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三日目の朝

ホビットたちの気持ちを映すかのように

鉛色の空には雲が低く垂れこめ

ひどく冷たい風が吹いていました


雪が今にも降りだしそうで、もし雪になれば

それは、この冬、最初の雪なのでした


郷のホビットたちは、引っ越しの荷物を抱えて

のろのろと出発しました


けれども、道はなかなか捗らず

郷からほど近い丘のところまで来たとき

いったん休憩ということになりました


そのとき、オクサンは

忘れものを取りに戻らなければならないと

言い出しました


それは、よほど大切なものなのか

何か不足があるなら、分けてあげるから

郷の仲間たちは、そう言って引き留めました

けれども、オクサンはなんと言われても

首を横に振り続けました


すぐに追いかけるから

決して、危険なことはしないと誓うから


誓う、とまで言ったオクサンを

みなは行かせるしかありませんでした


けれども、どうしても心配だと

オクサンの親友だったホビットが

一緒に行くと言いました


それは、先遣隊をしていたときから

ずっとオクサンと仲のいい、一番の親友でした

オクサンと恋人のことも応援してくれていて

恋人を生贄にするくらいなら、皆で引っ越そうと

強く言ってくれた人でもありました


オクサンはひとりで行くつもりにしていましたが

少し考え直しました

事の顛末は、誰かに見届けてもらったほうが

いいかもしれない

そんなふうに思ったのです


忘れ物を取りに戻ったオクサンが

いつまでも戻ってこなかったら

きっと、誰かが探しに来ると思います

けれど、そうしなくても

誰か、その場にいてくれたら

そのほうが早いかもしれない、と考えたのでした


オクサンのことを心配した郷のホビットたちは

丘で待っていると言いました

だから、なるべく早く戻ってこい、と


オクサンは、そうするのがいいと思いました

いずれ郷に戻ってくるのだったら

なるべく近くにいた方が余計な手間をかけなくていい、と


ところが、オクサンの様子にただならぬ気配を感じたのか

恋人も一緒に行くと言いだしました


けれども、オクサンはそれはきっぱりと断りました


すぐに行って戻るから

最初は、そう言って説得しようとしました

けれども、恋人は納得しませんでした


幼馴染で、ずっと長い間一緒にいた人でした

喧嘩など、ただの一度もしたことはありませんでした

互いにいつも相手のことを思いやる言葉は

通じないことなど、一度もありませんでした


それでも、そのときの恋人は、どう説得しても

頑として譲りませんでした


とうとう、勢いに任せて、オクサンは言い放ちました


女の足じゃ、足手まといなんだよ

いいから、大人しくここで待ってろ


恋人は目を丸くして言葉を失いました

オクサンにこんなふうに言われたのは

生まれて初めてでした

足手まとい、という言葉が頭の中にこだましました


元はと言えば、自分が無理やり見張りについて行ったことが

すべての不幸の始まりでした

恋人もそのことは何度も何度も悔やんでいました


オクサンはそのことで、恋人を責めたりは

しませんでした

郷のホビットたちも、誰一人

責めたりはしませんでした


けれど、本当はオクサンは、自分のことを迷惑だと

思っていたんだ…


恋人の目から、涙が溢れました

けれど、恋人は、もう、オクサンに渡す言葉は

失ってしまっていました

恋人は何も言わずに、ただ、じっとオクサンを

見つめるだけでした


オクサンの方も、自分の言ってしまった言葉に

自らひどく傷ついていました

恋人を足手まといだなどと、思ったことなど

生まれてこの方、一度もありません

辛い見張りのときも、横にいて元気づけてくれた恋人を

獣から守れなかった自分にこそ

怒りと悔しさを覚えていました


ほろほろと涙を流す恋人を目の前にして

オクサンは、辛くて、悲しくて、たまりませんでした

すぐにも謝って、慰めて、今のは本心じゃないと

言おうとしました


こんな言い争いなど、一度もしたことはなかったのに

どうして、今、このときに


そう思いました

もう、このまま、二度と、恋人とは会えなくなるかも

しれないのに


そして、はっとしました

もしかしたら、これは、これでいいのか

そう思いました

今の言葉はきっと、恋人をひどく傷つけてしまったでしょう

オクサンのことを、本当はそんなやつだったのかと幻滅し

嫌いになったかもしれません


それなら、それで、いいんだ、と思いました

もしかしたら、もう帰ってこられないかもしれない

自分のことなど、もう、嫌いになった方がいい

