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緑のトンネルを潜って潜って潜り抜けたその先に
ぽっかりと現れたのは一本の大きな木でした
「これは…アニマの木だ…」
大きな大きなその木は、たくさんの葉っぱが
日の光に照らされて、きらきらと輝いておりました
一目見れば、それと分かる
確かに、一度見れば、もうすっかり他の木と
見間違うはずもありません
アニマの木はそのくらい特別な
神々しいと言ってもいいくらいの
素晴らしい木でした
「ここから、元の世界に戻れるんっすか?」
フィオーリさんは恐る恐る木を眺めておっしゃいました
けれども、ミールムさんは、首を横に振りました
「残念だけど、この木にはまだ、扉がない
この木の宿主は、まだ孵っていないんだ
僕は、無理やり、こちら側から扉を開けたりはしない
そんなのは他所の家に勝手に穴をあけるようなものだよ」
そっすか、とフィオーリさんは少し残念そうでした
「けどまあ、こうして一本見つかったわけやし
そのうち、扉のついてる木も見つかるかもよ?」
お師匠様は慰めるようにおっしゃいました
そうだね、とミールムさんは呟いて
木の周りを、ぐるっと一回りしました
そして、少し大きな声を出して私を呼びました
「マリエ、ちょっと、こっち来て」
言われた通り回り込むと、そこに木の枝から
白い袋のようなものがぶら下がっていました
ちょうど、初めて出会ったころのミールムさんが
すっぽり中に入ってしまうような大きさの袋です
「これは、なんですか?」
「卵」
ミールムさんは短く答えると、私にもっと卵の近くへ
来るようにと手招きしました
「なんの卵なんですか?」
「妖精」
へえ!
これは、妖精さんの卵でしたか
「妖精さんって、精霊界で卵で生まれるんですね?」
まったく知りませんでした
「あ!
ということは、もしかして、ミールムさんも
このようにして生まれてこられたのですか?」
ミールムさんは、私の顔をじっと見つめてから
そうだよ、とおっしゃいました
「妖精は、精霊界のアニマの木で、卵から生まるんだ
この卵はいつ孵るか分からないけど
卵が孵ったら、生まれた妖精は扉を開けて
あっちの世界へ行くんだよ」
「アニマの木というものは、不思議な木ですねえ?」
私はもう一度しげしげとアニマの木と卵を観察しました
それは、卵、というよりも、ただの袋のように見えます
「これは、触っても、かまいませんか?」
「少しなら」
ミールムさんに許可をいただいて
私は、そっとそっと、その卵の袋に触ってみました
卵は滑らかな絹のような手触りで、触れるとほんのり
温かく感じました
袋のなかには、確かに生き物の気配のようなものがあって
とくん、とくん、と、脈動しているのを感じました
「この方も、いずれ、妖精さんとして
生まれてこられるのですね?」
ミールムさんは私の質問に黙ってうなずかれました
森で出会ったとき、ミールムさんは、私にしか
姿が見えませんでした
見つけてくれる相手、と、ミールムさんは
おっしゃっていたでしょうか
ミールムさんにとっては、私がそうだったのです
妖精さんにとって、見つけてくれる相手、と出会うことは
とても難しいことなのだそうです
そして、その相手と出会うまで、妖精さんは、誰にも見えず
声も聞こえずに、ただ、彷徨っているしかないのだそうです
その間に、もうあちらの世界にいることは諦めてしまう
妖精さんも、たくさんいらっしゃるとか
ミールムさんも、私と会うまでは、ずいぶん長い間
森を彷徨っていたのだとおっしゃいました
今、目の前の卵は、まだ孵ってすらいませんけれど
たとえ孵ったとしても、まだまだ長い間
見つけてくれる相手を待って、彷徨い続けなければ
なりません
それは、どれだけ辛く、淋しい、時間なことか
誰にも気づかれず、長い長い間、風も、季節も、時間も
自分をただ素通りしていく…
