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オクサンのホビットだったときの名前は分りません

古い日記にも、本名ではなくて、英雄、としか書かれて

いなかったのだそうです


オクサンが創成期の英雄と呼ばれるのは

この郷を見つけて、仲間の移住を助けたからです


この郷に来る前、ここのホビットたちは

長い長い間、旅をしていたのだそうです


平原に集落を作って暮らすホビット族は

すぐ近くに人間の街ができると

その集落を捨てて、移住することが多いのです


ホビット族とは、人が好く、懐も深い方々ですけれど

異種族が、近くにいれば、どうしても、もめ事は起きる

すると、争うよりも、避けることを選ぶ

そうやって、いつの間にか、人間の傍から

ホビットたちはいなくなってしまうのです


けれど、本来、旅よりも定住を好む人たちですし

郷全体が移住するとなると、それはもう、大変なことです


幼子や病人、お年寄りも同行しなければなりませんし

家財道具も荷車に積んで、持って行かなければなりません


そこで、郷から選ばれた数名の方たちが

新しい郷を作るのに相応しい土地を探して

先遣隊として進んでいたのでした


オクサンはその先遣隊のメンバーでした

からだも強くすばしっこく、とても賢く勇気もあって

みんなから慕われるリーダーだったようです


そうして、オクサンたちは、魔法の氷室のある

この郷を見つけたのです


オクサンたちがこの素敵な郷を見つける物語は

実は、たくさん、言い伝えられているそうです

それはそれは心躍る、冒険の物語だとか

この郷の子どもたちは、寝物語に

その英雄の話しを聞かされて育つといいます

もしも、それを尋ねたのなら、郷の人たちは

喜んで、たくさん、話してくれたことでしょう


ただ、そこに出てくる英雄と、オクサンとが

同じホビットだ、ということを知る人は

あまりいなくなってしまいました


それというのも、郷の英雄として尊敬されたオクサンが

こともあろうに、オークになってしまったからでした


オクサンには、恋人がいました

幼馴染で、一緒に大きくなって

この先もずっと、一緒に年をとっていくはず

そういう人でした


先遣隊になったオクサンは、恋人を郷のみんなに任せて

ふたりは、生まれて初めて、離れ離れになっていました


そのときの、オクサンと恋人の気持ち

なんとなく、分かる気がします

淋しくて、不安で、心細くて

帰ってくるって分かってるけど

いつかはまた、一緒に暮らせるって分かってるけど

ただ、今、この時に、傍にいないってことだけで

どうしようもなく辛い気持ち


この辺りの物語も、郷のみなさんには語り継がれています

それは、幼い子どもより、少し成長した人たちの好む

物語のようです


けれども、ふたりは見事に試練を乗り越えました

オクサンは、素敵な郷を見つけて戻ってきました


初めて訪れたとき、ここは、土の固い荒れた土地でした

近くには大きな水場もなくて、水汲みだけで一苦労する

そんな土地でした


けれども、ここには、大きな魔法の氷室がありました

いつの時代、どんな魔法使いが作ったのかは分かりません

分かるのは、仕組みも分からないほど

古い時代の魔法ということだけです

けれども、ホビットにとって、それは

食料を無尽蔵に保存できる素敵な宝物庫でした


それに、この辺りの不毛な景色は

人間たちにも、町を作ろうという気を

起こさせないようでした

近隣には、異種族の住むところもありません

そこは、ホビットにとっては理想郷でした


郷の人々は力を合わせて、遠くの川から水を引く水路を

作りました

それから、固い岩盤に穴を掘って、土の中に家を

作りました

荒地を耕し、種を撒いて、畑を作りました


今はこの郷は、とてもとても、豊かな土地です

どこまでも続く畑に、整然と整えられた水路

けれども、それは、全部、長い時間をかけて

ホビット族が力を合わせて作ってきたものなのです


郷の形も少しずつ整い

次の春には、オクサンと恋人との婚礼式が

盛大に執り行われることになっていました


先遣隊として活躍していたオクサンは

郷を作るときにも、みんなから頼りにされて

自分の幸せは先送りになっていました


そんなオクサンのために、郷の人たちは

盛大な婚礼式を準備していました

それはもう、郷中を挙げてのお祝いの式でした


けれど、その直前の冬

突然、それはやってきました


そのころ、氷室には扉はなく、開けっ放しでした

けれど冷気を貯めるには、やはり扉はあったほうが便利です

そこで、遠くから魔法使いを頼んで、重たい扉をつけて

もらいました

その扉は呪文で動くようにもしてもらいました


あるとき、その扉が、滅茶苦茶に壊されていました

郷の力持ちが十人がかりでも動かせないような

そんな重たい扉だったのに、まるで薄い木の板を

力いっぱい踏み割ったように、粉々になっていました


氷室のなかには、その年、畑で作った大切な穀物が

たくさんしまってありました

遠くまで狩りに行って獲ってきた獲物の肉も

たくさんしまってありました


けれども、それは全部、食い荒らされていました

まるで獣が、それもこれも、少しずつ味見をしたように

ひどい有様になっていました


郷の人々は、みんながっかりしました

苦労して水を引き、苦労して作った畑の作物

それは、この冬をみんなで越すための

大切な食料でした


最初はオークの仕業かと考えました

けれども、オークなら氷室より郷を狙うはずです

氷室に食べ物がある、という知識をオークは持っていません

むしろ、食べ物は、人の住む場所にある

だから、オークは人の郷を襲うのです


しかし、荒らされたのは氷室だけでした


よくよく調べてみると、氷室のあちこちに

白い、獣の毛のようなものがたくさん落ちていました

氷室を襲ったのは、オークではなく、白い獣?