そうして、恋人がまた新しい幸せを得られるのなら


涙を流す恋人に、オクサンは謝罪の言葉も慰めの言葉も

口にしませんでした

ただ、黙って、くるりと、冷たい背中をむけました


もしも、戻ってこられたら、そのときは

恋人に謝ろうと思いました

全身全霊を込めて謝って、そして、その先は

二度と傷つけたりしない

一生、大切にする


もしも、もしも、戻って、こられたら…


けれど、そのときはただ黙って

郷を目指して駆け出しました

たった一人、親友だけ

その背中を追ってきました


郷に戻ったオクサンは、自分の家ではなく

真っ直ぐに氷室へとむかいました

忘れものというのは、どこにあるのだろう、と思いながらも

親友も黙って氷室についてきました


氷室のなかは空っぽでした

壊された扉は修理もされずに、そのままにされています

その隙間から、冬の先ぶれのような冷気が

ひゅうひゅうと吹き付けていました


オクサンは隠しておいた食料をせっせと氷室のなかへと

運び込み始めました

それを見た親友は流石におかしいと思いました


おい、忘れ物はどうしたんだ?


思わずそう尋ねた親友に、オクサンは言いました


いいから、黙って見ていろ


オクサンの口調は今までにないほど冷たくぞんざいでした

親友はやっぱりおかしいと思いました


おい、お前、さっきからいったい、どうしたんだ?


オクサンは、仲間にこんな口のききかたをしたことなど

これまでただの一度もありませんでした


いつも、誰より優しく、気遣いを込めて、温かい言葉を

選ぶ人でした


なのに、あの恋人に対する態度も

そして、今の親友に対する態度も

あまりにも普段のオクサンとは、かけ離れていました


けれども、オクサンは親友に背中をむけたまま

低い声で言いました


どこか、物陰に隠れて

これから、僕のすることを、黙って見ていてほしい

それから…


その続きを親友は聞くことができませんでした

突然、ものすごい力で、オクサンに

物陰へと押し込まれたからです


なにをする、と言おうとした鼻先に

ひときわ冷たい風が吹きました

そして、その風に乗って、白い獣が姿を現しました


話しには聞いていても、実際に目にすると

その獣の恐ろしさは、筆舌に尽くし難いものでした


親友は物陰に身を潜めたまま、身動きすらできずに

ただ、じっとしていました

まるで、獣の吐く冷気で凍り付いたようでした


その親友にオクサンは何か小さな石をひとつ

無理やり押し付けると、ゆっくりと立ち上がって

獣の前に姿を晒しました


それから、ゆらあり、ゆらあり、と左右に揺れるように

獣の前へと歩み寄っていきました


生贄の娘はどうした?


獣は嘲笑うように言いました

その声は、親友の頭のなかにも、ガンガンと

まるで棒で鍋を叩いたときのように響きました


あいつは、渡せない


オクサンは短く答えました

そして両手を大きく広げて見せました


代わりに、僕を好きにしていい!


それに、獣は可笑しそうに笑いだしました


あの娘を寄越さなければ皆殺しにすると言ったはずだ

何故、お前ひとりでその身代わりになれると思うのだ


獣はますます楽しそうに笑いました


そうか、生贄は寄越さないか

ならば、皆殺しだ


待ってくれ!


オクサンは大きな声で言いました


みんな、荷物をまとめて、ここを出て行った!

お前の寝床はちゃんと返す

それで、もう許してくれないか?


もしも、これで、獣が、許してくれたら

そうしたら、すっぱりこの郷のことは諦めて

また、一から出直そう


最後の最後に、オクサンはそんなことを思いました

それは、たった一筋だけ残っていた、最後の希望でした


けれど、獣は、それも、鼻で嗤い飛ばしました

そして、嘲るように言いました


生贄か皆殺し

それ以外の選択肢は与えなかったが?


オクサンの瞳が絶望に染まりました

獣がそう言うであろうことは、予想していました

ただ、ほんの僅かの確率だとしても

最後の希望に賭けていたのでした


けれど、やっぱり、その賭けには負けました

生贄か皆殺し

獣はそれ以外を受け容れるつもりはないようでした


きっと、この先どんなに遠くへ逃げたとしても

獣は、追いかけてきて、生贄を寄越せと迫るでしょう

断れば、いつか本当に皆殺しにされるかもしれない


それもこれも、自分の引き起こしたことでした

あのとき、軽々しく獣と交渉してしまったのは自分でした

何も考えずに、なんでもするなどと、言ってしまったのは

自分でした


そうか

…分かった


オクサンは淡々と言いました

意外に落ち着いた声でした


それから、ゆっくりと、懐の守り刀を抜きました


そんなもので、どうする?


