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翌朝、私たちはエルフの森を目指して出発しました
行く前に、昨日約束した本を、ジョヴェに差し上げました
ほとんどが神官のための教義書なのですけれど
小説と、物語集が、それぞれ一冊ずつありました
「こんなにたくさん、いいんですか?」
積み上げた本を見て、ジョヴェは感動したように
顔を赤くしていました
「どうぞどうぞ
教義書は、一応、持っておくように、と
お父様に言われて持っていたものですけれど
なくても困りませんから」
「すごい!
もしかして、これもう全部、暗記してるとか?」
目をきらきらさせてこちらを見るジョヴェには
申し訳ないのですけれど…
私は、ちょっと目を逸らせて、あは、と笑いました
「私、文字を三行読めば、一晩ぐっすり眠れるという
特技を持っておりまして
健康的で素晴らしいと
お父様には褒めていただいたのですけれども」
「まさか!読まずに暗記したとか?」
「いえいえ、そんな、流石に、それは…」
ジョヴェのきらきらの目が眩しくて
まともに見られません
「暗記…は、しておりませんが…
一番大切なことは、ちゃんと、胸に刻んであります
まずは、それさえ分かっていれば、困らない、と
言いますか…」
「ほう!それはなんですか?
神官の極意、みたいなものですか?」
食い入るように見つめられて
私はますます目を逸らせました
「あー…極意?
と言いますか…
えっと、まずは、精霊さんとお話しするときには
誠心誠意をもって、対応する
それだけです」
本当に、私、それだけで、神官の資格試験も
その後のいろいろも、全部、渡り歩いてまいりました
ジョヴェは、ほう、と目を丸くしました
いやもう、そんなに感心されると、余計に恥ずかしいです
「…すいません、大したことなくて…」
「いいえ
もしかしたら、世界の真理ってのは
そういうことなのかもしれません」
ふむぅ、とジョヴェは何やら考え込みました
「僕、いつか本当に、聖女様の故郷の神殿に
訪ねて行ってもいいですか?」
「もちろんです
もし私が留守にしていても
ちゃんと父には伝えておきますから」
お父様なら、きっとジョヴェさんのことを
歓待してくださるに違いありません
「けれども、うっかり書物が好きなどとおっしゃったら
父が一晩中、離してくれないかもしれませんよ?」
「望むところです!」
朝、起きたときには少し元気のなかったジョヴェは
力を込めてそう答えました
ちょっと元気になってくれたみたいで、よかったと
思いました
私たちは、道中で食べる食べ物をいっぱいいただいて
出発いたしました
フィオーリさんの家族だけでなく
郷じゅうのホビットが、見送りに来てくれました
本当に、ここは私たちの、第二の故郷だなと思います
昔、ひとりのホビットが、命を懸けて守ったこの場所は
温かな人たちの住む素敵な郷になったのです
それにしても、エルフの森はやっぱり遠い場所でした
ミールムさんの補助魔法を使ってもらっても
延々、延々、街道を進まなければなりませんでした
精霊界では、ここまで遠くはなかったと思うのです
精霊界とこちらとは、微妙に距離感も方角も違っている
ということが、とても実感できました
道々、私は、シルワさんと行き会わないかと
ずっと、きょろきょろし通しでした
もちろん、明日にでもすぐ戻ってくる、というのは
私を慰めるために、みなさんがおっしゃってくださったこと
それが現実だと思っていたわけではありません
けれども、もしかしたら、もしかしたら、と
思う気持ちに蓋をすることはできませんでした
どのくらいそうして旅を続けたでしょうか
夏はますます真っ盛りに、毎日、暑い日が続いていました
ちょうど、街道は、広い荒野を貫く辺りで
遮るもののない平らな土地を、どこまでも真っ直ぐに
煉瓦を敷いた道は続いていました
陽炎がゆらゆらと、道に立っておりました
お師匠様はみなさんの体調を気にして
毎日、栄養たっぷりのご飯を、作ってくださいます