その辛さ、悲しさを思うと、心がぎゅっとなりました
「あなたを見つけてくださる方と
できるだけ早く、会えますように」
卵にむかって、私は思わずそう祈りをささげておりました
と、ふと、その祈りに応えるように
卵は、ふわり、と白く輝き始めました
呆気に取られて見守るうちに
白い光は眩しいくらいになって
ぱかり、という軽い音と共に
卵にひびが入りました
みなさんの驚きや感嘆の声が聞こえます
私もただただ驚いて、その光景を見守るばかりでした
生まれたばかりの妖精さんには
卵を作っていた白い絹の繊維のようなものが
たくさん絡みついていました
その糸に阻まれて、うまく卵から出てこられません
それに気づいたミールムさんは
そっと指で摘まんで、糸を取ってあげました
絡みつく糸から解放された妖精さんは
ゆっくりと、卵のなかから、姿を現しました
妖精さんは、もうちゃんと一人前の姿をしていました
けれど、まだ目は閉じたまま、羽もしっとりと濡れていて
小さく縮れて、からだにはりついていました
妖精さんは、よじよじと枝に這い上がると
そこに横たわって、ふるふるとからだを震わせました
すると、少しずつ、少しずつ、縮こまった羽が伸びて
開き始めました
「なんと、妖精の羽化に立ち会えるとは…」
シルワさんの感極まった声が聞こえました
いつの間にかみなさん、私の周りに集まっていました
フィオーリさんは、ただ、ふぇ~、ふぇ~、とばかり
繰り返しています
お師匠様は、何度か、ごくり、と唾を飲む音をさせました
とにかく、私たちは、全員、言葉も失って
ただただ、その妖精さんを見つめておりました
首にしがみついていたバネタロウさんが
そっと、私の髪をひっぱりました
それから、なんだか、心細そうな声をあげました
あまりにも神秘的なこの光景は、どうしようもなく
心を打ち、それと同時に、誕生への畏怖というか
本能的な畏れのようなものも呼び覚ましました
生まれ来る命の神々しさ眩しさに胸を打たれながら
それと同時に、逃げ出したくなるくらい、怖いのです
どうしてそんなふうに感じるのかは分かりませんけれど
バネタロウさんが、今、感じている畏れは
私の感じているのと、同じものだと思いました
そっと手を伸ばすと、バネタロウさんは
ぴょん、と腕のなかに入ってこられました
そのまま、私は、バネタロウさんを
胸のなかに、抱きしめました
どのくらいそうしていたのでしょう
みな、時も忘れて、ただ固唾を飲んで
目の前の光景に釘付けになっていました
妖精さんの羽はもうすっかり乾いて、ぴん、と拡がりました
それから、妖精さんは、ゆっくりと目を開きました
緑がかった、不思議な色の瞳でした
妖精さんは、その綺麗な瞳で、きょろきょろと
辺りを見回しました
けれど、その瞳には、私たちの姿は映らないようでした
「…あの妖精には、僕らは見えてない
あっちじゃ、妖精が僕らに見えないんだけど
こっちだと、僕らが妖精に見えないんだよ」
ミールムさんが、悲しそうに呟きました
「それは、私たちが、あの妖精さんを、見つける相手
ではないからですね?」
「…そうだね」
今、あの妖精さんは、自分がこの世界に独りぼっちだと
感じているでしょうか
ここにこうして妖精さんの誕生を見守った私たちは
あの妖精さんには、見えないのです
「妖精はね、自分で見つけるしかないんだ
自分を見つけてくれるたった一人の人をね」
孵ったばかりの妖精さんも、本能的にそれを
知っていたのかもしれません
ふるふると乾いたばかりの羽を震わせて飛び上がると
ミールムさんがしたように、アニマの木に、丸い扉を
描きました
「しめた!
扉が開くぞ!」
描かれた扉は、すぐに、きらきらと光り始め
やがて、ぽっかりと開きました
「あの妖精に続いて扉を潜るんだ
そうすれば、あっちに戻れるよ?」
私たちは、急いで妖精さんに続いて
扉を潜り抜けておりました