ちらりと光った刀身に、獣は嘲るように言いました

確かに、この大きな獣と戦うには

それは、あまりにもお粗末な武器でした


けれども、その次の瞬間


オクサンはその刀を自らの腹に突き立てていました


あまりのことに驚いて、物陰で震えていた親友も

思わず飛び出そうとしました


けれどもほんの一瞬だけ振り返ったオクサンの鬼気迫る目は

絶対に動くな、と親友に命じていました


なんだ?やけくそになったか?


オクサンのそんな様子を見ても、獣は嘲笑っていました

オクサンは、そんな獣のほうを見て、にたり、と笑いました


ホビットはホビットを故意に刃で傷つけてはならない


オクサンはゆっくりと唱えました

その声は、まるで別人のように低くなり

それから、狂暴な哮り声となりました


真っ黒い影のようになったオクサンの姿は

ゆらりゆらりと大きくなっていきます

隆々と筋肉の盛り上がる肩

丸太のような腕

見上げるような背丈

真っ黒い影なのに、その筋骨隆々とした見事な体躯は

ありありと目に見えるようでした


ほう?


初めて、獣の目から嘲りの光が消えました

代わりに、獣はひどく楽し気に、姿を変えたオクサンを

見つめました


オクサンの腹にできた傷もいつの間にか塞がっていました

小さな刀は、足元にころりと転がりました

オクサンはそれを、自らの足で踏み潰しました


人ならぬ声で、オクサンは一声、鉛色の空にむかって

吠えました

それから、無我夢中で氷室のなかへと突進していきました


そこには、オクサンが運び込んだ食料がありました

オークとなったオクサンは、真っ先にそれを目指したのです


けれども、食料の前には、邪魔な獣がいました

オークは鋭い爪を振りかざし、邪魔者を排除しようと

いきなり襲い掛かりました


オークにとって、それは、食料を隠そうとする

愚かな障害物にしか見えませんでした


あれほどに恐ろし気に見えた獣も

オークの前には、小さな飼い猫のようでした

勝負は、ほんの一瞬で決まりました

オークの爪に引き裂かれた獣は、目を見開き動きを止めた後

ぱんっ、と弾けるように、そのまま消えてしまいました


オークは獣には目もくれず、ただひたすらに

食料に飛び掛かりました

そして、がつがつと貪り喰い始めました


全てを見届けた親友は、そこで我に返りました

そして、さっきオクサンが押し付けた石を確かめました

それは、魔力を固めた石で

いつも夜道を照らすのに使っていたものでした


この光を掲げろ、って言うのか


親友の問いかけに応える人はもういません

けれども、そうとしか思えませんでした


次の瞬間、親友は石を投げ捨てて、地下の家へと

走っていました

そうして取って戻ってきたのは、大きな大きな毛布でした


取って返した親友は、氷室の入り口で貪り喰うオクサンに

その毛布をばさりと被せました


それから、もう一度あの石を拾い

思い切って、地面に叩きつけました


石は眩い光を放ち、辺りはたちまち

真夏の晴れた昼間のように明るくなりました


光を恐れたオークは、毛布を手繰り寄せて引き被ると

そこから逃げるように、氷室の奥へと走り出しました


親友は光る石を持ち、オークを追いかけました

もっと、もっと、氷室の奥へ…


この氷室は、郷の宝物庫でした

そして、オクサンは間違いなく、郷の宝でした


大切な、大切な、仲間を

たとえ、オークになってしまったとしても

ずっとずっと、失わずにいられるように


氷室の一番奥に辿り着いたオークは

もうそれ以上逃げることも叶わずに

その場にうずくまりました

光を恐れ、毛布を引き被り、かたかたと震えていました


これが、あの親友の姿なのでしょうか

ずっと、先遣隊として、隣にいた…

たくさんの困難も一緒に乗り越えてきた…


親友の頬を涙が伝っていました


親友は、光を掲げたまま、ゆっくりと引き返しました

光を恐れるオークは、追いかけてはきませんでした


外に出るといつの間にか雪が降りだしていました


それでも、雪の降るここの方が

氷室の中より、何倍も温かい、と

親友は思いました



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