それでも、暑さにことのほか弱いミールムさんは
日中、ひなたを飛ぶのは、とてもしんどそうに
してらっしゃいました
この荒野を抜けるには、街道に沿って行くのが
一番早くて安全なはずなのです
目印もない荒野に踏み込むのは、旅慣れたお師匠様でも
いえ、旅に慣れたお師匠様だからこそかもしれませんが
決してしてはならないとおっしゃいます
ここのところ、灼熱の昼間は、テントを張って休み
夕方、出発をして、夜の間、進み、夜明けごろ
野営の準備をする
というふうにしていました
けれども、風のないテントのなかはとても寝苦しく
かと言って、日の当たる外は、もっと暑くて
なかなかにからだを休められない日が続きました
「それにしても、今年の夏は厳しいなあ」
お師匠様は少しばかり恨めしそうに
お日様を見上げておっしゃいました
お日様はもう本当に、眩しいばかりにぎらぎらと
この上なく元気そうでいらっしゃいました
「水場も枯れてたりしますからね
次の街に着いたら、水袋、増やしておきますかね」
フィオーリさんはいつも水汲みを担当してくださいます
街道沿いには、旅人が自由に使えるように
水場が設えてあったりもするのですけれど
この暑さに、何度か、水が干上がってしまっていて
次の水場まで、長い距離を行かなければならないことも
ありました
「水はなあ
ほんま、大事やからなあ」
「シルワさんがいたら、雨とか
降らせてくれるんっすけどね?」
「よう考えたら、あれって、すごいことやってんね?
水場とかあんまない場所でも
シルワさんは、雨、降らせてたもんね?」
「シルワは、精霊力の少ない場所でも
魔法、使ってたからね
それだけでも、かなり優秀な魔法使いだってことは
まあ、間違いないよね」
みなさん、そんなふうにシルワさんのことを
噂、していらっしゃいました
私はシルワさんのことを褒めてもらえて
なんだか嬉しく感じました
「どんな場所にも、比率の違いはあれ、全ての種類の
精霊の力があると、私は習いましたけれど」
「まあ、それはそうなんだけどさ
それを選り分けて、かつ、必要な精霊力を集めるってのは
なかなか、そう簡単じゃないんだよ」
そのお言葉に、ふと、魔法のコツ、のようなものを
感じました
「なるほど、そうでしたか
選り分ける、とか、集める、とか
意識したことはありませんでした」
「え?まさか、ずっとそれ意識しないで
魔法、使ってたの?
だから、君の魔法は、いっつも
あさっての方向に、的外れだったんだ」
ミールムさんは露骨に呆れた顔をなさいました
「よくそれで神官の資格取れたよね」
「まったくです
故郷の神殿の七不思議の
栄えある第一に列せられております」
「それ、栄え、ないから
自慢げに言うことじゃ、ないから」
ミールムさんのお顔には、くっきり文字で
げんなり、と書いてあるようでした
「それにしても、ええお天気、やねえ
まあ、こう眩しいと、オークに襲われる心配は
せんでええね」
お師匠様は、汗をふきふきおっしゃいました
いつもはお師匠様かシルワさんが、一晩中
オーク避けの火を焚いて、番をしてくださるのです
「いつも、お師匠様とシルワさんには
本当に申し訳ありませんわ」
「なんのなんの
若い子らに休んでもらうのも
大人の役目、っちゅうこっちゃ」
「あれ?でも、パーティのなかで一番長く生きてるのって
ミールムさんじゃかったでしたっけ?」
フィオーリさんに言われて、ミールムさんは露骨に
嫌な顔をしました
「僕は特別なの
体力は人間の半分もないんだから
無理してみんなの足を引っ張らないように
これでも、気を遣ってるんだよ?」
「…まあ、そういうことにしておきましょうか」
「なんだって?」
喧嘩になりそうなおふたりを、まあまあ、と
お師匠様が分けています
もっとも、いつもならお師匠様もよくシルワさんと
他愛のない口喧嘩をしては、フィオーリさん辺りに
止められていたのです
「…なんか、わたしも、淋しいな
シルワさんが、おらへんと」
お師匠様はずっとずっと街道の先、エルフの森を見るように
遠く、遠くを見つめました