それにしても、ホビットの力持ち十人がかりでないと

持ち上がらないくらいの扉を、粉々にするなんて

どんな獰猛な獣なのでしょうか


いろいろな想像や憶測が飛び交いましたけれど

本当のところは誰にも分りません

ただ、今度は、もう少し頑丈な扉を

また魔法使いに頼んで作ってもらいました


けれども

あの獣はまたやってきました

そして、今度はもっとひどく、氷室のなかを

荒らしていきました


これはもう、放ってはおけない


郷のホビットたちは話し合って

皆で交代して、氷室の見張りをすることになりました


寒い冬の夜

一晩中起きていて見張りをするのはとても辛い仕事です

そして、獣はいつやってくるのか分かりません

最初は緊張して見張りをしていた人たちも

見張りをしていても、朝まで何事もなかったことが

何日も続き、次第に見張りへの熱も冷めていきました


そうでなくても、昼間は重労働で疲れています

夜くらい温かい寝床で、ゆっくりと休みたい

そう思うのは、誰しも同じでしょう


それでも、オクサンは、皆のために率先して自ら

見張りを引き受けていました

具合の悪そうな人や、家族の面倒を見なければならない人

そんな人がいれば、見張りを代わってあげることも

しょっちゅうでした


そんなオクサンのために、恋人は、見張りのときには

温かいお茶や、甘いお菓子をたくさん持って

一緒に見張りをするようになりました

オクサンは危ないからと、恋人に来ないように言いました

けれども、恋人は、オクサンと一緒だから大丈夫、と言って

一緒に見張りを続けました


ずっとずっと、離れ離れになっていた恋人でした

郷のため、みんなのため、と分かっていても

本当は、ずっと一緒にいたかった同士でした


氷室の見張りとはいえ、郷の中のことです

何かあれば、地下の入り口に飛び降りれば

そこには仲間も大勢います


ホビット族は温厚な種族ですけれど

狩りもしますし、オークとだって戦うこともあります

何より、仲間を守るためなら、誰一人、戦いをいとわない

勇敢な種族でもあります


オクサンと一緒に見張りをしたいという恋人に

オクサンも、来るなとは言えませんでした


獣を退治するつもりはありませんでした

それよりも、まずはどんな獣なのかよく観察をして

対策は郷のみんなと話し合って決めよう

オクサンも恋人もそのつもりでした


やっぱり、獣はなかなか来ませんでした

そのうちに、見張りの時間は

ふたりにとって、楽しい逢瀬の時となっていきました


昼間は忙しすぎて、ゆっくり話す暇もありません

けれども、見張りの間は、眠気覚ましのお茶を飲み

お菓子をつまみながら、話しをしていられます

それは、ふたりにとっては、貴重な時間でもありました


そうやって、少し油断もあったのかもしれません


とうとうその獣がやってきました

それは、ふたりが見たこともないような

想像すらできないような、大きくて恐ろしい獣でした


全身、真っ白い毛に覆われ、四つ足でのっしのっしと歩き

ホビット族の家の部屋に入りきらないくらい

大きなからだをしていました


びかびかと光る目と、ぎらぎらした鋭い牙を持ち

四つの足先の爪は、三度目に作り直した氷室の扉でさえ

簡単に引き裂き、ばらばらに壊してしまいました


ふたりは、飲みかけのお茶や食べかけのお菓子を放り出して

急いで地下通路への入り口に身を隠しました


ところが、そのお茶のいい匂いが、獣の注意を

引いてしまいました

さっきまでふたりの隠れていた場所に、獣は

いとも容易く、一飛びでやってきました

それから壊れたカップや毀れたお茶の匂いを

ふんふんと嗅いだり、ピンク色の舌で舐めたりしました


からだも大きく、力も強いのに、器用で、頭もいい

獣を見て、オクサンはそう思いました

獣の舌は、割れたカップを器用に避けて

傷一つついていませんでした


これはもう、逃げたほうがいい


そう思ったオクサンは、先に恋人を逃がそうと思いました


そのときでした


獣が、こっちには気づいていなかったはずの獣が

じっ、とこっちを見たのと、目が合ったのです


そのまま、獣の視線は、ゆっくりと、オクサンの後ろに

移りました

そして、そこには、獣から目を逸らせられないまま

かたかたと小さく震えている恋人の姿がありました








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