隊商の列が
綺麗に映っていました
「え?あれ?
なんでしょうか、あれは
あのあたりだけ、突然、雨が降ったのでしょうか?」
もしも雨なら、恵の雨です
とはいえ、雨雲などは、さっきから欠片も見ていません
それに、あの場所だけ、突然雨が降るなんてこと
あるのでしょうか
「あー、あれは、逃げ水や
雨が降ったわけやないよ」
けれども、お師匠様は首を振りました
「あれはほんまもんの水やのうて
そこに水があるように見えてるだけや」
え?そうなのですか?
足の速いフィオーリさんはみるみる間に隊商に追いついて
今、ちょうど、その水たまりの辺りに差し掛かっていました
どう見ても、あれは水たまりです
あんなふうに走っては、さぞかしフィオーリさんも
水を跳ね返すのじゃないでしょうか
けれども、フィオーリさんは、まったく意に介さぬように
水たまりへと突っ込んでいきます
「すぐ近くへ行くとな、水たまりなんか
あらへんのよ」
お師匠様はそう説明してくださいました
そのとき、でした
水たまりのなかから、何か、奇妙な黒い、
手のようなものが、にゅうっと伸びてきました
あれもやっぱり、幻なのかしら
この暑さで、目がおかしくなったのかもしれない
そう思って、ごしごしと目をこすりました
けれど、やっぱり、黒い手は見えています
その手は、走るフィオーリさんの足首を掴もうと
していました
フィオーリさんは、その手には気づいていません
ただ、すばしっこいフィオーリさんの足は
なかなかうまく掴めないようでした
右足を狙って、ひょい
お次は左足を狙って、ひょい
黒い手は何度も空振りを繰り返しました
「いや、違う!
あれは、まずい!」
私の視線に気づいたミールムさんは
そっちを見つめて叫びました
それから、もっとよく見ようとしたのか
無理をして、高く飛び上がりました
「う、あっ!」
けれども、お日様の鋭い光が、ミールムさんの羽を
まるで矢のように射抜きました
羽の破れたミールムさんは、あっ、と叫んで
そのままくるくると落ちてきました
「あっ!ミールムさんっ!」
私は急いでミールムさんの落ちてくるところへ走りました
こんなに早く走ったのは生まれて初めてというくらい
急いで、です
おかげで、ぎりぎり、ミールムさんのからだを
受け止めることができました
ミールムさんが、破れた羽を必死に動かして
落ちるスピードをなんとか緩めてくれたのも
功を奏しました
「いや、僕より!
フィオーリ!」
けれど、落ちてきたミールムさんは
フィオーリさんのほうを指さして叫びました
私たちは、一斉にフィオーリさんのほうを
振り向きました
そのとき、ちょうど黒い手が
フィオーリさんの足首を掴むのに
成功したのが見えました
そのまま黒い手は、フィオーリさんを
水たまりのなかへと一息に引き込みました
「くそっ」
腕のなかで、ミールムさんが呻きました
ミールムさんは私の手を振り払うようにして立つと
ステッキを出して、大きな紋章を手早く描きました
輝く紋章は、さっきフィオーリさんを引き込んだ
水たまりの辺りに飛ぶと、大きく丸く拡がりました
「急いで!
扉が、閉まらないうちに!」
それだけ言い残して、ミールムさんは
力尽きたように崩れ落ちました
ミールムさんが地面に激突する一瞬手前で
ひょいと受け取ったお師匠様は
右手にミールムさんを抱え
左手には、私の手を引いて
一心不乱に駆けだしました
「走れ!嬢ちゃん!」
私はなんとか必死に足を動かしました
何かを考える余裕などありません
頭のなかは、え?え?え?、でいっぱいです
けれども、今は考えているより、走る方が大事です
光る扉のところに着いたとき
お師匠様は、躊躇いもなく、そこへ飛び込みました
もちろん、私も、飛び込みました
私が飛び込むと、すぐその後ろで、扉が閉まりました
音を立てて閉まった扉から、びゅうと風が吹いてきました
そして、後は、ひたすら
落ちる、落ちる、落ちる…
真っ黒い穴を、私たちはひたすら、落ちていきます
穴の中には、黒い手も、水も、何もありません
フィオーリさんの姿も見えませんでした
私は怖くなってお師匠様の手をぎゅっと掴みました
お師匠様も私の手を握り返してくれました
「…ひ、かり、よ…」
弱々しい声がして、ぼうっと光が見えました
お師匠様に抱えられたまま、ミールムさんは
からだぜんたいがぼんやりと光っていました
「ミールムさん!
大丈夫ですか?」
「だ、い、じょ…ぶ…」
そう答える声は、とても弱り切っています
早くどこかで休んだ方がいいに決まっていますが
それ以前に、私たちはひたすら落ち続けていて
このままどうなってしまうのかも分かりません
「…う…
か、ぜ、よ…」
ミールムさんが途切れ途切れにそう呟くと
ふわり、と柔らかい風が巻き起こりました
風は私たちを包み込んで
ふわふわとからだを浮き上がらせてくれました
けれど、それと引き換えのように
ミールムさんの光は消え
あとは、どう呼びかけても、返事を
してくれなくなりました
「気を失っているだけや
少し、休ませたろ」
お師匠様はミールムさんを引き寄せて息を確かめると
そうおっしゃいました
「ちょっと、嬢ちゃん、ごめんやけど
こっちの手、離しても、ええかな?」
「え?あ、はい!」
私は慌ててぎゅっと握ったままだった
お師匠様の手を離しました
お師匠様は、ごめんやで?ともう一度言ってから
ウエストポーチをごそごそ漁って、なにか
取り出しました
かちかち、と火打石を打つ音がして、ぼっ、と
小さな明りが灯りました
ぼうっとした灯りが灯ると、私たちは真っ黒い
竪穴のなかを、ゆっくりと下りていくのが分かりました
上を見ても、下を見ても
光の届く範囲にはなにもありません
そのむこうは、ひたすらに真っ暗で
何があるのかまったく分かりませんでした
「このくらいゆっくりやったら
下に着いても、怪我はせんやろうし
まあ、心配してもしゃあない
今は、のんびり、下りていくとしようか?」
お師匠様はそうおっしゃいました




